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2023年7月 3日 (月)

トマ・ピケティ『自然、文化、そして不平等』

61p3uecj2tl_ac_uf10001000_ql80_ トマ・ピケティ『自然、文化、そして不平等 ―― 国際比較と歴史の視点から』(文藝春秋)を、編集担当者の衣川理花さんよりお送りいただきました。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163917252

世界的ベストセラー『21世紀の資本』のトマ・ピケティが、「格差」について考察。

「r>g」の衝撃から10年。戦争、気候危機、経済不安などを受け、世界は”第二次ピケティ・ブーム”へ。

その最新思想エッセンスを、ピケティみずからコンパクトな一冊にまとめたのが本書である。

・「社会は平等に向かうべき」との思想はいつ始まったのか
・所得格差が最も少ない地域、最も多い地域は?
・「所得格差」と「資産格差」について
・累進課税制度の衝撃
・世界のスーパーリッチたちの巨額税金逃れ問題について
・ジェンダー格差をどう考えるか?
・環境問題の本質とは、「自然資本の破壊」である
・炭素排出制限量において、取り入れるべきアイデア
・「戦争や疫病が平等を生む」という定説は本当か

ーー「持続可能な格差水準」は、存在するのだろうか?

まず最初に一言申し上げておくと、これは大変薄い本です。『21世紀の資本』のあのボリュームを想像すると全然違います。なにしろ、これは昨年3月にパリのシラク美術館で行われた講演の記録なので、さらっと読めます。全部で100ページもありません。

内容的には、巻末の参考文献に載っているピケティ自身の近著『平等についての短い歴史』と大著『資本とイデオロギー』の中身をぎゅっと凝縮して、かつ一般向けに希釈して喋ったものですから、けっこう深みがある話ではありますが、さらりと読むとほんとにさらりと読み過ごしてしまうものでもあります。

その中であえてピケティが言いたいことの1つは、ある社会が平等か不平等かは決して決まったことではなく、政治で変わりうるんだ,というメッセージでしょうか。

・・・スウェーデンは世界で最も平等な国の1つとみなされている。そして一部の見方によれば、その原因は時代を超えた国家の特質にあるという。つまり、「生まれながらにして」平等を好む文化があるというのだ。だが実際にはスウェーデンは長い間ヨーロッパでもっとも不平等な国の1つだったし、後述するように不平等な政治運営にかけて非常に巧みでもあった。しかし1930年代に入ってすぐ社会民主系の政党が政権を取り、国民の政治・社会参加の枠組が定まる中で、この状況は急速に変わっていく。社会民主主義を掲げるこの政党(スウェーデン社会民主労働者党)はそれから半世紀にわたって政権を担い、スウェーデンはそれまでの政権とは全く異なる政治綱領の下で能力を発揮することになった。

こうした経過を知ると、スウェーデンは決定論的な考え方を見事に退けた好例だということができよう。決定論は自然や文化的要因を重視し、この社会は永久に平等であるとか、あの社会(たとえばインド)は永久に不平等であるなどと決めつける。だが社会や政治の構造は変化するものだ。時には、同時代の人々の予想を大幅に上回るスピードで変化することもある。体制の勝者である支配層は,不平等を定着させ、あたかも永続的なもののようにふるまい、自分たちにとって快適な調和を脅かすような変化を警戒する姿勢を片時も崩さない。だが現実は彼らが思うよりずっと流動的で、永遠に再構築を繰り返す。現実は、権力闘争や制度上の妥協や未実現の選択肢の結果なのである。

というわけで、現時点で一番最新のピケティの言いたいことが詰まった本ということができるでしょう。

上記の2つの本は,現時点ではいずれも未邦訳ですが、『資本とイデオロギー』の方は一昨年の8月に内容見本が送られてきていて、みすず書房のサイトによれば来月には刊行される予定だということなので、本書でごくさわりだけさらりと語られた中身をじっくりと取り組むのにいい季節になるかも知れません。

 

 

 

2023年7月 2日 (日)

専門知をふりかざし市民を圧倒する人は専門家と呼べない

朝日新聞記者のこのツイートがさんざん批判されていますが、

https://twitter.com/erika_asahi/status/1674254761049337856

素朴な異論や懸念を「わかってない!」と封じ込める光景にTwitter等でよく遭遇します。
そうした「専門知をふりかざし市民を圧倒する人は専門家と呼べない」と三牧聖子さん
@SeikoMimaki
「専門家は市民の痛みや苦しみに人一倍敏感でなければ」の指摘、いいね100万回以上です。

実は話はも少しねじれている。

というのも、少なくともここ半世紀くらいは、専門知をふりかざして市民の素朴な異論や懸念を封じ込める偉そうな奴らだとさんざん罵倒されてきたのが、朝日新聞や岩波書店のようなそれなりにアカデミックな知識でもって世を啓蒙しようという人々であり、そういう専門家の知った風な議論をせせら笑って「ぼくのかんがえたさいきょうの」議論を振り回してきたのがwillやhanadaな人々であったわけで、いやまあそういうのがお好きなら別に止めはしませんけれど、という感想が湧いてくるのを抑えられない。

いや私の言ってるのはネットに書き込むこともままならないような「市民の痛みや苦しみ」の話なんで、ネット上で聞きかじった一知半解の知識を振り回している天下無敵なド素人の皆さんのことじゃない、と言いたいんだろうけど、それをどこで区別できるかと言えば、区別のしようはないわけです。そういう人々だって、主観的にはまさしく「市民の痛みや苦しみ」に充ち満ちているのであって、それは偽物の「市民の痛みや苦しみ」であり、私が抱えている方が真正なる「市民の痛みや苦しみ」だなんて、超越的な神の目線に立っているのでない限り証明することは不可能でしょう。

もちろん、専門家の議論には専門家の議論である故の見落としや落とし穴があり得、それを素人の異論や懸念が見事にえぐり出すと言うこともあります。というか、いつもいつもそんなことがあるわけではないけれども、ときにはそんなこともないわけではない、という程度にはあり得る。

とはいえ、その素朴な異論や懸念が実は専門家の議論の盲点を鋭く突くものであるということを的確に判断し、その位置づけをきちんと説明できるためには、ホントの素人の手には余るのであって、少なくとも専門家の中で議論できる程度の専門的知識を持っている人でないといけないわけです。

非常にうまくいけば、専門家集団の中で主流の議論に疑問を感じている専門家がそういう素人の素朴な異論や懸念をうまくすくい上げて的確に言語化し理論化するということも、ないわけではないし、それが学問の発展につながるということもないわけではないけれども、でも、いつもいつもそういうわけにはいかないし、ましてや素人の異論や懸念だけでそんなうまい話になるなんてことはあり得ない。

そういうのを全部すっとばかして、素人の素朴な異論や懸念を祭り上げるようなことをいっていると、「ぼくのかんがえたさいきょうの」議論ばかりが世を覆うことになるでしょうけど、それでいいのかな、ということです。

 

2023年7月 1日 (土)

専業主婦前提の「幸せな家庭像」

海老原嗣生さんは最近、プレジデント・オンラインで女性の生き方、働き方をテーマに連載記事を書いているようですが、昨日アップされた「専業主婦を量産した昭和の残滓が令和の女性を苦しめる…経済力を持った女性が結婚を選ばなくなった根本理由」では、戦前までの男女差別的な法制度では「なく」、戦後広がったある理想的なモデルが男女役割分業を増幅していったことを述べています。

https://president.jp/articles/-/70790

・・・日本の場合、1945年の敗戦で明治の法体系は捨て去られ、1946年公布の新憲法により、男女同権が謳われました。本当はそこで、女性の地位は回復するはずだったのですが、昭和の社会では、差別が巧妙に進化し、精密機械のような枷となって、より深く私たちの「常識」に染み込んでいきます。

見合いではなく恋愛で結婚相手を選び、老親から離れて核家族として世帯を持つ。そして、子ども2人を設け、標準家庭を築く。こんな西欧的な「ロマンティックラブ」が当たり前になる中で、夫は会社でバリバリ働き、妻は家を守るという専業主婦前提の「幸せな家庭」テーゼが、社会の隅々まで行き渡ってしまいました。この、異見を挟みにくい「幸せな家庭像」こそが、女性の社会進出を阻んでいくのです。

戦前の「妻は夫の所有物」テーゼとは異なりますが、「幸せな家庭」テーゼも、十二分に性別役割分担を維持強化したと言えるでしょう。

そうしたくびきが、女性の社会参加が進んだ今も尾を引き、令和の男女の心にも、その残滓ざんしが溢れています。晩婚・未婚・少子化問題の大きな原因がそこにあります。女性が外で働くことが当たり前になる一方で、家事、育児、そして介護までもが女性に偏重する状態は残り続ける。働く女性にとって、専業主婦を前提とした「幸せな家庭像」は、“無理ゲー”に他なりません。経済力を得た女性が結婚を選ばなくなったことは当然といえるのです。

この歴史認識は、女性労働をめぐる議論の世界ではごく常識的なものですが、世間では必ずしもそうではないのかも知れません。

実は、こういうメカニズムが始動し始めた終戦直後の時期の興味深い事例が、最近読ませていただき、本ブログでも紹介したある本に書かれていましたので、ちょっと言及しておきます。

Down それは、梅崎修・南雲智映・島西智輝『日本的雇用システムをつくる 1945-1995 オーラルヒストリーによる接近』(東京大学出版会)で、その第3章の「家族賃金」観念の形成というところです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2023/04/post-54c86d.html

これは、あの有名な近江絹糸人権争議の直後に勝ち誇る労働組合側が会社側に要求した賃金体系が家族賃金そのものであり、男女差別的なものであったことを論じています。いうまでもなく近江絹糸人権争議とは、宗教行事への強制参加の中止、信書の開封・私物検査の停止、結婚・外出の自由等を要求して100日間にわたる労働争議を闘い、全面的に勝利した戦後労働運動の金字塔です。当時の用語でいう「封建的」な家父長制的労務管理を打破し、職場に基本的人権を実現した争議として未だに多くの本が書かれ続けています。

それはそうなんです。近江絹糸の労働組合は戦後民主主義と基本的人権を職場にもたらしたのは確かです。でも、その戦後民主主義の理想像がいかなるものであったのかをよく示しているのが、この争議の直後に労働組合側が要求した賃金体系なんですね。それは一言で言って、まさに家族賃金そのものものでした。家族賃金とは、男性一人の賃金で家族を養い、妻は家事育児に専念するという、性別役割分業構造を反映した賃金体系です。

近江絹糸労組の要求案は26歳以降は男女別の年齢給でしたが、その理由は「まず一家の生活をさゝえる男子の賃金をひきあげ最低生活を保証する。ということで女子の年令給は独身の場合に据えおき,男子の年令給を世帯持の場合にまでひきあげました。そのため結果的に年令給に二六才以上の場合、男女差がつきました。・・・男女の差をつけるという前提ではなく、生活状態の相違(世帯生活と独身生活)から結果的にできた男女差です」とされていたのです。これに対し組合員からの反発や上部団体の全繊同盟からの批判を受け、最終妥結案では男女同一の賃金体系となりました。

