■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第147話 ブリーズ・オン・ステージ

▲チラシ – ライムライト・コンサート(1991年6月17日、大阪厚生年金会館中ホール)

▲プログラム – ライムライト・コンサート(同)

▲同、演奏曲目

▲同、演奏メンバー

『本日は、ブリーズ・ブラス・バンド・ライムライト・コンサートにご来場下さいましてありがとうございます。昨年の7月2日、いずみホールに於きまして皆様のあたたかい拍手に支えられてデビューをさせて頂いて以来、西日本各地で様々なコンサートを、又、レコーディング等を活動の軸に過ごしてまいりましたところ、早くも一周年を迎えようとしています。B.B.B.では今後の演奏活動を3つのスタイルで展開して行く事に決定致しました。

「ライムライト・コンサート」(本拠地大阪での本格的なスタイルのコンサート)

「ブリーズ・イン………」(各地でのコンサート)

「ア・ファンタスティック・ナイト」(ライト・ミュージックを中心としたコンサート)

これからも益々意欲的に取り組んでいきたく、皆様のご支援を心からお願い申し上げます。

間もなく開演です。“ブラス・バンド・ミュージック”ごゆっくりとお楽しみ下さい。

Breeze Brass Band 一同』

1991年(平成3年)6月17日(月)、大阪厚生年金会館中ホールで開催されたブリーズ・ブラス・バンド(BBB)初の定期公演“ライムライト・コンサート”のプログラムに、BBB代表で常任指揮者の上村和義さんが書いたファンへの挨拶文の全文である。

幾つかの来日バンドの大阪公演を除くと、およそナマの“ブラスバンド”なんか聴いたことがないという音楽ファンが圧倒的大多数をしめる大阪の地にプロの“ブラスバンド”を本格的に立ち上げるという、いわば“未知との遭遇プロジェクト”である。参加するプレイヤー諸氏も、専門大学の学生時代に“室内楽”や“オーケストラ・スタディー”のトレーニングをつんだ経験はあっても、イギリスのように“ブラスバンド・スタディー”まで受講できるわけではないから、BBBでは、まず、プレイヤーに“ブラスバンドとはどういう音楽なのか”という音楽的構造を実際の演奏を通じてほとんどゼロから体感してもらいながら、経験値を積み上げていくという内的な課題がある一方、外的には“ブラスバンドの魅力”をいかにして広め、“ブラスバンド”というジャンルの固定ファンをどう獲得していくのかというテーマを同時進行的に追い求める必要があった。

これらの諸点において、1990年(平成2年)7月2日(月)、いずみホールで行なわれたBBBの「デビュー・コンサート」の成功は、そこに至る様々なプロセスと音楽的準備の賜物であり、バンドの大きな財産となった。評論家諸氏の演奏評も概ね好意的で、何よりもサクソルン属金管楽器を中心に編成される“ブラスバンド”のパイプ・オルガン似のサウンドを初めて耳にした音楽ファンからの熱狂的な反響とともに、ライヴ・テープを送って聴いてもらった海外の作曲家や指揮者から戻ってきた期待をこめた感想もバンドを大いに勇気づけることになった。(参照:《第140話 ブリーズのデビューとブラック・ダイク》)

“今ヨーロッパで起こっている新しい潮流を、タイムラグなくオン・タイムで日本で再現する!”という基本コンセプトを売りに、大阪でひとりぼっちで立ち上がったBBBではあったが、どういう経緯なのか分からないが、前述のライヴ・テープの1本がロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場のオーケストラ監督ブラム・ゲイ(Bram Gay、1930~2019)の手に渡り、その演奏評がイギリスの「ブリティッシュ・バンズマン(British Bandsman)」紙(1887年9月創刊)を飾ったこともあった。

