波乱の1988年が明けた。
それまで外部からの私設応援団と考えていた“ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド日本公演”をいきなり実行しなくてはならない立場となった筆者は、大阪での仕事や生活をすべて整理、キャンセルし、単身上京した。東京・虎の門の公演実行委員会では、専用の机が用意され、バンドがやってくる4月までの間、そこで昼夜兼行の格闘が始まった。
状況を整理すると…。第8話でお話ししたように、実行委は何らかの不手際でサントリーホールを失ない、条件の合う東京の空きホールは、もうどこにもなかった。日程が確定していたのは、4/19(火)、ザ・シンフォニーホール(大阪)のコンサートだけだった。だが、大阪が決まったことは大きく、すべてがガラガラと動き出した。
とは言うものの、ここから3ヵ月後にせまった来日2週間のスケジュールをフィックスさせようというのは、どう考えても無理があった。委員長の萩野荘都夫さんも出張から帰国。ホール代を支払ったことで尻に火が付いた実行委全員がありとあらゆる知人、関係者に片っ端から電話を入れて他の公演地の可能性を探った。しかし、電話を掛ける方も受ける方も音楽畑ではない人ばかりだから、まるでうまく運ばない。
そんな中、突然、委員長が『名古屋のレインボーホールを見に行こう。』と言い出した。ネタ元はわからないが、空き日があるようだった。早速ホールに出向くと、その理由がわかった。例年ロイヤル・エア・フォースが200名編成のコンサート“フェスティヴァル・オブ・ミュージック”を行っていたロンドンのロイヤル・アルバート・ホールそっくりのアリーナ形式のホールだった。キャパシティーは、最大10000席(固定席5000席、可動席2000席、移動席3000席)。現在は、日本ガイシホール(名古屋市総合体育館) と呼ばれるこのホールは、1987年にオープンしたばかりだった。自画自賛の委員長だったが、東京でいえば武道館、大阪でいえば大阪城ホールでコンサートをやるようなものだ。ステージも組まないといけないし、ホールの事業誘致係長、山中 敦さんも懐疑的だった。しかし、その場は上機嫌の委員長の顔をたてて“空き日の4/22(木)を仮押さえ”し、とにもかくにも2ヵ所目の公演地を確保する。
一方で、筆者は、かつてフレデリック・フェネルが指揮した大阪市音楽団のライヴLP制作などでお世話になった東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、古沢彰一さんを訪ね、無茶は承知で“東京でのコンサート開催”について何か妙案がないか相談を持ちかけていた。話を聞いた古沢さんも、3ヵ月前からホールを捜そうなんて聞いたことが無いと言いながら、話を持ち帰って佼成文化協会内で揉んでいただけることになった。
また、ザ・シンフォニーホールの秋田宣久さん(朝日放送シンフォニーホール事業本部部長)からは、九州のRKB毎日放送事業推進局次長の河原俊二さんと中部日本放送(CBC)文化事業部長の安藤和彦さんの紹介を受け、大阪以降の福岡、名古屋でのコンサートの可能性を探っていただくことになった。
しかし、さすがは餅は餅屋だ!プロたちの動きは素早かった!
まず、古沢さんから“東京佼成ウインドオーケストラとのジョイントで《日英交歓チャリティーコンサート》を必ず開催する”という条件で、普門館を会場に使うことが許可されるかも知れない、との打診が入った。もちろん、当方に異論はない。すぐにユニセフに連絡をとり、オケのスケジュールとすり合わせた結果、4/14(木)合同リハーサル、4/15(金)東京佼成のリハーサル、4/16(土)に日英交歓コンサート、4/17(日)にロイヤル・エア・フォース単独コンサートという流れが決まった。東京佼成WOの指揮者は、汐澤安彦さんだ!
福岡へ飛ぶと、すでにリサーチを終えていたRKBの河原さんから“4/21(水)の福岡郵便貯金会館が使える”という打診があり、CBCの安藤さんとも“レインボーホールは当方でキャンセルするので、市内の愛知文化講堂でやりましょう”と話がまとまった。
他方、年明けからの実行委の電話攻勢、ついで公演地が順次決まっていったことが伝わると、それまで半信半疑だった人々も“今度は本当にやりそうだ”という空気を肌で感じるようになってきた。ビジネスに繋がるかも知れないと考えた大手広告代理店やメディアからも問い合わせが入るようになり、スポンサーになってくれそうな企業も出てきた。このあたりは、さすがはビジネスマンの委員長の人脈だと感心する。
その後、スポンサーからの申し入れで横浜(4/15)と大分(4/21)の公演が急浮上したことから、バンドのオフ日を調整して博多入りの日程を1日早め、会場をサンパレスに変更したり、スポンサーにお願いして大分から名古屋への移動のためのチャーター機を手配したりするなど、多少の揺れ動きもあったが、プロの手を借りながら調整して全7公演を確定。やっと来日ツアーらしい姿にまとまってきた。
次のテーマは、2年前に指揮者バンクスと実行委との間でフィックスされていた演奏プログラムの組み直しの交渉だった。ここで、筆者が、プログラムにはなかったフィリップ・スパークの「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」にこだわったのには理由があった。
第9話でお話ししたように、「ドラゴンの年」のオリジナルは吹奏楽曲ではなく“ブラスバンド”編成の曲だった。しかし、1984年に全英チャンピオンが初演したこの作品は、翌年の初演者によるレコードのリリース以降、イギリスだけでなく、広くヨーロッパのバンド界全体を揺るがしていた。
この作品は、まず、ヨーロピアン・ブラスバンド・アソシエーションによって“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1986”のセット・テストピース(指定課題)に採用された。そして、同年5月3日(土)、ウェールズ、カーディフのセント・デーヴィッズ・ホールで行われた同選手権では、ハワード・スネル(Howard Snell)指揮、デスフォード・コリアリー・ダウティ・バンド(Desford Colliery Dowty Band)が、100ポイント中、99ポイントという驚異的なハイスコアでトップに立ち、オウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)との合計で王座を競う総合点でもブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)の猛追を3ポイント差でかわしてチャンピオンとなった。
その時のほぼ完璧とされる“ドラゴン”は、BBCが放送し、17年後の2003年にリリースされた選手権の25周年記念3枚組CD「25 Years of the European Brass Band Championships」(Doyen、DOYCD156/廃盤)にも収録された。
一方、作曲者のもとへは、バーミンガム・スクールズ・ウィンドオーケストラ(Birmingham Schools Wind Orchestra)から“ウィンドオーケストラ(吹奏楽)”のためのバージョンを新たに作る依頼が寄せられた。オーケストレーションは1985年に行なわれ、初演は、翌年の1986年2月22日(土)、バーミンガムのサー・エードリアン・ボールト・ホール(Sir Adrian Boult Hall)で、キース・アラン(Keith Allan)指揮、同ウィンドオーケストラの演奏で行われた。これが、我々が知る“ウィンドオーケストラ(吹奏楽)版”の誕生日だ!