基本的人権を求めて闘った人権争議の帰結が男女別賃金制度の要求であったというのは一見逆説的に見えますが、前近代的家父長制的労務管理に反発する近代的恋愛結婚イデオロギーは近代的性別役割分業意識の培養土でもあったということなのでしょう。これもまた戦後女性労働史で繰り返し登場する永遠のテーマでありました。

 

 

 

 

2023年6月30日 (金)

国立国会図書館デジタルコレクションの威力

山下泰平さんという方が、「国立国会図書館デジタルコレクションを使えば生存している人類の中でなにかに一番詳しい人間になれるけど」と言われているのですが、

https://cocolog-nifty.hatenablog.com/entry/kuwashii

恐らく同じような感想を抱いている人は他にも結構いるのではないかと思いますが、私も今回これを痛感しました。

51sgqlf3yol_sx310_bo1204203200_ 来る7月20日に、文春新書から『家政婦の歴史』という本を出すのですが、この本も、国立国会図書館デジタルコレクションがなければ一番肝心のところが書けなかっただろうと思います。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166614141

労働市場の仲介ビジネスという観点からこの問題にアプローチし始めたときに最初に活用したのは、わたくしが勤務する労働政策研究・研修機構の労働図書館で、ここには労働政策に関わるむかしの公的文書や官庁関係が出していた雑誌とかが結構収蔵されているので、それを片っ端から見ていくだけで、それなりの描像を描くことはできるのです。

しかし、改めて家政婦の歴史を深掘りしようとしたときには、そういうオフィシャルな文書ではない様々な媒体に書かれた資料が必要となります。この本でいうと、特に第1章の大和俊子が派出婦会を立ち上げて発展させていくあたりなどは、『婦人之友』、『婦人界』,『婦人倶楽部』、『主婦之友』といった当時の婦人雑誌に書かれた記事を駆使しているのですが、こういうのはこのデジタルコレクションで「派出婦会」「大和俊子」で検索して出てきたのをチェックして調べるというやり方ができなかったら,到底やりきれなかったでしょう。

全く土地勘のない人にとってはデータが膨大すぎて使いこなせないかも知れませんが、ある程度こうじゃないかというあたりをつけていい資料がないかと探しているような人にとっては、これは実に宝の山だなあと、改めて感じたことでした。

 

 

 

少数派のメンバーシップ型の規範性

Sn_g_ytv_400x400_20230630093101 女性声優さん(中身は男性)がこう呟いているんですが、

https://twitter.com/ssig33/status/1674374187815927814

濱口桂一郎先生は big picture を描いてるということでおれがいってることはクソリプみたいなもんなのだが、彼が描く雇用スタイルと全然違う周辺領域みたいなのはゲームとかITとかいろいろ日本にもそれなりのボリュームで存在しているのではと想像している。俺の周辺の極一部だけのことだとは思えない

私の定式化したメンバーシップ型をフルセットで実施している世界は日本の労働社会の中では少数派であるということは拙著でも繰り返して述べているところです。

ただ、とりわけ中小零細企業について述べているように、確かに勤続年数は長くないし、賃金カーブも平べったいし、企業別組合なんて見たことないし、新卒採用しようにも学生さん来てくれないし、という状況であっても、決してジョブ型というわけではない。本来あるべき姿はメンバーシップ型なんだけれども、力及ばずしてそうなれていない我が身の情けなさよ、でもできれば大企業みたいな立派なメンバーシップ型になりたいな、明日こそは・・・という、いわば「あすなろメンバーシップ型」であって、本来あるべき姿のジョブ型を日夜実践しているぞ!というようなつもりはまったくないのです。つまり、規範としてのメンバーシップ型の力は、現実に存在するメンバーシップ型の世界を遥かに超えて広がっている。

日本以外の社会のジョブ型というのも、現実の姿である以上にいわば規範であって、がちがちのジョブディスクリプションなんてやってたのは、UAW支配する自動車産業を筆頭とする製造業大企業分野であって、多くの職場はそれなりのジョブ型で適当にやっていたんじゃないかと思いますが、でもあるべき姿はそれなので、労働組合のないホワイトカラー職場にもコンサル会社がジョブディスクリプションを売りつけて広げていった。

で、問題はそういう意味でのメンバーシップ型の規範性が、女性声優さんの言うゲーム業界にはあるのか?ということで、そこは私は全然知らない世界なので、もしかしたらまったく違う世界が広がっているのかも知れないとは思います。

でも、ITの世界なんかは、ジョブ型社会のように一般企業の中にITのジョブがきちんと位置づけられ、IT職の給与処遇が決められ・・・という仕組みは作られることなく、そういう異物になりそうなものはまるっと別会社にして、同一会社同一賃金の裏返しとしての異なる会社異なる賃金というメンバーシップ型ロジックに沿った形で、わざわざ業務委託という形で、当該企業特有のシステムの構築をやらせるなどというめんどくさいやり方をとってきているのは、まさにマクロ的なメンバーシップ型の世界の中に埋め込むための工夫なのであって、そういうことから考えると、ゲーム業界というのも似たようなことではないのかと思います。つまり、メンバーシップ型の世界の中の異物として本体に変な影響を与えないようにゲットー化して置いている。そこだけ見ればジョブ型っぽい面が結構あるけれども、それはあくまでもサブシステムでしかない、という風に。

 

 

 

2023年6月29日 (木)

ジョブ型原理が嫌いな人々の群れ(再掲)

前は薬剤師がネタでしたが,今回は弁護士がネタです。

要するに、職業感覚が欠如したメンバーシップ型日本社会の中で、例外的に(法令の厳格な規定に基づいて)ジョブ型の行為規制が張り巡らされている分野に対して、脳みその根っこは日本的なメンバーシップ型で脳みその表層は市場原理主義に染まった人々が、そのいずれの感覚からも噴出してくるジョブ型原理に対する反発を露呈すると、こういう発言になるという典型なのでしょう。

https://twitter.com/ishiitoshihiro/status/1672947188979343360

弁護士資格なんて廃止して、非弁行為を解禁すればいいと思います。

司法試験を見ると「暗記・暗記…」。インターネットも検索エンジンもない時代の試験をアップデートできずに惰性で続ける。

法曹なんて、AIで淘汰されるべき職種です。

法曹は思考力がない人が多いです。

法令で厳格に行為規制がされている医療分野と異なり、法律実務に関しては、企業の法務部で組織の一員として働くのである限り、弁護士を初めとする様々な法務関係職業資格なんぞはなから要りませんから、ますますこのように感じるのでしょうね。

過去のサルベージエントリはこちら:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/07/post-925cf2.html

なんだか、薬学部なんか無駄だとか、薬剤師免許なんかいらないとかいう議論が一部ではやっているようですが、学校教育で職業資格を得た人間がその職業の専門技能を有していると社会的に見なされて当該職業を遂行していく、という日本以外では当たり前のジョブ型社会の基本原理が、なまじ原則的にそうじゃない日本の労働社会で例外的に妙に厳格なジョブ型原理を持ち込むと、どういう反発が発生するかのいい見本になっていますね。

実のところ、ビジネススクールにせよ、なになにスクールにせよ、そこのディプロマを得た若造が、長年無資格で勤め上げた現場のたたき上げよりも有能であるというのは、ジョブ型社会のお約束事に過ぎないわけですが、世の中全体がそういうお約束で動いている以上は、その若造が卒業とともにエグゼンプトとかカードルとかいうエリートとして偉そうにあれこれ指図し、段違いの高給をもらい、一生動かないノンエリートを横目にあちこち動きながら早々と出世していくのは、そういうものなわけです。

日本に一応あることになっている職業分類というのは、そういうジョブ型原理で作られていますが、しかし実際にある労働者をどちらに分類するか、たとえばあるサラリーマンを管理的職業とするか事務的職業とするか、といった局面になると、世の中がそういう原理でできていないという事実が露呈するわけです。

管理的職業というのは、管理的職業になるためのビジネススクールのようなところで高度(ということになっている)教育を受け、管理的職業として採用され、入ったその日から辞めるまで管理的業務をする職種であり、事務的職業というのは、それよりも下の中くらいレベルの教育を受け、事務的職業として採用され、入ったその日から辞めるまでずっと事務的業務をする職種です。

日本は戦中戦後の激動の中で、戦前にはあったそういう社内職業階層社会を会社員(であるかぎりみな)平等社会に作り替えてしまったわけで、それにどっぷり漬かって3~4世代を経過した現代日本人にとって、役に立っているのかどうかも分からない職業資格なんて言うのは、眉に唾をつけて見られるようなものであるということが、よくわかります。

そういう日本社会の中で、例外的にジョブ型原理でもって構築されているのが医療の世界。医師とは、医学部を出て医師国家試験を通過し、医師として採用され、入ったその日から辞めるまで医師として働く職種であり、看護師とは・・・、なになに技師とは・・・、以下同文、という世界です。

すぐ横にそういう純粋ジョブ型社会があるのを見た薬剤師たちが、俺たち私たちも、と考えるのは不思議ではありません。まことに自然な反応なわけですが、ところがそういう医療の世界を離れた日本社会全体は、それとは全く正反対の、ジョブなき社会でもって生きているわけです。

興味深いのは、そういう欧米社会が作り上げてきたジョブ型社会の原理に疑問を呈するための小道具として、かなり過激な市場原理主義的経済理論が使われる傾向にあることです。市場原理主義からすれば、職業資格のようなジョブ型のあれこれのインフラストラクチャーは最も適切なマッチングを妨害し、市場を歪める代物ということになるわけでしょう。

日本的なメンバーシップ型社会とは、その意味で言えば、職業資格などという下らんものを無視して(その会社の社員であるという唯一無二の資格を有する限り)最も適切なマッチングを人事部主導でやれるとてもいい仕組みなんだ、と、30年以上前の日本型雇用礼賛者であれば言ったのでしょうがね。

 

 

 

駒村康平・諸富徹・全労済協会編『環境・福祉政策が生み出す新しい経済』

625284 駒村康平・諸富徹・全労済協会編『環境・福祉政策が生み出す新しい経済 “惑星の限界”への処方箋』(岩波書店)をお送りいただきました。

https://www.iwanami.co.jp/book/b625284.html

地球環境の破壊を回避しつつ経済活動を営むには? 温暖化による被害の格差を抑えながら経済成長することは可能なのか? 深化するサーキュラー経済など欧州を中心とした産業構造の変化やGDPに代わる指標の開発、幸福感の問い直しなどを考察した刺激的な論集。他の寄稿者=喜多川和典、山下潤、内田由紀子。

