ここでは恐怖小説「猿の手」の翻訳をやっています。
作者のW.W.ジェイコブズは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリスで活躍した作家ですが、何といっても彼の名を後世に残したのはこの「猿の手」でしょう。1902年に発表したこの作品はイギリスのみならず世界中に愛され、未だ恐怖小説のアンソロジーにはかならずといっていいほど収められています。
「三つの願い」という昔話に繰りかえし描かれるテーマをひねったこの短編は、さらにここから多くのスピン-オフを生んでもいます。
誰もがあらすじだけは知っている作品、ここではその全文訳をやっています。
原文は
http://www.classicshorts.com/stories/paw.html
で読むことができます。
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猿の手
by W.W. ジェイコブズ
第一章
その夜、外では冷たい雨が降っていたが、レイクスナム荘のこぢんまりとした客間では、ブラインドがおろされ、暖炉の火があかあかと焚かれていた。父親と息子がチェス盤を囲んでいる。局面を一気に打開しようと考えた父親が、大胆にもキングを意味もなく危険にさらすような場所に置いたので、暖炉の傍らで静かに編み物をしていた白髪の老夫人までもが口をはさんだほどだった。
「やれやれ、あの風の音を聞いてみろよ」致命的な失敗に気がついたホワイト氏は、いまとなっては後の祭りだが、せめて息子が気がつかないでいてくれまいかと虫の良い望みをかけてそんなことを言ってみた。
「聞こえてますよ」にべもなく答えた息子は、盤上に目を走らせながら手をのばした。「王手」
「今夜はおそらくやつも来やせんだろうな」父親は盤の上に持ち上げた手を止めたままそう言った。
「チェックメイト」息子が切り返す。
「これだからへんぴな場所に住むのはいやなんだ」急にホワイト氏は思いがけないほど荒々しい声で吐き捨てた。「どんなに薄汚い場所だろうが、ぬかるんでようが僻地だろうが、ここほどひどくはあるまいな。小道は沼地みたいなもんだし、通りときたらまるで川だ。このあたりの連中は一体何を考えているものやら。どうせ、街道沿いの二軒きりの貸家なんざ、どうなったっていいと思っとるんだろうがな」
「大丈夫ですよ、あなた」妻がなだめるように言った。「きっとつぎはあなたが勝つ番ですよ」
ホワイト氏がキッと目を上げたところ、目で合図していた訳知り顔の母親と息子はあわてて視線をそらせた。ホワイト氏の出かかった言葉は宙に浮き、まばらな白髪まじりの口ひげの向こうで、ひそかにうしろめたげな苦笑が漏れた。
「おや、お見えですよ」ハーバート・ホワイトが、門が閉まる大きな音と、ドアに近づく重々しい足音を聞きつけて言った。
老人は客を迎えるためにあわただしく立ち上がり、ドアを開けながら、やってきた客に向かってねぎらいの言葉をかけた。客もまた難儀な目にあったことを口にし、それを耳にしたホワイト夫人は舌打ちをして、部屋に入ってきた夫に軽く咳払いをしてみせた。夫の後からは、長身でたくましいからだつき、輝く小さな目と赤ら顔をした男が入ってきた。
「モリス曹長だ」老人は家族にそう紹介した。
曹長はそれぞれと握手を交わしてから、差し出された暖炉の脇の席に腰を下ろし、主人がウィスキーとタンブラーを取り出して小さな銅のやかんを火にかけるのを、うれしそうな顔で眺めていた。
三杯目を重ねたころには、曹長の目は輝き、やがて舌もなめらかになってきた。それを囲む小さな家族は、遠方からやってきた客人を、興味津々といったようすで見守る。曹長は広い肩をぴしっと張ったまま椅子に腰かけ、数々の修羅場をくぐり勇猛果敢に戦った話、戦争や天災や別世界の人々の話をして聞かせた。
「あれから二十一年だな」ホワイト氏はそう言って、妻と息子にうなずいてみせた。「曹長が出征したときは倉庫にいた細っこい若い衆だったんだかな。それがいまの姿の立派なこと」
