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この作品「第一章 三色ボールペン」は「ぎゆしの」「現パロ」のタグがつけられた作品です。
第一章 三色ボールペン/てれこの小説

第一章 三色ボールペン

13,667文字27分

現パロぎゆしの、しのぎゆ風味強めです。
文章:みかさ( user/15727307 )、表紙と挿絵:てれこ( user/17698929 )が担当しました。二人とものページに同じものがあります。どちらで読んで頂いても構いません。
このシリーズには全年齢部分とR-18部分があります。詳細は目次部分をご覧下さい。
2021年8月に公開した「その向こうにあるもの」に大幅加筆修正したものです。
何でも許せる人向けです。

2022年12月24日 01:14
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 胡蝶しのぶは怒っていた。笑顔を貼り付けたまま、怒っていた。
 三年二組の教室で放課後に行われた、体育祭の実行委員会。それが終わってスマホで時刻を確認しようとすると、知り合いからメッセージが届いていた。
『しのぶちゃん、校長にまで話しに行ったの? すごいね? 笑』
 きゅっと笑顔を作り直す。思いっきり溜め息をつきたいのを我慢して、ぐっと左手を握りしめた。やってられない。何か返事をしないと、とは思うものの、指が動かない。
 しのぶは画面をじっと見つめたまま、それが溜め息だと誰にもわからないように、静かに長く息を吐いた。
『ええ、行きましたよ。』
 散々考えてみたものの、これ以上どう返事をしていいかわからない。半ばなげやりな気持ちでしのぶは送信ボタンを押した。
 スマホを通学バッグにしまう。
 ふと顔を上げると、三年の先輩と目が合った。
「胡蝶はすごいな」
 またか。もうやめて欲しい。たくさんだ。というか、誰なの、この人は。
 教室を見回す。いつの間にか、誰もいなくなっていた。さっきの返事に手間取ったせいだ。まったく腹立たしい。だんだん何もかもがどうでもよくなってくる。
 しのぶは目を閉じてめいっぱい息を吸うと、はあぁぁ、と思いっきり溜め息をついた。そして目の前の相手をキッと睨んで言い放った。
「バカにしてるんですか」
 どうせヘラヘラ笑って、冗談だよとか怒らないでよとか、そんなことを言われるんだろう。それがわかっていても、気持ちを抑え切れなかった。
「……? そんなわけないだろう」
 どういう意味で言ってるんだろう。予想外の反応にしのぶは困惑した。
「校則、おかしいと思っていた。胡蝶はすごい」
 どうやら皮肉で言っている訳ではないようだった。ちら、と名札を見る。「冨岡」。悪い人ではなさそうだけど、少し変わってる。
「……ありがとう、ございます」
 しのぶはぎこちなくお礼だけ言って、その場を離れた。
 廊下を歩くしのぶの背後で、教室の鍵を閉める音がした。ああ、施錠のために私を待っていたんだ。それがわかって、しのぶは少し申し訳なく思った。関係ない人に、無意味に八つ当たりしてしまった。
 窓の外の蝉の声と、吹奏楽部の金管楽器の音が入り混ざる。しのぶは靴を履き替え、塾に向かうべく早足で校門を出た。小さな自己嫌悪に気付かないふりをしながら。

 彼女が高校一年生の、二学期のはじめのことだった。

 ◇

「だから、例外規定を一文追加して頂ければ、それでいいんです」
 しのぶは持てる力を尽くして、丁寧な態度で接していた。実際にははらわたが煮えくり返りそうだったのだが。
「まあ、きみ一人の意見では、今すぐどうこうという訳にはいきませんから」
 さっきからこればかりだ。一度も「今すぐ」なんて言っていないのに。しのぶは校長の顔を見据えて言った。
「こちらの要望は申し上げましたので。ご検討のほどよろしくお願いします」
にっこりと微笑む。うまく笑えていることを願いながら。
 校長室のドアをバタンと閉める。廊下を歩いていると、ヒソヒソ声がそこここから聞こえてきた。
「あー、あれ? 美人姉妹の妹のほう」
「黙ってれば可愛いのに、もったいないよな」
「意外だよねー。もっと癒し系の子かと思ってた」
 まったく、やってられない。そう思いながら、しのぶは声のするほうに向かってとびきりの笑顔を向けておいた。