ぱらぱらと読み出したのですが、第1章の駒村さんの「経済成長・幸福と自然」を読み進んでいくと,仏教経済学というのが出てくるのですが・・・。

 

 

2023年6月28日 (水)

『家政婦の歴史』詳細目次

Hashutsufu

はじめに
序章 ある過労死裁判から
1 国・渋谷労働基準監督署長(山本サービス)事件
2 そもそも家政婦は家事使用人ではなかった!
3 家政婦が家事使用人にされてしまったわけ
第1章 派出婦会の誕生と法規制の試み
1 派出婦会の始まり
2 派出婦会の組織と活動内容
3 時代の寵児になった大和俊子
4 派出婦会は職業紹介事業ではなかった
5 先駆的な派出婦会取締規則
第2章 女中とその職業紹介
1 女中奉公とその口入
2 営利職業紹介事業の大部分は女中の紹介だった
3 女中調査と派出婦調査
4 女中による放火事件
5 文学の中の女中 戦前編
第3章 労務供給請負業
1 ピンハネ親方の労務供給請負業
2 人夫供給業の経験談
3 労務供給請負業への規制の試み
第4章 労務供給事業規則による規制の時代
1 改正職業紹介法と労務供給事業規則
2 労務供給事業と派出婦会の実態
3 戦時統制と労務供給事業
第5章 労働者供給事業の全面禁止と有料職業紹介事業としてのサバイバル
1 職業安定法の制定と労働者供給事業の全面禁止
2 派出婦会が労働組合になるのは至難の業
3 派出婦会を禁止してさあどうする?
4 有料職業紹介事業として生き延びる道
第6章 労働基準法再考
1 労働基準法に至るまで
2 家事使用人とは何だったのか?
3 労働基準法制定過程における議論の諸相
4 帝国議会での質疑
5 派出婦会は1999年まで存在していた?
6 労災保険法ではどうだったか
第7章 家政婦紹介所という仮面を被って70年
1 家政婦紹介所の実態
2 家政婦紹介所の推移
3 戦後の女中と家政婦の実態
4 文学の中の女中と家政婦
5 紹介所に求職者の福祉増進努力義務?
第8章 家政婦の労災保険特別加入という絆創膏
1 労災保険の特別加入制度とは?
2 家政婦も労災保険に特別加入できるように
3 特別加入の保険料は誰がどのように払っているのか?
第9章 家政婦の法的地位再考
1 女中と家政婦のマクロ的推移
2 適用除外されるべき家事使用人はいま現在存在しているのか?
3 法律学的知恵を絞ってみても
4 家事・介護派遣というもっともまともな解法
終章 「正義の刃」の犠牲者
1 本書が解き明かしてきたこと
2 家政婦たちの真の歴史
あとがき

 

ダニエル・サスキンド『WORLD WITHOUT WORK』@『労働新聞』書評

20230302160351722619_85b439f76d138b1e8f7 例によって『労働新聞』7月3日号に、書評(【書方箋 この本、効キマス】)を寄稿しました。今回はダニエル・サスキンドの『WORLD WITHOUT WORK――AI時代の新「大きな政府」論』(みすず書房)です。

https://www.rodo.co.jp/column/152297/

 原題の英文を訳せば「仕事のない世界」となる。「AI(人工知能)で仕事がなくなるからBI(ベーシックインカム)だ」という近頃流行りの議論を展開している一冊だといえばそのとおりなのだが、日本で近年出された類書に比べて、議論のきめが相当に細かく、かつて『日本の論点2010』(文藝春秋)でBIを批判した私にとっても引き込まれるところが多かった。

 前半の3分の2は、AIで仕事が絶対的に減少していくという未来図を描く。労働経済学では、工場労働のような定型的タスクは機械に代替され、専門職や対人サービスのような非定型的タスクは代替されにくいというが、AIの発達により身体能力、認知能力、感情能力も代替されるようになり、専門職的な知的労働こそがタスク侵蝕に曝されるようになった。その結果もたらされるのは大変な不平等社会だ。ではどうする?

 後半の3分の1はサスキンドの処方箋が展開される。まず批判されるのは「人的資本が大事だ、もっと教育訓練を」という現在主流の政策だ。彼はこれを去りゆく「労働の時代」のなごりに過ぎないと批判する。「学び直しても臨むべき仕事の需要そのものが充分にないとしたら、世界トップレベルの教育も無用の長物」だからだ。だから、「正しい対策は、職業や労働市場に頼らない,全く別の方法でゆたかさを分かち合う方法を見つけ」なければならない。

 そこで「大きな政府」によるBIという話になるのだが、彼は無条件のユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)には批判的で、条件付きベーシックインカム(CBI)を主張する。その理由が、かつて私がBIを批判した論点と共通する。それは、誰をBIをもらえるコミュニティ・メンバーとして認めるのかという問題だ。観光ビザで来た外国人にも気前良く給付するというのでない限り、どこかで線引きが必要になる。それは「俺たち仲間のためのBIを奴らよそ者に渡すな」という「血のナショナリズム」を生み出さずにはおかない。労働の時代には仕事で貢献しているというのが移民排斥に対する反論になった。しかし仕事の足りない世界ではそうはいかない。彼がBIに付すべきという条件は労働市場ではなくコミュニティを支えることだ。

 私がかつてBIを批判したもう一つの論拠は「働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりである」ということだった。最終章「生きる意味と生きる目的」で、彼はこの問題を取り上げ、絶妙な処方箋を提示する。CBIの給付条件とは、「有償の仕事をしない人が、経済的な方法ではない形で、自分の時間の少なくとも一部を投じて社会のために貢献すること」である。「労働市場の見えざる手が無価値なものと判定している活動を、目に見えるコミュニティの手ですくい上げ、価値があるもの、大切なものとして掲げ直す」のだ。そうすることで、「CBIの要件を充たして給付金を得ることは、家族のために給料を稼ぐことで感じる充足感とさほど変わらない充足感をもたらす」だろう。これこそが、近年急拡大しているアイデンティティ・ポリティクスへの対抗力になるはずだと彼は言う。これは議論する値打ちのある提言だと思う。

本文中で、私が昔書いた『日本の論点2010』(文藝春秋)のエッセイに言及していますので、そちらも参考までに。

9784165030904_20230628121701 マクロ社会政策について大まかな見取り図を描くならば、20世紀末以来のグローバル化と個人化の流れの中で、これまでの社会保障制度が機能不全に陥り、単なる貧困問題から社会的つながりが剥奪される「社会的排除」という問題がクローズアップされてくるともに、これに対する対策として①労働を通じた社会参加によって社会に包摂していく「ワークフェア」戦略と、②万人に一律の給付を与える「ベーシックインカム」(以下「BI」という)戦略が唱えられているという状況であろう。

 筆者に与えられた課題はワークフェアの立場からBI論を批判することであるが、あらかじめある種のBI的政策には反対ではなく、むしろ賛成であることを断っておきたい。それは子どもや老人のように、労働を通じて社会参加することを要求すべきでない人々については、その生活維持を社会成員みんなの連帯によって支えるべきであると考えるからだ。とりわけ子どもについては、親の財力によって教育機会や将来展望に格差が生じることをできるだけ避けるためにも、子ども手当や高校教育費無償化といった政策は望ましいと考える。老人については「アリとキリギリス」論から反発があり得るが、働けない老人に就労を強制するわけにもいかない以上、拠出にかかわらない一律最低保障年金には一定の合理性がある。ここで批判の対象とするBI論は、働く能力が十分ありながらあえて働かない者にも働く者と一律の給付が与えられるべきという考え方に限定される。
 働く能力があり、働く意欲もありながら、働く機会が得られないために働いていない者-失業者-については、その働く意欲を条件として失業給付が与えられる。失業給付制度が不備であるためにそこからこぼれ落ちるものが発生しているという批判は、その制度を改善すべきという議論の根拠にはなり得ても、BI論の論拠にはなり得ない。BI論は職を求めている失業者とあえて働かない非労働力者を無差別に扱う点で、「文句を言わなければ働く場はあるはずだ」と考え、働く意欲がありながら働く機会が得られない非自発的失業の存在を否定し、失業者はすべて自発的に失業しているのだとみなすネオ・リベラリズムと結果的に極めて接近する。
 もっとも、BI論の労働市場認識は一見ネオ・リベラリズムとは対照的である。ヴァン・パリースの『ベーシック・インカムの哲学』は「資産としてのジョブ」という表現をしているが、労働者であること自体が稀少で特権的な地位であり、社会成員の多くははじめからその地位を得られないのだから、あえて働かない非労働力者も働きたい失業者と変わらない、という考え方のようである。社会ははじめから絶対的に椅子の数の少ない椅子取りゲームのようなものなのだから、はじめから椅子に座ろうとしない者も椅子に座ろうとして座れなかった者も同じだという発想であろう。
 景気変動によって一時的にそのような状態になることはありうる。不況期とは椅子の数が絶対的に縮小する時期であり、それゆえ有効求人倍率が0.4に近い現状において失業給付制度を寛大化することによって-言い換えれば働く意欲を条件とするある種の失業者向けBI的性格を持たせることによって-セーフティネットを拡大することには一定の合理性がある。いうまでもなくこれは好況期には引き締められるべきである。
 しかしながら、景況をならして一般的に社会において雇用機会が稀少であるという認識は是認できない。産業構造の変化で製造業の雇用機会が空洞化してきたといわれるが(これ自体議論の余地があるが)、それ以上に対人サービス部門、とりわけ老人介護や子どもの保育サービスの労働需要は拡大してきているのではなかろうか。この部門は慢性的な人手不足であり、その原因が劣悪な賃金・労働条件にあることも指摘されて久しい。いま必要なことは、社会的に有用な活動であるにもかかわらずその報酬が劣悪であるために潜在的な労働需要に労働供給が対応できていない状況を公的な介入によって是正することであると私は考えるが、BI論者はネオリベラリストとともにこれに反対する。高給を得ている者にも、低賃金で働いている者にも、働こうとしない者にも、一律にBIを給付することがその処方箋である。
 ある種のBI論者はエコロジスト的発想から社会の全生産量を減らすべきであり、それゆえ雇用の絶対量は抑制されるべきと考え、それが雇用機会の絶対的稀少性の論拠となっているようである。しかし、これはいかにも顛倒した発想であるし、環境への負荷の少ない生産やサービス活動によって雇用を拡大していくことは十分に可能であるはずである。
 上述でも垣間見えるように、BI論とネオリベラリズムとは極めて親和性が高い。例えば現代日本でBIを唱道する一人に金融専門家の山崎元がいるが、彼はブログで「私がベーシックインカムを支持する大きな理由の一つは、これが『小さな政府』を実現する手段として有効だからだ」、「賃金が安くてもベーシックインカムと合わせると生活が成立するので、安い賃金を受け入れるようになる効果もある」、と述べ、「政府を小さくして、資源配分を私的選択に任せるという意味では、ベーシックインカムはリバタリアンの考え方と相性がいい」と明言している*1。またホリエモンこと堀江貴文はそのブログでよりあからさまに、「働くのが得意ではない人間に働かせるよりは、働くのが好きで新しい発明や事業を考えるのが大好きなワーカホリック人間にどんどん働かせたほうが効率が良い。そいつが納める税収で働かない人間を養えばよい。それがベーシックインカムだ」、「給料払うために社会全体で無駄な仕事を作っているだけなんじゃないか」「ベーシックインカムがあれば、解雇もやりやすいだろう」と述べている*2。なるほど、BIとは働いてもお荷物になるような生産性の低い人間に対する「捨て扶持」である。人を使う立場からは一定の合理性があるように見えるかも知れないが、ここに欠けているのは、働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりであり、認知であり、生活の基礎であるという認識であろう。この考え方からすれば、就労能力の劣る障害者の雇用など愚劣の極みということになるに違いない。
 最後に、BI論が労働中心主義を排除することによって、無意識的に「“血”のナショナリズム」を増幅させる危険性を指摘しておきたい。給付の根拠を働くことや働こうとすることから切り離してしまったとき、残るのは日本人であるという「“血“の論理」しかないのではなかろうか。まさか、全世界のあらゆる人々に対し、日本に来ればいくらでも寛大にBIを給付しようというのではないであろう(そういう主張は論理的にはありうるが、政治的に実現可能性がないので論ずる必要はない)。もちろん、福祉給付はそもそもネーション共同体のメンバーシップを最終的な根拠としている以上、「“血“の論理」を完全に払拭することは不可能だ。しかし、日本人であるがゆえに働く気のない者にもBIを給付する一方で、日本で働いて税金を納めてきたのにBIの給付を、-BI論者の描く未来図においては他の社会保障制度はすべて廃止されているので、唯一の公的給付ということになるが-否定されるのであれば、それはあまりにも人間社会の公正さに反するのではなかろうか。

