1988年4月、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの日本ツアーは、音楽的にも幾つもの成果を上げながら、成功裏に終えることができた。
東京、大阪、名古屋を含む、全7公演のプロデュースの責務を担う以前は、まさかこのような規模の大きなツアーを4ヵ月という短期間の内にまとめあげねばならなくなるとは想像すらしていなかったが、幸いにも各方面のいろいろな方々の知恵と協力、尽力を得て、ぶっつけ本番ながら、勢いだけでなんとか乗り切ることができた。その悪戦苦闘ぶりは、第8話と第10話でお話ししたとおりだ。
しかし、70余名のイギリス人ミュージシャンを率いて各地の会場をめぐる内、自分に決定的に不足しているものが何であるかが次第に見えてきた。
それは、多くのファンがただ音楽を愉しみたい、ただそれだけの目的のためにやってくるコンサートを澱みなく進行させ、事故なく舞台を動かしていくステージの実体験だ。
ポップスやオーケストラの世界では、専門教育を受ける場や機会は確かにある。しかし、筆者は、管楽器が中心になって活躍する音楽に特化した勉強がしたかった。
幸いなことに、ロイヤル・エア・フォースのツアー翌年の1989年には、アメリカのブラスバンド、救世軍ニューヨーク・スタッフ・バンド(Salvation Army New York Staff Band)(5月)と、ロンドンのバッキンガム宮殿の衛兵交代でおなじみの5つの近衛軍楽隊から、コールドストリーム・ガーズ・バンド(The Regimantal Band of the Coldstream Guards)(9~10月)の来日が予定されていた。
そこで、筆者は、まず、東京・神田神保町の救世軍本営を訪ね、旧知のジャパン・スタッフ・バンド楽長、鈴木 肇(はじめ)さんに、ボランティアで舞台をお手伝いしたい旨、申し入れた。鈴木楽長は、最初、とても驚かれた様子だったが、真摯にその目的を話す内、快く舞台スタッフに迎え入れていただけることになった。また、大阪でも、救世軍の関西ディビジョナル・バンド楽長、前田徳晴さんの理解を得た。
救世軍は世界的組織だ。内部に音楽スタッフも大勢いらっしゃるのに、よくもまあ、キリスト教徒でもない、完全に部外者の筆者のリクエストに好意的な回答を出していただいたものだ。
この時に得たブラスバンドのバック・ステージの実体験は、その後、1990年に大阪の地に誕生したプロのブラスバンド、プリーズ・ブラス・バンドで、ミュージカル・スーパーバイザーという重責を担うことになったとき、大いに意味をもつことになった。
ニューヨーク・スタッフ・バンドの大阪での終演後、サプライズがあった。バンド・メンバーや救世軍スタップの皆さんの前で、ブライアン・ボーエン楽長(Bandmaster Brian Bowen)から“公演チラシに自筆サインをあしらった額”を贈られたのだ。貴重なステージ体験を得ることができただけでも感謝感激なのに、これはもう、一生の宝物だ!
コールドストリーム・ガーズ・バンドの音楽監督、ロジャー・G・スウィフト少佐(Major Roger G. Swift)には、レコーディングでロンドンを訪れた1989年4月、バッキンガム宮殿に近いウェリントン兵舎にあるコールドストリーム・ガーズ音楽監督室でお目にかかった。面会のアポをとってくれたのは、ロイヤル・エア・フォース首席音楽監督のエリック・バンクス(Wing Commander Eric Banks)だった。
▲ロジャー・G・スウィフト少佐
そこでは、スウィフト少佐と副官のマイクル・A・ミッチェナル准尉(Warrant Officer Micheal A. Michenall)が笑顔で出迎えてくれた。両人とも、ユニフォームではなく、誂えのいいきちんとした三つ揃えの背広姿だ。(こちらも、きちんとネクタイをしめていって良かった!)
早速、1989年ツアーの抱負やプログラムについて質問しようと話し始めたら、それを遮るように、現地でも大成功が伝えられていたロイヤル・エア・フォースのツアーやプログラムについての話を聞かせて欲しいというリクエストがきた。逆に質問攻めだ!
