▲阪急商業学園 阪急少年音楽隊 創立30周年記念写真集(1986年3月)
▲同、ごあいさつ
▲「月刊吹奏楽研究」1957年7月号(通巻43号)(月刊吹奏楽研究社)
『いつの間にか“30年”の月日が過ぎてしまいました。西宮球場の6階の一隅に、なんとか学科の学習と音楽の練習ができる教室と、職員室兼事務室の僅かな2部屋で阪急少年音楽隊として発足したのが昭和32年4月ですから間違いなく“30年”になります。….。』(原文ママ)
阪急少年音楽隊の隊長、そして阪急百貨店吹奏楽団の常任指揮者として知られた鈴木竹男さんから贈られた「阪急商業学園 阪急少年音楽隊 創立30周年記念写真集」(1986年3月発行)の巻頭を飾る氏の挨拶文は、こんな書き出しで始まる。
文中の西宮球場とは、かつてプロ野球“阪急ブレーブス”が本拠とした球場で、阪急神戸線と今津線が交差する「西宮北口」駅の南側正面すぐのところにあった。吹奏楽ファンには、1961年に“春の吹奏楽~1000人の合同演奏~”の名で始まった“2000人の吹奏楽”(後に“3000人の吹奏楽”と改称)の会場としておなじみだった。
阪急少年音楽隊は、1957年(昭和32年)3月15日、当時の阪急百貨店社長、清水 雅さんの発意により創設された。
「記念写真集」には、清水社長による“創設趣意書”が掲載されている。
『我が国は昨年国連に加盟し名実共に自主独立の民主国家として着実に再建の道を歩んで居りますことは誠に御同慶の至りに存じます。
音楽を愛する者は平和の愛好者と申します。世界の平和と相互の理解を促進する上に音楽の果す役割は誠に大きなものがあるのみならず、職場や家庭におきましても音楽による情操教育によつて明るく楽しい雰囲気を作り、又能率の向上に資しておりますことは御承知の通りで御座います。
阪急百貨店は企業の性質上 創業以来 常に文化生活の向上に関し深く関心を持って参りましたが、特に阪急経営の一環として宝塚音楽学校との関係も御座いまして、音楽につきましても由縁浅からざるものが御座います。この度阪急百貨店に阪急少年音楽隊を創設致しましたのもこの阪急の文化的基盤に立って、純真なる少年に音楽を通じて豊かな教養と情操を与え、近き将来阪急百貨店の社員として立つにふさわしい資質を習得せしめ、職場の明朗化をはかり、楽しい社会を作り上げ度念願する次第で御座います。 昭和三十二年三月』(原文ママ)
指導者となる隊長には、西宮市立今津中学校(兵庫県)の英語教諭で、音楽部の指導者としてバンドを創り、1955~56年の“全関西吹奏楽コンクール”で同部を2年連続の第2位に導いた鈴木さんが、副隊長には、阪急百貨店の楽器売場主任の小川原久雄さん(後に、第11回全日本吹奏楽コンクール(1963年)の課題曲『朝のステップ』を作曲する)が選任された。
しかし、新しいものを創る際によくあることだが、諸準備に予想以上に手間取り、募集開始の発表は、1956年3月7日の朝日、毎日両新聞への広告掲載の日までずれ込んでしまった。関係者一同、こんな年度末ギリギリの発表で果たして応募者があるのかどうか心配したが、蓋を開けてみると、100名を超える応募者があり、ホッと胸をなでおろしたという一幕もあった。
初の入隊テスト(今日流に言うなら“オーディション”)は、同年3月28日に実施され、学科試験を百貨店人事部が管轄し、実技試験は大阪市音楽団団長の辻井市太郎さんと、大阪府警察音楽隊隊長の山口 貞さんの立会いのもとに行われた。
結果、4月10日、阪急百貨店8階会議室で行われた晴れの入隊式を迎えたのは、第一期生の18名だった。
当時、唯一の吹奏楽誌だった「月刊吹奏楽研究」(月刊吹奏楽研究社)(第74話:「月刊吹奏楽研究」と三戸知章、参照)も、いち早くこの動きを捉え、1957年7月号(通巻43号)19頁に「阪急少年音楽隊 教育はじまる」という記事を掲載した。