「そんなふうに苦労をなさったようにはちっともお見受けできませんのにねえ」とホワイト夫人は礼儀正しくそう言った。
「わしもインドに行ってみたいもんだ」老人は言った。「ちょっと見て回れりゃ充分なんだがね」
「いやいや、ここに優るところはありませんよ」上級曹長は首を横にふりながらそう言った。空のグラスを置いてから、静かに溜息をつくと、もう一度首をふる。
「古い寺や行者、あと大道芸人も見てみたいなあ」老人は言った。「モリス曹長、そういえば以前、あんたはわしに猿の手がどうしたという話をしかけたことがありましたな」
「あれは何でもありません」曹長はあわてたようにそう言った。「何にせよ、お耳に入れるようなことではありません」
「猿の手、ですって?」ホワイト夫人は興味を引かれたようだった。
「まあ、いわゆる魔法というやつなんでしょうな」曹長はぶっきらぼうに言った。
聞き手の三人が身を乗り出した。客はうっかり空のグラスを口へ運び、気がついてそれを戻した。老人はそのグラスを満たしてやる。
「一見したところ」曹長はポケットをまさぐりながらそう言った。「ごくありきたりの小さな前脚なんです、干からびてミイラになった」
そう言うと、ポケットから何かを取り出して前へ押しやった。ホワイト夫人は顔をしかめて尻込みしたが、息子の方は手にとって、ものめずらしそうに眺めまわしている。
「それで、これのどこにふつうじゃないところがあるんだね」ホワイト氏はそう言うと、息子から受け取り、とくと調べてからテーブルに戻した。
「年取った行者がまじないをかけたんです」曹長は説明した。「たいそう霊験あらたかな行者でしてな。宿命によって定められた人の一生に、手出ししようものなら、とんでもない目に遭うことを教えたかったらしい。そこでこれに三人の人間が、それぞれに三つの願いをかけられるよう、まじないをかけたのです」
曹長の態度がひどく厳粛だったために、聞いている側はうっかり笑ったりして悪かったと反省した。
「だったらどうしてあなたご自身で願い事をしてみないんですか?」ハーバート・ホワイトが気を利かせて聞いた。
曹長は、中年の人間がぶしつけな若い者を見るような目つきでハーバートのことを見やった。「やりましたよ」静かにそう答えたが、しみの浮き出た顔からは血の気が失せていた。
「で、その三つの願い事はかないましたの?」ホワイト夫人が尋ねた。
「かないました」曹長がそう答えると、グラスが彼の丈夫そうな歯に当たってカチリと音を立てた。
「それで、ほかにも願い事をなさった方はいらっしゃったんですの」老夫人は重ねて聞いた。
「ええ、最初の男は三つとも願い事をかなえたんです。一つ目と二つ目の願いが何だったかは知りませんが、三つ目に彼は死を願った。だからこの手がわたしのところにまわってきたのです」
その口調があまりに沈鬱だったために、一同は声を失った。
「だがモリス君、もう三つの願い事をかなえたんだったら、君にはそんなもの必要ないだろう」やがて老人が口を開いた。「何のために君はまだそれを持っているのかね?」
曹長は首を横に振ると「好奇心、なのかもしれません」そうゆっくりと答えた。「実際、売ろうと考えたこともあったんですが、結局はそんなことはしない方がいいように思えたのです。これにはもう充分悩まされましたから。それに、買いたがるような人間はいやしないでしょうしね。たいていの人はおとぎ話ぐらいに思うだろうし、そうでない人にしたところで、まず最初に試してみて、金を出すのはそれからだと思うでしょうし」
「もし仮にもう一回、三つ願いがかなうとしたら」老人は相手を鋭く見据えて聞いた。「やってみるつもりはあるかね?」
「どうでしょう。私には何とも言えません」
モリスは猿の手を取って親指と人差し指でぶら下げたかと思うと、急に火のなかに放りこんだ。ホワイト氏は小さく驚きの声をあげると、かがみこんでひったくった。
「そのまま燃やした方がいいんです」曹長の声はひどく真剣だった。
「モリス君、君がいらないんだったらわしがもらうよ」