 

 

 

 

 

トランス女性と女子大学

津田塾大学がトランス女性の入学を認めるというニュースに、何か違和感を感じたので、それを言語化してみました。

https://www.tsuda.ac.jp/news/2023/0623-02.html

津田塾大学では、2025年度入試(2025年4月に入学する学生が受験する入試)より多様な女性のあり方を尊重することを基本方針とし、女子大学で学ぶことを希望するトランスジェンダー学生(性自認による女性)にすべての学部、大学院研究科にて受験資格を認めることといたしました。

この基本方針は、1900年から女性に高等教育の学びの場を提供してきた本学の伝統を継承する、「Tsuda Vision 2030」のモットー「変革を担う、女性であること」を推進することでもあり、同時に、多様な価値観の共生を目指す社会の構築に貢献することでもあります。本学は、多様な女性の学ぶ権利を守り、共に学ぶ環境を整えてまいります。

性に多様性があるということを社会全体でどのように理解を進めていけるのか。多様な女性のあり方を包摂していく過程で、周縁に置かれている様々な女性たちがエンパワーされ、自らの力量を信じて真摯に前進していけるよう支援していく。それが、21世紀の女子大学のミッションであると考えます。

性の多様性を認めるということや、多様な性の在り方を差別しないということと、女子大学という存在を認めているということそのものの間に、論理的に解決すべき問題が存在しているのではないかと感じます。

そもそも、女子の入学を認めない男子大学は許されないのに、男子の入学を認めない女子大学の存在が認められているのは、ポジティブ・アクション、すなわちこれまでより不利益を蒙ってきた性別に対して積極的に優遇する差別は許されるという考え方によるものであるはずです。

実際、戦前は女性は大学に進学することができませんでしたし、今日においてもなお女性の四年制大学進学率は男性よりもかなり低い水準にあります。現状の判断については様々な議論があり得ますが、議論の筋からいえばそういうことです。

男性が自分が女子大に入学できないのは差別だと訴えても相手にされないのは、一般的には男性の方が女性より有利な立場にあるがゆえに、女性への優遇措置を甘受すべきであると考えられているからでしょう。

ところが、トランス女性はそういう意味において男性に比べて差別されているわけではありません。トランス女性が男性よりも優遇されるべきであると主張する根拠はないはずです。

トランス女性/男性は、シス女性/男性に比べて差別されているから差別を許すべきではない、という議論は、あくまでも比較対象はトランス対シスなのであって、トランス女性を男性一般よりも優遇すべきという理論的根拠にはなり得ないはずです。

津田塾大学は、これまで差別され不利益を蒙ってきた女性をより指導的地位に就けるように積極的差別を行うのは正当であるという理由に基づいて、男性の入学を拒否するという男性に対する差別を行うことが許されている存在であるはずですが、その正当化根拠とは異なる差別の線引きをするということになると、そもそも女子大学であるという存立根拠を危うくする可能性があるのではないかと思います。

ダイバーシティという言葉は便利ですが、便利であるがゆえに、多様性の中身を区別せずにごっちゃにして議論するということになると問題があります。

例えば、人種差別に対するポジティブアクションとして、大学の入学枠において黒人などの有色人種を優遇するということがあります。それ自体の是非はここでは論じませんが、仮にそれが正当だという立場に立ったとしても、それによって正当化されうるのは、男女共学の大学において黒人男女を優遇することと、女子大学において黒人女性を優遇することまでであって、白人女性の多い女子大学に黒人男性を入学させろという話にはならないはずです。

白人男性の入学が許されない女子大学に、黒人女性のみならず黒人男性までダイバーシティの証しとして入学させろなどと言い出したら、それは論理的に間違ったことであるはずです。

津田塾大学には萱野稔人さんという立派な哲学者がいるんですから、もう少しきちんと物事を理論的に考えて行動すべきではないかと思います。

(追記)

コメント欄の議論に対しての総括

*トランス女性が女性それ自体では「ない」ことは明らかであって、もし女性それ自体であってシス女性と何の違いも無いのならば、トランス女性をトランス差別の被害者であるとする根拠自体がなくなります。

差別根拠として男性であるか女性であるかというジェンダー差別の問題と、トランスであるかシスであるかという性的指向・性自認差別の問題は少なくとも別の軸の問題であって、それを意識的にか無意識的にかごっちゃにするような議論はおかしいといっているに過ぎません。

私は差別禁止論として性自認ゆえにトランスをシスとの関係で差別することを問題とする議論は理解できますが、もしそうであるなら、トランス女性はシス女性それ自体とは異なることが前提なのであり、それを全面的に否定する議論とはそもそも論理的に矛盾すると考えています。

*おそらく、ここで話が噛み合わない最大の理由は、そもそも女性差別である男子大学は許されないのに、男性差別である女子大学が許容されるのは,ポジティブ・アクションという積極的差別であるからである、というイロハのイの根本のことが理解されていないからなのでしょうね。

トランス女性が、身体的性別と精神的性自認が異なるトランスジェンダーであるという差別根拠に基づいて「ではなく」、もっぱら女性であるというセルフ・アイデンティティに基づいて、歴史的に身体的性別に基づいて差別されてきた女性にのみ認められた積極的差別たるポジティブ・アクションの権利を自分にも要求するということの根拠が見当たらない、という話なのです。ポジティブアクションとは、いわばこれまで女性だからという理由で差別されてきた身体的女性にのみ認められた特権なのであって、トランスだからといって差別されてきたかも知れないが女性だからといって差別されてきたわけではないトランス女性がそのお相伴にあずかるべき筋合いはないという話なのですが、そこがすっぽり頭の中から抜け落ちてしまっていると、こういうわけの分からない議論になるのでしょう。

*そうか、だんだん分かってきた。この人たちは、そもそも入口で男性のみ入れますとか女性のみ入れますということが、そもそも性別による差別であって許されないという差別禁止原則の一番根幹のことが頭の中にまったくなくって、男性のみ入れますでも女性のみ入れますでも、何でも許されるという大前提に立っているらしいのだな。

だとすると、何の問題もない男子のみ入れますという大学にトランス男性が入りたいということも当たり前のことであって、それと全く同様に、何の問題もない女子のみ入れますという大学にトランス女性が入りたいといってきているンだから入れればいいじゃないか、という思考回路になっているのでしょう。

しかし、だとすると、これはもはや差別の問題では無くなってしまうのだな。そもそも差別禁止原則が存在しない世界、男性のみでも女性のみでも何でも許される世界において、なぜか、ただ自らの性別アイデンティティのみが唯一絶対に尊重されるべきだという議論であって、正直付き合いきれない。

2023年6月27日 (火)

ジョブ型雇用をめぐる動向をどう捉えるか@労働開発研究会

来る7月14日(金)の14:00-16:00に、労働開発研究会の開催する研究会で「ジョブ型雇用をめぐる動向をどう捉えるか」についてお話をします。

https://www.roudou-kk.co.jp/seminar/workshop/10835/

 国は今後、日本企業の雇用制度をいわゆる「ジョブ型雇用」に移行することを促すとして、指針を発表すると表明しています。「メンバーシップに基づく年功的な職能給の仕組みを、ジョブ型の職務給中心のシステムに見直す」と岸田首相が述べるなど、企業の成長と労働者の活躍の促進に向けた人事制度の見直しを企業に求める方向です。またジョブ型雇用を導入した企業が話題となるなど、ニュース等でもジョブ型雇用というワードをたびたび目にするようになっています。
 このようにジョブ型雇用への移行を推進しようとしている状況ですが、はたしてそのようにうまく移行することができるのでしょうか。
 本例会では、労働政策研究・研修機構(JILPT)研究所長の濱口先生を講師にお招きして、そもそもジョブ型雇用とはどのようなものであり、昨今の動向をどのように捉え、また実際の移行は非常に難しい状況だという再認識のもと、現状の課題等の解説をしていただきます。
 国がジョブ型雇用への移行を推進していこうとしている今だからこそ聞いておきたい、この問題の第一人者である濱口先生からの貴重なお話しとなりますので、企業人事や労働組合のご担当者をはじめ関心ある皆様はぜひこの機会にご参加ください。

お申し込みはリンク先から。

『家政婦の歴史』は7月20日刊行です

『家政婦の歴史』(文春新書)は7月20日刊行です。書影が版元にアップされたので、ここで紹介しておきます。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166614141

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「家庭のなかの知られざる労働者」の知られざる歴史が浮かび上がる!

