01「大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983」(大阪市教育委員会、1983年11月)
▲▼プログラム – 大阪市音楽団創立40周年記念演奏会(1964年3月10日、大阪市中央体育館)
『創立60年。人間でいえば還暦。これを祝うとともに、激動と波瀾に満ちた歳月と、先人が歩んだ道をふりかえり、記録にとどめておきたいとの念願から記念誌の発刊を思いたちました。』(原文ママ)
1983年(昭和58年)11月に刊行された「大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983」(発行:大阪市教育委員会 / 編集:大阪市音楽団創立60周年記念事業委員会 / 協賛:大阪真田山ライオンズクラブ)に、当時の大阪市音楽団(市音)団長、永野慶作さん(1928~2010)が書いた“あとがき”冒頭部の引用だ。
永野さんは、市音の指揮をつとめた時代に、大栗 裕の『吹奏楽のための神話~天の岩屋戸の物語による』(1973)と『吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”』(1974年)の2曲を委嘱し、初演の指揮をした人物だ。個人的にもいろいろ教えを受け、公私共にお世話になった。実は、いま手元にある年誌も氏から頂戴したものだ。《参照:第66話 大栗 裕:吹奏楽のための神話》
年誌は、B5版124ページで、濃緑色の硬表紙にタイトルの金文字がキラリ。市音の足跡をつづるこの60年誌は、2014年(平成26年)4月に大阪市直営から民営化、翌年の2015年(平成27年)3月には“Osaka Shion Wind Orchestra”と改称、日本を代表するウィンドオーケストラのひとつとして活躍が続くこの楽団が、かつて創立60周年を期して発行した初の楽団史誌でもある。
1923年(大正12年)に創立し、年間150回ほどの演奏機会がある楽団に、それまで同種の年誌がまるでなかったことは、なんとも不思議な印象を受けるが、その発案から発刊に至る経緯については、市音ファンの会員組織として1974年(昭和49年)に発足した“大阪市音楽団友の会”(会長:辻井市太郎)が隔月発行していたタブロイド紙「市音タイムズ」18号(1983年5月1日発行)に“今秋、市音60年史刊行”という予告記事がまず入り、21号(1983年11月1日発行)に“楽団史誌編纂なる”という完成記事が掲載されている。
それらによると、その編纂プロジェクトは、永野さんの発案で1983年2月末にスタート。元市音団長で日本吹奏楽指導者協会(JBA)会長の辻井市太郎さんを委員長に「大阪市音楽団創立60周年記念事業委員会」(委員:山本 保、六島逸郎、福西幸夫、飯田博一、小林 仁の各氏)も立ち上がり、同年11月の各種記念行事(記念パーティー、記念定期演奏会を含む)に向けて資料収集などの調査、編纂作業が始まった。
委員の内、とくに年誌に深く関わったのは、飯田博一、小林 仁の両氏である。
飯田さんは、戦前から大阪市の文化公報を担当され、1964年(昭和39年)3月10日(火)、大阪市中央体育館で開催された「大阪市音楽団創立40周年記念演奏会」と1973年(昭和48年)9月26日(水)、同体育館で開催された「大阪市音楽団創立50周年記念演奏会」の両プログラムに、市音や役所に残る内部資料や記録から市音の歴史を執筆された。一方の小林さんは、友の会事務局次長でありながら、元は新聞等で活動されたジャーナリストで、独自の調査をもとに、1981年(昭和56年)3月以降、大阪市音楽団友の会会報「おんがくだん」(「市音タイムズ」の前身)に、“大阪市音楽団物語・楽の音永遠に ”というコラムを連載された。
実は、プログラム等に演奏されるプロフィールを除けば、両氏が執筆したこれら3つのノートやコラムが、当時、市音の歴史について唯一の拠りどころとなっていた。
委員会での討議をへて、60周年誌の執筆は、前記コラムを書いた元ジャーナリストの小林さんに任されることに決まった。コラムのための氏の独自調査で、すでに公表された記録にも異説を生じる資料がいくつも出るなど、通説となっている楽団史を外部の目を通して洗いなおす必要にせまられたからである。
