1、抗争
昭和38年 神奈川県 山口組vs錦政会(現稲川会)
2、山口組の横浜進出
(1)、山口組の横浜進出
・山口組は関東進出の足掛かりとして横浜への進出を計画した。横浜は、戦後熱海で利権を得て、静岡、神奈川、東京と勢力を拡大していった錦政会(現稲川会)の縄張りであった。
(2)、井志組・菅谷組・益田組の進出
①、はじまり
・昭和35年に山口組井志組の金刺虎助が横浜でポン引きを始めた。これが順調であったので、その後続々と山口組系組織が横浜に進出してきた。
②、続々と進出
・昭和36年12月、山口組菅谷組が「菅谷興業横浜支部」の看板をあげた。昭和37年2月には日本国粋会元横浜支部長・末次正宏を井志繁雄が養子とする形で、井志組が横浜支部を設けた。さらに、昭和37年6月には山口組関東進出の切り札として益田佳於率いる益田組が35人の配下とともに進出し、食堂兼仕出し業「丸三食品」を開店した。
3、児玉誉士夫の「東亜同友会」構想
(1)、児玉誉士夫の「東亜同友会」構想
・児玉誉士夫は昭和37年夏ころから、全国の博徒を大同団結させ自己の統率下に置き、反共のための右翼行動隊を作ろうという「東亜同友会」構想を持つ。
(2)、田岡一雄と町田久之が兄弟分となる
①、児玉の計画
・児玉は田岡を引き入れるために、児玉と同じく日本プロレス興業の役員を務め緊密に連帯をしていた東声会会長・町田久之と田岡を、田岡を兄、町田を弟とする兄弟分の縁組を結ぼうと計画した。田岡も当時1400人の構成員を持っていた東声会を組み入れることができるし、日本プロレスの興行権をも確保できることから、この計画を受け入れた。
②、田岡と町田の結縁式
・昭和38年2月、田岡と町田が結縁式が神戸の料亭で執り行われた。この式場には、鶴政会会長・稲川角二をはじめ阿部重作、関根賢、磧上義光、波木量次郎など錚々たる関東の親分衆も出席した。
③、「東亜同友会」の関西発起人会
・児玉はこれ以前に、「東亜同友会」の発起人会を関東地区や中京地区で開催していた。よって、田岡と町田の結縁式の機会を利用して、結縁式終了後に京都の都ホテルで関西発起人会を開催することとした。この会には関西の錚々たる親分衆が参加したが、山口組と対立している本多会や京都の篠原組などは参加を見送った。
4、グランド・パレス事件
(1)、グランド・パレス事件
・昭和38年3月、横浜にあるサパークラブ「グランド・パレス」で、井志組横浜支部長・堀江精一ら2人と錦政会大幹部・林喜一郎ら5人が喧嘩をした。堀江は林が帰るのを狙って襲撃しようと考え、井志組横浜支部に電話を入れて日本刀を持たせた20人の組員でグランド・パレスを包囲させた。しかし、異様な事態に通行人が警察に通報し、堀江らは凶器準備集合罪で一斉に逮捕された。
(2)、稲川の激怒
・稲川は、私淑する児玉が「関東同友会」構想を推し進めている最中であったので、気を使って山口組の横浜進出には見て見ぬふりをしていた。しかし、この事件に激怒し、東亜同友会を脱退し山口組の横浜進出に備えることとした。
(3)、児玉の仲裁
・稲川の脱退に驚いた児玉は仲裁役を買って出た。和解条件は、「襲撃事件に関与した全員を除名する」「井志繁雄は指をつめる」「横浜在住の組員は10人以下とする」と山口組に厳しいものであったが田岡は受け入れ、山口組は横浜から一時撤退をした。
5、山口組の麻薬追放運動
(1)、「麻薬追放国土浄化同盟」の結成
・昭和38年4月、田岡は田中清玄と組み、立教大学総長・松下正寿を責任者にたて、麻薬審議会会長・菅原通斉、参議院議員・市川房枝、作家・平林たい子など著名人の賛同を得て、「麻薬追放国土浄化同盟」を結成した。この結成大会を横浜で行われ、同盟の横浜支部長には益田佳於が就任した。つまり、これは実質的な横浜における益田組の組事務所の開設であった。
(2)、稲川の激怒