家政婦と女中はどう違う?
家政婦は歴史上、いつから家政婦と呼ばれるようになったのか?
2022年9月、ある家政婦の過労死裁判をめぐって、日本の労働法制の根本に潜む大きな矛盾に気づいた労働政策研究者の著者は、その要因の一端を、市原悦子演じるドラマ『家政婦は見た!』に見出し、家政婦をめぐる歴史をひも解くことを決意した。

戦後80年近くにわたって、労働法学者や労働関係者からまともに議論されることなく放置されてきた彼女たちのねじれた歴史を、戦前に遡って描き出す驚くべき歴史の旅程。

目次

序章 ある過労死裁判から
第1章 派出婦会の誕生と法規制の試み
第2章 女中とその職業紹介
第3章 労務供給請負業
第4章 労務供給事業規則による規制の時代
第5章 労働者供給事業の全面禁止と有料職業紹介事業としてのサバイバル
第6章 労働基準法再考
第7章 家政婦紹介所という仮面を被って70年
第8章 家政婦の労災保険特別加入という絆創膏
第9章 家政婦の法的地位再考
終章 「正義の刃」の犠牲者

2023年6月26日 (月)

available as a Belgian

JILPTの『ビジネス・レーバー・トレンド』2023年7月号がアップされました。

https://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2023/07/index.html

出産後も働き続ける女性が増えており、女性の年齢別労働力率を示す、いわゆる「M字カーブ」は解消されつつある。しかし、その一方で、女性の年齢別の正規雇用比率は20歳台後半をピークに低下する「L字カーブ」を描いており、女性の就業を考えるにあたっては、男女がともに働きやすい環境の整備や、出産・育児の経験が職業生活に負の影響とならずに、誰しもがキャリア形成を図り、能力発揮していくための環境整備と支援が重要となる。本号では、女性の就業をテーマとした労働政策フォーラム、業界団体・企業モニター特別調査の結果や、最近政府から打ち出された女性活躍・男女共同参画推進策やワーク・ライフ・バランス支援策の内容を紹介し、女性就業支援の「これから」を考える。

メイン記事は、2月15日に行われた労働政策フォーラム「女性の就業について考える─環境変化と支援のあり方を中心に─」です。

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https://www.jil.go.jp/event/ro_forum/20230220/houkoku/05_panel.html

このパネルディスカッションの最後のところで、司会の私が勝手に余計なことを喋っていますので、そこだけ引用しておきます。

濱口 最後に司会の職分を超えて若干余計なことを喋っておきます。私はかつてベルギーのブリュッセルにある欧州連合日本政府代表部に勤務していたのですが、ブリュッセルのみやげ物として、EU各国の国民性をジョークにした絵はがきがあります。そこでは、ベルギー人は「available as a Belgian」と書かれていて、その挿絵は、机の上で電話が鳴っているんだけど、誰もいないという構図です。これはひねったジョークで、ベルギー人は全然、アベイラブルじゃないと言っているわけです。でも逆に考えてみると、日本の企業はあまりにも社員に対して「アベイラブルであれ」と言い過ぎたために、今のような女性が働きにくい事態になっているのかもしれません。これをもう一つ裏を返して子どもの目から見たら、日本のお父さんはいつも会社に取られていて全然アベイラブルじゃないとも言えます。今日の議論を聞いていて、働く男女が誰にとってアベイラブルで、誰にとってアベイラブルじゃないのかという問題が、わが国の働き方の根っこにあるのではないかという感想を持ちました。それではこれでパネルディスカッションを終わります。ありがとうございました。

この絵はがきはこちらです。

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2023年6月25日 (日)

連合もなぜ自分たちの期待を裏切る人たちを文句も言わずに応援し続けるのか@井手英策

1b6f8bae5f525271fc711dc601f04622 連合のサイトに、「連合 政策・制度推進フォーラム」第4回総会を開催という記事が載っていて、井手英策さんの記念講演の概要が載っています。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/news_detail.php?id=2004

今まで民主党系の政治家に何回も裏切られてきた井出さんの心の思いが噴出するような表現が垣間見えますね。

〇消費減税ほど理解が難しい政策はない。5%減税で富裕層には年間23万円が戻り、低所得層には8万円だけ。なぜ金持ち擁護のようにしか映らない政策を選択するのか。理由は野党共闘。選挙区調整はやればよい。しかし、なぜわざわざ「野党共闘」という名前をつけて一蓮托生みたいなアピールをしないといけないのか。タチのよくない政策に揃えて勝とうする姿を国民はどう見ているか

〇社会保障と税の一体改革で民主党はバラバラに。消費税がトラウマというのは理解できるが、学者としては一体改革のスキームは完璧。ところが、財務省との関係か、借金返済を高めたために大きな悲劇を生んだ。このスキームしかないのだから堂々と自信を持ってほしい。もう一つ、連合もなぜ自分たちの期待を裏切る人たちを文句も言わずに応援し続けるのか。組織内議員もいるだろう。政党を割ってほしい。連合新党をつくってほしい。連合も“その人たちしか応援しない”とはっきり言ってほしい。皆さんにとっての理想とともに闘う仲間を増やしていくことが一番大事ではないか。2017年の(民進党の)マニフェストを議論していた時点では我々が最先端に立っていた。まだ間に合う。連合の選挙総括の中にだけは自分が訴え続けた魂が生きている。皆さんで共有してほしい。

〇政治の本質は極に走ることではなく、極と極の中庸を模索すること。人類の歴史において、喜びだけを分かち合うことで成立したコミュニティはない。ともに痛みを分かち合ってでも満たさなければならない何かがあったから。消費税は貧しい人も払わなければならない。だからこそ、堂々とサービスを受け取る権利を手にする。何がベーシックサービスか、どの税で・だれに・何パーセントということを全部話し合わないといけない。国民がほしいものをバラまくなら国会も財政も要らない。必要なものを議論して財源を議論するから、議会、民主主義が必要。義務と権利、受益と負担の間の中庸を模索することが皆さんの使命。“とって使う”という当たり前のことを言えない政治、リベラルに未来はない



 

2023年6月24日 (土)

ジョブなきワークの時代

もう5年以上も前になりますが、当時まだリクルートワークス研究所におられた中村天江さん(現連合総研主幹研究員)のインタビューを受けたことがあります。

https://www.works-i.com/column/policy/detail017.html(濱口桂一郎氏 『メンバーシップ型・ジョブ型の「次」の模索が始まっている』)

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 中村さんは私に、メンバーシップ型の問題点とジョブ型への展望を語らせたかったようですが、あまのじゃくな私はわざと逆のことを喋りました。

中村 人生100年時代では、60歳を超えて80歳まで就業するケースも出てきます。そうなると雇用システムは今のメンバーシップ型でいいのか、あるいはジョブ型がふさわしいのか。どういう方向に進化していくと考えていますか。

濱口 日本では今、メンバーシップ型に問題があるのでジョブ型の要素を取り入れようという議論をしています。ですが、今の私のすごく大まかな状況認識は、これまで欧米で100年間にわたり確立してきたジョブ型の労働社会そのものが第4次産業革命で崩れつつあるかもしれないということです。欧米では新しい技術革新の中で労働の世界がどう変化していくのかに大きな関心が集まっています。

そもそもメンバーシップ型もジョブ型も自然にできたものではありません。産業革命で中世的なメンバーシップ型社会が崩れて労働者がバラバラの個人として市場に投げ出された中で、その拠り所として労働者が普通に働いていける社会のルールとして組み立てられたのがジョブ型です。ジョブ型とメンバーシップ型はある意味でそのルールの作り方の違いなのです。

日本でもマイクロエレクトロニクス(ME)が工場やオフィスに入り始めた30~40年前は、日本的雇用システムの柔軟性こそがME時代に最も適合していると誇らしげに語られました。もちろん間違っていなかったわけですが、ここ20年の間にメンバーシップ型の悪い点が露呈し、うまく対応できないということでジョブ型が注目を集めているのです。

しかし今の欧米は違う。欧米ではこれまで事業活動をジョブという形に切り出し、そのジョブに人を当てはめることで長期的に回していくことが効率的とされた。ところがプラットフォーム・エコノミーに代表されるように情報通信技術が発達し、ジョブ型雇用でなくともスポット的に人を使えば物事が回るのではないかという声が急激に浮上している。私はそれを「ジョブからタスクへ」と呼んでいます。

中村 メンバーシップ型でもジョブ型でもない就業システムが新しい技術革新によって生まれつつあるということですね。いつ頃から議論が始まっているのですか。

濱口 実は欧米でこんな議論が高まったのはこの2~3年です。つまり欧米の労働社会を根底で支えてきたジョブが崩れて、都度のタスクベースで人の活動を調達すればいいのではないか。あるいはそれを束ねるのが人間のマネジメントだと言われていたものでさえもAIがやるみたいな議論が巻き起こっているのです。

それに対して働く側はこれまでジョブ・ディスクリプションに書いてあることをちゃんとやればよかったけど、ジョブがなくなったら自分たちはどうすればいいのかという危機意識がすごく強い。ジョブがなくなれば今後の立脚する根拠をどこに、何を作ればよいのかという議論も起きています。

本当に先が見えない中でものすごい危機感を持って右往左往している状況です。ところが日本でそれほど騒がれていないのが不思議でなりません。

9784478117385  ここで私が言っていた「ジョブ型からタスク型へ」という議論の集大成のような本が去る3月に出ました。ラヴィン・ジェスターサン/ジョン・W・ブードロー『仕事の未来×組織の未来』(ダイヤモンド社)というあんまり食欲をそそらない平凡な邦題になっていますが、原題はこの書影に映っているように「WORK WITHOUT JOBS」(ジョブなきワーク)です。

https://www.diamond.co.jp/book/9784478117385.html

 まさに古くさくて硬直的なジョブ型から柔軟なタスク型への移行を唱道する本です。皮肉なのは、著者はマーサー本社の人で、翻訳はマーサージャパン。現在日本でジョブ型雇用すばらしいぞ、と必死に新商品として売り込んでいる当のマーサーがそれを自己否定するような本を出しているわけです。

 まあ、コンサルタントというのは普通のことをいっていたのでは商売にならないわけで、メンバーシップ型が鞏固に根を張る日本だからそんなのは古いぞ、とばかりジョブ型を新商品として売り込むわけだし、ジョブ型が厳然と確立しているアメリカだから、ジョブ型は古いぞ、タスク型にならなきゃだめだと脅しつけるわけでしょうね。

 実は私は著書の中でも「ジョブ型は古くさいぞ」と繰り返しているのですが、メンバーシップ型の社会的弊害をこれでもかとあげつらうために、あたかもジョブ型を新商品として売り歩く人材コンサルの同類のように見られがちです。日本におけるジョブ型の導入とは、古びた新商品のメンバーシップ型の弊害を縮小するための復古的改革というべきものですが、そういうマクロ的観点が欠如した浅薄な議論が横行するのには閉口します。閑話休題。

では、ジョブ型の本家本元のマーサー本社の人の説く「ジョブなきワーク」とはどういうものでしょうか。ジョブなきメンバーシップの日本型雇用システムとどこが同じでどこが違うのか、詳しいことは是非本書を読んでみていただきたいのですが、ここではちょびっとだけ。

