■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第160話 オール関西の先駆者たち

▲「バンドジャーナル」1966年1月号(管楽研究会編集、音楽之友社、齋藤庸介氏所蔵)

▲「バンドジャーナル」1964年6月号(管楽研究会編集、音楽之友社、同所蔵)

『全日本吹奏楽連盟理事長で、現在、大阪フィルハーモニー常任指揮者である朝比奈隆氏は、私にとってかけがえのない大親分である。昭和十二、三年、音楽学校以来、ずっとお世話になっている(無論公私ともに)。毎年、元旦には、この大親分のところへ、あいさつに行くのが常であるが、今だに必ず、学生時代のエンマ帳を出して来て、楽式論は四〇点だったとか、音楽美学はなってなかったとか私の頭の弱かったことを強調してクダサル。,,,,。』(原文ママ)

兵庫県西宮市立今津中学校教諭として同校吹奏楽部の指揮にあたり、日本のアマチュア吹奏楽をリードした指導者のひとりだった得津武史さん(1917~1982)が、1965~66年(昭和40~41年)にかけて、月刊誌「バンドジャーナル」(管楽研究会編集、音楽之友社)に執筆した「吹奏楽部の息子たちといっしょに」という自伝エッセイで、1966年1月号の71頁に掲載された第21篇“わが恩師”の冒頭部の引用だ。

21世紀になってから刊行された西谷尚雄著「天国へのマーチ ─ ブラスバンドの鬼 得津武史の生涯 ─」(かんぽう、2006年)にも、小題を“わが恩師、わが親分!”と変え、一部リライトされて引用されているので、そちらで読んだ方も多いだろう。

この一篇では、まず、得津さんが、朝比奈 隆さん(1908~2001)が大阪音楽学校(現大阪音楽大学)で教鞭をとった頃の教え子であることが語られ、ついで、その偉大なる恩師をもったがために、毎年恒例の年賀の挨拶の際、昔の成績の話を持ち出されて、冷や汗をかかされたということがユーモアたっぷりに綴られている。因みに、得津さんはピアノ科卒である。

文章は、その後こう続く。

『朝比奈先生が大親分なら、大阪市音楽団々長の辻井市太郎氏は、親分と言える。なにしろ彼は私ども夫婦の仲人さんである。,,,,。』(原文ママ)

第126話 ベルリオーズ「葬送と勝利の交響曲」日本初演》でもお話ししたとおり、ともに明治生まれの朝比奈さんと辻井さん(1910~1986)は、昭和のはじめ、市音がまだ“大阪市音楽隊”と称した頃からの知己で、年齢が近く何かとウマが合っただけでなく、管弦楽、吹奏楽の違いこそあれど、戦後、大阪を代表するオーケストラ(関西交響楽団、のちの大阪フィルハーモニー交響楽団)とバンド(大阪市音楽団)の指揮者となった。

そこへ、朝比奈さんの教え子である得津さんが絡んでくるのは、ごくごく自然の成り行きだろう。

しかしながら、得津さんは、エッセイでこうも語っている。

それは、得津夫妻の挙式当日の出来事だった。会場の係りの女性には、やや強面の得津さんより辻井さんの方が若く映ったのか、本来新郎がつけるはずの花をなぜか隣にいた仲人の辻井さんの胸につけてしまうハプニングが発生。その後、式は両者その姿のままで進行し、辻井さんは気づいていたが、得津さんがそれを知らされたのは、一年近くたってからだったという。それについての恨み節がひとしきり語られているのだ。

“いやナァ、ボクの方が若く見えたらしい。なにしろ頭の毛はボクの方がフサフサしてたもんな。その時は気の毒でよう言わなんだ。アッハッハッ!”(原文ママ)と言う辻井さんに対し、得津さんは、『何がアッハッハッだ。毛のうすいのは気苦労が多いからだ。ホットケ!』(同)と、誰がいつ読むかわからない雑誌のエッセイの中で返している。

実際、21世紀の今、筆者が読んでいるし….。

とはいうものの、実のところ、辻井さんと得津さんは、西宮市内の同じアパートの上の階と下の階に住まいしていた時期があるほど親しい間柄だった。そして、そのアパートには、なんと驚いたことに両家直通のインターホンがあり、行くのが面倒くさいときは、それで用を足していたという。

最近、あるところで、近畿大学吹奏楽部の元監督で全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邉典紀さんとこのことが話題となった。