《第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲》でお話しした市音60周年記念のために企画したLP「吹奏楽のための交響曲」(日本ワールド、WL-8319、1983年11月)のジャケットに筆者が書いたライナーノートも、もちろん小林さんに目を通していただいた。
当然、楽団のルーツにかかわる史実の再検証も行なわれた。
例えば、市音の前身と書かれることもままある旧陸軍第四師団軍楽隊の隊員は、1923年(大正12年)3月31日の軍楽隊の廃止後、隊長の平野主水陸軍一等楽長をはじめ、約半数が東京の陸軍戸山学校軍楽隊に移り、残りの三分の一が宝塚少女歌劇など、市中の楽団に再就職したこと。
大阪市が補助金を拠出する民間の会員組織“大阪市音楽隊”の結成が正式に決まったのが、第四師団軍楽隊の廃止3ヵ月後の同年6月1日だったこと。さらに市の直轄に移管されたのは、1934年(昭和9年)4月1日。
発足直後の同年8月の楽員17名中、第四師団出身者は、市音の初代指揮者となった林 亘を含めて9名で、残る3名が同じ日に廃止された東京の近衛師団軍楽隊、3名が前年3月31日に廃止された名古屋の第三師団軍楽隊、2名が東京の戸山学校軍楽隊の出身者で構成されていたこと。
結成決定前の同年5月に大阪市の要請で行なった有志による演奏が一度あるが、その際も林 亘が各地から呼び集めた同様の構成の13名に2名のエキストラを加えた15名編成の演奏だった。
つまりは、多くの通説で語られるように、廃止された陸軍第四師団軍楽隊が自動的に大阪市音楽隊になった訳ではなかったのである。
恐らく、小林さんは、自身の調査や取材を通じて、通説とは異なるいろいろな事実を掘り当てていたのだろう。念には念を入れて、年誌には、昔日を知る市音ゆかりの関係者やOBの証言を得るための年代別に分けた2度の座談会の様子も掲載されている。
その内、朝比奈 隆、岩国茂太郎、大岩隆平、辻井市太郎、宮本晋三郎、永野慶作の各氏が出席した“座談会-I、市音誕生前後と林さん”(司会:小林 仁)が当時の空気をよく伝えていて面白い。その一部を引用すると……。
朝比奈:この中に四師団におった人はいるの?
辻井:いや、いません。
朝比奈:現存している人はいる訳でしょう。
辻井:葛生さんだけが……あ、あの人は名古屋か。(註:第三師団)
朝比奈:四師団からの人はもう誰もいない?
辻井:いないですねェ。
朝比奈:ということは大阪市に移管された時に、四師団じゃないところからもいった訳ですね。そうか、わたしも知らなかったんだけれども、われわれ一般市民というのは、第四師団軍楽隊が大阪市音楽団だった、とまあ、非常に簡単な道筋になってるけれども、今お話し伺うと、四師団を主力に、各陸軍系の軍楽隊の方が参加された、ということですな。
司会:そういうことですね。
朝比奈:ここんところは一般の人は知らんワ。僕でも今はじめて聞いたもの。(岩国氏に)あなたはどういう経路からお入りになったの。
岩国:わたしは三越。(註:三越少年音楽隊)
朝比奈:三越か……(辻井氏に)あなたはもう頭から……。
辻井:そうなんですよ。
朝比奈:えらい所にとび込んできた。(笑)
辻井:もう最初に一発かまされてね。(笑)
朝比奈:そらあ林先生っていう方は非常に厳しい方でしたからね。何も隊員でなくても、わしらでも怒られたんだから。(笑)大岩君はいたことあるの。
大岩:ここに10年おったの。(註:のち関西交響楽団、大阪フィル)
朝比奈:ああそう。それは知らんかったなァ。
(以上、筆者註をのぞき、原文ママ)
何かとウマがあった朝比奈さんと辻井さんの掛け合いが面白いが、教育委員会の出版物なので、ぜひ図書館などでお読みいただきたい。《参照:第126話 ベルリオーズ「葬送と勝利の交響曲」日本初演》
小林さんは、“大阪市音楽団物語・楽の音永遠に ”の初回(1981年3月1日発行)にこう書いている。
『古い歴史と伝統と称せられながらこの楽団の年譜というか、まとめられた資料がまるでない。(当の楽団にもないのだから……)。少なくとも現在そのルーツを探る手がかりの大部分は時の流れの中に埋もれつつある。この物語を進めるのは、消え去ろうとする歴史的事実を一つ一つ発掘することから始まる。……。とにかくやれるところまで私は書きつづけてみたいと思っている。』
▲永野慶作(1928~2010)
▲林 亘(1886~1948)
▲▼座談会風景(大阪市音楽団練習場アンサンブル室、1983年)