 本書はいうまでもなくジョブ型雇用社会に生きる人々を相手に書かれています。職務記述書(ジョブディスクリプション)に箇条書きの形でまとめられたガチガチの固定的な「ジョブ」(職務)を雇用契約を結んだ従業員(ジョブホルダー)が遂行するという古くさいオペレーティングシステム(OS)を脱構築(デコンストラクション)して、 ジョブを構成する個々のタスクを、インディペンデント・コントラクター、フリーランサー、ボランティア、ギグワーカー、社内人材など多様な就労形態で遂行する仕組みに移行せよというのです。

 伝統的なジョブ型はなぜだめなのか。労働者の能力を職務と結びつけて判断し、職務経験や学位と無関係な能力を把握できないからです。従業員の能力を丸ごと把握することができないからです。そのため、そのジョブに必要な資格を有しているかいないかでしか判断できず、その仕事(個々のタスク)を遂行するにふさわしい人材を発見できないからです。

 というマーサー本社の人の議論を聞いていると、日本のメンバーシップ型はそうじゃないよといいたくなります。資格や経験よりも人格丸ごとを把握し、企業の必要に応じて適宜仕事を割り振っていく日本型を褒め称えているようにすら見えます。いや実際、上記人材リストの中の「社内人材」というのは、フルタイムの従業員であっても「人を職務に縛り付けず、自由な人材移動を可能にする」というものですから、まさに日本型です。

 とはいえ、似ているのはそこまでです。マーサー本社の唱えるタスク型の本領は、伝統的なジョブという安定した雇用形態ではないさまざまな柔軟な就業形態で、タスクベースで人材を活用していこうというものですから、ジョブ無限定でタスク柔軟型の代わりに社員身分がこの上なく硬直的で、社員である限り何かもっともらしい仕事をあてがわなければならない日本型とは対極的であるともいえます。

 冒頭で紹介した私のインタビュー記事でも述べたように、こういう議論が流行る背景にあるのはいうまでもなく情報通信技術の急速な発展で、本書でもITやAIによって仕事の未来がどうなるかというテーマが繰り返されます。近年の労働経済学の議論を踏まえて、あるジョブを構成するタスクのすべてが機械に代替されるわけではなく、代替されるタスクと代替されないタスクがあるのだ、というところから、旧来のジョブという枠組みにこだわるのではなく、機械に代替されない人間用のタスクを柔軟に働く人々に配分していこうという議論につながっていくわけです。

 

 

2023年6月23日 (金)

倉重公太朗・白石紘一編『実務詳解 職業安定法』

1758622 倉重公太朗・白石紘一編『実務詳解 職業安定法』(弘文堂)が届きました。書店にもじきに並ぶと思います。

https://www.koubundou.co.jp/book/b10031450.html

長年、職業紹介事業に関する基本法であった職業安定法。新卒学生の内定辞退率を予測するサービスが炎上して業界を震撼させた近年の「リクナビ事件」などを背景としつつ、テクノロジーの発達による募集情報等提供事業と職業紹介との区分の曖昧化や、人材サービスの活況に伴う職業紹介市場の右肩上がりの拡大などから、職業安定法が実務と関係してくる場面が飛躍的に増えています。2022年10月施行の職業安定法改正では、募集情報等提供事業にかかる届出制の新設のほか、求人情報や個人情報等の取扱に対する規制を強化。また、同改正では労働者を募集する企業に対する規制も拡大され、あらゆる企業が職業安定法に関係しうることとなりました。そこで本書は、職業安定法の最も実践的かつ信頼できる解説書をめざして、当分野第一線の弁護士・研究者・行政関係者が協働。生まれ変わった「シン・職安法」のすべてがわかる唯一無二の書です。

わたくしも序章の第1節を執筆しておりますが、以下のように第一線の弁護士が中心になってまとめられた本です。なんでも、刊行前から注文が殺到して重版が決定したとかで、まことにめでたいことであります。

[編者]
倉重公太朗(KKM法律事務所代表)
白石 紘一(東京八丁堀法律事務所パートナー)

[執筆者]
濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構研究所長)
松浦 民恵(法政大学キャリアデザイン学部教授)
大野 博司(アドバンスニュース報道局長)
宮川  晃(元厚生労働審議官)
中山 達夫(中山・男澤法律事務所パートナー)
荒川 正嗣(KKM法律事務所パートナー)
安西  愈(安西法律事務所代表)
板倉陽一郎(ひかり総合法律事務所パートナー)
近衞  大(KKM法律事務所パートナー)
今野浩一郎(学習院大学名誉教授)

職業安定法のまともな解説書は旧労働省が書いたものくらいですが、それも1970年の合冊のコンメンタールが最後で、半世紀以上にわたってほぼ放置プレイ状態であったわけです。その間、私の『労働市場仲介ビジネスの法政策』にもあるように、まことに疾風怒濤の大変化があったわけで、しかも近年の改正はその分野を大きく拡大しつつある、というわけで、我らが倉重弁護士が「だったら自分らで作ろう」と頑張ってここまできたというわけです。

【詳細目次】
序 章 職業安定法の過去・現在・未来
 第1節 職安法規制はなぜ始まり、何を防ぎたかったのか
 第2節 職業キャリア形成の現状とこれから
第1章 令和4年改正職安法の全体像
 第1節 令和4年改正の背景
 第2節 令和4年改正等の主な内容
第2章 雇用仲介サービスの全体像
 第1節 市場の全体像とトレンド
 第2節 新たな雇用仲介サービスの登場
 第3節 さらなるサービスの進化と健全な労働市場整備
第3章 職業紹介
 第1節 職業紹介事業への規制について
 第2節 職業紹介の定義
 第3節 均等待遇
 第4節 労働条件等の明示
 第5節 求人等に関する情報の的確な表示
 第6節 求職者等の個人情報の取扱い
 第7節 求人の申込み
 第8節 求職の申込み
 第9節 求職者の能力に適合する職業の紹介等
 第10節 有料職業紹介の許可等
 第11節 手数料
 第12節 取扱職業の範囲(港湾運送業務および建設業務の紹介の禁止)
 第13節 取扱職種の範囲等の届出、明示等
 第14節 職業紹介責任者
 第15節 帳簿の作成および備付け
 第16節 事業報告等
 第17節 職業紹介事業者の責務等
 第18節 秘密を守る義務等
 第19節 罰則
 第20節 無料職業紹介事業
 第21節 職業紹介と募集情報等提供の区分に関する基準
第4章 募集情報等提供
 第1節 はじめに:令和4年改正を踏まえた募集情報等提供事業に関する規制の趣旨
 第2節 募集情報等提供について
 第3節 特定募集情報等提供事業者に対する規制内容等
 第4節 募集情報等提供事業者に対する規制内容全体像
 第5節 均等待遇に関する事項
 第6節 求人等に関する情報の的確表示
 第7節 求職者等の個人情報の取扱い
 第8節 報酬受領の禁止
 第9節 事業の停止
 第10節 事業概況報告書の提出
 第11節 事業の公開
 第12節 苦情の処理に関する事項
 第13節 募集情報等提供事業を行う者の責務
 第14節 地方公共団体の行う募集情報等提供事業
 第15節 秘密を守る義務等
 第16節 罰則
 第17節 おわりに
第5章 労働者供給
 第1節 労働者供給事業の意義等
 第2節 労働者供給事業の事業運営
 第3節 帳簿書類の備え付け
 第4節 事業報告
 第5節 罰則
第6章 労働者の募集
 第1節 労働者募集の原則
 第2節 公正な採用選考と法律による制限
 第3節 委託募集
第6章補論:企業グループの募集採用をめぐる問題
第7章 個人情報の取扱い
 第1節 個人情報保護法の適用関係の整理等
 第2節 個人情報収集、保管、使用
 第3節 個人情報の適正管理
 第4節 個人情報保護法の遵守
 第5節 人の秘密の漏えい禁止等
 第6節 監督執行
第8章 職安法違反における行政の対応
 第1節 職安法違反企業に対する行政の対応
 第2節 違法行為が軽微な場合・事前の抑制を行う場合
 第3節 違反行為等に対する罰則
 第4節 違反行為に対する行政処分
 第5節 企業対応の実務
 第6節 企業対応におけるリスク管理――リクナビ事件を例に
終章 雇用仲介規制とこれからの職安法
 第1節 はじめに:労働市場における需給調整機能と募集情報等提供事業者
 第2節 募集情報等提供事業者の諸タイプの捉え方
 第3節 需給調整における介在度と規制
 第4節 これから考えるべきこと
【事項索引/判例索引】

 

 

 

 

 