 ああ、こんな時、学校を抜け出せたら、と思う。
 しのぶには、幼い頃からお気に入りの植物園があった。正面の門をくぐると、小さな花たちが風に揺れる小径こみちが続く。その奥にはつばき園と梅林、さらに進めば針葉樹と広葉樹に分かれた森が広がっている。茅葺きの東屋があり、広々とした池が森の緑を映す。
 その瑞々しい緑を思い浮かべながら、しのぶは自販機のボタンを押した。がこん、と音を立てて落ちてくるペットボトルのミルクティー。
 昼休みが終わるまで、あと五分。しのぶはそれを一気に飲み干すと、いつもの笑顔で教室へ戻った。

 ◇

 事の発端は、クラスメイトが泣きながら登校してきたある朝のことだった。しのぶがハンカチを差し出して事情を聞くと、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。電車内で、痴漢の被害に遭ったこと。その相手がいつまでもずっと背後にいるような気がして、気分が悪くて仕方がないこと。それを誰にも言えなかったこと。
 しのぶは、彼女を保健室に連れて行って、時間の許す限りそばにいた。無理に笑顔を作ろうとする彼女を見ていると、胸が痛んだ。加害者が許せなかった。
 彼女が「しのぶちゃん、ありがとう。もう大丈夫だから」と言って教室に戻った後も、何かできることがあるはずだ、としのぶは考え続けた。
 そして辿り着いた結論が、痴漢抑止バッジだった。オンラインショップで購入したそれを、件の彼女を含めた数人の友人に配って、一緒に通学バッグにつけて通学することにしたのだった。

 それを見咎めたのは、一学年上の先輩達だった。一年が校則違反をしている、と言い始めたのだ。
 確かに通学バッグに装飾品をつけることは校則で禁止されていた。キーホルダーも缶バッジも、つけてはいけないことになっていた。それで、しのぶ達は担任から注意されたのだった。
 しのぶは怒った。自分でも持て余すほどの、猛烈な怒りだった。言いたいことが山ほどあった。でも、ここで感情的になっても勝算はない。そう思って必死で気を静めた。
 その日の夜はうまく眠ることができず、空が白んでくるまで嘆願書を書いていた。そして翌日、それを手に校長室を訪れたのだった。

 この一件は、すぐに学校中の噂になった。なにそれひどい! としのぶに同調する生徒もいたが、そうではない生徒もいた。しのぶの容姿の良さやはっきり自己主張をする性格をからかう生徒の多さに、彼女は辟易していた。
 そんな中で他学年も交えての体育祭実行委員会に出席するのは、心底気が進まなかった。しかししのぶが委員会のメンバーに選出されたのは二週間も前のことであり、今更辞めるとも言えなかった。意を決して三年の教室に乗り込むと、案の定しのぶは注目の的だった。

 妙な雰囲気の中、委員会が終わった。疲れ果てたしのぶは、塾へ行く途中で少し寄り道をして、何かおいしいものでも買って気を晴らそう、と思っていた。
 時刻を確認しようとスマートフォンを開いてみると、連絡先を交換しただけの知り合いから、からかうようなメッセージが送られていたのだった。

 結局、この問題に終止符を打ったのは生徒会だった。より正確に言うならば、生徒会に所属する、しのぶの姉の胡蝶カナエだった。
 カナエは、生徒会の副会長だった。彼女が中心となって、全校生徒にアンケートを取り、その集計結果から「ただし、やむを得ない理由があれば通学バッグに装飾品をつけてもよいものとする」の一文を校則に書き加えることを正式に理事会に認めさせたのだった。

 ◇

 十一月。
 体育祭も無事終わり、迫り来る期末試験に向けてしのぶは熱心に塾に通っていた。
 ふと顔を上げて時計を見ると、午後八時を過ぎていた。そろそろ帰ろうかな、と考えていたら、隣の人と目が合った。あ、この人。実行委員で一緒だった三年の……冨岡先輩。しのぶは笑顔を作って軽く会釈した。
 しかし、相手はこちらを凝視するばかりで何の反応もない。
「ちょっと! 無視ですか?!」
「……胡蝶、だったか」
どうやら名前を思い出そうとしていたらしい。なんだか面倒な人に声をかけてしまったな、としのぶは会釈したことを少し後悔した。すぐに席を立とう、これ以上関わりたくない。そう思って「はい、そうです胡蝶です、こんにちは。ではまた」と笑顔で言いながら、手早く荷物を片付け始めた。





