「……困りましたわ」

　パーティー会場の片隅で、クラウディアは途方に暮れていた。

　きらびやかな内装と豪華な料理、それから色とりどりのドレスとダンス、まさにクラウディアが思い描いていた華やかな世界がそこにあった。

　この春十八歳になったクラウディアは、婿を探している。

　生家の辺境伯領から飛び出し、はるばる王都にまで来た彼女はこうして夜会に参加してみた。

　同年代の子女たちはデビュタントはとうに済ませているが、領地で野山を駆け回っていたクラウディアにとってはこれが初めての夜会だった。

　王都にいる叔母の伝手でこうして参加出来たものの、当の本人は仲の良いご婦人がたのところに行ってしまった。なので、勝手が分からない。

（うーん、条件にちょうどあてはまる方を探すのはなかなか難しいものですのね）

　クラウディアは壁を背にし、給仕が運んできたシャンパンを手に取る。

　色とりどりの人のかたまりを目で追いながら、嘆息した。

　夜会は狩場だと叔母に聞いていたのに、なかなかどうして、難しいものだ。

　地元にはクラウディアのお眼鏡にかなう人物はひとりとしていない。というか、彼らもクラウディアを女として意識していないように思う。

　辺境伯をいずれ継ぐ予定であるクラウディアが伴侶に求める条件は三つ。

　健康であること。

　書類仕事に強いこと。

　そして、筋骨隆々ではないこと。

　武を重んじる領地には血の気の多い若者が多く、みんなムキムキだ。幼い頃からその光景を見てきたクラウディアは、反動で筋骨隆々ではない男性を理想として求めるようになった。

　とはいえ、貧弱過ぎるのも考えものだ。

　山深く、雪に覆われることも多い領地で、身体が弱い王都の男は体調を崩してしまうに違いない。

　それから、脳筋だらけでどんぶり勘定なところがある領地経営にも、何とかテコ入れをしたいと考えている。

　賢い人材もほしいのだ。

　そう、つまり、クラウディアの婚活は難航している。

（あの方は……先程からいろいろな女性に声をかけているわね。健康そうだけれど軽薄そうだわ）

（うーん、あの身体付きでは二日で寝込んでしまうわね）

（こうして眺めていても、頭の良さまでは分からないものねえ）

　クラウディアが頭を傾けると、ひと房の黒髪が揺れた。随行してきた敏腕侍女によってまとめあげられた髪は、耳周りに少し後れ毛を残し、妖艶な雰囲気をつくりあげている。

　クラウディアは濡れ羽色の黒髪に、雪深い土地だからこその透きとおるような白い肌、それから桃色の瞳を持つ令嬢である。

　王都では見慣れない身体のラインが出たスレンダーなドレスを身にまとったクラウディアのことをチラチラと見ている者はいるが、なぜだか声をかけられることはない。

　彼女から無意識に発せられる覇気により、なぜだか男たちはクラウディアに近づくのを尻込みしてしまっていた。

（声をかけられたら、名乗って歓談をするものだと聞いていたけれど……これが噂の壁の花というものなのね！　新しい体験だわ）

　新体験にほくほくとした気持ちになりながら、とりあえず、今回は人間観察に勤しむことにする。

　クラウディアがそう前向きに決意したとき、場の空気がざわりと一変した。

　

「ジルヴェスター、わたくし真実の愛を見つけてしまったの。残念だけれど、わたくしたちの婚約は破棄いたしましょう！」

　パーティーの中央から高らかな宣誓が聞こえた。よく通る声だった。

　だが生憎、壁にくっついているクラウディアにはその声の主が誰なのかわからない。

　騒ぎに乗じてさらに人が集まるものだから、なおさら。

　クラウディアはグラスを近くのテーブルに置くと、見やすい場所を求めてタンっと軽やかに地を蹴り、大きく飛翔した。本当に、空高く。

　それに気付いたのは近くにいた給仕だけで、目を丸くしていた。

◇◇◇◇◇

「……何を仰っているのですか。アデーレ殿下」

　パーティ会場の中央で、ジルヴェスターと呼ばれた青年は困惑の表情を浮かべていた。

　淡い茶色の髪に緑色の瞳。華やかな貴族の中では地味な見た目の部類だろうと自覚をしている。

　そんなジルヴェスターの目の前にはべったりと寄り添う男女がいた。

　この国の王女アデーレと、最近もっぱら景気がいいと噂の商人の若い男。貴族を相手にした商売が特に羽振りがよく、近々男爵位を賜るのではと噂になっている目鼻立ちの整った派手な男だった。