「いけません」モリスはかたくなに言い張った。「私は火の中にくべたんです。もし仮にそれを取っていたことで何か起こっても、私にはどうしようもない。ここはひとつ分別を働かせて、火のなかに戻してください」
ホワイト氏は首を横に振って、自分の手に入れたものをしげしげと眺めた。「どうやったらいいんだ?」
「右手で高く掲げて、声に出して願うのです」曹長は言った。「だが、そのあとどうなっても知りませんよ」
「まるでアラビアン・ナイトみたいね」ホワイト夫人はそう言うと、夕食の準備に立ち上がった。「あなた、わたしに手を八本くださるように願掛けなさるおつもりじゃないんですか?」
夫が魔法の手をポケットから引き出して見せたので、三人はどっと笑った。するとモリス曹長は顔に緊張の色をうかべて、ホワイト氏の腕をつかんだ。
「どうしても願掛けをしなければならないのでしたら」つっけんどんに言った。「せいぜい分別を働かせることです」
ホワイト氏はポケットにそれを戻すと、椅子を移動させて、食卓に客の席を用意した。夕食のあいだ、その魔法の手のことはなかば忘れられた格好で、ふたたび家族三人は、曹長のインドでの冒険談に夢中になって聞き入ったのだった。
「猿の手の話も、さっきの話みたいな大風呂敷だったら」息子のハーバートは、最終列車に間に合うように出ていった客を送り出したあと、扉をしめながら言った。「たいした御利益はなさそうだね」
「あなた、さっきの方に何かお礼をしたんですの?」ホワイト夫人は夫をまじまじと見ながら尋ねた。
「ちょっとばかりな」そう答えた夫の顔は、いくばくか紅潮している。「やつはいらんと言ったがな、受けとらせた。だが、捨てろ、捨てろと繰りかえしておったよ」
「さもありなん、ってとこだな」ハーバートはわざとらしく震えてみせた。「ま、これから金持ちになって、有名になって、幸せになろうっていうんだ。手始めに皇帝にしてください、って願掛けしてみてくださいよ、父さん。だったらもう母さんの尻に敷かれることもなくなりますよ」
椅子カバーをつかんで殴りかかろうとするホワイト夫人から逃れ、息子はテーブルのまわりを走った。
ホワイト氏は猿の手をポケットから取りだし、疑わしげに眺める。「いったい何を願えばいいもんだが、いざこうなってみるとわからんもんだな」ぽつぽつと言った。「ほしいものはもう何だって揃っとるような気がするしな」
「もしこの家の残金が全額払えたら、父さんたちも助かるでしょう?」ハーバートがそう言いながら、父親の肩に手をかけた。「だから二百ポンドくださいってお願いしてみちゃどうです? ちょうどそれでまかなえる」
父親は信じやすい自分を恥じるかのように薄笑いをうかべて、魔法の手を高く掲げた。息子もそれに合わせて厳粛な顔をしてみせたが、その顔も母親にウィンクしたために台無しになってしまった。そのままピアノの前に腰を下ろしていかめしい和音をいくつか奏でた。
「われに二百ポンド、授けたまえ」老人の声がはっきりと響いた。
その言葉に合わせて鳴り響くピアノの和音を、老人の悲鳴が破った。妻と息子はあわてて駆け寄った。
「動いた」床に転がるそれに目をやりながら、老人がうめく。「願い事をしたら手の中で蛇かなんぞかのようにくねったんだ」
「だけどお金は見あたりませんよ」猿の手を拾い上げた息子は、テーブルの上にのせた。「動くはずがない」
「それはお父さんの気のせいですよ」気遣わしげに夫を見やりながら妻も言った。
老人は頭を振った。「やれやれ。まあ悪いことが起こらなかったんだものな。とはいえ肝を冷やしたぞ」
三人は暖炉の傍に腰を下ろして、男ふたりはパイプをふかした。戸外では風の勢いはいっそう強くなり、老人は二階の扉が立てる音が気になってしょうがない。普段は絶えてないことだが、三人の頭上には沈黙がたれこめ、それは夫妻が床につくために立ち上がるまで続いたのだった。
「ベッドの真ん中に金のつまった大きな袋がありますよ、きっと」お休みなさい、を言いながらハーバートは言った。「で、何か気味の悪いものがたんすの上にしゃがんでいて、父さんがそのやましい手段で手に入れた金を懐に入れるのを見てるんです」