1987年には、“ブラスバンド版”収録の2枚目のアルバムがリリースされた。それは、ヤマハ創業100周年を記念して同年5月に日本に招かれたスウェーデンのエーテボリ・ブラス・バンド(The Gothenburg Brass Band)が、ベングト・エクルンド(Bengt Eklund、1944~2007)の指揮で日本公演プロを来日を前に録音したLPアルバム「The Gothenburg Brass Band」(Polyphonic、PRL032D)だった。同バンドは、デスフォードが優勝した前記“ヨーロピアン1986”で、イギリス以外のバンドとして最上位の第4位に入ったバンドで、選手権を経ていただけに、レコードの“ドラゴン”も現代風に洗練されたパフォーマンスだった。
“ドラゴン”のブラスバンド版は、意外にも、イギリスではなく、スウェーデンのブラスバンドによって日本に紹介されていたのだ!
同じ1987年、イギリスでは、ダンカン・ビート(Lieutenant-Colonel Duncan R. Beat)指揮、ネラ―ホール陸軍音楽学校バンド(The Band of the Royal Military School of Music, Kneller Hall)演奏の初の“ウィンドオーケストラ版”のLP「Kneller Hall in Concert」(Polyphonic、PRM111D)もリリースされ、楽譜も出版された!!
ロイヤル・エア・フォースでも、ステータスが格違いのセントラル・バンドを除く、地方配置の40名編成の各バンド(レジメント、カレッジ、ウェスターン、ジャーマニー)のスキル向上のために例年行なっている団内コンクールで、「ドラゴンの年」をテストピースに採用した。作曲者も関わったこのコンクールの審査委員長は、もちろんロイヤル・エア・フォース首席音楽監督のエリック・バンクスだった。
つまり、筆者が公演に関わらなくてはならなくなった1987年の年末時点で、“ドラゴン”は、ヨーロッパを揺るがす衝撃的最新作であったばかりか、ロイヤル・エア・フォースのマスト・アイテムだったのだ。
しかし、2月に来日したバンクスへの直談判は、難航を極めた。彼は、“クラシックからポップスまで誰でも知っている曲をロイヤル・エア・フォースのスキルで日本の聴衆に愉しんでもらいたい”という強い意向を持っていたからだ。そんな中に、日本の聴衆が知らないシリアスな曲を加えるなんて問題外という訳だ。
『そんなことだから、ウィンド・ミュージックは、一段低く見られるんだ!』と、こちらも譲らない!
ここで委員長が出てくると、『音楽のことは樋口さんに任せるよ。』と言いながらも、間違いなくバンクス寄りの方向に誘導されてしまう。そこで一計を案じた筆者は、NHK-FMの「ブラスのひびき」のコメンテーターをつとめられていた秋山紀夫さんがCBSソニーの録音でちょぅど東京に来られているというので、喫茶店までご足労いただいて、2人がかりで“バンドのオリジナルを今度の来日プロクラムに入れることの重要性”を説くことに!
議論は白熱したが、その日はタイムオーバーで、結論は出なかった。しかし、筆者がその後も意見を曲げなかったことと、“1年前の実行委”が組み立てることができなかった公演スケジュールを短期間でフィックスさせていたことへの謝意の表明もあったのだろうか。離日を前に、頑固な英国紳士バンクスが、ついに折れてくれた。
『そんなにまで言うなら、プログラムの1つに“ドラゴン”を入れてもいい。』と。
立ちあがって『サンキュー、サー!』と英国式敬礼をした筆者は、東京、大阪、名古屋のプロに“ドラゴン”を組み入れることを提案し、笑顔のバンクスもそれを了承してくれた。
「ドラゴンの年」ウィンドオーケストラ版の日本初演は、1988年4月17日(日)、東京・普門館において、エリック・バンクス指揮、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドによって行われた。
「■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第10話“ドラゴン”がやってくる!」への3件のフィードバック