「これ」
「……なんです?」
「書きやすいから」
「……え?」
「じゃあ」
「ちょっと! あ……」
 しのぶの手の中には三色のボールペンがあった。訳がわからない。面倒な人と関わらないようにしよう、と思っていたのに、相手のほうが先に帰ってしまった。

 帰り道、しのぶは彼のことを考えていた。実行委員会では発言が壊滅的に少なくて、初めはやる気のない人だと思った。でも、割り振られた仕事をこなすのは誰より丁寧だったし、仕上げるのも早かった。
 どうしてペンを渡してきたんだろう。貸すともあげるとも言わなかった。やっぱり、ちょっと変わってる。

 しばらくして、また塾で彼にばったり会った。
「あの、この間のペン……、頂いて良かったんですか」
「使ってみたか」
「はい。書きやすかったです」
 そうなのだ。彼の言うとおり、あのペンは書きやすかった。知らず知らずのうちに愛用していた。
「そうか」
 そう言った時の冨岡の表情が、心なしか普段より幾分柔らかく感じられた。ボールペン、貰っていいって意味なんだろうか。はっきりした答えはなかったけど、多分そうなんだろう。そんな気がした。

 それから二人は、会えば時々雑談をするようになった。しのぶがどんな話をしても、冨岡はただうんうんと聞いていた。嬉しかったことを話せばただ一言「よかったな」と返し、腹の立つ話をすれば「そうか」とだけ言った。しのぶのどんな言葉も、どんな感情も、否定しなかった。
「ところで冨岡先輩、こないだの模試どうでした?」
「……冨岡でいい」
「え?」
「先輩、と呼ばれると落ち着かない」
 この人は、時々変なことを言う。いや、時々ではないかもしれない。普通こう言うだろうな、という言葉はかけてくれない。その代わりに、みんなが絶対言わないことを言う。クラスの友達も、姉も妹も、誰も言わないことを。時々髪が変な向きにはねていたりするし、あのボールペンだって、いまだに意味がわからない。
「……じゃあ、冨岡さん、で」
しのぶがそう言うと、冨岡は小さく「ん、」とだけ答えた。

 期末試験が終わると、すぐに冬季講習が始まる。その頃には二人は幾分打ち解けていた。
 講習の休憩時間。何か一口飲もうと思ってしのぶが部屋を出ると、自販機の前に人影があった。
「あら、誰かと思ったら冨岡さんじゃないですか」
ぼんやりと佇む彼に話しかける。冨岡は、「ああ」と言ったきり黙っていた。
 しのぶはいたずらっぽい表情を浮かべると、おもむろに右手を握りしめてグッと突き出した。
「さい、しょは、グー、」
そう言って右手を一旦引く。
「ジャンケンポン!」
 掛け声につられて、冨岡がチョキを出す。しのぶの右手は形を変えず、グーの形で握りしめられたままだった。冨岡は珍しく目を見開いて驚いた顔をしていた。
「あはは、冨岡さん、びっくりした顔、できるんですね」
「……心外だ」
「私、ミルクティーにします」
「……?」
「だから、ミルクティーですよ。冨岡さん、負けたじゃないですか。奢ってください」
 冨岡は返事をしなかった。笑顔のしのぶを一瞥すると、さっとミルクティーを買って彼女に手渡した。
「、あ……」
 冗談のつもりだった。こんな所で一人立ち尽くしているこの人を、少しからかおうと思っただけだった。でもこの人が返事をしないから、冗談だと言うタイミングを逃してしまった。
「……ありがとう、ございます」
「うん」
 どうしよう、と思って顔を上げると、冨岡が僅かに目元を綻ばせているのがわかってしまった。ほんの、ちいさな表情の変化。
 調子が狂う。なにかが変だ。そう思うのに、どういうわけか居心地は悪くなかった。この人といると、いつもそうだ。それで、なんだか他の人には言えないことまで言ってしまったりする。この人は否定も肯定もしないから、つい。