・稲川はこれを和解条項違反であるとして激怒し、児玉誉士夫、阿部重作、関根賢、波木量次郎ら関東の親分衆立会いのもとで、田岡を詰問した。田岡は、「横浜から麻薬を追放したらいつでも山口組は神戸に引き上げる」と答えた。
6、反山口組連合の集結
(1)、横浜総会の結成
・稲川は児玉は頼りにならず、田岡の山口組の関東進出の意向は変わらないとみて、住吉会や松葉会などと連携をはかり、傘下の各団体から腕力と胆力に優れた鉄砲玉をえりすぐり、反山口組連合戦線ともいえる横浜総会を立ち上げた。
(2)、関東会の結成
①、「関東会」構想
・関東の親分衆は、山口組の関東進出を抗争をせずに阻止するために、右翼を標榜する連合組織「関東会」の結成を計画した。関東のヤクザ組織が結集すれば山口組の牽制にもなるし、右翼団体を標榜すれば警察権力との対立も緩和できると考えたことによる。
②、結成式
・昭和38年12月、熱海つるやホテルに錦政会、松葉会、住吉会、日本国粋会、義人党、北星会、東声会の各代表に、児玉、白井為雄、中村武彦などの右翼の巨頭を結集して、関東会の結成式が執り行われた。初代理事長には松葉会の藤田卯一郎が選ばれた。ただし、田岡と兄弟分の町田率いる東声会も参加したことから、反山口組色は多少薄れたものとなった。
③、田中清玄襲撃事件
・関東会結成の直前、東声会の木村睦男が田中清玄を銃撃して重症を負わせる事件が起こった。木村は、東声会が山口組の関東進出を手引きしたという誤解を、田岡と結ぶ田中清玄を殺すことで晴らしたかったのが動機であるとした。東声会会長の町田は指を詰めた上で田岡に謝罪をした。
(3)、本多会等関西のヤクザ組織と関東のヤクザ組織の連帯
・昭和39年5月、本多会二代目会長・平田勝市と松葉会会長・藤田卯一郎が兄弟分の結縁を結んだ。さらに、同年11月には、平田と藤田に加えて、大阪藤原会の藤原秋夫、大阪直島義勇会の山田祐作、京都中島会の図越利一、名古屋稲葉地会の上条義夫、静岡中泉一家の播磨福策らが互いに五分の兄弟分盃を交わし、反山口組連盟が結成された。
7、山口組の対抗
・反山口組でヤクザ組織が集結するのに対して田岡は、昭和38年7月、菅谷政雄と酒梅組組長・中納幸男に兄弟分盃を交わさせ、さらに翌39年12月には地道行雄と日本国粋会会長・森田政治が結縁を結んだ。
8、第一次頂上作戦
(1)、第一次頂上作戦
・昭和39年3月、警視庁は第一次頂上作戦の一環として、山口組、本多会、山口組系柳川組、稲川会、松葉会、住吉会、日本国粋会、東声会、義人党、北星会の10団体を広域暴力団と指定して取り締まりを強化した。
(2)、反山口組連合の総崩れ
・この取り締まりの中で昭和40年1月に関東会が、同年3月には北星会、錦政会が、同年4月には本多会が、同年5月には住吉会が、同年9月には松葉会が、同年12月は日本国粋会が、翌昭和41年9月には東声会が解散を発表した。また、昭和44年には山口組系柳川組も解散をしているので、第一次頂上作戦で解散をしなかったのは、山口組と義人党のみであった。
9、和解
(1)、田岡が倒れる
・昭和40年、田岡は全港振総会が催されたホテルの廊下で狭心症と心筋梗塞を併発して倒れ、入院していた。稲川は昭和43年に賭博容疑で懲役3年の実刑に服していたが、出所後に田岡の見舞いに行った。この場で山口組若頭の山本健一と稲川会理事長の石井隆匡が兄弟分盃をかわすことが決まった。この後、山口組の横浜進出を担った山口組若頭補佐・益田佳於と稲川会専務理事・趙春樹も兄弟分盃を交わしている。
(2)、田岡の葬儀で
・昭和56年、田岡は関西労災病院で亡くなった。この田岡の葬儀委員長は稲川が務めた。
9、映像
・関東極道連合会
・修羅の花道2
横浜事件から山一抗争まで
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、講談社、1998)