　あの親密な様子からして、二人が恋仲であることは一目瞭然である。

「わたくしたちの婚約は破棄しましょうと言ったのよ」

「我々の婚約は、国王陛下が定めたものでしょう」

「そんなもの、どうとでもなるわ。わたくしが望めば」

　ぱちり、と扇子をとじた金髪の王女は乾いた笑みをジルヴェスターに向けた。

　この国の王位継承権第一位であるアデーレは、国王に溺愛されている。それは周知の事実である。

　側妃との間に第二王女がいるが、他に王子はいない。幼い頃から我儘だった姫は、周囲に甘やかされてそのまま成長してしまった。

　確かに、彼女が望めば大抵の事は叶ってしまう。

　それは、幼少より婚約を結び、王配となるべく厳しい教育を受けてきたこのジルヴェスターにとっても同じことだ。

「本気なのですか、アデーレ殿下」

「ええ。お前、わたくしの婚約者という立場を利用して、これまで随分偉そうにしていたらしいじゃない。信じられないわ」

「……なにを仰っているのか」

　こちらを睨みつける王女に、ジルヴェスターは困惑していた。王女との関係は良好とまではいかずとも、こうして明らかな嫌悪を向けられるほどでは無かったはずだ。

「わたくしは知っているのだから！　この度の財務局での横領事件にも宰相が深く関わっていたというじゃない……わたくし気が遠くなりましたわ」

「そのような事実はありません」

「口ではなんとでも言えるわ！　ああ、嘆かわしい。お前は今日付けで文官の職もなくなったわ」

　根も葉もないことを言った王女は、くらりときたかのような仕草で後ろに控える男に身体を預ける。

　商人の男はそれを優しく支え、彼女の耳元で何やら囁いている。

「ふふっ、やだっ、ダニエルったら」

　……一体何を見せられているのだろうという気になりながらも、ジルヴェスターは虚ろな視線を二人に向けた。

　婚約破棄に役職の剥奪。突然の事ではあるが、彼女がそれを宣言した以上、この決定は覆らないだろう。

　それほどまでに、国王は手放しで彼女を溺愛しているし、何よりこの場には大勢の貴族がいる。

　ひそひそと話しながら楽しそうにジルヴェスターの様子を窺う彼らの前で、高らかに宣誓した事実は消えない。

　マルツ侯爵家に降りかかっている醜聞を、周囲の者はただニヤニヤと見つめるだけだ。

「しかしアデーレ様。我々だけ幸せになるのも、ジルヴェスター殿に悪い気がしますね」

　いけしゃあしゃあと、商人の男はそんなことを言う。ちょうどゆるやかな階段の踊り場にたつ彼らは、明らかにジルヴェスターを見下ろしていた。

　このような公の場で宰相子息であるジルヴェスターを辱める――その目的もあるように思える。

「優しいのね、ダニエル」