BBBが、デビュー前から本場イギリスと双方向のコミュニケーションをキープしながら、世界の“ブラスバンド・ファミリー”の輪に加えてもらえた事実は大きい。

そして、その成果として、BBBは、未出版や日本に楽譜が入ってきていない楽曲をつぎつぎと日本のステージに上げること(日本初演)ができたのである。指揮者や独奏者からの売り込みも結構あり、大阪にやってきた来日オーケストラの金管プレイヤーが何人かで突然訪ねてきたこともあった。世界的なネットワークがどんどん広がっていったのである。

デビュー後、BBBは、次年度から始める定期公演に向け、海外の新譜レコードがどんどん届く拙宅に定期的に集まり、レコードを流しながら、2年後以降の活動方針についてミーティングを重ねた。まるで、作戦本部である。

最初に決めたのは、活動の中核となる定期公演の名称を“ライムライト・コンサート”に定めたことだった。これは、上村さんが、せっかく新しいことを始めるのに、“BBB第~回定期演奏会”というような、どこにでも転がっていそうな堅苦しいものではなく、何か都会的で洒落っ気のあるものにしたいと発議したことから議論が始まり、参加者全員で提案を出し合った結果、最終的に筆者のアイデアが賛成多数で採択された。とても名誉なことだった。

ついで、自主公演を年4回開催と決定。ブラスバンドの真価を問う“ライムライト・コンサート”は大阪で年2回開催とし、大阪以外の地で行なう“ブリーズ・イン・(地名)”と、ポップなテイストを感じさせるレパートリーを色照明やミラーボールなどでショーアップしながら聴かせる“ア・ファンタスティック・ナイト”をそれぞれ各1回行なうことにした。

レパートリー面では、「デビュー・コンサート」で取り上げたフィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ジュビリー序曲(Jubilee Overture)』、『オリエント急行(Orient Express)』、『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』がすこぶる好評だったので、「ライムライト・コンサート」のシリーズでは、スパーク路線は継続し、加えてベルギーの新星ヤン・
ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の注目作『エクスカリバー(Excalibur)』を取り上げ、エリック・ボール(Eric Ball)やゴードン・ラングフォード(Gordon Langford)などのクラシカルな名作もくりかえし継続的に手がけていくことになった。

ともかく、当時のBBBのミーティングは、メンバーが皆若く血気盛んであり、その大阪にはない新しいカルチャーを作ろうとする意気込みには並々ならぬものがあった。

しかし、そんなところに水をさす事件が起こった。

一度は次年度の使用もOKが出ていたいずみホールから、ステージ上の奏者の数にクレームがついたのである。多すぎると。

当時、BBBのマネージメントは、大阪アーティスト協会を通じて行なわれていたが、協会からホール側の話を伝えられた上村さんは、最初は何の話なのかさっぱり意味がわからなかったそうだ。その話を上村さんから電話で伝え聞いた筆者も右に同じで、協会も当惑していた。

“クラシック音楽専門ホール”を謳ってオープンしたこのホールには、何でも音楽ディレクターという演目を審査する人がいたそうだ。(知らんけど)

上村さんから話を聞いた筆者は、直感的に『どこの偉い人か知らんけど、“ブラスバンド”に関しては皆目“素人”やな。』と感じたので、25パートある金管楽器に打楽器が加わる“ブラスバンド”の楽器編成の詳細を協会からホールに伝えてもらい、そのために書かれた楽曲を演奏表現するには、どうしてもこの音数(おとかず)が必要になると話してもらうことにした。

しかし、それが先方の心証を害したようだ。しばらくして再びかかってきた電話で、上村さんは、『とにかく人数を減らせ、の一点張りなんですわ。何でも、ホールのシャンデリアがビリッと言ったとか言わなかったとか。訳わからんことをぬかしてます。金管は大きな音がする、という先入観をもっている相手のようで…。しかし、おかしいんですよ。ボク、大阪シンフォニカー(現、大阪交響楽団)で、サンサーンスの“オルガン・シンフォニー”をフルでやりましたし、そのときは人数制限の話なんか出てなかった。』という。

