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わが子に「あなたは頭のいい子ね」と言ってはいけない…親子関係を悪化させる"何気ないひとこと"

プレジデントオンライン / 2023年7月3日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

親は子にどう接するべきか。哲学者の岸見一郎さんは「子どもに『頭がいい子』『かわいい』といった属性を与えてはいけない。こうした言葉は子どもにとって命令に等しく、親の理想と現実との乖離が親子関係に悪影響を与える」という――。

※本稿は、岸見一郎『数えないで生きる』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

■祖父が私に与えた「頭がいい子」という属性

私の祖父は、私が子どもの頃、「お前は頭がいい子だ」と口癖のようにいっていた。こんなふうにいわれて嬉しくなかったはずはないのだが、この言葉が私の人生に少なからず波紋を呼ぶことになった。

「お前は頭がいい子だ」という時の「頭がいい子」というのは、「属性」である。

属性とは「事物や人の有する特徴・性質」という意味である。「あの花は美しい」という時の「美しい」が属性(花に属している性質)である。人についていえば、容姿や学歴などが属性である。

精神科医のR・D・レインは、自分や世界についての意味づけや解釈について、この「属性化」あるいは「属性付与」(attribution)という言葉を使って説明している(R.D.Laing, Self and Others)。

「お前は頭がいい子どもだ」というのは、祖父が私に与えた属性であり、私に「頭がいい子ども」という属性を付与した。それだけなら問題ないのだが、この属性が「その人を限定し、ある特定の境地に置く」とレインはいう。これはどういう意味なのか。

■親が子どもに行う属性付与は「命令」に等しい

同じ花でも美しいと見る人もあれば、そうでないと見る人もあるように、人についての属性付与も人によって異なる。

祖父の属性付与は私自身も同意できたら、嬉しかっただろう。もっとも、私には祖父が私に与えた「頭がいい」という属性の意味がわかっていなかっただろう。

属性付与が問題になるのは、他者が自分についていう属性と自分が自分に与える属性が一致しないので受け入れることができない時である。

属性付与が一致せず、自分がそれを受け入れられないだけならまだしも、さらに大きな問題がある。

一般的にいえば、AがBについてなす属性付与と、Bが自分についてなす属性付与は、一致していることもあれば、一致していないこともある。Bが子どもであれば、大人(親)が子どもに行う属性付与を、多くの場合、子どもは否定することは難しい。そのような場合、属性付与は、事実上、命令に等しい。

■「5段階中3」の通知表にため息をついた

祖父が私に「頭がいい子」という属性付与をした時、そのことの意味は「頭のいい子であれ」という命令だった。実際、祖父は「お前は頭がいい子だ」という言葉に続けてこういった。「大きくなったら京大へ行け」と。私はその祖父の期待を満たさなければならないと思った。もっとも、この言葉を聞かされていたのは保育園に通っていた時だったので、通知表をもらうことはなかった私が実際に頭がいいかどうかという判断は、その時点では誰もできなかっただろう。

ところが、小学生になって夏休みに入る終業式の日、初めて通知票をもらった私は、自分が思っていたほど勉強ができないことがわかった。今と違ってはっきりと5段階で評価され、算数が5段階の「3」だったのである。

その頃、京大というのがどういう意味かわかっていたとは思わないが、とにかくそこに行けば大人から賞賛されるらしいということだけは理解していた。学校から家までは子どもの足で30分ほどかかったが、家に帰るまで何度もランドセルから通知票を取り出して、「大変だ、これでは京大に行けない」と思って、ため息をついた。

■子どもは大人の期待を満たすために生きようとする

アドラーは次のようにいっている。

「認められようとする努力が優勢となるや否や、精神生活の中で緊張が高まる」(『性格の心理学』)

人から認められようと思うと緊張してしまう。子どもも同じである。認めてほしい子ども、愛されたい子どもは属性付与という形でなされる命令に従い、親やまわりの大人の期待を満たすために生きようとする。

「この緊張は、人が力と優越性の目標をはっきりと見据え、その目標に、活動を強めて、近づくように作用する。そのような人生は大きな勝利を期待するようになる」(前掲書)

子どもが一生懸命勉強すること自体は問題ではない。しかし、それが力を得て他の人よりも優れ、「大きな勝利」を期待するためのものになると問題である。勝利というのは、他者との競争に勝つことである。競う他者はまず兄弟姉妹である。さらに、学校に入ると同級生、受験を前にすると他の受験生である。競争には勝たなければならない。よい成績を収めることができれば、親は喜ぶだろうと思う。