健康診断の労働法政策@『労基旬報』2023年6月25日

『労基旬報』2023年6月25日に「健康診断の労働法政策」を寄稿しました。

 2022年10月29,30日に開催された日本労働法学会の第139回大会は「労働安全衛生法改正の課題」というテーマで大シンポジウムを開きましたが、そこにただ一人労働法学者以外から登壇していたのが産業医科大学教授の堀江正知氏でした。「産業医制度の歴史と新たな役割」というその報告で、堀江氏は戦時体制下で作られた一般健康診断という制度が他国に例を見ない独特の制度であることに注意を促しました。
 現在労働安全衛生法第66条以下に規定されている健康診断については、我々ほぼ全てが労働者として毎年受診してきた経験を持つこともあり、違和感を感じることもないまま過ごしてきていると思われますが、その源流は堀江氏が指摘するとおり、戦時体制下の健民政策にあり、それが戦後80年近くにわたってさらに拡大発展してきたという歴史があります。本稿では、労働法学の本流からは軽視されがちな労働安全衛生法制において、日本独特の発展の方向性を根底で形作ってきたものともいうべき職場における健康診断の源流を見ていきたいと思います。
 現在の労働安全衛生法の出発点は、1911年に制定され1916年に施行された工場法の第13条ですが、これに基づき制定された省令には健康診断規定はありませんでした。現行労働安全衛生法の健康診断規定の直接の原型である規定が初めて設けられたのは、1938年の工場危害予防及衛生規則改正(昭和13年4月16日厚生省令第4号)によってです。この背景には、戦時体制が進む中で、結核対策と国民の体力向上に熱心な陸軍のイニシアティブで厚生省が設置されたことと国家総動員法が制定されたことがあります。
 厚生省が設置されたのは1938年1月11日ですが、これは支那事変が始まった盧溝橋事件から6か月を経過し、近衛文麿首相が「蒋介石政権を対手とせず」と声明した同年1月16日の直前でした。しかしその動きは陸軍省医務局長・陸軍軍医総監であった小泉親彦が1936年秋頃、国民の体力向上のため強力な衛生行政の主務官庁を作る衛生省構想を提起したことに始まります。小泉はその理由を、「全国から某師団に集まる優良なる壮丁三千五、六百名の中で約二百名が慢性の胸の疾患を有つてゐる。然し是は甲種合格である。甲種にならなかつた乙種の体格者、それから不合格者の者を合せれば、全壮丁中の過半数以上となるが、此等の不良体格者の中に、如何に多数の胸の悪い青年が存在するか想像に難くない。病気でなく、日々仕事に励むで居る青年で、口から結核菌を吐出す人が百人に付二人づゝあるのであるから、此の有疾無息の健康者が全日本にどれ位多数あるか、能く考へて見なければならぬ」と述べていました。
 そこで陸軍は、近衛文麿に対し内閣支持の条件として同構想の受入れを求めたのです。一方近衛には福祉国家構想から内務省社会局を中心とした新省設置の考えがあり、この両者を合体させて、「国民体力の向上及び国民福祉の増進を図るため」保健社会省を設置することとしたのです。ところが枢密院から、国内情勢に照らして「社会」という文字は不適当という意見が出され、書経の「正徳利用厚生」からとった「厚生」という言葉を用いることとなり、体力局、衛生局、予防局、社会局、労働局の5局プラス保険院からなる厚生省が設置されたのです。新生厚生省の中でも最重要課題とされたのは国民体力の向上でした。体力局は鋭意調査を進め、国民体力管理法案を作成して議会に提出し、1940年4月8日国民体力法として成立に至りました。同法は未成年者に対する体力検査を義務づけるとともに、同局は国民運動として健民運動を展開しました。こうした動向が、健康診断規定の導入発展の背景事情として存在していたことは重要です。
 1938年工場危害予防及衛生規則改正の主眼は、安全管理者、工場医、安全委員といった、これもまた今日の労働安全衛生法に連なる安全衛生管理体制を義務づけたことにありますが、その工場医の任務として年1回の健康診断が初めて規定されたのです。
第三十四条ノ三・・・ 
⑦工業主ハ工場医ヲシテ毎年少クトモ一回職工ノ健康診断ヲ為サシムベシ
⑧前項ノ健康診断ニ関スル記録ハ三年間之ヲ保存スベシ
 工場危害予防及衛生規則は1940年10月7日に改正され、工場医の選任義務が職工500人以上から100人以上に拡張されるとともに、衛生上有害業務従事者に対する年2回の特殊健康診断(という名称ではありませんが)の規定が設けられました。
第三十四条ノ三・・・
⑦工業主ハ工場医ヲシテ毎年少クトモ一回職工ノ健康診断ヲ為サシムベシ
⑧工業主ハ瓦斯、蒸気又ハ粉塵ヲ発散シ其ノ他衛生上有害ナル業務ニ従事スル職工ニ付テハ工場医ヲシテ毎年少クトモ二回健康診断ヲ為サシムベシ
⑨其ノ年ニ於テ国民体力法ノ体力検査ヲ受ケタル者ニ付テハ一回ヲ限リ前二項ノ規定ニ依ル健康診断ハ之ヲ為サシメザルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ国民体力法ニ基キ体力検査ヲ行ヒタル工業主以外ノ工業主ハ国民体力法ノ体力検査票又ハ精密検診票ノ写ヲ作製スベシ
⑩前三項ノ健康診断ニ関スル記録又ハ体力検査票若ハ精密検診票ノ写ハ三年間之ヲ保存スベシ
 このように創設拡充されてきた健康診断規定が、大東亜戦争中の1942年に大きく再編拡充されましたが、これは規定の置かれる省令がそれまでの工場危害予防及衛生規則から工場法施行規則に移行する形を取りました。それまでは安全衛生管理体制の一環として工場医の任務という位置づけであったのが、正面から工業主が職工に対して実施すべき義務として位置づけられたわけです。
第八条 工業主職工ヲ雇入レタルトキハ雇入後三十日以内ニ医師ヲシテ其ノ職工ノ健康診断ヲ為サシムベシ但シ厚生大臣ノ指定スル健康診断ヲ受ケ三月ヲ経過セザル者ヲ雇入レタルトキハ此ノ限ニ在ラズ
第八条ノ二 工業主ハ医師ヲシテ毎年少クトモ一回職工ノ健康診断ヲ為サシムベシ
②瓦斯、蒸気又ハ粉塵ヲ発散シ其ノ他衛生上有害ナル業務ニ従事スル職工ニ付テハ前項ノ健康診断ハ毎年少クトモ二回之ヲ為サシムベシ
③其ノ年ニ於テ前条ノ規定ニ依ル健康診断又ハ厚生大臣ノ指定スル健康診断ヲ受ケタル者ニ付テハ其ノ受ケタル回数ニ応ジ前二項ノ規定ニ依ル健康診断ハ之ヲ為サシメザルコトヲ得
第八条ノ三 前二条ノ健康診断ニ於テハ左ノ項目ニ付計測、検査又ハ検診ヲ行フベシ但シ其ノ年二回以上ノ健康診断ヲ行フ場合ニ於テハ身長、体重及胸囲ノ測定並ニ視力、色神及聴力ノ検査ハ之ヲ一回行フヲ以テ足ル
一 身長、体重、胸囲
二 視力、色神、聴力
三 感覚器、呼吸器、循環器、消化器、神経系其ノ他ノ臨床医学的検査
四 「ツベルクリン」皮内反応検査
②前項第四号ノ検査ハ其ノ反応陽性ナルコト明カナルモノニ付テハ之ヲ省略スルコトヲ得
③「ツベルクリン」皮内反応ガ陽性若ハ疑陽性ノ者又ハ医師ニ於テ必要ト認ムル者ニ付テハ「エツクス」線間接撮影又ハ「エツクス」線透視ヲ行フベシ
④ 前項ノ検査ニ依リ結核性病変又ハ其ノ疑ヲ認ムル者ニ付テハ「エツクス」線直接撮影赤血球沈降速度検査及喀痰検査ヲ行フベシ
⑤地方長官ハ前二項ノ検査ノ実施ヲ困難トスル工場ニ付テハ之ヲ免除スルコトヲ得
⑥業務ノ種類又ハ作業ノ状態ニ依リ厚生大臣必要アリト認ムルトキハ第一項、第三項及第四項以外ノ項目ニ付テモ検査ヲ行ハシムルコトヲ得
第八条ノ四 工業主第八条又ハ第八条ノ二ノ規定ニ依リ職工ノ健康診断ヲ為サシメタルトキハ健康診断ノ結果ニ関スル記録ヲ作成スベシ
②第八条ノ二第三項ノ規定ニ依リ健康診断ヲ為サシメザリシ場合ニ於テハ工業主ハ国民体力法ノ体力検査ノ体力検査票若ハ精密検診票又ハ厚生大臣ノ指定スル健康診断ノ結果ニ関スル記録ノ写ヲ作成スベシ
③前二項ノ規定ニ依ル健康診断ノ結果ニ関スル記録、体力検査票若ハ精密検診票ノ写又ハ厚生大臣ノ指定スル健康診断ノ結果ニ関スル記録ノ写ハ各三年間之ヲ保存スベシ
第八条ノ五 工業主ハ職工ノ健康診断ノ結果注意ヲ要スト認メラレタル者ニ付テハ医師ノ意見ヲ徴シ療養ノ指示、就業ノ場所又ハ業務ノ転換、就業時間ノ短縮、休憩時間ノ増加、健康状態ノ監視其ノ他健康保護上必要ナル処置ヲ執ルベシ
第八条ノ六 工業主ハ毎年一回第八条又ハ第八条ノ二第一項若ハ第二項ノ規定ニ依ル健康診断ノ結果(第八条ノ二第三項ノ規定ニ依リ健康診断ヲ為サシメザリシ者ニ付テハ体力検査又ハ厚生大臣ノ指定スル健康診断ノ結果)ヲ様式第七号ニ依リ地方長官ニ報告スベシ
第八条ノ七 工業主其ノ他健康診断ノ事務ニ従事シ又ハ従事シタル者ハ其ノ職務上知リ得タル職工ノ秘密ヲ故ナク漏洩スベカラズ
第二七条ノ二 第八条ノ七ノ規定ニ違反シタル者(工業主ヲ除ク)ハ百円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス
②前項ノ罪ハ告訴ヲ待テ之ヲ論ズ
 この改正により、健康診断を実施する義務は工場医選任義務のある職工100人以上工場だけではなく、工場法の適用される職工10人以上工場の工業主に課せられます。それゆえ、健康診断を担当するのは工場医に限らない「医師」とされています。また、年1回の定期健康診断と年2回の特殊健康診断に加えて、雇入時の健康診断も義務づけられました。さらに、検査項目にもツベルクリン検査やエックス線撮影など結核対策が前面に打ち出されています。この前年の1941年7月18日、陸軍軍医中将の小泉親彦は第3次近衛文麿内閣で厚生大臣に就任しており、同年10月18日の東条英機内閣でも留任して、1944年7月18日の総辞職までその職を務めました。この省令改正は、「結核は亡国病である」という小泉の信念を実現しようとするものであったと言えましょう。
 戦後になって制定された労働基準法は、労働時間規制をはじめとしてさまざまな分野で戦前の水準を遥かに超える労働者保護を達成した法律ですが、よく見ると戦時下の諸法令で導入されていたいくつもの規定がほぼそのまま、あるいは若干形を変えて盛り込まれていることが分かります。労働安全衛生管理体制や健康診断に関わる領域はその最も顕著な分野です。
 労基法には第5章として「安全及び衛生」が置かれ、危害の防止(第42~45条)、安全装置(第46条)、性能検査(第47条)、有害物の製造禁止(第48条)、危険業務の就業制限(第49条)、安全衛生教育(第50条)、病者の就業禁止(第51条) といった規定に続いて、次のような規定が設けられました。
 (健康診断)
第五十二条 一定の事業については、使用者は、労働者の雇入の際及び定期に、医師に労働者の健康診断をさせなければならない。
②使用者の指定した医師の診断を受けることを希望しない労働者は、他の医師の健康診断を求めて、その結果を証明する書面を、使用者に提出しなければならない。
③使用者は、前二項の健康診断の結果に基いて、就業の場所又は業務の転換、労働時間の短縮その他労働者の健康の保持に必要な措置を講じなければならない。
④第一項の事業の種類及び規模並びに定期の健康診断の回数は、命令で定める。
 法律の文言上は特殊健康診断と一般健康診断がまとめて規定されてしまっていますが、省令レベル(労働安全衛生規則)ではより詳細な規定が設けられています。まず雇入時健康診断は労働者50人以上事業と各号列記されている有害業務の常用労働者に義務づけられます。前者は安衛則第11条により医師である衛生管理者と医師でない衛生管理者の選任義務が課せられている事業と同じですが、1942年規則が工場法の適用される職工10人以上工場に雇入時健康診断を義務づけていたのに比べると小規模工場が対象から外れています。一方定期健康診断については、年1回型と年2回型があるのは1942年規則と同じですが、労基法の適用範囲が工場法よりも大きく拡大したこともあって、規定ぶりが複雑になっています。まず、年1回の定期健康診断が義務づけられるのは、上記雇入時健康診断の対象労働者に加えて、農林水産業と金融広告業、官公署等を除く大部分の業種の常用労働者です。これらには規模要件はありません。言い換えれば事実上ほぼすべての事業の労働者に一般定期健康診断を義務づけたことになります。これに対し、規模に関わりなく雇入時健康診断が義務づけられる各号列記の有害業務については、年2回の定期健康診断が義務づけられています。
 こうしてほぼ戦時下の法令をベースにして作られた健康診断規定が、1972年には労働安全衛生法上により詳細に規定され、その後も累次の改正によって次々と膨れあがっていったことは、読者もよくご存じの通りです。今や労働安全衛生法の第66条から第66条の10までの計13か条、労働安全衛生規則の第43条から第52条の21までの計40か条に及ぶ膨大な健康診断関連規定の原点は、戦時体制下の国民体力向上の必要性にあったという事実は、関係者によってもっと知られてもいいことだと思われます。
なお、字数の関係で一部削除した小泉親彦陸軍省医務局長・陸軍軍医総監の言葉を全部再掲しておきます。これは、『医療及保険』1937年5月号に載った「国民体位の向上は現在の医療制度では断然不可能」という文章です。

