邪馬台国どこに?九州説・近畿説/吉野ヶ里遺跡の最新発掘の成果は?専門家が読み解く

NHK
2023年7月4日 午後0:33 公開

邪馬台国はどこにあったのか?江戸時代から研究が続く歴史の謎です。これまで「近畿説」「九州説」に分かれて論争が交わされてきました。

そんな中、去年、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡(佐賀県)で10年ぶりに発掘調査が始まりました。調査が行われているのは「謎のエリア」と呼ばれ、もともと「身分の高い人の墓があるのでは」と専門家の間で注目されてきた場所。見つかった石棺墓の発掘の結果、副葬品はなく、誰が葬られていたのかは謎のまま…。それでも人々の想像をかき立てる結果となりました。

いまだその所在地を巡って意見が分かれる「邪馬台国論争」。今回、半世紀以上にわたって研究を続けてきた2人の専門家に、それぞれが考える古代日本の姿と今後の議論の展望について取材しました。

(福岡放送局 ディレクター 松尾聡子)


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■高島忠平さん(写真左)

佐賀女子短期大学名誉教授。福岡県出身。これまで60年以上、吉野ヶ里遺跡の研究に携わる。邪馬台国九州説を唱え「ミスター吉野ヶ里」の名で親しまれている。 

■寺沢薫さん(写真右)

桜井市纏向学研究センター所長。東京都出身。近畿説の論拠となる纏向(まきむく)遺跡(奈良県)の発掘および弥生・古墳時代の政治研究に50年近く携わる。主な著書に「弥生国家論―国家はこうして生まれた」「卑弥呼とヤマト王権」など。


九州説に大きな影響を与えたのが吉野ヶ里遺跡です。柵や堀に囲まれた集落や大きな宮殿跡、物見やぐらなど、魏志倭人伝の記述と重なる建物が次々と見つかり、1989年に大きく報じられると、3か月足らずの間に100万人以上が訪れる吉野ヶ里フィーバーが起こりました。

その吉野ヶ里遺跡でことし6月、女王・卑弥呼の時代と重なるとみられる石棺墓が見つかり、再び注目が集まりました。

墓の主は、いったいどんな人?

今回吉野ヶ里遺跡から発掘されたのは、幅36センチ、長さ1メートル80センチの石棺。1枚100キロを超える石ふたには、その外側に「×」や「十」といった交差した線“線刻”が刻まれていました。底部に石は使われておらず、その形状から弥生時代後期の墓だと見られています。中は土砂で埋まっており、副葬品や人骨は見つかりませんでしたが、石棺内部全体に赤色顔料が塗られた跡がありました。

注目が集まったのは、この墓に誰が埋葬されたのかということ。

吉野ヶ里研究の第一人者である高島忠平さんは、墓の主について次のように語っています。

(高島さん)

「顕著な副葬品は発見されませんでしたが、赤色顔料が出たこともあり、墓の主が当時の吉野ヶ里地域において身分が高い人物であるのは間違いないと考えています。また、吉野ヶ里遺跡ではこれまで優れた絹織物がたくさん発見されているので、実は消えてしまった何らかの副葬品があったんじゃないかと私は想像しています。今後周辺の調査を進め、今回出土した石棺の集落における位置づけを吉野ヶ里の巨大環濠(ごう)集落と考え合わせていくと、邪馬台国へのつながりが明らかになる手がかりが見えてくるのではないでしょうか」

一方、近畿説の論拠となる奈良県の纏向遺跡を長年研究してきた寺沢薫さんは、今回発掘された墓の主が、際だって身分が高い人物である可能性は低いとみています。

(寺沢さん)

「弥生時代の北部九州では副葬品の量などで、埋葬されている人の地位が推測できます。5千人程度の共同体の首長である「オウ」なら、鏡一枚程度。地位が上がるにつれて、武器や宝飾品など、副葬品が増えていくのです。例えば倭国の王である卑弥呼クラスの墓であれば、その中には、数十枚の鏡や中国にしかないような特別な宝物などが入っているでしょう。副葬品が何もないのであれば、残念ながら身分はそれほど高くない人物だったのではないでしょうか」

九州説を支持する高島さんは、吉野ヶ里の地域において身分が高い人物だと評価する一方、近畿説を支持する寺沢さんは際だって身分が高いとは言えないと意見が分かれました。

【九州説】邪馬台国は、外国との窓口である九州にあった?

では、邪馬台国の所在地についてはどのように考えられるのでしょうか。2人は邪馬台国について記述のある「魏志倭人伝」など中国の文献にその謎を解くヒントがあるといいます。

高島さんは、当時東アジア世界の盟主であった中国との関係から、邪馬台国のあった場所は九州だとみています。

(高島さん)

「北部九州では、中国と盛んに交易が行われていたことを示す出土品が多く見つかっています。私は北部九州のそうした交易圏を基盤に女王国連合が成立したのではないかと考えています。

