■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第106話 「祝典行進曲」の初演

▲アサヒグラフ臨時増刊 皇太子御結婚記念画報(朝日新聞社、1959年4月16日発行)

▲アサヒグラフ 皇太子御結婚記念画報第二集(朝日新聞社、1959年4月26日発行)

▲「朝日新聞」社告(昭和34年3月21日(土)朝刊、12版、11頁)

『私は、四拍子のマーチはけっして認めませんが、これだけは別です。』

2019年(令和元年)6月14日(金)、東京、杉並公会堂大ホールで催された「タッド・ウインドシンフォニー第26回定期演奏会」に向け、千葉県松戸の“森のホール21リハーサル室1”で行なわれた前2日の練習の初日、アンコール曲にとりかかる前の指揮者、鈴木孝佳さんが演奏家に向け発した一言である。

曲は、團 伊玖磨(1924~2001)作曲の『祝典行進曲』。

2019年(平成31年)4月30日限りで天皇を退位された上皇陛下がまだ皇太子だった頃、1959年(昭和34年)4月のご成婚に際し、東芝レコードの委嘱で作曲され、宮内庁を通じて献上されたグランド・マーチだ。

タッド・ウインドシンフォニーとは、2006年以来のおつき合いだ。『祝典行進曲』の練習は、一度通しただけで終わったが、ザッ、ザッと大地を踏みしめるようではなく、まるで宮殿の絨毯の上を優雅に歩むようなテンポ設定と進行は、とても新鮮だった。

しかし、演奏を聴きながら、筆者は、あまりにも有名なこの曲について、曲が世に産ぶ声を上げたあたりのことを、これまでほとんどリサーチする機会がなかったことに気づいていた。

もちろん、この曲が、その後、同年の「全日本吹奏楽コンクール」高等学校の部の課題曲として使用され、同11月15日(日)、八幡市民会館(福岡県)で開かれた全国大会では、関東代表の大宮工業高等学校吹奏楽団(指揮:秋山紀夫)が優勝。5年後の1964年(昭和39年)10月に開かれた「東京オリンピック」の開会式の入場行進でも演奏されたことなど、誰でも知っている基礎データは一応頭の中にあった。しかし、作曲時の意図や、初演奏がどのようなシチュエーションで行なわれたかという詳細になると、間違いなくリサーチ不足だった。

そこで、“これは良くない!!”と、エンジン始動!!

スイッチが入った筆者は、帰阪すると早速リサーチを開始した!!

すると、幸いにも、ヒントになりそうなものがいくつか出てきた。

1つは、ご成婚を祝して、東芝レコードがリリースしたEPレコード「祝典行進曲 / 越天楽」(東芝レコード、EC 1001、1959年)のジャケットに書かれた作曲者のノート「祝典行進曲について」だった。

レコードの演奏者は、團 伊玖磨指揮、東京ブラス・オーケストラ!

言うまでもなく、自作自演で録音された『祝典行進曲』の世界初のレコードだ。録音時の写真も掲載。ノートも作曲者本人が書き、それには作品発表当時の作曲者の率直な気持ちが綴られていた。その音楽史的な意味たるや、他と比ぶべくもない。

あまりに貴重な文章なので、ここに引用しておきたい。

『皇太子殿下の御成婚の盛儀に際し、この行進曲をつくり上げるよろこびは、私にとって、大きく、深く、且つ真面目なものでありました。

行進曲は、古来健康なものである筈なのですが、我が国では、その歴史が常に軍隊と結び付いていたために戦闘的な主題に限られたものが多く、躍動的な明るい行進曲が甚だ少なかったようです。

平和な明るさを持ち、そして気品と格調の高い今の世の中の行進曲を作りたい。それは私の前々からの願いでした。戦争という暗い目的のための行進曲と異なるスタイルを創り上げることが出来たとすれば、それは“お祝い”という希望が創らせてくれたのだと考えます。(團 伊玖磨)』(原文ママ、東芝レコード、EC 1001、1959年)

初演前に書かれた文章だけに、当然それに関わるデータはない。

しかし、近くに並べてあったもう1枚のEPがそれをカバーしてくれた。

それは、《第23話 ギャルド、テイクワンの伝説》でもお話したフランスのギャルド・レピュブリケーヌ初来日時の1961年11月16日(木)、杉並公会堂(東京)で、東芝音楽工業のリクエストで録音されたEP「ギャルド・レピュブリケーヌ日本マーチ集」(Angel(東芝音楽工業)、YDA-5001、1962年)だった。

ジャケットにはこう書かれていた。

『昭和34年皇太子・美智子妃の御成婚を祝して、東芝レコードが團伊玖磨(現東芝レコード専属)に委嘱して作った優れた行進曲です。同年4月国立競技場に7万の聴衆を集めて初演され、~(後略)~』(原文ママ、執筆者不詳)