昭和38年 神奈川県 山口組vs錦政会(現稲川会)
2、山口組の横浜進出
(1)、山口組の横浜進出
・山口組は関東進出の足掛かりとして横浜への進出を計画した。横浜は、戦後熱海で利権を得て、静岡、神奈川、東京と勢力を拡大していった錦政会(現稲川会)の縄張りであった。
(2)、井志組・菅谷組・益田組の進出
①、はじまり
・昭和35年に山口組井志組の金刺虎助が横浜でポン引きを始めた。これが順調であったので、その後続々と山口組系組織が横浜に進出してきた。
②、続々と進出
・昭和36年12月、山口組菅谷組が「菅谷興業横浜支部」の看板をあげた。昭和37年2月には日本国粋会元横浜支部長・末次正宏を井志繁雄が養子とする形で、井志組が横浜支部を設けた。さらに、昭和37年6月には山口組関東進出の切り札として益田佳於率いる益田組が35人の配下とともに進出し、食堂兼仕出し業「丸三食品」を開店した。
3、児玉誉士夫の「東亜同友会」構想
(1)、児玉誉士夫の「東亜同友会」構想
・児玉誉士夫は昭和37年夏ころから、全国の博徒を大同団結させ自己の統率下に置き、反共のための右翼行動隊を作ろうという「東亜同友会」構想を持つ。
(2)、田岡一雄と町田久之が兄弟分となる
①、児玉の計画
・児玉は田岡を引き入れるために、児玉と同じく日本プロレス興業の役員を務め緊密に連帯をしていた東声会会長・町田久之と田岡を、田岡を兄、町田を弟とする兄弟分の縁組を結ぼうと計画した。田岡も当時1400人の構成員を持っていた東声会を組み入れることができるし、日本プロレスの興行権をも確保できることから、この計画を受け入れた。
②、田岡と町田の結縁式
・昭和38年2月、田岡と町田が結縁式が神戸の料亭で執り行われた。この式場には、鶴政会会長・稲川角二をはじめ阿部重作、関根賢、磧上義光、波木量次郎など錚々たる関東の親分衆も出席した。
③、「東亜同友会」の関西発起人会
・児玉はこれ以前に、「東亜同友会」の発起人会を関東地区や中京地区で開催していた。よって、田岡と町田の結縁式の機会を利用して、結縁式終了後に京都の都ホテルで関西発起人会を開催することとした。この会には関西の錚々たる親分衆が参加したが、山口組と対立している本多会や京都の篠原組などは参加を見送った。
4、グランド・パレス事件
(1)、グランド・パレス事件
・昭和38年3月、横浜にあるサパークラブ「グランド・パレス」で、井志組横浜支部長・堀江精一ら2人と錦政会大幹部・林喜一郎ら5人が喧嘩をした。堀江は林が帰るのを狙って襲撃しようと考え、井志組横浜支部に電話を入れて日本刀を持たせた20人の組員でグランド・パレスを包囲させた。しかし、異様な事態に通行人が警察に通報し、堀江らは凶器準備集合罪で一斉に逮捕された。
(2)、稲川の激怒
・稲川は、私淑する児玉が「関東同友会」構想を推し進めている最中であったので、気を使って山口組の横浜進出には見て見ぬふりをしていた。しかし、この事件に激怒し、東亜同友会を脱退し山口組の横浜進出に備えることとした。
(3)、児玉の仲裁
・稲川の脱退に驚いた児玉は仲裁役を買って出た。和解条件は、「襲撃事件に関与した全員を除名する」「井志繁雄は指をつめる」「横浜在住の組員は10人以下とする」と山口組に厳しいものであったが田岡は受け入れ、山口組は横浜から一時撤退をした。
5、山口組の麻薬追放運動
(1)、「麻薬追放国土浄化同盟」の結成
・昭和38年4月、田岡は田中清玄と組み、立教大学総長・松下正寿を責任者にたて、麻薬審議会会長・菅原通斉、参議院議員・市川房枝、作家・平林たい子など著名人の賛同を得て、「麻薬追放国土浄化同盟」を結成した。この結成大会を横浜で行われ、同盟の横浜支部長には益田佳於が就任した。つまり、これは実質的な横浜における益田組の組事務所の開設であった。
(2)、稲川の激怒