聞けば、溝邉さんは、実際にそのアパートに行ったことがあるそうだ。

『国道171号線から少し入ったところで、隣りを阪急電車の今津線が走ってました。』と溝邉さんは当時を振り返る。

そこで、いつもの癖で“どちらが上の階でした?”と訊ねると、『それは覚えてません。ただ、そのときは辻井さんに用事があって行ったときで、階段を上ったことだけは覚えています。』と返って来た。

得津さんは、エッセイで、『上がったり、下ったり、しんどいから、窓から窓へナワバシゴでもかけようかと考えているが、…。』(原文ママ)と冗談まじりで書いているが、残念ながら、筆者のどうでもいいこの疑問に答えてくれる人はいない。

だが、その一方、同じこの文には、辻井さんが良き相談相手であり、いろいろと助言を受けていたとも書かれ、得津さんは、『そのことを思えば、花ムコを間違えられたことはガマンしよう。』(原文ママ)とエッセイを結んでいる。

道理で、市音が初演したり録音した曲がいつの間にか今津中学のレパートリーに化けているようなことがよく起こった。

そう言えば、ふたりはまた、よく連れ立って呑みにでかけたそうだが、そんなとき、お店の女性陣には辻井さんばかりがもてたと、得津さんは、よくこぼしていた。これもいかにもという話だ。

しかし、ふたりの互いに包み隠すことのない直球バトルは、関西に暮らすものにとっては、何度読み返してもある種の“爽快感”と“親近感”を感じさせるもので、プロ、アマの垣根を超え、何かあると、まるで“村祭り”かなんかのように熱を帯びて集まってくる関西吹奏楽界特有の人間関係と風通しの良さが伝わってくる。

「バンドジャーナル」1964年6月号(管楽研究会編集、音楽之友社)の58~59頁の「吹奏楽・東西南北」には、阪急百貨店吹奏楽団の鈴木竹男さん(1923~2005)が書いたあるリポートが載っている。

それは、関西のアマチュア吹奏楽をますます発展させ、指導技術の研究のほか、指導者相互の親睦をはかるため、1964年(昭和39年)4月12日(日)に創立総会が開かれた「関西吹奏楽研究会」について書かれたものだ。リポートでは、同研究会発足当日の会員数は71名。以下のような面々が役員に名を連ねていたと書かれている。

【会長】朝比奈 隆

【副会長】辻井市太郎

【運営委員(50音順)】有永正人(明石高校)、大野泰司(明星高校)、河野 肇(関西学院大学)、呉 幸五郎(明石高校OB)、山藤 功(菫中学校)、鈴木竹男(阪急百貨店)、得津武史(今津中学校)、中島嘉治(内出中学校)、西岡和彦(水口中学校)、福永和司(堅田中学校)、松平正守(呉服小学校)、村上辰雄(洛南中学校)、矢野 清(天理高校)、山崎 敏(東山高校)、鷲尾 武(関西大学)

正しく、当時の“オール関西”という顔ぶれだ。

1937年(昭和12年)に全関西吹奏楽団連盟が誕生。戦後、1946年(昭和21年)に再建がなった“オール関西”の活動は、その時代その時代の先人たちの知恵とエネルギーを結集して行なわれてきた。《第89話 朝比奈隆氏を送る全関西音楽祭》でお話しした1956年(昭和31年)5月6日(日)、大阪府立体育館で開催された同音楽祭も、1961年(昭和36年)4月29日(土・祝)、阪急西宮球場で「春の吹奏楽~1000人の合同演奏~」の名称で始まった「3000人の吹奏楽」(現在は、京セラドーム大阪で開催)も、1970年(昭和45年)3月14日(土)、日本万国博お祭り広場における開会式演奏も、1987年(昭和62年)5月10日(日)、日本万国博覧会記念公園に1万人以上の参加者を得て行なわれた「ブラス・エキスポ ’87」も、みなそうである。

『ええか、血わき肉たぎる演奏せな、あかん!』

やはり、大親分ゆずりだろう。得津さんが、若い指導者を捉まえては口癖のように話していたドスの効いたあの声が脳裏にふと甦ってきた!

▲▼得津武史(1917~1982)

▲西谷尚雄著「天国へのマーチ ─ ブラスバンドの鬼 得津武史の生涯 ─」(かんぽう、2006年)