　アデーレ王女はうっとりとした瞳をダニエルに向けたあと、口角をいやらしく吊り上げた。

「……そうだわ、わたくし面白いことを最近耳にしたの。シェーンハイト家の熊女(くまおんな)が婿を探しているんですって」

　王女がそう言うと、周囲からもクスクスと醜悪な笑い声が上がる。

　シェーンハイトは北方の国境に位置する辺境伯の家名である。恐ろしく強く、武に長けた一族であるとの噂はこの王都でも有名だ。

　――その息女が、わずか齢八歳のときに熊を仕留めたという逸話も合わせて。

「シェーンハイト家は、国家を守る礎です。そのように揶揄するものではありません」

　当然のことながら、ジルヴェスターは王女の軽率な物言いを窘めた。贅を尽くし私腹を肥やすことが目的の中央の貴族たちは、武を尊ぶ辺境の人々を軽視するきらいがある。

王都がこうして平和を享受しているのも、彼らのおかげだと言うのに。

「相変わらず、ねちねちとうるさいわね……！」

　王女は分かりやすく不機嫌な表情を浮かべる。

　彼女が小言が嫌いなことは知っている。だが、ジルヴェスターも教育を受けた者として彼女の軽率な振る舞いを指摘しない訳にはいかなかった。

「誰がなんと言おうと、お前はシェーンハイト家に婿入りするの！　ジルヴェスター・マルツ、これは王命よ！」

「は……」

「お父様ももう認めてくださっているの。この程度の断罪で済ませることをありがたく思いなさい。ふふ、残念だったわねジルヴェスター。この国の王配はお前に相応しくないわ。一生そこで野蛮な熊と楽しく過ごしなさい？」

　周囲がくすくすと嘲る笑いは、ジルヴェスターの耳にも届いている。

　そうか。と理解した。

　この夜会は、元々このために催されたものだ。

　中央の政界からマルツ侯爵家を遠ざけその地位を貶める目的で、既に根回しが済んでいる。

　どう考えても異常な王女の振る舞いを誰も咎めないのは、別の思惑が動いているからだろう。

　王女の肩を抱くダニエルは、勝ち誇った顔をジルヴェスターに向けている。かの商家の陞爵に反対していたのはマルツ侯爵家を筆頭とした派閥だった。

「分かったわね、ジルヴェスター！」

「……王命とあらば」

　だからといってこのような暴挙に出るとは思ってもみなかった。王女は決定を覆さないだろう。

（父上を宰相の座から引きずり下ろそうとする派閥があることは知っていたが……ダニエル側に回るとは）

　のこのことこの場に出てきてしまった悔しさにジルヴェスターが唇を噛んだときのことだった。

「エッ！！！！！　よろしいのですか！？」

天から嬉々とした声がした。

　そして、ひらりと蝶が舞うように、ひとりの令嬢が空から舞い降りてきたのだった。

　