ご承知のように、同じイギリスの演奏団体ながら、ロイヤル・エア・フォースとガーズとでは、使われている楽器、編成、レパートリー、プログラミング、演奏スタイルがまるで違う。そこで、まず敬意を表し、実際に聴いた1986年のコールドストリーム・ガーズ初来日時のプロがとても愉しかったので、そのスタイルを変える必要はないこと。ついで、ポップスについては、イギリスと日本では流行のサイクルが違うこと。普段は演奏しない日本の曲を無理に取り入れる必要はないこと。聴衆は、イギリスの、そしてロンドンの空気が伝わる曲を聴きたがっているということなどを話した。
スウィフトは、バンクスからフィリップ・スパークの「ドラゴンの年」が大成功を収めたことも聞かされていた。そこで、『イギリスのオリジナル曲がイギリスのバンドのサウンドでナマで聴けることはとても意義があるので、プログラムの中に1曲ぐらい、そういう曲が入っていてもいいのではないかと思う。ただし、コールドストリーム・ガーズの普段のスタイルを崩さない範囲で。』とサジェストした。
以上の会話がどれほどの意味があったのか、この時はよく分からなかった。しかし、別れ際には、記念にと言って、65名という当時のフル編成でウェリントン兵舎の前庭を行進するすばらしいカラー写真と、ひじょうに重い鋳造製の連隊バッジがついた士官用の革製馬具を贈られた。“空港検査でブザーが鳴るかも知れない”とジョークをかまされながら…。(写真は、その後、公演プログラムを飾った!)
帰国後、ロンドンの土産話を携えて、コールドストリーム・ガーズ日本公演を手掛ける東京・恵比寿の日本交響楽協会を訪ねた。出迎えてくれたのは、代表取締役の小林 公(ひろし)さんだった。かつて名古屋交響楽団を立ち上げ、日本フィルハーモニー交響楽団初代事務局長、読売日本交響楽団初代事務局長をつとめられた筋金入りの大ベテランだ。
今夜もどこかでコンサートがあるという多忙の中、筆者の話に耳を傾けていた小林さんは、前年ロイヤル・エア・フォース公演をなんとかやり遂げたという話に、音楽マネージャーの仲間内でも“一体誰がやったのか”と話題になっていたと言われ、ロンドンでスウィフトと話してきた中身については、目前の公演だけに、身を乗り出すように関心を示された。
その後、筆者にとって最も重要な案件である“今度の公演を舞台裏から勉強したい”という希望を切り出した。すると、すっと立ち上がった小林さんが、一冊の自著を取り出してきて、筆者に手渡した。
それが、『85%成功するコンサートの開き方』(芸術現代社, 1981)だった。
この本では、「コンサートを成功させる心がまえ」「企画のたて方とポイント」「聴衆はこうして多くする」「コンサート実務のすべて」「外タレを安く仕込む方法」「音楽鑑賞団体の課題」など、小林さんのノウハウが惜しげもなく語られていた。
実際、この本からは実に多くのことを学んだ。コンサートを作る側にとっては、正しくバイブルであり、今も座右の銘のように扱っている大切な書物だ。また、筆者の意を汲みとって、この公演を舞台裏から自由に勉強できるよう便宜を図って下さった小林さんは、大の恩人となった。
小林さんがコールドストリーム・ガーズ・バンドに魅了されたのは、1984年3月、オーストラリアの全音楽企画者会議に日本代表として招かれたとき、偶然メルボルンの新しいホールで聴いたコンサートだった。手許に残してある1986年の公演チラシには、こう書かれてある。
『2000名を越える大ホールは満席で、ステージに登場した金色の肩章やモールに飾られた真紅の上着とサイド・ラインの入った黒ズボンの隊員50名に、歓声と盛大な拍手がおくられました。冒頭でタンホイザ―の行進曲が演奏されたが、その音色のやわらかさ、ピアニッシモの美しさ、日本のオーケストラでも聴けなかった絶妙の演奏にまず驚かされました。続いて勇壮華麗な得意のマーチが聴衆の胸を躍らせ、颯爽とした指揮官のユーモラスな司会に、和かな笑いが起り、ミュージカル、オペラ、ポピュラーのヒットナンバーとプログラムが展開していって、時のたつのを忘れさせてくれました。曲によって、隊員の中の名手がすばらしい独奏を披露し、打楽器群のユーモラスな掛け合い演奏が聴衆を湧かせましたが、隊員達の姿勢や行動にすがすがしい規律正しさがみえて爽快でした。私は、軍楽隊がこれ程技術的に高いものであり、これ程娯楽に徹しているとは予想していませんでしたから、非常に驚き且感銘して、終演後指揮官に会い、訪日を要請しました。』(小林 公)
オーケストラを幾つも立ち上げてきたベテランが吹奏楽に寄せたこの一文には、教えられることが多い。
その後、スウィフトから送られてきたプログラム案には、エルガーやホルストなどのクラシックに混じって、当時ロンドンで大ヒットしていたアンドルー・ロイド=ウェバーのミュージカル『オペラ座の怪人』や『スターライト・エクスプレス』のセレクション、イギリスのオリジナル曲からは、フィリップ・スパークの『ドラゴンの年』、ジョン・ゴーランドの『ユーフォニアム協奏曲』、ローリー・ジョンスンの『ロートレックの3枚の絵』などが盛り込まれていた。
小林さんは、スウィフトが書いてきたプログラム・ノートの和訳を筆者に任せてくれた。
イギリス色満開のそのプログラムに、全力投球で取り組んだことを今もよく覚えている!