■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第8話 ドラゴン伝説の始まり

 ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド(The Central Band of the Royal Air Force)が来日したのは、1988年4月のことだった。

バンドは、民間人オルガン奏者ヘンリー・ウォルフォード・デーヴィス博士のリーダーシップのもと、1918年に正式にスタート。第2次世界大戦中は、数多くの弦楽奏者を含むロンドン市中のオーケストラ奏者をオーディションで採用してシンフォニー・オーケストラからジャズ・バンドまで幅広く活動。“ロイヤル・エア・フォース・シンフォニー・オーケストラ”の名で演奏旅行に訪れたアメリカでも絶賛を博した。首席ホルン奏者デニス・ブレインの名が世界的に知られるようになったのもこのツアーのときで、戦後の1945年、英EMIの敏腕プロデューサー、ウォルター・レッグが創設した“フィルハーモニア管弦楽団”の大部分がこのバンドの出身者だったこともイギリスでは有名な話だ。今でも、オーケストラを辞めてオーディションを受けるプレイヤーがいる英国最高峰のウィンドオーケストラだ。

ホルスト、ヴォーン=ウィリアムズ、グレインジャー、ジェイコブらがウィンドのために書いたオリジナルを収録し、来日前年までにEMIクラシックからリリースされた「British Music for Concert Band」(1984)(His Master’s Voice、EL 27 0093 1)、「British Music for Concert Band, Volume 2」(1986)(His Master’s Voice、EL 27 0467 1)という2枚のLPレコードも高い評価を得て世界的ヒットとなっていた。

 一行(70余名)は、1988年4月12日(火)、日航機で成田に到着。4月15日の横浜・関内ホールを皮切りに、東京2公演、大阪、福岡、大分、名古屋と、滞在12日間に7公演をこなし、4月23日(土)、名古屋・小牧空港から帰路についた。(内、東京の1回は、汐澤安彦指揮、東京佼成ウインドオーケストラとの日英交歓ジョイント・コンサート)

ツアーは、ロンドン、テヘラン、東京を起点に活動するビジネスマン、萩野荘都夫さんが、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートを聴いて感動のあまり個人で立案。当初は、1年前の1987年に東京のサントリーホールで連続3公演、大阪のザ・シンフォニーホールで連続2公演を行ない、各コンサートでは異なるプログラムを演奏するという、相当な音楽プロモーターでも腰を抜かしそうな破天荒なプロジェクトだった。実際、日本公演実行委員会には、映画「トラ・トラ・トラ」や「ゴルゴ13」などを手掛けたプロデューサーなど、およそ音楽畑からほど遠い人々も名を連ね、普通の音楽コンサートとは何から何まで様相が違っていた。

筆者は、知己を得ていたロイヤル・エア・フォース首席音楽監督で指揮者のエリック・バンクス(Wing Commander Eric Banks)からこの話を聞き、東京の実行委から送られてきた資料や委員長の萩野さんに実際にうかがった話をもとに、月刊誌「バンドピープル」1987年4月号に4ページの“来日直前リポート”を出稿!

しかし、これがたいへんなミスリードになってしまった!

同号が出るか出ないかのタイミングで、実行委が、突然、公演の1年延期を決めたのだ!

聞けば、急激な為替の変動などのため、シンフォニー・オーケストラに匹敵するこのバンドの公演維持に支障が出る恐れがでてきたから、という悲しい話。(嗚呼、なんということか!)

早速、バンドピープル編集部に電話を入れると、編集長の冨田尚義さんのやけに弾んだ声になんとも嫌な予感が…。

果たして、『ロイヤル・エア・フォースの記事、ものすごい反響です。問い合わせの電話がドンドンかかってきていますよ!!』という明るい声に、一瞬どう話していいのか詰まってしまう。どうやら、編集部始まって以来の騒ぎらしい。しかし、執筆者の義務として事態を正確に説明すると…。

『中止なら大変ですが、延期なら問題ありません。誌面で事情を説明した上で、来年に向って追跡していきましょう!』というポジティブな回答。今後とも彼らの動きをマークしていくことになった。

しかし、その後の経過はさらに悲惨だった。実行委に名を連ねていた人たちがつぎつぎプロジェクトから逃げ出し、ついにはビジネスで海外出張が多い委員長とその世話役2人だけとなったのだ。わかりやすく言うと、残った人は全員が音楽畑とは無関係! いつでも連絡がとれるのはイギリスにいる指揮者バンクスだけという状況になってしまった。

公演予定まで半年を切った時期のこの緊急事態に、意を決した筆者は、大阪から上京。虎ノ門の日本消防会館(ニッショーホール)にあった事務所を訪ね、その場で聞いた話を1つずつ裏をとる確認作業を始めた。結果、最初にわかったことは、サントリーホールの公演予定日には、すでに他の公演が入っていたことだ。相談役の2人に“東京のホールはもうない”と伝えると、“そんなバカな!”と驚愕の表情!こんな調子では、大阪の方も怪しい。

急ぎとって返した筆者は、ザ・シンフォニーホールにアポをとって出向き、ホールの状況を尋ねた。すると、応対に出た朝日放送シンフォニーホール事業本部部長の秋田宣久さんから、たいへん厳しい話を言い渡される。

『その公演はどうなるかわからない。確かに実行委員長という人から1年延期の申し出が電話であったが、その後は何の連絡もないし…。』と。

どうやら、筆者は、ホールとしてもどう処理しようか思案しているタイミングで飛び込んできたようだった。そして、逆に矢継ぎ早に質問攻めに遭うことに。しかし、実行委ではない筆者は、運営面のことなどまるで知らない。バンクスから聞いていた英国側の滞在可能期間、バンドの歴史や指揮者のキャリア、レパートリーやレコードのことなど、演奏関連のことしか話すことがない。ただ、相手も音楽のプロ。資料に目を落とすことなくそれら音楽面の詳細な説明を続ける筆者に一定の安心感を覚えられたのか、つぎの瞬間、秋田さんから予想もしなかった提案が投げかけられた!!

『東京の実行委員会がどんな人たちなのかは知りません。しかし、樋口さん、もし、あなた自身がこの公演をなさると言うのであるならば、ここまでのペナルティーは一切不問にして、大阪公演ができるよう取り計らいましょう。現在2日間押さえられている内の1日は、こちらの休館日にしてもいい。ただし、実行委の方からホール使用料の前払い金だけは入れてもらって下さい。年末も近いですから、年が明けた1月8日までに。いかかでしょうか?』

筆者は、実行委にすぐ連絡をとって結論を出すと約束してホール事務所を退出した。

早速、東京に電話を入れると、予想どおり委員長は海外出張中。ホール使用料は、相談役・事務局長の渡辺憲一さんが個人的に立て替えていただけることなった。

一方で、これら一連の動きは、自分の立ち位置がコンサートを愉しむ方から実行サイドに移ることを意味した。(エラいことになったゾ!)

そのとき、ある冒険的アイデアが思考回路の中で突然閃いた!!

それならば、英国最高峰の彼らに、今イギリスで話題沸騰中のフィリップ・スパークの「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」を取り上げてもらおう!!

2年連続フェイルとなったら大変だと考えたバンクスも、準備状況をチェックするために2月に来日するという。よーし、それなら直談判だ!!

“ロイヤル・エア・フォース日本公演1988”の小さな第1歩だった。