演奏者と日が未確認だが、これで“いつ”と“どこで”が大方明らかとなった。

ここまでくると、新聞や雑誌など、当時の紙媒体が頼りになる。そう直感した筆者は、図書館や古書店に狙いを定め、片っ端からページを捲っていった。

すると、まず、「朝日新聞」昭和34年3月21日(土)朝刊掲載の社告「皇太子さま御結婚 祝賀吹奏楽大行進 四月十日 全国六十七都市で」と、同4月9日(木)夕刊掲載の記事「あす 各地で吹奏楽大行進」が出てきた。

それらをまとめると、皇居で挙式が行なわれた4月10日(金)、東京では、式後、午後2時30分に皇居を出発して東宮仮御所に戻られる馬車列を追う形で“吹奏楽大行進”(主催:東京都、朝日新聞社、協賛:全日本吹奏楽連盟、東京芝浦電気株式会社)が行なわれ、その後、午後5時30分から明治神宮外苑、国立競技場で“お祝いの夕”(主催:朝日新聞社、共催:東京都、協賛:東京芝浦電気株式会社)が開かれることが告知されていた。

『祝典行進曲』の曲名は、残念ながらどこにも見当たらなかったが、社告にある国立競技場の“お祝いの夕”で“ご成婚奉祝行進曲合同演奏 参加全音楽隊”とあるのが、どうやらそれらしい。そして、この2年後に録音されたギャルド盤に、国立競技場での初演が明記されていたので、その前に行なわれた“吹奏楽大行進”ではこの曲が演奏されなかったことが、ここで確認できる。

ナイターで行なわれた光の祭典「皇太子さまご結婚お祝いの夕」については、翌日の「朝日新聞」昭和34年4月11日(土)朝刊7頁の記事「「おめでとう」の人文字 お祝い気分最高潮 国立競技場、昨夜六万人集る」が写真4枚入りで詳報している。

その記事の中に『第二部の演技では、まずこの日のために作曲された「祝典行進曲」を音楽隊が合同演奏し、スタンドの奉祝気分ももり上がる一方。…』とある。

ついに、曲名が出てきた!

他方、「アサヒグラフ」1959年4月26日号には、『マスゲーム「御成婚祝典行進曲」では、女生徒1300人が紅白の懐中電灯で舞踏』とキャプションがつけられた写真が掲載されていた。映像や音で確認できた訳ではないが、第二部冒頭の初演の後、祭典のクライマックス近くの東京女子短期大学の学生と藤村高校の生徒による音楽マスゲームでもあるいはこの曲が流れたのかも知れない。

作曲者の團さんは、その後、有名なエッセイ集の第22巻「降ってもパイプのけむり」(朝日新聞社、1994年)の“祝典行進曲”(1993年6月25日~7月9日に執筆)の中で、曲の立案者が東芝レコードの砂田 茂専務と團さんで、具体化には同社の芦原 貢プロデューサーも加わったこと。太平洋戦争中、陸軍(戸山学校)軍楽隊の鼓手を務めた経験から旧軍の行進曲の構造や慣用作法を熟知しており、その匂いを細部まで払拭することにつとめたこと。今度は馬車のパレードなので、優雅で気品のある音楽を書こうとしたこと。国立競技場で初演を行なったバンドが、陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊、航空自衛隊航空音楽隊、警視庁音楽隊、東京消防庁音楽隊、皇宮警察本部音楽隊、アメリカ第五空軍音楽隊の合同演奏だったこと。御成婚の馬車パレードで演奏されなかったのは、従来の行進曲とは違う書法の曲だけに暗譜が難しいという理由からだったことなどを明らかにされている。

最後に残るポイントは、初演指揮者が誰だったかの特定だが、前記新聞のモノクロ写真の解像度を上げてみると、国立競技場のフィールド上に、結構な高さの指揮用の仮設スタンドがいくつか組まれ、その上に人が立っているので、大人数の合同演奏の指揮は、副指揮者をたてて手分けして行なわれたのかも知れない。

仮にそうだとすると、指揮者を一人だけ特定することは、もはや大きな意味を持たない。

かくて、團 伊玖磨の『祝典行進曲』は、当時の皇太子殿下の御成婚を祝して東芝レコードの委嘱で作曲され、1959年(昭和34年)4月10日(金)、東京・明治神宮外苑、旧国立競技場で行なわれた「皇太子さまご結婚お祝いの夕」で、陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊、航空自衛隊航空音楽隊、警視庁音楽隊、東京消防庁音楽隊、皇宮警察本部音楽隊、アメリカ第五空軍音楽隊の合同演奏で初演された。

あー、スッキリした!

これでグッスリ眠ることができる!

▲EP – 「祝典行進曲 – 越天楽」(東芝レコード、EC 1001、1959年)

▲同、ジャケット裏

▲EC 1001 – A面レーベル

▲EC 1001 – B面レーベル

▲團 伊玖磨著「降ってもパイプのけむり」(朝日新聞社、1994年2月1日、第1刷)

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