▲LP – The National Band of New Zealand at Expo’70(ニュージランドWorld Record Club、SLZ 8318)
▲SLZ 8318 – A面レーベル
▲SLZ 8318 – B面レーベル
1970年(昭和45年)は、気分が高揚するとてもハッピーな一年だった。
大阪・千里丘陵で開催された“日本万国博覧会”で、プロ、アマを問わず、地元バンドがホスト役となって大活躍し、世界各国から続々とバンドが来演したからだ!
そのときの気分をネイティブ語で言い換えるなら、“めっちゃ、おもろい!”
これを東京弁に翻訳すると、おそらく“信じられないぐらい愉しい!”とか“とっても面白い!”が交じり合ったちょうどその中間あたりのニュアンスになるんだろうが、それはともかく、この万国博では、吹奏楽が吹奏楽らしく躍動する役割を担っていた。
月刊誌「バンドジャーナル」(音楽之友社)も、東京発の全国誌としては例外的に思えるほど、この関西発ローカル・ネタに大きくページを割いていた。中でも、普段は聴くことがない海外からの来演バンドのニュースは新鮮に響いた。
そして、最寄りの大阪市営地下鉄御堂筋線「心斎橋」駅から電車に乗りさえすれば、会場入り口の北大阪急行電鉄「万博中央口」駅まで直通運転で一直線という、我が家の地の利の良さ、これがよくなかった。
世界のバンド三昧の始まりである!
世間では、アポロ12号が持ち帰った“月の石”が話題となった“アメリカ館”や、宇宙船が展示された“ソビエト館”のパビリオンが人気を集めていたが、筆者は、もっぱらナマのバンドのパフォーマンスを聴くために万博に向かった。(もちろん、米ソ両パビリオンにもそのついでに入場したが….。)
大阪音楽大学教授の木村寛仁さんとの雑談の中でこの話題で盛り上がったことがある。そのとき、氏は『ボクは7回行きました。』と言われていたが、筆者はいったい何度会場に足を運んだのだろうか!それは、もう記憶には残らないほどの数になっていたはずだ。
しかし、新聞、テレビ、口コミなど、いろいろな情報ソースをよりどころに、せっせと万博会場に向かっていた自分がいたことだけは覚えている。
とは言いながらも、万博会場では多種多彩な催しが同時進行的に行なわれた。その日になって、現場で突然決まる演奏や曲目もあり、当然、見逃しや聴き逃しもあった。
そんなとき、「バンドジャーナル」1970年8月号から11月号まで短期連載された伊藤信雄さんの「万博だより ── お祭り広場で活躍する世界のバンド」や関連インタビュー、グラビアが本当に役に立った。
また、博覧会閉幕後の座談会記事「万国博を終えて」(同、1970年11月号)も、当時の現場の空気や感想を活字で残すことになった。
座談会の出席者は、麻 正保(日本万国博覧会事業第一課長)、渡辺武雄(日本万国博覧会プロデューサー)、鈴木竹男(阪急少年音楽隊隊長)、松平正守(池田市立呉服小学校教頭)、松岡楽男(報徳学園教諭)の各氏。
座談会の中身も、関西らしく、いろいろな感想が自由に飛び交う様子がおもしろいが、その中で、現場を仕切った麻さんの口から出たつぎの発言が博覧会サイドの吹奏楽に寄せる期待を知る上でひじょうに印象に残る。
『お祭り広場は、アマチュアが参加するというのがたてまえでございます。これだけの広い空間を埋めていく人数的なことと、音ですね。それとの両方の調和、それには吹奏楽の演奏とパレードがぴったりくると考えたわけです。』(原文ママ)
兵庫県の西宮球場で催されていた「2000人の吹奏楽」の内容も何故かよく知っていた博覧会側のこの着想が、3月14日(土)の開会式から9月13日(日)の閉会式に至る博覧会期間中、吹奏楽が前面に出て活躍する原点となった。
そして、前記座談会メンバーのほか、開催前年の1969年まで全日本吹奏楽連盟理事長だった朝比奈 隆さんや作曲家の大栗 裕さん、大阪市音楽団長の辻井市太郎さん、大阪府音楽団指揮者の井町 昭さん、後に大阪音楽大学学長になった西岡信雄さんら、関西の音楽界全体が、オモテになりウラとなって催しを盛り上げたのは、周知のとおりだ。
このエネルギーが、各国のナショナルデーにも、イタリアのローマ・カラビニエーリ吹奏楽団(Banda dell’Arma di Carabinieri di Roma)やイギリスのスコッツ・ガーズ・バンド(The Band of the Scots Guards)など、演奏者の人数や楽器編成にもお国柄を感じさせる多種多彩なバンドの来演を実現させる原動力となった。
そんな来日バンドの中にあって、7月8日(水)のニュージーランド・ナショナルデーに来演した“ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド(National Band of New Zealand)”も忘れられないバンドの1つだ。
“太陽の中のキーウィ”と題されたこのショーは、ニュージーランド放送が一年前から企画を練ったもので、総出演者数は270名。“ナショナル・バンド”は、音楽監督エルガー・クレイトン(Elgar Clayton)ほか、バンドマスターを含めた57名のフルメンバーで登場し、マーチングとコンサートを披露した。
この“ナショナル・バンド”が組織されたのは1953年。ニュージーランド国内の50のバンドからオーディションで選抜されたメンバーで構成され、世界各国へ派遣されるなど、ニュージーランドを代表するブラスバンドとして世界的に知られる存在だ。レコードも、本国以外でも、アメリカ、イギリスなどでリリースされていた。
日本万国博覧会への来演は、ロシア、イギリス、オランダ、カナダ、アメリカを含む4ヶ月にわたる世界演奏旅行の一環として実現したもので、演奏旅行中に実に175回のコンサートやディスプレイが行なわれたことが記録に残っている。
関東方面での演奏がなかったためか、東京のブラスバンド関係者にもほとんど知られていないが、これが日本で初めてナマで響いた海外のブラスバンドのサウンドだった。
木管が入った吹奏楽の音しか知らなかった者にとって、サクソルン族の金管楽器を中心に編成させるナマの“ブラスバンド”のサウンドは、正しく“未知との遭遇”!
筆者に、大きく目を開かせることになった瞬間だった!
「バンドジャーナル」1970年10月号のグラビアのほか、万国博でのパフォーマンスの一部は、ニュージーランド・ナショナル・フィルム・ユニット(New Zealand National Fim Unit)が制作した短篇記録映画「THIS IS EXPO」(公開:1971年)に収録され、今でもネットを通じてニュージーランドのフィルム・アーカイブから見ることができる。
その溌剌とした姿とハートに響くサウンドを聴く度に思う。
すばらしいかな、ナショナル・バンド!
▲LP – The National Band of New Zealand(英Great Bands、GBS 1012)
▲GBS 1012 – A面レーベル
▲GBS 1012 – B面レーベル
▲LP – Colonel Bogey on Parade(ニュージーランドSalem、XPS 5043)
▲XPS 5043 – A面レーベル
▲XPS 5043 – B面レーベル
▲LP – Polished Brass(米Orion、ORS 80932)
▲ORS 80932 – A面レーベル
▲ORS 80932 – B面レーベル
▲「バンドジャーナル」1970年10月号(管楽研究会編、音楽之友社)
▲「バンドジャーナル」1970年11月号(管楽研究会編、音楽之友社)
「■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第95話 ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド来日」への3件のフィードバック