◇◇◇◇◇◇◇◇

　――少し前。

　中央の喧騒がよく見えなかったクラウディアはその場で跳躍し、二階からその様子を見ていた。

　上からだと、何もかもがクリアに見える。

　戦場でも同じだ。まずは陣地を高い位置から見て戦略を――と考えていた所で、この場の頭(トップ)と思われる人物の言葉が耳に入った。

　話を聞く限り、彼女がこの国の第一王女アデーレらしい。

『婿探しをしているシェーンハイトの熊女』

　きっとそれは自分のことだとクラウディアは思った。

シェーンハイト家に娘はひとりしかいない。

（……っ、少し照れますわね）

　お婿さん探しが露見していることは置いておいて、熊を倒したことまで王都に知られていると思うと嬉し恥ずかし、そして誇らしい。

（あの熊はなかなか強かったですわ。卒業試験だったから、わたしも張り切っちゃいましたもの）

　シェーンハイト流の武術において、熊を倒すことは最後の難関である。大人でも苦労するその難関をわずか八歳で成し遂げたことをクラウディアはとても誇らしく思っている。

　照れ照れとしながらクラウディアは婚約破棄を申し付けられている男を見た。

　とても理性的で賢そうだし、誠実かつ健康そうで、筋骨隆々でもない。

　やわらかな茶色の髪は焼きたてのパンのようでほわほわと美味しそうだし、緑の瞳は雪深いシェーンハイトに春の訪れを感じさせる新緑のようだ。

（……エッ）

　語彙力が貧弱ではあるが、クラウディアの洗練された観察眼によれば、ジルヴェスターはお婿さんの条件にぴったりあてはまる。奇跡だろうか。ひと目で好きになった。

（どうしましょう……こんなところに理想の殿方がいらっしゃるなんて）

　だがしかし、どのように声をかけるべきか。とてもじゃないが、彼から自然に声をかけてもらうような状況ではなさそうだ。

非常に悩ましい。彼が一人になった瞬間を狙うべきか。

クラウディアが明後日の方向に戦略を練っていると、アデーレ王女はジルヴェスターに向けて怒りを露にした。　

『誰がなんと言おうと、お前はシェーンハイト家に婿入りするの！ジルヴェスター・マルツ、これは王命よ！』

（王女殿下は、この御方を我が家に婿入りさせると仰っていますの？）

　マルツ侯爵家の名をクラウディアは唯一知っていた。

　北方の民を尊び理解する、中央には珍しい気概のある男だと父が誉めていたのだ。

『分かったわね、ジルヴェスター！』

『……王命とあらば』

　王女とジルヴェスターがその会話を交わした直後、クラウディアは歓喜のあまりすぐさま跳躍していた。

「エッ！！！！！　よろしいのですか！？」

　ジルヴェスターの前にひらりと降り立ったクラウディアは、着地の姿勢のまま膝を曲げた状態で対峙する王女を見上げた。

　スリットが大きく入ったタイトなドレスからは均整の取れた美脚がのぞく。いつ何時でも闘えるようにという侍女の配慮もあり、格段に動きやすい。

「な、なんですの、お前は」

　突如として中央に現れた令嬢に、当然ながら王女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。

（そうですわ、まずは自己紹介をしなくては）

　立ち上がったクラウディアは、スカートの裾を払い、足元を整える。それから、類稀な体幹から繰り出されるこの世でもっとも美しい礼をした。

「失礼いたしました。王女殿下におかれましてはご機嫌麗しゅうございます。わたしはシェーンハイト家の長女、クラウディアと申します。先ほどからお誉めにあずかり恐縮です」

「シェ、シェーンハイト……！！？？」

「はい。件(くだん)の熊女でございます、王女殿下」

　クラウディアはにこりと寸分の隙もない笑顔を作る。この狩場に来るに当たり、叔母から社交場の武器だと聞かされていたため、笑顔も鍛錬済みだ。

（熊女だなんて……最高の誉れだわ）

　熊を倒すと、熊バッジがもらえる。シェーンハイト領ではその熊バッジをつけていることが最高の名誉なのだ。

　今日だって、イブニングドレスの胸元にその熊バッジをしっかり付けている。

　クラウディアはこっそりと胸を張り、胸元に輝く黄金の熊バッジをアピールした。

　嫌味でもなんでもなく、ただただクラウディアは心から王女に敬意を示したつもりだった。

　相手がどう思っているかは分からないが、心無しか顔色が悪くなったように思える。

「それに」

　無言の王女カップルを尻目に、クラウディアはくるりと後ろを振り返った。

　すると、若草色の瞳とぱちりと目が合う。近くで見ても、ジルヴェスターはとても優しそうな青年だった。どう考えても好きだ。

「この度は、領地から出て勝手の分からないわたしのためにこんなに素敵なお婿さんも探していただいていたなんて……本当にありがとうございます、王女殿下！！」

「っ、痛いですわ！」

　感激したクラウディアは、両手で王女の手を取り、ぎゅっと握りしめた。すると怒られたので、急いで手を離す。力を込めすぎていたようだ。

「ちょ、ちょっと、待ちなさい。お前がシェーンハイトの熊女なの？　本当に？」

「はい。わたしが紛れもなくクラウディアです。八歳の時に倒した熊は、それはもう大きくて。流石のわたしも手に汗握る闘いでしたの！　王女殿下にもぜひ聞いていただきたいですわ。そう、熊さんと対決したあの時――」