 ◇


 二月。
 カチカチカチカチ。シャーペンの芯を出す。出しすぎてしまって、トン、と芯を引っ込める。それからもう一度出す。カチカチカチカチ。その動作を繰り返しながらしのぶは考えを巡らせていた。
 なんなんだろう、このモヤモヤは。最近ずっと気分が晴れない。こうして塾の授業を受けていても集中できない。いつからだろう。年明け頃はそうでもなかった。ここ半月くらいだ。
「!!」
 ガシャン!!と大きな音。
「す、すみません……」
 突拍子もない考えが頭に浮かび、動揺のあまり机の上のペンケースを落としてしまった。周囲の視線がこちらに向けられて、恥ずかしい。
 席を立って散らばったペンを拾い集める。ラインマーカー二本、定規、シャーペンの芯、消しゴム、予備のシャーペン。それから、三色のボールペン。
 まさか。いや、そんなわけない。あんな人のことを? でも……いや、そんなまさか。私が?
 でも、もし、そうだとしたら?
 時期なら、合う。一年生と二年生は学年末試験の対策で忙しいけれど、三年生は本番の受験を終えていく時期だ。学校にも塾にも来ない。当然、会わなくなる。
 秋ごろみたいに、変なトラブルも特に起きていない。モヤモヤする理由が思いつかない。しのぶは観念した。
 ……冨岡さんなのかもしれない。冨岡さんに会えなくて気が沈んでいる、と考えると辻褄が合う。
 ふと、小学生の頃のことを思い出す。同じクラスの男の子に、淡い恋心を抱いていたことがあった。あの時は、どんな感じだったっけ……。たしか、他の子がその子のことを好きだってことがわかって、それで……その後は思い出せなかった。中学校では、仲の良い友達だと思っていた男子生徒に突然告白されて辟易したことがあった。それがしのぶの「恋愛経験」の全てだった。
 違うかもしれない。でも、そうかもしれない。
 好きとか、恋愛とか、そういうのはよくわからない。
 ただ、ひとつだけはっきりしていることがあった。彼の志望校は、ここから遠く離れた東京にある。そして模試の判定は、いつもAだった。

 そこからのしのぶの行動は早かった。
 幸い、連絡先は知っていた。一度忘れ物を届けるためにメッセージのやりとりをしただけで、普段は特に連絡も取っていなかったけれど。
 塾を出るや否や『明日、夕方少し時間ありますか』と送ると、しばらくして返事があった。
『ある』
『では十七時に塾の向かいの公園に来てください』
『了解』
 しのぶの胸に安堵と緊張が去来する。なんだか、気が急いて仕方なかった。