記事中、興味深い箇所を引用すると…
『…。この少年隊員は三ヵ年の教育を受ける。専門教育の音楽の外に商業教育として英語、商業、珠算、国語、数学、理科、社会、習字、美術まで学び、三年の教育を終ったときは、社員に採用、新制高校卒業生と同じ待遇を受けることになる。その間月額八千円程度の給与を受け楽器制服を支給されるという好条件である。デパートの少年音楽隊は、三越、松坂屋などにその前例はあるが、現在はどこも持っていない。….。楽長に就任した鈴木竹男氏は今津中学バンドを超中学の実力バンドに育て上げた有能な指導者であるから、この音楽隊が年々新隊員を採用し予定の編成になった時、新しい関西の新名物楽団が美しく開花するであろう』(誤植を除き、原文ママ)
執筆者名はないが、書きっぷりから編集主幹の三戸知章さんの文章だろう。
また、同記事には、前記の清水社長も文を寄せている。
『その昔、欧州に住んでいた頃、ライン地方を自転車で走り廻っていたことがある。スイスの近くでムールーズと云う小さな町があって、どういうわけか、ここで何日か宿っていたが何かの機会に来がとてもさわがしいので、二階の窓をあけて見たら、丁度二つの列がすれ違っている時である。先頭に小さな棒をもった指揮者がいて、後からフルート、太鼓、ラッパなどの音楽隊が整然と進んでいく後から、無数の行列がいつまでも続いている。気持のよいものだなあ、と思っていたが先般アメリカに旅行したら、今度は女のこうした音楽隊に打つかった。…(中略)…。この女子音楽隊は数曲の気持のよい音楽を聞かせて呉れたが、その度に万雷の拍手が起って、全くよい雰囲気である。こんなものを阪急百貨店がもっていたら、随分世間からよろこんでもらえるだろう….』(原文ママ)
ほどなく、阪急少年音楽隊は、お茶の間のラジオのリスナーの人気者となった。
1958年(昭和33年)3月11日から、大阪の新日本放送(後の“毎日放送”)が、日曜日を除く毎日、午前10時5~15分のラジオ番組「緑の手帖」(阪急百貨店提供)の放送を開始、演奏が電波に乗るようになったからだ。
その後、1960年(昭和35年)3月8日からは、「緑の手帳」に加え、ライバル局の朝日放送ラジオでも「朝のファンファーレ」(午前8時10分開始)(阪急百貨店提供)という番組の放送が開始され、阪急少年音楽隊は、これら2本のラジオのレギャラー番組を通じて、幅広いファンを獲得していった。
ラジオ収録は、年に25回から35回程度あったと記録されている。全国すべての情報を知り得ているわけではないが、日本広しといえども、 民放 ラジオのレギュラー番組を2本持つバンドは他になかったのではないだろうか。
ともかく、関西の吹奏楽ファンの朝は、阪急少年音楽隊の演奏と共に始まったのである。
「記念写真集」には、「緑の手帳」のプロデューサー、佐藤 操さんのつぎのようなコメントも掲載されている。
『阪急少年音楽隊とは、その誕生から今日まで実に長いおつき合いですが、一口にいって大変真面目で感じのいい音楽隊です。また、あの年齢にありがちな生意気さが全然なく、実に素直です。演奏そのものも上品で、各人が非常に熱心、自分達の入れた録音テープを巻き返してくれと要求されては、いつもそれを聞いてお互いに批判研究されています。50名という音楽隊は人数から申しましてもすばらしく、3学年に分かれていますが実に良く統制がとれています。技術面では、これはもう皆さん始め聴衆者の方がすでにおみとめになっていると思いますが、大変上達が速いんです。私達スタッフ一同が一番感心することは、録音が終わってから全員起立して私達スタッフ全員に丁寧に挨拶して下さる。こんな事は、私達放送にたずさわってから初めてです。ただ恐縮するばかりでなく、その純真さに打たれますと同時に、唯たんに仕事を通じての関係だけでなく、スタッフ一同一番楽しみにしているプロなんです。』(原文ママ)