筆者も『そうですね。こちらも、録音をお願いしたホールのベテラン音響さん(元NHK)から、“こんど、自衛隊の“軍楽隊”が来るんで、楽しみにしてるんです。”と聞きましたし、どこかのオケが(ストラヴィンスキーの)“火の鳥”をやるとも聞きました。』と応じ、とにかく協会にもう一度ていねいに話をしてもらうことにした。

しかし、やがて返って来た回答は、まるでふざけたものだった。

上村さんは、電話で『そこまで言うのならやってもいいが、ただし、金管は12名以下で演奏するように、と言ってきました。埒あきませんわ。』と怒り狂っている。

ここまで来ると、たちの悪いただの言いがかりのように聞こえる。

筆者も、一般貸しの日の演目にそこまで首を突っ込んでくるホールの“上から目線”にカチンと来たのと同時に、200年近くほぼ同じ楽器編成で演奏を積み上げてきた“ブラスバンド・ミュージック”に対する侮辱だと受け取った。

大阪ネイティブがこんな不条理を鵜呑みにすることはない!

上村さんには、速攻で『ホールを変えよう』と提案!!

BBBの定期公演の会場がキャパが821席のいずみホールから、1110席の大阪厚生年金会館中ホールに移ったのは、以上のような事件に直面したことが主原因だった。

幸い、年金の中ホールは、平成元(1989)年まで活動した大阪府音楽団(府音)がしばしば定期演奏会を開催してきたホールで、管楽器の音楽にひじょうにフィットした“いい音”のするホールとして知られていた。その上、演目にアレコレ口を挿むような高飛車なホールではなかった。(参照:《第37話 大阪府音楽団の記憶》)

その一方、BBBのミュージカル・スーパーヴァイザーとしては、この一件を通じ、もっと多くの音楽ファンに“ブラスバンド・ミュージック”を身近に知ってもらう必要性を強く感じた。

ファン作りの推進である!

その結果、生み出されたのが、1992年から1994年の3年間に合計6タイトルを自費制作したCD「ブリーズ・オン・ステージ」シリーズである。コンサートの来場者に“ブラスバンド・サウンド”をお土産として家まで持って帰ってもらおうという志向の企画だった。

使用音源は、すべて筆者が録ったBBBのライヴ録音で、編集は一切無し。ために曲によっては小さなキズがなくもないが、“積極的にチャレンジした結果起こった事件は不問”という筆者の制作方針から、CDの音楽的内容の一切は演奏者ではなく筆者の責任に帰す。なので、些細なキズより、BBBが作ろうとしていたサウンドやノリが体現されているものを積極的にCD化した。

これがBBBのコンサートに来場するファンに受けた!

そして、各会場で毎回100枚以上が売れる“隠れヒット作”となった。

と同時に、バンドのサウンドはぐんぐんピュアになっていき、プレイのモチベーションも向上。やがてBBBは、ヨーロッパに招かれるまでのグループとなった。

これは、正しく“怪我の功名”!!

わが音楽人生の中でもトップ5に数えることができる“強い憤り”を音楽作りのエネルギーに昇華させたひとつの大事件であった。

▲CD – Breeze On Stage Volume 1 Postcard from Mexico(BBB、BBBCD-001、1992年)

▲BBBCD-001 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 2 Oceans(BBB、BBBCD-002、1992年)

▲BBBCD-002 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 3 Stage Centre(BBB、BBBCD-003、1993年)

▲BBBCD-003 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 4 Pantomime(BBB、BBBCD-004、1993年)

▲BBBCD-004 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 5 Slipstream(BBB、BBBCD-005、1994年)

▲BBBCD-005 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 6 Romance(BBB、BBBCD-006、1994年)

▲BBBCD-006 – バックインレー

「■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第147話 ブリーズ・オン・ステージ」への2件のフィードバック

  1. この会場に居ました。同時大阪ハーモニーブラスのファン、なりました。

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