　王女の戸惑いをものともせず、クラウディアは武勇伝をそれはもう楽しそうに語った。

　周囲も呆然として""シェーンハイトの熊女""をただただ見つめる。

　クラウディアは見た目にはただの令嬢である。上背がかなりある訳でもなく、肉付きがふくよかな訳でもない。というか、普通にかわいい。

　（（（この少女が、熊を？？？）））

　この場にいる皆考えていることは、恐らく一致していた。

　シェーンハイト家は社交の場に出てくることはほとんどない。そのため、この場に集まった貴族たちがクラウディアを実際に見たのは初めてのことだったのだ。

　シェーンハイト辺境伯はかなり逞しく巨木のような男だ。その息女でかつ熊を倒したというくらいだから、熊のように大きくいかつい女だと誰もが思っていた。

「……ふっ」

　熱く語るクラウディアの後方から、柔らかな吐息が聞こえた。

「何を笑っているの、ジルヴェスター！」

　アデーレ王女はクラウディアの後方に立つジルヴェスターをきつく睨みつけた。

　それもそうだ。先ほどからクラウディアと話がひとつも噛み合わない。苛立っているのだろう。

「いえ、私もアデーレ王女殿下のご英断に初めて感謝しました」

「なんですって……！」

　やわらかな笑みをたたえたジルヴェスターは、そう言って腰を折る。

「その王命、確かに承りました。国防の要シェーンハイトにて、しっかりその役目を果たしたいと思います」

　きっぱりとそう言ったその若草色の瞳は、眩しいものを見るように熊バッジを自慢し続ける令嬢の姿を映している。

　振り返ってその視線に気が付いたクラウディアは、ジルヴェスターの隣へと瞬間移動した。少なくとも、周囲の人間にはそのくらい素早く見えた。

「アデーレ王女殿下。シェーンハイトの名にかけて、この御方はわたしが幸せにいたしますのでご安心くださいませ！」

「……っ、わたくしのお下がりで良ければ差し上げるわ！」

　アデーレ王女はクラウディアにそう捨て台詞を吐くと、踵を返してパーティ会場を後にした。

　褐色の肌の青年が苦虫を噛み潰したような顔でこちらをちらりと見て、それから慌てて彼女を追いかける。

「あら、もう少し王女殿下とお話をしていたかったですわ。お腹でも痛くなったのかしら」

「ふ、ふふ……そうかもしれませんね」

　クラウディアが心から心配すると、ジルヴェスターも同調してくれる。

　中央に残るのはクラウディアとジルヴェスターのみだ。先程までこの場を囲っていた貴族の集団も、そそくさとそれぞれの歓談へと戻っていく。

　ちらりと視線を感じたクラウディアが会場の右奥の方を見ると、叔母がウインクをして親指まで立てていた。""狩り成功ね""と唇が動いている。

「はじめまして。マルツ侯爵家のジルヴェスターと申します。シェーンハイト嬢……いえ、クラウディア嬢と呼ぶことをお許しいただけますか？」

　やわらかな笑みを湛えるジルヴェスターの申し出に、クラウディアも笑顔で応える。

「もちろんですわ。わたしも……あの……ジ、ジルヴェスター様とお呼びしてもよろしいでしょうか……？」

「ええ。勿論です」

「嬉しいですわ……とっても！」

「こちらこそ。これからよろしくお願い申し上げます、クラウディア嬢」

「ジルヴェスター様、わたし、貴方に出会えてとってもとっても幸せです！　我が領地でも絶対に苦労させませんわ！」

　殺伐としていたはずの会場の真ん中で、顔を赤らめるクラウディアとジルヴェスターの周りには明らかに花が飛んでいる。

　自己紹介からはじまり、すっかり二人の世界である。

（シェーンハイトの熊女とは……？）

（あの可憐な少女が熊を）

（かわいい）

（くま……）

　婚約破棄などなど様々な思惑が渦巻きながら、クラウディアの婿探しの夜は思いがけない大成功で幕を閉じたのだった。

◇◇◇◇◇◇◇◇

　その後、宰相子息であるジルヴェスター・マルツ侯爵令息と辺境伯令嬢クラウディア・シェーンハイトの婚約は滞りなく整った。

　クラウディアの父である辺境伯は優秀な婿を仕留めた娘を大層誉めたし、これを機に宰相の座を辞したジルヴェスターの父もこの縁談を大変歓迎した。

　北方のシェーンハイト家の勢力は、もはや一国家に相当するほど強力だったのだが、いかんせん領地経営などの機微には疎かった。

「この予算書では、厳しい冬季の寒波に耐えうる備蓄が不足しています。考え直すべきでしょう。あとは、会計が雑なところが気になります」