 翌日、十六時四十五分。しのぶが公園に着くと、冨岡はもうすでにそこにいた。
「遅くなりました。すみません」
「構わない」
 この人、何分にここに着いたんだろう。今来たばかり、という感じはしなかった。私だって十五分前に来たのに。
 すう、と息を吸い込む。一思いに言ってしまおう。
「あの! 私! 言いたいことがあって!」
「……なんだ」
「あの……っ!」
 言葉が、うまく出てこない。ああ、告白って、こんなに緊張するものなんだ。しのぶはどこか他人事のようにそんなことを思っていた。無意識に右手をぎゅっと握りしめる。言わなきゃ。もう、今しかない。そう思うのに、喉の奥に空気の栓があるみたいだった。
 しばらくそのまま押し黙っていると、珍しく冨岡のほうから口を開いた。
「……怒ってるのか」
 驚いて顔を上げるしのぶ。
「違います! ……怒って、ません」
「ならよかった」
 冨岡は、心底ホッとした、という様子で小さく微笑んだ。
「!!」
 それはしのぶが今まで見たことのない表情だった。あの自販機の時よりももっと、はっきりとした微笑みだった。なんだか直視できなくて、つい俯いてしまう。
「座ろう」
 そう言って冨岡がベンチの方へ歩き出そうとする。しのぶは咄嗟に彼の袖をぎゅっと掴んだ。
「……?」
 不思議そうに振り返る冨岡を見上げて、息を吸い込む。
「あの! 付き合ってください!!」
 今度は冨岡が黙る番だった。彼は袖を引っ張られたまま、固まっていた。しのぶの顔を正面からじっと見つめて、そこに立ち尽くしていた。
 宙に浮いたままの言葉。ひゅう、と風が吹いて、木々がざわめく。
 しのぶは、徐々に自分の行動を後悔し始めていた。本当なら、もっと自分の気持ちに確信を持ってから言うべきだった。もう少し親密になって、「付き合う」っていうのがどういうことなのかイメージできるようになってから、言うべきだった。そうしたかった。こんな風に、急いで告白したくなかった。……でも。でも、そうするだけの時間が、もうなかった。
 さっきこの人が歩き出そうとした時、すごく、嫌だった。この人が行ってしまうことが。もう会えなくなることが。でもこれは、きちんと恋愛感情と呼べるようなものなのだろうか。ああ、今更こんなこと考えても仕方ないのに。もう、言ってしまったのに。でも、でも、でも。ぐるぐるぐるぐる。思考が頭の中で渦巻く。
 ふと、冨岡の袖を掴んだままだと気付いて、しのぶはぱっと手を離した。そして俯いたまま言った。
「……い、嫌だったらいいんです!」
 居た堪れない。しのぶの胸に、妙な悔しさが込み上げてくる。
 うつむいていると涙が零れそうになって、しのぶはぱっと顔を上げた。そして潤んだ瞳で冨岡をキッと見上げて言い放った。
「帰ります!!」
「待ってくれ」
 その語感に、わずかに焦燥感があった。だから、当然返事があるのだろうと思って、しのぶはそれを待った。
 しかし、なかなか次の言葉が出てこない。
 はっきりしてほしい、と思い始めるともうだめだった。混乱が苛立ちになって、胸の中に感情が渦巻いてくる。
 なんなの、なんなのこの人は! どうして私は、こんな人のことを……!
「……それは、男女交際という意味か」
 ようやく口を開いたかと思えば、投げかけられたのはとんちんかんな確認だった。
「そうですけど?!」
「胡蝶が、俺と」
「そうですよ! 嫌ならいいんです!!」
 正直に言って、もう帰りたかった。こんな問答をすることになるなんて、思っていなかった。
「遠距離になるが、いいのか」
「え?」
 苛立ちと羞恥と、混乱の渦の中に放り込まれたその言葉。すぐには意味を捉えられなかった。「遠距離」?
 はっと我に返る。それってつまり……。
「……か、かまいませんが!?」
 目の前の相手を、直視できない。なんだかもう、どうするのが正しいのか、わからなかった。
「胡蝶」
「……はい」
 俯いたまま返事をする。
「嬉しい」
 なんだか似合わない言葉だな、と思いながらしのぶは何気なく顔を上げて、驚いた。
 さっきだって、びっくりした。でも。
 冨岡は、今度は誰が見てもわかるくらいに、はっきりと笑みを浮かべていた。穏やかで優しい表情。あ、これが、この人の「嬉しい」なんだ。そのことがすとんと腑に落ちた。
 「付き合う」っていうのが何なのかは、よくわからない。でも、今、この人が喜んでいることは、わかった。
 さっきまで胸に渦巻いていた苛立ちがすうっと溶けていく。じわりとあたたかいものを感じて、しのぶは冨岡に微笑みを返した。

 ◇

 軽快なピアノのメロディ。斜めに向かい合う格好に置かれた、布張りの一人掛けのソファと、丸いローテーブル。ふたりはコーヒーショップの、窓際の席にいた。ドリップコーヒーと、泡立てたミルクがたくさん入ったカプチーノ。
 そこここで、花のつぼみが膨らみかけていた。あの公園での告白から二週間が経って、季節は春になろうとしていた。
「合格、おめでとうございます」
「ありがとう」
いつもの無表情で冨岡が答える。
「嬉しくないんですか?」
「……嬉しい。嬉しいけど、まあ……あの」
 沈黙。
 本当にこの人はすぐ黙るなぁ、としのぶはぼんやり思った。
「冨岡さん、そんなに私と離れるのが寂しいんですか〜?」
 少しからかうつもりで、しのぶは冨岡を指でつつきながら言った。
 冨岡は一瞬しのぶの方を見てから、視線を逸らして小さく頷いた。
 意外だった。そんな反応が返ってくるとは思っていなかった。胸のあたりがきゅっと収縮するのを感じて、しのぶは小さく混乱した。