 全国から某師団に集まる優良なる壮丁三千五、六百名の中で約二百名が慢性の胸の疾患を有つてゐる。然し是は甲種合格である。甲種にならなかつた乙種の体格者、それから不合格者の者を合せれば、全壮丁中の過半数以上となるが、此等の不良体格者の中に、如何に多数の胸の悪い青年が存在するか想像に難くない。病気でなく、日々仕事に励むで居る青年で、口から結核菌を吐出す人が百人に付二人づゝあるのであるから、此の有疾無息の健康者が全日本にどれ位多数あるか、能く考へて見なければならぬ。・・・だからお医者さんを沢山作つても、病院を拵へても、相談所を拵へても、どうにもならない。けれども結核は撲滅せなければならぬ。是が現在以上に蔓延したら国力はだめである。結核は亡国病である。だから結核撲滅に関しては軍当局は重大な関心を有つて居るのである。・・・
 即ち国民生活に即したる、もつともつと徹底した方策を講じなければならないのである。ではその体力向上の方法如何と云ふ問題が起るのである。そこで是が対策として、陸軍では左の案を以て、関係各省と協議した。その内容は、国民体力の増強を図るために国民健康保険の如きものを実施して既患者の療養方途を講ずることはもとより必要であるが、それよりも無患の青少年の身体の鍛錬、乳幼児妊産婦の保護等積極方途を講ずること、これが為には衛生省の如き中央衛生行政機関を画一的に統合強化すること、国立衛生科学研究所を設立して、中央衛生機関の諮問機関とし、文部省の体育研究所、内務省の栄養研究所、衛生試験所等を整理統合し、なほ集団衛生教育施設もこれに附属する国民体力管理法といふやうなものを制定し、小学校から最終学校卒業まで年々の身体検査成績を記入し徴兵検査の時に提出せしむる。国民体力の根本問題たる生活の安定、例へば青年の都会集中を防止するため地方農村に職を与へること、食糧の配給合理化、勤労力の強大化、持久力の養成等各種社会施設に関しても考研すること。各種衛生事業地方病院、医師等の統制、将来戦に於ける空襲に備へて防空、防毒、防疾の能率増進を講ずること。等を陸軍省案として提出した。・・・

 

2023年6月22日 (木)

70歳までの「創業支援等措置」活用企業113社(0.1%)@『労務事情』7月1日号

B20230701  『労務事情』7月1日号の「数字から読む日本の雇用」、今回は「70歳までの「創業支援等措置」活用企業113社(0.1%)」です。

https://www.e-sanro.net/magazine_jinji/romujijo/

 2020年3月の高年齢者雇用安定法の改正により、65歳から70歳までの高年齢者就業確保措置が努力義務化され、2021年4月から施行されていることは周知の通りです。・・・・

 

 

 

 

2023年6月21日 (水)

矢野眞和『今に生きる学生時代の学びとは』

628274 矢野眞和『今に生きる学生時代の学びとは 卒業生調査にみる大学教育の効果』(玉川大学出版部)をお送りいただきました。

http://www.tamagawa-up.jp/book/b628274.html

「大学で学んだことは社会で役立たない」よく聞かれるこうした発言は果たして的を射ているのか。膨大な卒業生調査のデータを、社会工学や統計分析の知見を活かして実証的に分析。その結果浮かび上がってきた、卒業後に生きる大学の教育効果の真の姿とは。今後、高等教育を論じる上で必読となるべき研究書。

Part 1 卒業生の言葉と数字を組み立てる データ蘇生学の実演

Introduction 卒業生調査による教育効果の見える化
Chapter 1 学生時代の学びが今に生かされる五つのルートと反省
卒業生の言葉を組み立てる
Chapter 2 数字でみる五つの学びルート
言葉を数字で検証しつつ、言葉と数字の相補関係を考える
Chapter 3 どのような学び方が学習成果を高めるか
数字を組み立てながら言葉を紡ぐ 1
Chapter 4 在学中の学びが職業キャリアを豊かにする
数字を組み立てながら言葉を紡ぐ 2
Chapter 5 卒業生 による授業改善の提案
統計分析による言葉の組み立て法

Part 2 ある社会工学者の50年と大学改革

Chapter 6 社会工学からみた教育経済学
Chapter 7 生涯研究の時代
Chapter 8 O.R.T.で学んだ社会工学
Conclusion データ蘇生学序説

本書を読んでいくと、KJ法という懐かしい言葉が出てきました。KJ法といって分かる人は今どれくらいいるのでしょうか。

 

 

梅崎修・江夏幾多郎編著『日本の人事労務研究』

9784502457616_430 梅崎修・江夏幾多郎編著『日本の人事労務研究』(中央経済社)をお送りいただきました。

https://www.biz-book.jp/isbn/978-4-502-45761-6

様々な学問領域で、あるいはそれらを跨ぐ形で展開されてきた日本の人事労務研究を振り返り、その成果を踏まえて将来の研究のあり方を展望。日本労務学会50周年記念の集大成。

というわけで、日本労務学会50周年を記念して、経済学、社会学、心理学、経営学、労働調査の5分野のこれまでの研究を振り返るという部分がメインで、その前と後に割と偉いクラスの方がエッセイ風の文章を寄せています。

はじめに(梅崎 修・江夏 幾多郎)

第Ⅰ部
日本の人事労務研究のこれからを展望する(江夏 幾多郎)

第1章 最近の人事労務研究における「管理」と「労務」(守島 基博)

 1 12年前の問題提起
 2 その後の展開
 3 人事労務研究から人事労務が消えている?
 4 労使関係テーマの衰退
 5 おわりに

第2章 働く当事者からみた人事労務管理(久本 憲夫)
 1 はじめに
 2 「人事労務」研究の学際性と観点
 3 気になる事実関係
 4 おわりに

第3章 S ociety 5.0:新たな社会契約に向けて? (D.ヒュー・ウィッタカー著,江夏 幾多郎訳)
 1 広い視野から見た日本の戦後モデル
 2 バブル崩壊と一貫性の喪失
 3 Society 5.0,DX,SX
 4 Society 5.0の断層と持続可能な資本主義
 5 おわりに

第Ⅱ部 日本における人事労務研究の50年を振り返る(梅崎 修)

第4章 人事労務研究にあらわれた市場と組織の理解:
経済学の観点から(勇上 和史・風神 佐知子・平尾 智隆・佐藤 一磨)

 1 総 論
 2 労働市場論による分析
 3 組織の経済分析
 4 非中核的な労働者に関する研究
 5 今後の研究展望

第5章 社会の中の企業・生活の中の労働:
社会学の観点から(池田 心豪・山下 充・佐野 嘉秀・藤本 昌代)

 1 人事労務管理をとらえる社会学的視座
 2 研究レビューの方法
 3 企業コミュニティ論の成立と展開
 4 企業コミュニティの動揺と働き方・キャリア
 5 今後の研究課題
 6 おわりに

第6章 個人から捉えた人事労務研究:
心理学の観点から(坂爪 洋美・林 祥平・細見 正樹・森永 雄太)

 1 人事労務分野における心理学研究とは何か
 2 人事労務分野における心理学研究①:心理学分野の一領域としての人事労務研究
 3 人事労務分野における心理学研究②:経営学への応用
 4 人事労務分野における心理学研究のこれから

第7章 人事労務の定義・対象・手法の移り変わりを研究者はどう捉えてきたか:
経営学の観点から(江夏 幾多郎・田中 秀樹・余合 淳)

 1 はじめに
 2 経営学的な人事労務研究
 3 人事労務研究における体系的文献レビューのレビュー
 4 分析結果
 5 発見事実の考察
 6 おわりに

第8章 調査は人事労務研究をいかに更新してきたのか:
労働・職場調査の観点から
(梅崎 修・篠原 健一・南雲 智映・松永 伸太朗)

 1 なぜ,調査がレビューの対象となるのか
 2 先行する試みと本章のやり方
 3 テキスト分析によるテーマの変遷
 4 テーマ別に見た労働・職場調査の転機
 5 労働・職場調査の未来

第Ⅲ部 人事労務研究と日本労務学会(梅崎 修)

第9章 人事労務研究の何がどう論じられてきたのか:

 1 大会統一論題テーマの変遷(上林 憲雄)
 2 時代の変遷に伴う人事労務研究の変容
 3 おわりに

第10章 創設期の人物像やその後のいくつかの展開(白木 三秀)
 1 はじめに
 2 学会創設の趣旨
 3 創設期の代表理事
 4 研究奨励賞基金の創設の経
 5 国際会議・国際交流の実施
 6 学会名称変更の試みと結果
 7 おわりに

実を言うと、この元になった2019年の公開討論会@早稲田大学には、この5分野に含まれない労働法政策に関して、わたくしも呼ばれて報告をしていますが,それは本書には含まれていません。

はじめのエッセイ風の文章のうち、久本憲夫さんの第2章では、メンバーシップ型雇用といっても、組織に対する積極的な関与、その中でも特に発言権が重要で、それがなかったらメンバーじゃなくてサーバントにすぎない、そんなものはサーバント型雇用だと言われていまして,それはそうなんですね。というか、所属型身分型雇用の原型はまさにサーバント型であり、ドイツの忠勤契約の退化形態としての僕婢契約(ゲジンデ・フェアトラーク)なわけですから、ほっとくとそういうのに陥ってしまうというのはその通り。逆に、そうではない戦後日本型のメンバーシップ型雇用というのは、戦後民主化の中で労働組合が経営を引っかき回す経営協議会とともに生み出されたなわけです。労働者の集団的発言権を,何に立脚して確保するかという点において、欧米の現場ブルーカラーがトレードやジョブにこだわったのに対して、戦後日本の労働者はメンバーシップにしがみついたのであって、それがなくなったら、言われるが儘に無限定の忠誠義務を負うただのサーバントではないか、ということになりますね。

 

 

 

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