▲EP – 世界マーチ集 / アメリカ・マーチ(1)(日本コロムビア、ASS-10008、1964年7月)
▲EP – 世界マーチ集 / ドイツ・オーストリア・マーチ(1)(日本コロムビア、ASS-10023、1964年7月)
▲EP – 世界マーチ集 / ドイツ・オーストリア・マーチ(2)(日本コロムビア、ASS-10024、1964年7月)
▲EP – 世界マーチ集 / 日本マーチ(2)(日本コロムビア、ASS-10034、1964年7月)
大阪・千里丘陵で“日本万国博覧会”が開催された1970年(昭和45年)は、わが国のありとあらゆる事象が大きく変貌を遂げる1つの節目になった年だったと多くの人に記憶される。
ウィンド・ミュージックを扱うレコード業界の動きも、この年を境に大きく変貌を遂げた。
国内で新たに録音される吹奏楽レコードがすべて“マーチ”か“軍歌”だった1960年代初頭以降、レコード業界に起こった出来事を簡単に振り返ると…。
【1960年(昭和35年)】アメリカ空軍ワシントンD.C.バンドが3度目の来日。日本ビクター、日本コロムビア、クラウン、朝日ソノラマの各社が録音を依頼。それらはすべて各国国歌とマーチだった。《参照:第63話 U.S.エア・フォースの再来日》
【1961年(昭和36年)】フランスのギャルド・レピュブリケーヌが初来日。東芝音楽工業が『軍艦行進曲』(瀬戸口藤吉)や『君が代行進曲』(吉本光蔵)など、日本のマーチ8曲の録音を依頼。その内、6曲が録音され、現場でギャルド側の希望で『アルルの女』から“ファランドール”(ビゼー)、『牧神の午後への前奏曲』(ドビュッシー)、『ディオニソスの祭り』(シュミット)の3曲も録音された。レコードは、翌年リリース。マーチは再版を繰り返したが、コンサート曲は完売後の再プレスはなく、1969年まで長期お蔵入りとなった。《参照:第23話 ギャルド、テイクワンの伝説》
【1962年(昭和37年)】在京オーケストラのプレイヤーによる“ギャルド・日本吹奏楽団”が結成され、マスプレスにマーチの録音を開始。福田一雄、服部 正、須磨洋朔が指揮をつとめた。
【1963年(昭和38年)】東京吹奏楽団の設立。コンサート活動のほか、山本正人の指揮で、レコード各社に数多くのマーチを録音した。東京オリンピックをめざして、レコード各社のマーチ録音熱に拍車がかかり、日本ビクターは、契約レーベルのフィリップスを通じてオランダ王国海軍バンドに『軍艦行進曲』(瀬戸口藤吉)や『君が代行進曲』(吉本光蔵)など、マーチの録音を依頼する。東芝音楽工業は、イギリス原盤のロイヤル・マリーンズ・バンドのマーチを定期的に発売するようになった。《参照:第16話 エリック・バンクス「世界のマーチ名作集」》
【1964年(昭和39年)】東京オリンピック開催。古関裕而の『オリンピック・マーチ』が大ヒットし、レコード各社から盛んに国内録音のマーチが発売された。東芝音楽工業は、フランス原盤のギャルドのマーチ・アルバム3枚をリリース。
とまあ、1960年代の前半は、間違いなく“吹奏楽 = マーチ”の時代だった。スタジオ録りの吹奏楽演奏の戦時歌謡や軍歌のレコードもかなり発売されている。
その後、東京オリンピックの余韻の中、マーチ・ブームも続いたが、60年代後半に入ると、それまでのマーチ一辺倒とは、少し違う動きが見られるようになってきた。
【1967年(昭和42年)】日本コロンビアが、加藤正二指揮、東京ウインド・アンサンブルの演奏による《楽しいバンドコンサート》(EP3枚)を新録音でリリース。これは、マーチを一切含まず、アメリカのオリジナル曲やコンサート曲が入る新しい感覚の吹奏楽レコードで、クリフトン・ウィリアムズの『献呈序曲』やジョセフ・オリヴァドーティの『イシターの凱旋』、ハロルド・ウォルターズの『フーテナニー』など、今も演奏される曲が紹介された。東芝音楽工業は、バッハの『トッカータやフーガ』やリストの『ハンガリー狂詩曲第2番』などが入ったギャルド・レピュブリケーヌのアルバム「栄光のギャルド」をリリースし、大ヒットとなった。《参照:第18話 楽しいバンドコンサート、第81話 栄光のギャルド》
