▲キングとブラック・ダイク・ミルズ(1990年6月11日、大阪国際交流センター)
あまり人には喋らないが、どんな作曲家にも、自分だけのお気に入りの作品がある。
フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『山の歌(Mountain Song)』と出会ったのは、ブージー&ホークス社(東京)の代表取締役、保良 徹さんから、間近にせまった「ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本公演1990」の演奏プログラムの擦り合わせを依頼されたときだった。
ブージー&ホークス社は、このツアーの主催者である。
メールなど無かったこの時代。バンドとのやりとりは、すべて同社を経由したFAXで行なった。その結果、今も当時のやりとりの多くが紙のかたちでファイルに残っている。
FAXの向こうにいる相手は、指揮者デヴィッド・キング(David King)だった。
ブラック・ダイク史上初、いきなりプレイヤー(アシスタント・プリンシパル・コルネット奏者)から指揮者(プロフェッショナル・コンダクター)に抜擢された偉才である。
しかし、マネージャー専行で決まったこのプロモートは、残念ながら、一部ベテラン奏者の反発を招いて、退団者まで出る始末。だが、キングは、逆にそれをエネルギーとして昇華させ、1990年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で開催された“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”での優勝という、これ以上ないかたちで、世の雑音を見事に跳ね返してみせたのである。
その経緯は、第42話「ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990」でお話ししたとおりだ。
話を元に戻そう。
保良さんの考えは、こういうものだった。
クラシック評論の大御所たちを軒並み驚嘆させるなど、ブラスバンドのすばらしさは、すでに1984年の同バンドの初来日で十分認識されていた。二度目の来日となる今回は、単にバンドの来日公演をつつがなく遂行させるというだけではなく、ツアーが一種の起爆剤となり、まだ手探り期にあった日本の“ブラスバンド・ムーブメント”の将来の発展につながれば、というものだった。
ツアー・レパートリーの決定は、このため、とても重要な役割を担うことになった。
擦り合わせは、キングが考えた全レパートリーのスコアの1ページ目をまず送ってもらい、それを見ながら意見を交わすかたちで行った。
その結果、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドのオープニング・テーマ曲としておなじみのジェームズ・ケイ(James Kaye)のマーチ『クイーンズバリー(Queensbury)』をはじめ、合計4パターンのプログラムを満たすための多種多彩なスコアやパートが手許に届き、『山の歌』も、その中の1曲として、出版前の手書きスコアのかたちで送られてきた。
スパークの『山の歌』は、アメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグ(Pittsburgh)を本拠とするプロのブラスバンド「リバー・シティ・ブラス・バンド(River City Brass Band)」(第3話:ビッツバーグ交響曲、参照)の委嘱作だ。1987年に完成し、翌1988年2月、ロバート・バーナット(Robert Bernat)指揮、同バンドの演奏で初演された。
作曲者が、例年、家族とともに夏の休日を過ごしていたオーストリア・チロル地方ツィラー渓谷のマイヤーホーフェンの風物に触発されて書かれたひじょうに描写的な音楽だ。
ブラック・ダイクから送られてきたのは、冒頭の1頁だけだったが、もうそれだけで十分だった。
管楽器の澄み切ったハーモニーの中にチャイムが遠く響きながら始まるそのイントロは、有名な『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』や『長く白い雲のたなびく国“アオテアロア”(The Land of the Long White Cloud “AOTEAROA”)』のような、それまで知っているこの作曲家のブリリアントな作品とはまったく違うスタイルの書法で書かれ、完全に意表を突かれてしまった。
もう、その音楽的な魅力の虜である。
そして、ブラック・ダイクは1990年6月に来日。『山の歌』は、レジデント・コンダクターのケヴィン・ボールトン(Kevin Bolton)とゲスト・コンダクターのロイ・ニューサム(Roy Newsome)の指揮で聴いたが、聴けば聴くほど、この音楽の魅力の深みにはまっていた。
彼らの公演のはざまをぬって、今度はフルスコア(もちろん、出版社承認済みの手書きスコアのオーソライズド・コピー)の隅々まで見る機会を与えられたが、その時、あらためて、この作曲家の多才な魅力を認識!!
『ブラスバンドは、心に響くこんなにも凄いサウンドがするんだ!』と感じた。
リバー・シティの指揮者バーラットが感激のあまり、委嘱をさらに追加して、その結果、4楽章構成の『ピッツバーグ交響曲(A Pittsburgh Symphony)』にまで発展した理由もよくわかる。
と同時に、『ウィンドオーケストラにトランスクライブしてもゼッタイ魅力的なサウンドになる!』と、
まるで電気ショックを浴びたときのように直感したことを記憶している。
佼成出版社の柴田輝吉さんから、東京佼成ウインドオーケストラ演奏の“フィリップ・スパーク自作自演アルバム制作”のオファーを受けたのは、そんな頃だった。
後に「ヨーロピアン・ウィンド・サークル」シリーズ第2弾として実現するCD「オリエント急行」(佼成出版社、KOCD-3902、リリース:1992年12月21日 / 第48話 フィリップ・スパークがやってきた、参照)の企画の本格スタートである。
そして、企画のプランを練り上げるため、フィリップとやりとりを始めたとき、佼成出版社の了解を得て『山の歌』と『オリエント急行(Orient Express)』の2曲のウィンドオーケストラ版を委嘱することに、もはや何の躊躇もなかった。
フィリップは、筆者のこの提案を快諾してくれた。
やがて2曲の楽譜が完成!
来日した作曲者自身のタクトによる2日間の練習をへて、普門館の大きな空間に『山の歌』が流れ出したのは、1992年9月22日のことだった。
作曲者の意図が透けて見えるすばらしいサウンドがした。
演奏する東京佼成のプレイヤーも面白そうだ。
フィリップは、筆者にあてた私信で、作品について、こう説明してくれている。
『日曜日の朝、村はいつも静かで穏やかだ。信徒の集まりを知らせる教会の鐘の音だけが聴こえる。村の背後には、3時間で登れる姿の優しい山がある。登山者がどんどん登って行くと、ツィラー谷の大パノラマが木々の間から見えてくる。一陣のフレッシュなそよ風が、近くの木々の枝にカサカサと音をたてさせ、登山者をハッとさせる。我々が木々の生え並ぶあたりより上に出るのに、あと数歩だ。そして、あたり一帯を見渡す美しい情景がいっぱいに現われる。しばしの休憩をとって、景色にひたる。やがて、山を下りるときがきて、我々は村にまた戻る。そこには教会の鐘が響いている。』
21世紀に入るころ、フィリップから新作『エンジェルズ・ゲートの日の出(Sunrise at Angel’s Gate)』の完成を伝えるメールが入った。
1999年10月に訪れたグランド・キャニオンの壮大な情景に感動して書かれた作品で、日本から依頼される客演指揮の選曲で、必ず提案してくる作品だ。
『これは本当にうまく書けたと思う。とにかく、とても気に入っているんだ。』というフィリップに対して、『一体どんな曲?』と投げかけてみた。すると、速攻でこう返してきた。
『“山の歌”のような曲だ。』
どんな作曲家にも、自分だけのお気に入りの作品がある。
▲CD「オリエント急行」録音セッション(1992年9月22日、普門館)