ハーバートはひとり暗闇の中にすわって、小さくなっていく炎を見つめていた。火のなかにいくつもの顔が見えるような気がする。やがてひどくおぞましい、猿のような顔が浮かび上がり、ハーバートは呆然とした。いやらしげな笑みを浮かべたその顔があまりにはっきりとしていたために、テーブルを探ってそこにあったグラスをつかむと、少しだけ残っていた水を引っかけた。一方の手は猿の手を握りしめていたのだが、小さく身震いしてその手を上着でぬぐい、寝室に向かった。
第二章
翌朝、明るい冬の日差しが朝の食卓に差しこんで、ハーバートは不安な気持ちを笑いとばした。 部屋には平凡で穏やかな空気が流れており、昨夜にはそれが欠けていたのだ。薄汚い、しなびた猿の手は、その効き目などだれも信じてはいないことを示すがごとく食器棚の上に無造作に放りだしてある。
「ベテランの軍人さんなんて、みなさん同じようなものですね」ホワイト夫人が言った。「あんなばかばかしいことをわたしたち、傾聴してたんですものね。きょうび、願掛けしてそのとおりになるなんてねえ。たとえもしほんとうになったとしても、いったいどうやったら二百ポンドぽっちで悪いことが起こるなんてことになるんでしょう」
「たぶん父さんの頭の上に空からふって来るんですよ」軽薄な調子でハーバートが言った。
「モリスは自然にそうなると言っておったが」父親が言った。「つまり願い事をすると、偶然のようにそれがかなうらしい」
「さて、ぼくが帰ってくるまで、お金に手をつけないでくださいよ」ハーバートはそう言うと、食卓から立ち上がった。「こんなことで父さんが吝嗇な強欲じじいになってしまったら、ぼくら、父さんと縁切りしなきゃならなくなる」
母親は声をあげて笑うと、玄関まで息子についていき、そこから道を歩いていくのを見送ってから食卓に戻ってきた。夫がお人好しにも金を渡したことさえ、気持ちを煩わせるには及ばない。その上機嫌は、郵便配達のノックに思わずドアに駆けつけて、仕立て屋からの請求書だとわかって、あらあらあんな飲んべえさんの言うことを真に受けるなんて、と口にしたときにも続いていた。
「ハーバートはまたおかしなことを言うでしょうよ、家に帰ってきたらね」そう言いながら、ふたりは昼食の席に着いた。
「だがな」ホワイト氏は自分のグラスにビールを注ぎながら言った。「誰が何と言おうと、確かにあれはわしの手の中で動いたんだ。これだけは確かだ」
「たぶんそういう感じがしたんでしょう」老夫人はとりなすようにそう言った。
「本当に動いたんだと言っただろう。感じなんかじゃない。わしはただ……どうしたんだ?」
ホワイト夫人は返事をしなかった。外で奇妙なそぶりをしている男のことが気になる。家に入ろうかどうしようか決心がつきかねるように中をのぞいては、なんとか入る覚悟を決めようとしている気配である。不意に二百ポンドのことが脳裏をよぎった夫人は、この人はずいぶん立派なみなりをしているわ、あのシルクハットのつやつやしてること、あれはどう見ても新品ね、と見定めた。三度ばかり門のところで足を止めては、そのまま行き過ぎるのを繰りかえす。そうしてついに四度目に男は門に手を掛けると、急に決心がついたように勢いよくそれを開け、小道をやってきた。ホワイト夫人はその瞬間に手を後ろへ回し、大急ぎでエプロンのひもをほどき、この美的ならざる衣装を椅子のクッションの下に隠した。
夫人は落ち着かない様子の初対面の客を、部屋に招じ入れた。夫人の方をちらちらと盗み見ながら、夫人が、部屋が散らかっておりまして、だの、宅が庭仕事用の上着を着たままで失礼いたします、だのとくどくどと謝るのを、聞いているのかいないのか、客は上の空のようだ。夫人は女というものが我慢できる限界までじっと耐え、用件が切り出されるのを待ったが、客はしばらくのあいだ奇妙なほど黙りこくっていた。
「私……社命でこちらへうかがわせていただきました」と口を切ったものの、かがみこんでズボンについた糸くずをつまみあげたりしている。「モー・アンド・メギンズ社の者です」
老夫人は息をのんだ。「どうかしたんですか」息せき切って尋ねた。「ハーバートに何かあったんですか? どうしたんですか? 何があったんですか?」
