■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第150話 市音の祖、林 亘

▲ポスター – 故 林 亘氏を偲ぶ大演奏会(1948年7月10日、中央公会堂、Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)

▲林 亘(1886~1948)

1948年(昭和23年)7月10日(土)午後1時から、大阪・中之島の中央公会堂において、ある特別な演奏会が催された。

それは、大阪市音楽団(市音 / 民営化後の2015年3月、Osaka Shion Wind Orchestraと改称)と林亘氏遺族後援会が共催した「故 林 亘氏を偲ぶ大演奏会」という名前の演奏会で、1923年(大正12年)6月に“大阪市音楽隊”として発足し、戦後、1946年(昭和21年)6月に“大阪市音楽団”と名を改めた市音の初代楽長とともに、大阪市楽長という要職をもつとめ、3ヵ月前の4月28日に逝去した林 亘(はやし わたる)さんを追悼する音楽会形式のお別れ会だった。

大阪市教育委員会が刊行した「大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983」(参照:《第149話:市音60周年と朝比奈隆》)によると、林さんは、1886年(明治19年)8月6日(金)、高知県の生まれ。1900年(明治33年)12月1日、陸軍軍楽隊の総本山にあたる東京の陸軍戸山学校に入校し、翌年、大阪の陸軍第四師団軍楽隊に転属、1923年(大正12年)3月31日の同隊廃止による退職まで、同隊でクラリネット奏者および楽長補(指揮者)として活躍。陸軍屈指のクラリネット奏者として名を馳せ、1910年(明治43年)、イギリス政府の要請で、ロンドンで開催された日英同盟記念親善博覧会のために派遣された陸軍各軍楽隊から選抜された遣英軍楽隊(35名。楽長:永井建子)の独奏者としても活躍した。

派遣国では、イギリスの近衛軍楽隊のグレナディア・ガーズ・バンド(The Band of the Grenadier Guards / 参照:《第101話 グレナディア・ガーズがやってきた》)やイタリアのカラビニエーリ(La Banda dell’Arma dei Carabinieri / 参照:《第97話 決定盤 1000万人の吹奏楽 カラビニエーリ吹奏楽団》)とも交歓演奏もあったというが、林さんのソロは至るところで聴く者を驚嘆させ、市音には、その後、“クラリネッター・ハヤシ”をたずねて英国人が来団したという逸話も残る。

前出の「市音60年誌」にも、かつて林さんからその話を直接聞いた指揮者、朝比奈 隆さん(1908~2001)が、市音ゆかりの人たちと行なった“座談会-I、市音誕生前後と林さん”(司会:小林 仁)で語ったつぎの発言が載っている。

『林さんのご自慢だったワ。ワシがクラリネット吹いたら毛唐がビックリしおった、ってね。』(原文ママ)

その朝比奈さんを中心として、戦後、1947年に設立された関西交響楽団(1960年に改組、改称されて大阪フィルハーモニー交響楽団)の楽団機関誌「交響」創刊号(1949年2月)には、さらに興味を引くものが掲載されている。

それは、遣英の4年前の1906年(明治36年)12月2日、「大阪音楽協会第1回演奏会」(中之島中央公会堂)を前にして撮影された集合写真だ。“大阪音楽協会”というのは、第四師団軍楽隊と市中の音楽家が協調して誕生した大阪初のオーケストラで、この写真には、市中の音楽家と幅広い交遊をもった第四師団軍楽隊楽長の小畠賢八郎さんや後に大阪音楽学校(現大阪音楽大学)を設立した永井幸次さん(1874~1965)らに混じって、林さんの顔も見える。(3列目、左から3人目)

正しく大阪の西洋音楽の黎明期を伝える1枚だ。

その後、第四師団軍楽隊が単独で管弦楽演奏ができるまでに整備されたことも、朝比奈さんの師で、関西の交響楽運動を推進した亡命ウクライナ人指揮者エマヌエル・メッテル(Emmanuel Metter、1878~1941)が市音から管楽器奏者の応援を得ていたことも、市音が管弦楽演奏もやっていたことも、すべては開かれたこの小畠楽長時代に起こったことを基点とする。当然、林さんの幅広い人脈もこの頃から広がりを見せることになった。

朝比奈さんは、前出の座談会で、司会者の小林 仁さんから、林さんとの付き合いを訊ねられて、以下のように答えている。

『当時ね、京都の学生で、そこでメッテルさんというロシア人の指導者がいたんですが、この人は学生を指導する、というよりも、京都の大学を中心にして、関西でオーケストラをやろう、というのがどうもネライなんですね。場所は京都で…そこで当然ここに管楽器が沢山いるわけですから…今は管楽器失業時代ですけれど、その頃は管楽器といえば大阪市音楽隊へ来れば…というのでね、林先生は林先生でバンドばかりやっていたんではいかん、シンフォニーもやらなきゃあというお考えだったんでしょう。それで両者ウマが合ってね。合ったのは良かったけれど、怒られている方は両方から怒られて……(笑)。そんなんで、天王寺の前の音楽堂へメッテルさんの使いで行くと、林先生てのは外から来たお客さんにはエライ丁寧なんですわ。(笑)「用件は今度の練習の時に…」てなこといって「ちょっと新世界へ行こう」いって、あそこの角のビヤホールに連れて行かれるんですよ。』(原文ママ)

いかにも、音楽には厳しく、“怖かった”と誰もが畏れたが、たとえ酒席であっても人前で他人を論評することはなく、配下に対しては細やかな気配りをみせた人だったと伝わる林さんらしいエピソードだ。