「う、うむ……」

「しかし、兵への福利厚生がしっかりとしている点は、士気の面から見ても非常に素晴らしいといえます。シェーンハイト伯の努力の賜物ですね」

「う、うむ……っ！！！！」

　婿として迎え入れられることが決まったジルヴェスターは、すでにシェーンハイト領にて辣腕を振るっていた。

　叱られることもあれば、褒められる事もある。巧みな飴と鞭の使い分けにより、クラウディアの父ももう彼の手腕に心酔している。

「……わたしのジルヴェスター様ですのに」

　クラウディアはじっとりとした視線をジルヴェスターと父に向けた。

　執務室でこの領地の運営について話し合っているところだが、二人はずっとこの調子で楽しそうに話をしている。

（お父様ったら、あんなにキラキラとした目でジルヴェスター様を見つめて……！　ジルヴェスター様もとっても素敵な笑顔ですわ）

　クラウディアがうっとりとジルヴェスターを見つめると、若草色の瞳がこちらを向いた。

　ぱちりと目が合うと、目尻を下げて甘やかに微笑まれる。

（好きですわ）

「ありがとうございます、クラウディア様」

　心で念じたつもりだったが、しっかり口にしていたらしい。目を丸くしたジルヴェスターが再びやわらかい笑みを浮かべる。

「では婿殿、また来る！　愛娘を頼んだ！」

　それこそ大きな熊のような体躯をした辺境伯が、がははと笑って部屋を出てゆく。

　父が立ち去ると、部屋は途端に静かになった。

　王都とは環境の違うこの地で、ジルヴェスターはその卓越した知識量をもって領地経営に励んでくれている。

　あの日のはじまりは偶然で、クラウディアにとっては運命の出会いだった。

（いつかわたしも、ジルヴェスター様に好きになってもらいたいものですわ）

　彼の身の上は知っている。

　女王の治世の元、王配となるべく教育を積んできた彼にとって、豊かと言えないこの辺境の地で暮らすことは不満かもしれない。

　それに、長らく王女の婚約者だったジルヴェスターの気持ちが早々にクラウディアに向くことはないと判っている。

　――それでも、諦めるつもりはないのだけれど。

　決意を新たにしたクラウディアが顔を上げると、表情をなくしたジルヴェスターがこちらを見ていた。いつものような優しい笑みも浮かべていない。

「……ジルヴェスター様？」

　首を傾げながら彼の名を呼ぶと、ジルヴェスターは机から離れてゆっくりとクラウディアの方へ近づいてくる。

　どうしたのだろうと思っていると、そっと左手をとられた。

「クラウディア様。私の気持ちはとうに伝えているものだと思っていました。私の落ち度です」

「え……？」

「あの日、あなたが天から舞い降りた時から、私はあなたに心を奪われています。とっくの昔に、私の心はあなたのものです」

　軽く持ち上げられたクラウディアの左手の薬指に、ジルヴェスターはそっと唇を落とす。

　そのまま上目遣いに見つめられて、クラウディアの心臓は大きく跳ねた。

「わ、わたしまた心の声を口にしていましたか……！？」

「はい、ハッキリと仰っていました。私の心が欲しいと」

「恥ずかしいですわ」

　顔を赤らめるクラウディアをジルヴェスターは熱の篭った瞳で見つめる。

「そんなところも愛しく思っています」

「まあ……！」

　普段は無意識に覇気を発動し、寸分の隙も無いこの令嬢が、自分と共に過ごす時だけ無防備になることをジルヴェスターだけが知っている。

　いつの間にか大きく膨らんでいる想いは、彼女のそれよりも深く重くなっていることを、クラウディアは知らないだろう。

　――見つめ合い、どちらともなく笑みを零した二人はそっと唇を重ねた。

　その後のシェーンハイトの繁栄は言うまでもない。優秀な夫に支えられる女傑クラウディアの治世は、類を見ないほどに豊かになった。

　クラウディアとシェーンハイトに手を出そうものなら、彼女の夫の手によって合法的に完膚無きまでに返り討ちにあった。もちろんクラウディアにボコボコにされた上で。

　その間王都はなにやら騒がしいようだったが、幸せな二人には関係の無いことだ。

　""シェーンハイトの熊女を陥落させた男""であるジルヴェスターのことを、領民たちもいたく大切にしたのだった。

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