アドラーは次のようにいっている。

「今日の家庭における教育が、力の追求、虚栄心の発達を並外れて促進していることは疑いない」(前掲書)

■「自分は優れている」がパワハラ人間にする

人から認められようとするのは虚栄心である。アドラーは「虚栄心においては、あの上に向かう線が見て取れる」(前掲書)といっている。「あの上に向かう線」は「優越性の追求」である。自分がより優れようと努力をすること自体には問題はなくても、教育が虚栄心の発達を促すとなると問題である。

親の期待通りに優秀であることができれば、本当に小さい子どもにもいばり散らすことが見られるとアドラーはいっている。このような子どもが大人になれば職場でパワハラをするようになるかもしれない。自分は優れた人間であり、かつ力があると思うようになるからである。

問題は「勝利」できない時である。親の期待を満たさない子どもは親から見放される。算数の成績が「3」であることを知り、「大変だ、これでは京大に行けない」と思ったのは、自分が将来成功できないと思ったわけではなく、大人の期待を満たせないことを恐れたのである。

テストの答案用紙を隠す子ども
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

■「生きているだけでありがたい」だったのに…

私とは違って、親や大人の事実上の命令である属性付与に反発する子どもの方が精神的に健康的である。しかし、そうでない子どもは親に逆らえず「自分を好まなくなった世界から退却し、孤立した生活を送る傾向をあえて示すことが見られる」(前掲書)とアドラーは指摘する。そのようなことをしなくても、親や大人の期待を満たせないと思った子どもは、自分には価値がないと思うようになる。

しかし、勉強ができるとか、頭がいいというのは人についての一つの属性でしかない。その属性を持っていないからといって、その人の価値がそのことで下がったりはしない。

親は初めから子どもに属性付与したはずはない。子どもが小さい間はどんな親も子どもが生きているだけでありがたいと心から思えただろう。ところが、やがて親はこんな子どもに育ってほしいという理想を抱くようになる。

子どもの言葉の発達が早いようだと思った親は子どもに「頭がいい」という属性付与をする。かわいい子どもには「かわいい」という属性付与をする。実際にそうかもしれないが、親の理想は次第に現実から離れていく。

■理想と現実が離れるほどイライラする

子どもは親の期待を満たすべく一生懸命勉強するかもしれないが、親が子どもに課する理想のハードルが高くなると、少しくらい成績がよくても親は満足できなくなる。親の理想はいよいよ高くなり、その理想から現実の子どもを引き算して見る。子どもが親の理想から大きく乖離(かいり)すると、子どもを叱り、叱らなくてもイライラすることが増えてくる。

このような現状を変えるためにはどうすればいいか。まず、子どもの方は親の期待を満たすために生きなければならないわけではないのだから、親が怒っても失望しても、放っておけばいい。

親の期待通りにいい成績を取れなくても、そのような子どもがいい成績を取れる子どもよりも価値が劣っていることにはならない。

親の属性付与は多くの場合世間の価値観に従っているのだが、その価値観が正しいとは限らない。有名大学に進学し、有名企業に就職する人が優秀であることの証であると疑わない人が多いというだけのことである。

■「この子のことは理解できない」が正しい理解

次に、親は子どもへの属性付与をやめなければならない。親の属性付与は親の子どもについての評価でしかない。「お前は頭がいい子だ」という祖父の私についての属性付与は、祖父が私をそのように評価したということにすぎない。評価は人の価値や本質とは関係ないのであり、その評価が誤っていることは多い。親の理想を子どもに当てはめようとしているだけで、現実の子どもを見ていないからである。

岸見一郎『数えないで生きる』(扶桑社新書)
岸見一郎『数えないで生きる』(扶桑社新書)

属性付与、属性化では人を理解できないということも知っていなければならない。「理解する」はフランス語ではcomprendreという。これは「含む」とか「包摂する」という意味だが、人も世界も属性付与によっては包摂できない。必ず包摂できないところがある。人は必ず理解を超えるのである。

それゆえ、親も含め他者が自分について一面的な、あるいは恣意(しい)的な包摂をしようとした時、それに自分を合わせようとする必要はない。他者は自分について属性で評価しようとするが、正しく評価されないとしてもその人が期待する属性を自分が持っていないということにすぎない。

親がこの子のことはまったく理解できないと思ったとしたら、それは正しく子どもを理解しているといえる。

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岸見 一郎(きしみ・いちろう)
哲学者
1956年京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。ミリオンセラー『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(以上、古賀史健氏との共著)をはじめ、『困った時のアドラー心理学』『人生を変える勇気』『アドラーをじっくり読む』など著書多数。

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(哲学者 岸見 一郎)

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