・稲川はこれを和解条項違反であるとして激怒し、児玉誉士夫、阿部重作、関根賢、波木量次郎ら関東の親分衆立会いのもとで、田岡を詰問した。田岡は、「横浜から麻薬を追放したらいつでも山口組は神戸に引き上げる」と答えた。
6、反山口組連合の集結
(1)、横浜総会の結成
・稲川は児玉は頼りにならず、田岡の山口組の関東進出の意向は変わらないとみて、住吉会や松葉会などと連携をはかり、傘下の各団体から腕力と胆力に優れた鉄砲玉をえりすぐり、反山口組連合戦線ともいえる横浜総会を立ち上げた。
(2)、関東会の結成
①、「関東会」構想
・関東の親分衆は、山口組の関東進出を抗争をせずに阻止するために、右翼を標榜する連合組織「関東会」の結成を計画した。関東のヤクザ組織が結集すれば山口組の牽制にもなるし、右翼団体を標榜すれば警察権力との対立も緩和できると考えたことによる。
②、結成式
・昭和38年12月、熱海つるやホテルに錦政会、松葉会、住吉会、日本国粋会、義人党、北星会、東声会の各代表に、児玉、白井為雄、中村武彦などの右翼の巨頭を結集して、関東会の結成式が執り行われた。初代理事長には松葉会の藤田卯一郎が選ばれた。ただし、田岡と兄弟分の町田率いる東声会も参加したことから、反山口組色は多少薄れたものとなった。
③、田中清玄襲撃事件
・関東会結成の直前、東声会の木村睦男が田中清玄を銃撃して重症を負わせる事件が起こった。木村は、東声会が山口組の関東進出を手引きしたという誤解を、田岡と結ぶ田中清玄を殺すことで晴らしたかったのが動機であるとした。東声会会長の町田は指を詰めた上で田岡に謝罪をした。
(3)、本多会等関西のヤクザ組織と関東のヤクザ組織の連帯
・昭和39年5月、本多会二代目会長・平田勝市と松葉会会長・藤田卯一郎が兄弟分の結縁を結んだ。さらに、同年11月には、平田と藤田に加えて、大阪藤原会の藤原秋夫、大阪直島義勇会の山田祐作、京都中島会の図越利一、名古屋稲葉地会の上条義夫、静岡中泉一家の播磨福策らが互いに五分の兄弟分盃を交わし、反山口組連盟が結成された。
7、山口組の対抗
・反山口組でヤクザ組織が集結するのに対して田岡は、昭和38年7月、菅谷政雄と酒梅組組長・中納幸男に兄弟分盃を交わさせ、さらに翌39年12月には地道行雄と日本国粋会会長・森田政治が結縁を結んだ。
8、第一次頂上作戦
(1)、第一次頂上作戦
・昭和39年3月、警視庁は第一次頂上作戦の一環として、山口組、本多会、山口組系柳川組、稲川会、松葉会、住吉会、日本国粋会、東声会、義人党、北星会の10団体を広域暴力団と指定して取り締まりを強化した。
(2)、反山口組連合の総崩れ
・この取り締まりの中で昭和40年1月に関東会が、同年3月には北星会、錦政会が、同年4月には本多会が、同年5月には住吉会が、同年9月には松葉会が、同年12月は日本国粋会が、翌昭和41年9月には東声会が解散を発表した。また、昭和44年には山口組系柳川組も解散をしているので、第一次頂上作戦で解散をしなかったのは、山口組と義人党のみであった。
9、和解
(1)、田岡が倒れる
・昭和40年、田岡は全港振総会が催されたホテルの廊下で狭心症と心筋梗塞を併発して倒れ、入院していた。稲川は昭和43年に賭博容疑で懲役3年の実刑に服していたが、出所後に田岡の見舞いに行った。この場で山口組若頭の山本健一と稲川会理事長の石井隆匡が兄弟分盃をかわすことが決まった。この後、山口組の横浜進出を担った山口組若頭補佐・益田佳於と稲川会専務理事・趙春樹も兄弟分盃を交わしている。
(2)、田岡の葬儀で
・昭和56年、田岡は関西労災病院で亡くなった。この田岡の葬儀委員長は稲川が務めた。
9、映像
・関東極道連合会
・修羅の花道2
横浜事件から山一抗争まで
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、講談社、1998)