ホワイト氏が間に割って入った。「おいおい、母さん」ぞんざいにそう言うと「坐んなさい。あわてるんじゃない。悪い知らせ、ではないでしょうなあ?」そう言って、物思わしげに客に目を遣った。
「お気の毒ですが……」客は口を開いた。
「あの子、ケガでもしたんですか?」母親が尋ねた。
客はうなずいた。「たいそうなお怪我でした」その声は低かった。「ですがもうお苦しみではありません」
「ああ、神様!」老夫人はそう言うと、両手を組み合わせた。「神様、ありがとうございます! ほんとうにありが……」
不意に、客が苦しんでいないと保証したことの意味が腑に落ちて、夫人の言葉は途中で凍りついた。相手が顔をそむけたのを見て、夫人は自分の恐れが事実であることを知った。息をのみこんだまま、まだ事態を理解していない夫を振り返って、震える自分の手を夫のそれに重ねた。長い沈黙が続いた。
「ご子息は機械に巻き込まれてしまったのです」やがて客は低い声で言った。
「機械に巻き込まれて……」ホワイト氏は呆然と繰りかえした。「そうですか」
腰を下ろすと、うつろな目で外に目を向けていたが、やがて妻の手を取って自分の両手でしっかりとはさんだ。四十年近く前、恋人同士だったころ、いつもそうしていたように。
「いまではもうやつ一人しか残っておらんかったのです」客の方にそっと向き直って言った。「つらいものですな」
客は咳払いすると立ち上がり、ゆっくりと窓の方へ歩いていった。「大きなご不幸に遭われたお二方に、心からの哀悼の意を表するよう、私は会社から派遣されました」じっと相手から目を離さず言った。「私が単なる一従業員にすぎないこと、会社の指示をお伝えするだけの者であることをどうかご理解ください」
返事はなかった。老夫人は真っ青な顔をし、目をじっと据えたまま、息をしているかどうかも定かではなかった。夫の方は、かの曹長が初めて戦闘に参加したときのような表情を浮かべている。
「モー・アンド・メギンズ社は、この件に関していかなる責任もないと主張していることをご報告しなければなりません。いかなる賠償責任も認めてはおりませんが、ご子息の忠勤を鑑み、いくばくかの補償をさせていただきたいと考えております」
ホワイト氏は妻の手を落とし、立ち上がると、まがまがしいものを見るような目つきで客を見据えた。乾いたくちびるからかろうじて声が出た。「それはいくら……?」
「二百ポンドご用意しております」というのがその返事だった。
夫人が悲鳴をあげたのにも気がつかないまま、老人はかすかに微笑むと、視力をなくした人のように手を宙にさまよわせ、意識を失ってそのまま床に倒れた。
第三章
まだ真新しい広大な墓地が、家から三キロほど離れたところにあった。老夫婦は亡き息子をそこに埋葬してから、暗く静まりかえった家に帰ってきた。何もかもがあまりにばたばたと進んでいき、しばらくのあいだは二人とも、何が起こっているのかもよくわからず、老いた身には耐え難いほどの苦しみを軽くしてくれるような何事かが起こるのではないかと漠然とした期待感は後を引いた。
だが日がたつにつれ、その期待感もあきらめの念に場所をゆずった――ときに「無気力」と誤って呼ばれるような、老人特有の絶望的な諦念に。二人はほとんど一言も言葉を交わさないままでいることも珍しくなかった、というのも、もはや話すこともなかったからである。一日一日がうんざりするほど長かった。
一週間ほどが過ぎたある日、老人は夜半、不意に目が覚めた。手を伸ばしても、そこにはだれもいない。部屋は闇に閉ざされ、窓の方から抑えたすすり泣きが聞こえる。ベッドに起き直ると耳をすました。
「こっちへおいで」優しく声をかけた。「風邪を引くよ」
「あの子はもっと寒いんです」老夫人は言うと、また嗚咽を漏らす。
すすり泣きが老人の耳にはだんだん遠くなっていった。ベッドのなかは暖かく、まぶたは重くなっていく。老人はとぎれとぎれにまどろみだした。やがてその眠りも妻の悲鳴で破られ、彼はぎょっとして目を覚ました。