ラジオ放送は、その後、1972年(昭和47年)4月に、FM大阪の「モーニング・ブラス」(阪急百貨店提供)に移行し、演奏は音質のいいステレオで放送されるようになった。
創立当時の“阪急少年音楽隊”の名称は、1969年(昭和44年)に正式な校名が“阪急商業学園”となった後も、放送を含め、バンドの愛称として幅広く使用された。
当初、男子だけのバンドとしてスタートした少年音楽隊だったが、1997年(平成9年)から女子だけの募集となり、やがて完全な女子校になることから、愛称も“阪急商業学園ウィンドバンド”に変更。2004年、学園が阪急から向陽台高等学校吹奏楽コースに移管されるまで使用された。(2009年以降は、早稲田摂陵高等学校ウィンドバンド)
兄貴分にあたる職場バンドの雄“阪急百貨店吹奏楽団”の設立は、実は少年音楽隊の発足3年後の1960年(昭和35年)のことで、その合言葉は「職場に明るい音楽を」。少年音楽隊第一期生が卒業した年に当たるが、阪急百貨店のクラブ活動として、少年音楽隊出身者でなくても社員であれば誰でも参加できるバンドとなった。
そして、常任指揮者は、もちろん鈴木さん。
余談になるが、日本経済新聞社編集委員の井上文夫さんが、関西の音楽団体に直接取材した著作「 関西音楽草の根まっぷ 」(日本機関紙出版センター、1988年2月25日発行)の“阪急百貨店吹奏楽団”の項には、以下の引用にあるようにとても面白いことが書かれてある。
『楽団の常任指揮者鈴木竹男は、音楽隊(阪急少年音楽隊)の隊長でもある。鈴木は師の朝比奈 隆が阪急電鉄社員だった縁で、棒を振るようになり、六四年(1964年)に朝比奈から「楽団は任せたよ」と免許皆伝に。』(原文ママ / カッコ内注釈は筆者)
全関西吹奏楽連盟理事長だった朝比奈さんと吹奏楽との関わりの一端を知りうる貴重な証言だ。
もちろん、鈴木さんが“免許皆伝や!”と話されるのを、筆者を含め、多くの者が聞いていた。また、コルネットなどもうまく活用し、鈴木さんが目指した“ヨーロッパ的な響きを”というテーマも、朝比奈さんが自身のオーケストラで取り組んだ“音作り”と共通するものが感じられる。正しく直伝だ!
その阪急百貨店吹奏楽団も、村上ファンドによるM&Aの煽りを受けて、阪急百貨店が長年のライバルの阪神百貨店と統合されることになり、2008年(平成20年)10月1日、“阪急阪神百貨店吹奏楽団”に名称変更された。
時の流れを押し留めることはできない。しかし、変わらなくてもいいものまでどんどん壊されていくように感じるのは、ひとり筆者だけだろうか!
鈴木さんには、梶本りん子マーチングスタジオにいた弟ともども、いろいろお世話になった。
若い世代と向き合うことの好きな人物で、「記念写真集」を頂いたときも“中身は好きに使っていい”と、こちらがあっけなく感じるほど、気さくに許しをいただいた。
そのアツい眼差しは、かつて毎朝のように聴いた“阪急少年音楽隊”の心地よいサウンドとともに、今もしっかりと記憶に焼きついている!
▲阪急百貨店 阪急少年音楽隊第6回定期演奏会(1965年2月26日、毎日ホール)(記念写真集から)
▲阪急百貨店 阪急少年音楽隊第13回定期演奏会プログラム
▲第13回定期演奏曲目
▲阪急百貨店 阪急少年音楽隊第14回定期演奏会プログラム
▲第14回定期演奏曲目
▲井上文夫著「 関西音楽草の根まっぷ 」(日本機関紙出版センター、1988年)
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