魏志倭人伝によると、卑弥呼が都する場所には物見やぐらや城柵が設けられ、兵によって常に守られていると書かれています。これは九州の遺跡に特徴的な環濠(ごう)集落を想起させますよね。また卑弥呼が、中国・魏の王朝が遼東半島の公孫氏を滅ぼした翌年にすぐ使者を送ったことも記録があります。卑弥呼は東アジアの国際情勢に非常に詳しい、たぐいまれなる外交センスの持ち主だったのです。当時、海外の情報がすぐに入手できるような場所といえば、古くから中国や朝鮮半島と交流が盛んだった北部九州ではないでしょうか。つまり卑弥呼がいた邪馬台国は、北部九州にあったと考えるのが合理的です。ただ、吉野ヶ里遺跡がそのまま邪馬台国だったかというと、そういう話でもない。九州説を唱える専門家の間でも、その正確な所在地に関しては意見が分かれているところです」

寺沢さんも、九州にかつて大きな政治権力が存在したことは揺るぎないといいます。

(寺沢さん)

「2世紀の段階、つまり卑弥呼という人が共立される以前は、間違いなく九州に大きな政治権力がありました。九州は戦争を介在して国家の形成がとくに早く進んだ場所です。海外との交易も盛んで、副葬品も近畿では見られない立派なものがたくさん出土しています」

【近畿説】3世紀に日本の中心が近畿に移った?

しかし寺沢さんは、卑弥呼が共立された3世紀には、近畿に日本の中心が移ったと考えています。

(寺沢さん)

「3世紀になると、突然纏向(現在の奈良県)に大きな集落が現れます。当時日本最大とされる王宮跡があり、全国から土器が集まる物流の拠点で、まじないも行われていた痕跡が残っています。つまり、政治・経済・祭祀(さいし)の中心として纏向が機能していたということです。私が描く枠組みはこうです。もともと大陸に近い伊都国(現在の福岡県)が倭国(日本)の政治と外交の中心でした。この伊都国を盟主とする体制を『イト倭国』と呼びます。ところが2世紀末に後漢王朝が衰退して権威が弱まるに伴い、この『イト倭国』も求心力を失い、政治や外交の窓口としての役割を果たせなくなりました。その後、遼東半島から朝鮮半島で勢力を持っていた公孫氏に促される形で、西日本の主要なクニが集まって話し合い、卑弥呼を新たな倭国の女王として共立したのです。このとき新たな倭国の都として建設されたのがヤマト国(邪馬台国)内の纒向遺跡というわけです。ここでポイントなのは、こうして生まれた新しい倭国=卑弥呼の政権は、これまでの『イト倭国』とはまったく異なる連立王権で、領域もはるかに拡大したものだということです。新しい倭国は私たちが今まで『ヤマト王権』と呼んできた政体そのものであり、日本が“王国”という段階に達したことを意味するものだと私は考えています」

さらに魏志倭人伝の記述と照らし合わせても、邪馬台国は近畿(纏向)にあったと考えるのが妥当だといいます。

(寺沢さん)

「3世紀には『各地に王がおり、すべて女王(卑弥呼)に統属している』という記述があります。つまり、2世紀ころに強大な権力を持っていた伊都国(現在の福岡県)は、3世紀には卑弥呼の支配下に入っているということ。それくらい卑弥呼は当時の日本において影響力を持つ存在でした。もし九州が当時の日本の中心だったというのなら、九州のどこかで伊都国をしのぐ規模の遺跡が見つからなければおかしいのです。今出ている学説は、考古学データと文献を照らし合わせ50年間積み上げてきた到達点で、そう簡単には変わらない。そろそろ邪馬台国が九州か近畿かという話を脱し、この国の成り立ちについて本質的な議論を先に進めたいと思っています」

邪馬台国の姿に迫ることで日本の成り立ちが見えてくる

両者譲らぬ邪馬台国論。その根底にあるのは「自分たちの国がどうやって成り立ち、ルーツがどこにあるのかを知りたい」という探究心です。考古学のデータと文献の解釈を照らし合わせながら仮説を立て、議論を深めることで古代日本の実像に迫っていく―

このことは、今を生きる私たちの社会のあり方を考えることにもつながっていると、取材を通して感じました。

(高島さん)

「皆さんがお宝を期待する気持ちも分かりますが、残念ながら邪馬台国論争は、くわの一掘りで決着がつくものではないのです。当時の中国・朝鮮の状況も踏まえた上で、どういう過程で日本という国家ができたかという筋書きをしっかり見通しながら考えることが、日本の歴史を考える上で最も大事なこと。とはいえ、私が30数年前の吉野ヶ里遺跡で経験したような、考古学史を塗り替える身が躍るような感動を皆さんにも味わってほしいという思いはありますね」

(寺沢さん)

「21世紀の今、世界はこんな形で動いていますが、この国の原型は戦争によってではなく話し合いで王が立てられることによって形作られました。そして最初の王と言われる人は女性だったのです。このことを現代に生きる私たちはどう捉えるのでしょうか。歴史を学ぶということは、単に過去を知る以上の意義があると私は思っています。そして私が考える考古学の魅力は、当時の現資料を目の当たりにできること。自分とそのものの間には、解釈も何も存在しないんです。一つ一つ道に落ちている石ころのようなものの中から、組み立てられそうなものを拾い、実際に一つの形あるものに仕上げていく。そういった考古学のだいご味を皆さんにも味わってほしいです」


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