「手があったわ!」常軌を逸したような声だった。「猿の手が!」
不安にかられて老人は半身を起こした。「どこだ? どこにいる? いったいどうしたんだ?」
夫人がよろめきながら部屋を横切ってやってきた。「あれがいるんです」落ち着いた声でそう言った。「あなた、焼いたりはしてないでしょうね?」
「客間にある。棚の上だ」そう答えてから、不思議そうに尋ねた。「なんでまたあんなものを?」
妻は泣き笑いしながら身をかがめると、夫の頬にキスをした。
「いまさっき思い出したの」ヒステリックに言った。「どうしてもっと早く思い出さなかったのかしら。あなたもどうして気がついてくださらなかったの?」
「気がつくって何を?」
「願い事はもうふたつできるじゃありませんか」即座にその答えが返ってきた。「わたしたち、まだひとつしかしてませんもの」
「あれでまだ足りないとでも言うのか?」厳しい口調で聞き返した。
「とんでもない」それに答える妻の声は勝ち誇ったような響きがあった。「もうひとつお願いするんです。急いで下から取ってきてくださいな。あの子をまた生き返らせてくださいってお願いしましょう」
老人は体を起こしてすわりなおすと、震える脚から上掛けをはねのけた。「何をバカなことを」度を失った彼の声は大きくなった。
「取ってきてください」夫人は息をあえがせた。「いますぐ取ってきて、お願いしましょう……ああ、わたしの子、わたしの子が……」
老人はマッチをすってロウソクに火をつけた。「ベッドに入っていなさい」おぼつかなげにそう言った。「おまえは自分が何を言っているかわかってないんだ」
「最初の願い事がかなったんですもの」熱に浮かされたような声だった。「二番目の願い事だってかなうに決まってるわ」
「ぐ……偶然だ」老人はどぎまぎしながら言った。
「取りに行って、お願いしてちょうだい」夫人は興奮に身を震わしている。
老人は妻に向き直り、じっと見た。その声は震えていた。「やつが死んでからもう十日が過ぎたんだ。それに……こんなことを言うつもりはなかったんだが仕方がない……わしだって服でやっとあの子だとわかったんだ。あのときおまえにはちょっと見せられないくらいひどい状態だったのだとしたら、いまはどうなっていると思う?」
「あの子をここに戻してちょうだい」夫人は叫ぶと、夫をドアまで引っ張っていった。「自分が育てた子供をわたしが怖れるですって?」
闇の中、階下に降りた老人は、手探りで客間に入るとマントルピースのところまで行った。猿の手はそこにあった。口にもしていない願い事がかなって、機械に引き裂かれた息子がいまにも現れるのではないかと思うと、震え上がるほど恐ろしく、あわてて部屋を出ようとした。そのとたん、ドアの方角を失い、老人はあえいだ。額に冷たい汗が流れ、不吉なものを手にしたままテーブルのまわりをうろうろとさまよい、壁をつたってやっとのことで戸口にたどりついた。
寝室に戻れば、妻の顔さえ別人のようだ。蒼白な面には固唾をのんだような表情を浮かべ、そのただならぬ顔つきが、老人の不安をさらに駆り立てる。妻が恐ろしかった。
「お願いしてください」妻がきつい調子で叫んだ。
「こんなことは馬鹿げておるし、いいことじゃないとは思わんか」ためらいながらそう言った。
「お願いして」妻がもう一度繰りかえす。
彼は片手を掲げた。「息子を生き返らせたまえ」
不思議な手は床に転がり落ち、老人はこわごわと見おろした。老人が震えながら椅子にくずおれる一方、老夫人は燃えるような目をして窓際に歩み寄り、ブラインドを上げた。
寒さに凍えながら坐ったまま、老人は窓の外から目を離さない妻の姿にときおり目を遣った。短くなったろうそくは、陶器の燭台の底で燃えながら、壁や天井に揺れ動く影を投げかけていたが、最後にひときわ大きくゆらめいたあと、消えてしまった。老人は、まじないが功を奏さなかったことに言いようのない安堵を覚え、はうようにしてベッドに戻っていった。それから数分後には妻の方も黙ったまま、冷え冷えとした心を抱いて、彼の傍らに横になった。