 付き合う、ということになったものの、何をすればいいのかがよくわからなかった。それどころか、本当にこの人のことを「好き」なのか、いまだに自信がなかった。嫌いではないし、こうやって会って話すのは楽しい。でも、これは本当に恋愛感情なんだろうか。
 この人は、私と離れるのが「寂しい」らしい。私は、どうだろう。ちゃんと、「寂しい」のだろうか。
 ふわふわのカプチーノをひとくち飲みながら、しのぶは隣に座る冨岡のことをそっと見上げた。
「あの時」
 ふいに冨岡が話しはじめて、わずかに心臓が跳ねた。それを悟られないよう、しのぶは平静を装いつつ「はい」と返事をした。
「すぐに、返事ができなくて悪かった」
「……いえ。急でしたから」
 冨岡が、コーヒーの入ったカップに口をつける。しのぶはそれをぼんやりと眺めていた。まつげが、厚い。癖っ毛で、毛先があっちこっちに向いている。
「体育祭の頃から、」
「あ、実行委員会、やりましたね」
 なんだか随分前のことのように思える。あの頃はこんなことになるなんて想像もしていなかった。なんだかおかしくなってきて、しのぶは目線を逸らしてふふ、と小さく笑った。
「尊敬していた」
「!!」
 驚いた。このひと変わってる、とは思っていたけれど。尊敬? そんな風に言われるとは思っていなかった。
 どう答えていいかわからず、しのぶは「それは、どうも……」と小さな声で言った。なんだか妙に気恥ずかしい。
 変な、ひとだ。そう思った。他の誰とも違う、変なことばかり言うひと。気恥ずかしさがなかなか消えない。胸が、ドキドキしていた。

「……出ないか」
 冨岡にそう言われて、カップが空になっていることに気がついた。時計を見るともうすぐ午後七時になろうというところだった。そろそろ帰らなくてはいけない。
「……はい」
 お店のドアを開けて、並んで歩く。こんな風に会えるの、あと何回あるだろう、としのぶは考えていた。
 ふと隣に冨岡が隣にいないことに気付く。振り返ると、彼は後方で立ち止まっていた。
「冨岡さん?」
 建物と街路樹に挟まれた、死角のようなところにいる彼のところまで戻る。
「どうしたんで――」
 しのぶが最後まで言い終わる前に腕が伸びてきて、気がつくとしのぶは冨岡の腕の中にいた。
「あの時から、ずっと……こうしたかった」
 背中に回された手が、あたたかい。
 なんだか、不思議な気分だった。
 この腕を、この胸を、ずっと前から知っているような気がした。あたたかくて、やさしくて、心地いい。小さな混乱と、やわらかな安堵。よかった、私、この人をちゃんと好きだったみたい。
「……嫌では、ないか」
 彼の腕の中で、小さくうなずく。しのぶはまるで他人事みたいに、なんだか恋人同士みたい、と思っていた。
 ふと、この人背が高いんだな、としのぶは思った。彼の腕の中で、目一杯背伸びをしてみる。やっぱり届きそうにない。両肩に手をついてみると、目が合った。
「あの」
「ん、」
「少し屈んでください」
「……?」
 腕の力が緩んで、顔が近づく。
 このひとと、キス、してみたい。確かにそう思ったはずなのに、だから屈んでと言ったはずなのに、いざとなるとあまりの気恥ずかしさに顔を背けてしまった。しのぶは視線を逸らしたまま「……ごめんなさい、もういいです」と言った。
「胡蝶」
 頭の上から降ってくるその声は、なんだか肌から肌に直接伝わってくるようだった。
「……はい」
「その、……電話、してもいいか」
「え?」
「会えなくなるから」
 胸が、ぎゅっとする。わかっていたのに。そんなの、ずっと前からわかっていたことなのに。笑顔をつくって、冨岡を見上げる。
「……そう、ですね。はい、電話、私からもします」
「それで」
「はい」
 この人、耳が赤い。寒いからだろうか。ぼんやりとそんなことを思う。
「その……嫌でなければ、」
「なんです?」
「キス、しても……?」
 ちょっと待ってください、と言うつもりだった。さっき顔を近づけてみて、あんなにもそわそわした。恥ずかしくて、とてもキスなんてできない、と思った。
 でも。
 次、いつ会えるだろう。後悔、するかもしれない。
 しのぶは決心して、すぅ、と息を吸い込んだ。
「いっ……いいですけど?!」
 冨岡がそっと屈む。しのぶは心臓が口から飛び出そうなくらいだった。
 唇と唇がほんの一瞬触れるだけの、ぎこちないキス。
「……大事にするから」
 そう言って、冨岡は腕をほどいた。しのぶは胸がいっぱいで、うまく返事ができなかった。なんだか、顔が、あつい。

 二人は駅に向かって、並んで歩き始めた。ぽつりぽつりと、他愛ない言葉を交わす。
 しのぶは前を向いたまま、冨岡の指に触れた。指と指が、自然と絡みあう。

 ふわりとぬるい風が吹く。
 やわらかな沈丁花の香りが早春の夜を満たしていった。



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