【1968年(昭和43年)】日本ビクターが、海外契約レーベルのフィリップス(Philips)の豊富なソースを編集して、《世界のブラスバンド》(LP2枚組、全5巻)を月に1巻のペースでリリース。イーストマン・ウィンド・アンサンブルのマーチ以外の演奏が初めて国内に紹介されたほか、フィリップス専属のオランダ王国海軍バンドに、川崎 優の行進曲『希望』、大栗 裕の『吹奏楽のための小狂詩曲』、塚原晢夫の『吹奏楽のための幻想曲』、團 伊久磨の『祝典行進曲』の邦人オリジナル作品の録音が依頼された。日本コロムビアは、ビクターを追い、海外原盤から「コロムビア世界吹奏楽シリーズ」(10タイトル)を月に1枚のペースでリリースしたが、1タイトルを除き、すべてがマーチだったためか、大きな話題とはならなかった。《参照:第19話 世界のブラスバンド》
【1969年(昭和44年)】東芝音楽工業が、海上自衛隊東京音楽隊演奏の既録音のマーチと東京佼成吹奏楽団を起用して新録音したアメリカのオリジナルなどを組み合わせて“マーチ篇”“ポピュラー篇”“オリジナル篇”のLP3枚組にまとめた《世界吹奏楽全集》をリリース。3枚の内、ジム・アンディ・コーディルの『バンドのための民話』やシーザー・ジョヴァンニ―ニの『コラールとカプリチオ』、クリフトン・ウィリアムズの『シンフォ二アンズ』などが入った“オリジナル篇”は、その後、単独盤として独立し、リリースを繰り返すヒット盤となった。ビクターは、前年の「世界のブラスバンド」などから、オランダ王国海軍バンド演奏の日本人作曲家の作品を中心にしたデラックス版「日本の吹奏楽」をリリースして注目を集めた。また、東芝音工は、長期お蔵だったギャルドの『ディオニソスの祭り』ほかを再発した。《参照:第27話 世界吹奏楽全集、第90話 デラックス版「日本の吹奏楽」》
東京佼成ウインドオーケストラの元ユーフォニアム奏者、三浦 徹さんにこの頃の話をうかがうと、氏の東京藝術大学在学当時にも、いろいろなスタジオによく“軍歌”の録音で呼ばれたと言われていたから、レコード会社の中身や考え方がすっかり変わったわけではなかった。
しかし、それでも、コロムビアの《楽しいバンドコンサート》やビクターの《世界のブラスバンド》《日本の吹奏楽》、東芝の《世界吹奏楽全集》という、1960年代後半にリリースされたレコードによって、一般の音楽ファンがまったく知らない曲(とくにアメリカのオリジナル曲)が入ったレコードが少しずつ売れ始めたのである。もちろん、吹奏楽というごく限られたフィールドの中ではあったが…。
一般音楽ファンが知らない曲は、当然レコード会社も知らない。
その一方で、ひょっとして売れるかも知れないので、できるだけリスクなく吹奏楽のレコードを作りたい。
そんな思惑がレコード業界に広がり始めていた1970年3月17日(火)、杉並公会堂で、 ある1枚のEPレコードのレコーディング・セッションが行なわれた。
演奏は、大橋幸夫指揮、国立音楽大学ブラスオルケスター(総勢53名)で、曲目は、以下の2曲だった。
・チェスター(ウィリアム・シューマン)
Chester(William Schuman)
・音楽祭のプレリュード(アルフレッド・リード)
A Festival Prelude(Alfred Reed)
録音・制作する日本コロムビアと、『チェスター』の楽譜を2年前に出版した音楽之友社、『音楽祭のプレリュード』を4月中旬に出版予定の東亜音楽社がタイアップをした企画で、文部省教科調査官の花村 大さんが監修し、村方千之さんが解説を、大阪市音楽団長の辻井市太郎さんが推薦文を書くという、コロムビアらしい手堅い布陣が組まれていた。
コロムビアとしては、この新譜は、1967年以来の《楽しいバンド・コンサート》シリーズの続編的意味合いがあったが、あれもこれも入れたいという欲張った考えを捨て、時流を着実に捉えて録音曲をアメリカのオリジナルだけに絞り、A面、B面に各1曲を収録するというシンプルなアイデアが斬新で潔かった!