1923年(大正12年)3月31日に第四師団軍楽隊(当時53名)が廃止され、平野主水楽長はじめ、約半数の楽員が東京の陸軍戸山学校軍楽隊に移った後も、“大阪市音楽隊”の構想をめぐって市と粘り強く話し合いを続け、ついにそれを実現したのも林さんの大きな功績だ。

この構想は、そもそも、3月末で廃止が決まっている軍楽隊に、大阪市が同年5月21~26日に市内築港の大阪市立運動場などで行なわれる“第6回極東選手権競技大会”における様々な演奏に軍楽隊の協力を求めた話の中から浮上したものだった。

市の話はかなり無理筋の依頼で、話を聞いた軍楽隊の返答は無論“出演不可能”。そのときにはもう隊が存在しないのだから当然だ。しかし、軍楽隊廃止で失職する楽員の行く末を案じ、同じ音楽の分野での再就職先探しで腐心していた第四師団の司令官鈴木荘六中将がこの話を聞きつけ、『それならば、今後のこともあり、この際、退役楽士を大阪市に引受けてもらって、市の音楽隊として再出発させるようにできないものか。』(原文ママ、大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983)と市に逆提案。市の担当者もすぐに池上四郎市長に報告し、市長も、これはアイデアだ、と具体化の検討を命じた。大阪や京都のオーケストラにエキストラを派遣するだけでなく、有償ながら民間の求めに応じかなりの数の演奏をこなした第四師団軍楽隊の大阪の洋楽全般への貢献がそれだけ高かったからだろう。

一方で、陸軍省の廃止方針が巷に伝わり、市民や新聞から“廃止反対”の声が沸きあがったことも、市と師団との間で秘密裏に進められた折衝を大いに後押しした。

しかし、議会筋に「極東選手権大会に奏楽を必要とすることは判るが、それだからといって市が音楽隊を所有するとか、その隊員を市の職員に採用するのは行きすぎではないか」(前出60年誌から引用)という意見があり、市の内部にも「財政の面で、軍が行政整理の対象とした軍楽隊要員を、すぐさま地方行政がこれを引継いで官吏採用することはどうか」(同)という議論もあって、平野楽長自ら先頭にたった折衝はなかなか進展を見せず、2月頃にはその平野楽長の戸山学校への移動も決まり、大阪に残って楽長補として折衝を引き継ぐことになった林さんも30名前後の編成案をいくつか市に提出するなどしたが、廃隊の日まで具体策は何も決まらず、ついにタイムアウト。

廃隊後も市からの連絡はなかなか来ず、極東選手権大会の正式な演奏依頼を林さんが受け取ったのは、大会が開かれる5月の早々。元第四師団軍楽隊だけでなく、各地から呼び集めた有志やエキストラ計15名による、急ごしらえながらも見事な演奏で乗り切った林さんは、翌月の6月1日、大阪市が補助金を拠出する民間の会員組織“大阪市音楽隊”結成の正式決定を得たのである。

発足当時の市音の正会員(楽員)は、17名。身分はまだ市の職員ではなく、規模も林さんが構想した30名前後ではなかったが、今日の“Osaka Shion Wind Orchestra”につながる“大阪市音楽隊”の歴史はこうして始まった。

林時代の市音の演奏活動については、戦前の地方ネタだけに、戦後発刊された東京発のメディアには多くが語られていない。しかし、Shionなどに残された資料を眺めると、大阪市の公式行事などの演奏のほか、400回を超える定期演奏活動や管弦楽演奏、専属だったNHK大阪放送局(BK)からのスタジオ生放送、諸外国などからの来阪バンドとのジョイント・コンサートなど、旺盛な演奏活動が行なわれており、とくに、1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて、作曲家菅原明朗らと結んで、やはりNHK大阪放送局から定期的に生放送された“大阪交響吹奏楽団”(大阪市音楽隊と大阪放送管弦楽団の管楽器奏者により結成)の活動も人気を集めた。

現在のShionのホームページにも見られる“交響吹奏楽”という用語がこんなに早く昭和初期から使われていたことはかなり驚きで、戦後、辻井市太郎団長時代に始まった数多くの海外オリジナル作品の本邦初演や木村吉宏団長時代以降のシンフォニーのレコーディングなど、市音独自の活動のルーツが、すでに昭和初期のこの時代に芽吹いていたことがとてもよくわかる。

また、この間、林さんは、大日本吹奏楽連盟常任理事、全関西吹奏楽連盟理事長等を歴任。関西の民間楽界への貢献も大であった。

そんなわけで、1948年の“偲ぶ大演奏会”には、大阪市音楽団のほか、大阪市警察音楽隊、大阪ハーモニカバンド、天商楽奏会、東商楽友会、大阪音楽高等学校混声合唱団という故人ゆかりの団体が顔を揃えた。

プログラムに名を連ねたレコード各社の社名だけを見ても、林さんがどれだけ大きい存在だったかを知ることになるだろう。

▲プログラム- 故 林 亘氏を偲ぶ大演奏会(1948年7月10日、中央公会堂)

▲辻井市太郎指揮、大阪市音楽団(同上)

▲演奏会の記念帳(Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)

▲近藤博夫・大阪市長の揮毫(同上)

▲「交響」創刊号(1949年2月、関西交響楽団)

▲大阪音楽協会 第1回演奏会(1906年12月2日)(「交響」創刊号から)

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