ふたりとも口を閉ざしたまま、静かに横になって時計の音に耳をすましていた。階段がきしり、壁の内側でネズミが走っていく。闇がのしかかってくるようで、しばらく横になっていたが、老人は勇気をふるいおこしてマッチに火をつけて、ろうそくを取りに階下へ降りていった。
階段の下まできたところで、マッチが燃え尽き、もう一本擦ろうとして立ち止まった。その瞬間、ノックの音が、表玄関を叩く、静かで忍びやかな、聞こえるか聞こえないかの音がした。
マッチが手から落ちた。凍りついたように立ったまま、息をするのも忘れていると、ふたたびノックの音がした。老人は身をひるがえして階段を駆け上がり、寝室に戻ると、ドアを後ろ手に閉めた。三度目のノックが家中に響き渡った。
「何かしら?」老夫人は飛び起きて叫んだ。
「ネズミだよ」老人は答えたが、その声は震えていた……。「ネズミさ。階段でわしを追い越していったよ」
夫人は半身を起こしたまま耳をすました。またもやノックの音が響いた。
「ハーバートだわ!」夫人は悲鳴を上げた。「ハーバートよ!」
ドアに駆け寄ろうとする妻の前に、夫が立ちふさがり、腕をつかんできつく押さえつけた。
「何をするつもりなんだ」老人は息を殺してささやいた。
「わたしの子よ。ハーバートなのよ!」そう叫ぶと、冷ややかに身をふりほどこうとした。「あの子が三キロも離れたところにいたことを忘れてたわ。なんで行かせてくれないんです。離してちょうだい。扉を開けてやらなきゃ」
「後生だ、やつを入れないでくれ」老人は震えながら叫んだ。
「あなた、自分の子供を怖がるんですか」妻があがく。「行かせてください。いま行くわよ、ハーバート、すぐ行きますからね」
またノックの音が聞こえ、それからさらに聞こえた。夫人は急に身を引きはがして部屋から走り出した。夫は踊り場まで追いかけ、階下へと急ぐ妻の背に向かって、行かないでくれ、と哀願した。ドアチェーンをがちゃがちゃと鳴らす音が聞こえたかと思うと、かんぬきを穴から少しずつつっかえながら引き抜こうとする音が続く。そのとき夫人が息をあえがせながら声をふりしぼるのが聞こえた。
「かんぬきが」妻が悲鳴を上げた。「来てください。わたしだと届かないんです」
老人は寝室の床にはいつくばって、あたふたと猿の手を探し回っていた。外にいるあれがなかに入ってくる前に、猿の手を見つけなくては。ノックを乱打する音が家中に響きわたり、妻がドアのところまで椅子を引きずっていく音がする。かんぬきがぎしぎしいいながら、ゆっくりと引き抜かれる音がしたその瞬間、老人は猿の手を探り当て、夢中で三番目の、最後の願いをささやいた。
突然、ノックの音が途絶えた。谺だけが家に残った。椅子を引きずってどかす音がして、ドアが開いた。冷たい風が階段を吹き抜け、失望し、奈落に突き落とされたような妻の慟哭が尾を引く。その声に一念発起して、老人は妻のところまで行き、そこからさらに門まで出た。通りの反対でちらちらと瞬く街灯が、ひとけのない静かな通りを照らしていた。
The End
わたしたちの好きな「三」
昔話では「三」という数字は、特別な意味を持っているらしい。白雪姫は三度殺されかかるし、樵が落とした斧を女神が持ってくるのも三度目、山姥につかまった小僧さんは便所の神様に三枚のおふだをもらうし、子豚だって三兄弟、シンデレラは三番目の娘である。
昔話ばかりではない。シェイクスピアだって『マクベス』の三人の魔女、三人の刺客、『リア王』の三人娘、歌舞伎でも「こいつァ春から縁起がいいわぇ」で有名な『三人吉三廓初買』では和尚吉三・お坊吉三・お嬢吉三の三人が義兄弟の契りを結ぶ。
どうしてわたしたちはこんなにも「三」という数字が好きなのだろうか。
ところで、テリー・イーグルトンは『文学とは何か』のなかで、「私たちが想像しうるおそらくもっとも短い物語」はフロイトが発見した「小児の象徴的行為」である、といっている。
その「物語」というのはこうだ。あるときフロイトは小さな孫のエルンストがひものついた糸巻きをベッドの下に転がして「オー」と言い、今度はひもをたぐりよせて「アー」と言う遊びを繰りかえしているのに目を留める。さすがにフロイトともなると、たとえ孫のお守りをしていてもそこからすばらしいひらめきを得るようで、このおじいちゃんは推測するのである。