「バンドジャーナル」誌(音楽之友社)の1970年5月号に掲載された当時の東亜音楽社の広告が最高に面白い。
全日本吹奏楽
コンクール自由曲の決定は今しばらくお待ち下さい。
レコードを助言者として、
今年のコンクールではすばらしい演奏を!
音楽祭のプレリュード
A FESTIVAL PRELUDE
アルフレッド・リード作曲
4月中旬発行 ── いましばらく、お待ち下さい。
コロムビア・レコードから同時発売されます。
なんとか“自由曲”に使ってもらいたいという、コピーから伝わる“必死さ”が実にいい!!
そして、レコードは、予定どおり5月新譜(4月発売)に!!
ところが、ここで思いがけない展開がこのレコードを待ち受けていた。
なんと『音楽祭のプレリュード』が《1970年度全日本吹奏楽コンクール 高校・大学・一般・職場の部 課題曲》として発表されたのだ!
既存出版曲から課題曲2曲が選ばれた年だった!
この結果、このEPは、アッという間に店頭から姿を消し、コロムビアは慌てて追加プレスの準備をしなければならない羽目に!
どれぐらい売れるか予想がつかないレコードが売れてしまった瞬間だった。
筆者の知人にも、『レコードが買えない!』とこぼしていた人が何人もいた。
楽譜出版の現場もたいへんなことになっていただろう。すでにアメリカ版で演奏していたバンドがあったとは言え、最低限、全国のコンクール出場団体の新規購入希望に添わないといけなかったのだから…。
コロムビアは、この成功で味をしめたためか、その後も、両出版社とタイアップした2曲入りのEPレコードを毎年1枚のペースでリリース。それらは、やがてLPに発展し、デジタル化されてCDとしてもリリースされるロングセラーとなった。
そして、これは、ソニーや東芝など、他社の同種のアルバムの先駆けとなった。
多分に“棚からぼた餅”的だが、間違いなく1970年代初頭を飾った大事件だった!
▲東亜音楽社広告(「バンドジャーナル」1970年5月号、音楽之友社)
▲EP – 楽しいバンド・コンサート(日本コロムビア、EES-400、1970年5月)
▲EP – 楽しいバンド・コンサート〈2〉(日本コロムビア、EES-451、1971年3月)
▲EP – 楽しいバンド・コンサート〈3〉(日本コロムビア、EES-473、1972年4月)
▲EP – 楽しいバンド・コンサート〈4〉(日本コロムビア、EES-474、1973年4月)
▲EP – 楽しいバンド・コンサート〈5〉(日本コロムビア、EES-605、1974年3月)
蛇足ですが、内容で書かれている『吹奏楽のための幻想曲』(1968年のコンクール課題曲) 作曲者は 塚原哲夫 (つかはら・てつお) ではなく塚原晢夫 (つかはら・せつお) 氏の間違いかと思います。ご確認頂けますと幸いです。