この「オー」は "fort(=away)" からきているのにちがいない、「アー」は "da(=there)" からきているのにちがいない。エルンストは言語を獲得し始めている。ここまでだったら、まだふつうのおじいちゃんだが、さらにフロイトは、この「なくなっちゃった-そこにあった」という遊びを、母親がいないことをつぐなう「象徴的行為」と解釈するのである。
お母さんのいないさびしい赤ちゃんは、まず糸巻きを消す。この消えた糸巻きは、自分を置いて出ていった「母親」の象徴である。つづいてそれがもとの場所に戻ってくる。失った対象がもとの場所へもどってくるのを発見するのは心地よい。そのためにその遊びを繰りかえす。ここからフロイトは「小児の象徴的行為」を読みとっていくのだが、イーグルトンはそれを「物語発生の最初の萌芽としても読むことができる」という(最初の萌芽というのはくどい言い方のような気がするが)。
まずはじめにある対象が失われ、次にそれが発見される。しかもそればかりではない。たとえどんなに複雑な物語であっても、このモデルの変奏として読むことができるのだ。古典的な物語パターンでは、最初の安定状態がゆさぶりをかけられ、最終的にはすべてのものが再び安定をとりもどす。この観点からすれば、物語とは、慰撫の淵源である。失われた対象はなんであれ、私たちには不安の原因となり、より深い無意識の喪失感(誕生とともに始まる喪失感、糞尿の喪失感、母親を失う喪失感)を象徴する。それゆえに、失った対象がもとの場所へもどってくるのを発見するのは私たちにはいつも心地よい。
(テリー・イーグルトン『文学とは何か』大橋洋一訳 岩波書店)
イーグルトンは「fort-da(いない-いた)遊び」としているが、最初の状態を記述すると、〈いる〉-〈いない〉-〈いる〉という三つの状態になる。アリストテレスが『詩学』でいった「初めと中間と終わり」にきれいに対応する。
まずあるものを持った状態から物語は始まる。つぎにそれが失われ、最後にそれが戻ってくる。この「三」つの状態の移り変わりは、物語の本質なのである。三枚のお札や三人兄妹、三つ又に分かれた道と、物語のなかで描かれる「三」の状態変化はそのヴァリエーションだ。
「三つの願いごと」というのも、物語の定番なのである。「杜子春」も三度願うし、『アラビアンナイト』には巨大な一物を願う夫の話が第五百二夜に出てくる。ちなみに二番目は、奥さんがそれを怖れたので「取ってほしい」という願いで、その結果、そっくりまるごとなくなってしまったので、三番目には「最初のそれに戻してほしい」と願うのである(ここらあたりのシェラザードはかなりネタ切れの観がある)。「猿の手」のなかで夫人が「まるでアラビアンナイトみたい」という場面があるが、頭のなかにこの話があったとしたら、なかなか隅に置けない夫人だったのだ。
こういう「願い事」ものの多くは、一度目、二度目が失敗で、三度目にうまくいくとなる。この「猿の手」でも、「正しく」作用するのは三度目だけなのである。そうした意味では、昔話の定石をきちんとふまえている。
だが、この「猿の手」は、ささやかな幸せの状態にあった一家が、ごくささやかな願い事をしたためにその幸せを失い、最後に「平安」から「幸せ」だけを取り除いた状態が戻ってくる。インドの行者が「宿命によって定められた人の一生に、手出ししようものなら、とんでもない目に遭う」ことを教えようとしたとはいえ、この猿の手の願い事のかなえかたは、どう考えても理不尽だ。むしろ、欲を出したばかりに悪魔につけこまれたと考えたくなる。
二つ目の願い事から三つ目にかけてはやはり息詰まるものがある。たとえどんな姿になっても会いたいと思うのが母親なのかもしれない、とも思う。やはり残っていく物語というのは、よくできた物語なのである。
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