午前4時45分。
三原城下のきょうの朝ぼらけの
あとの曙景である。
朝の海。
西方。
江戸期、この坂の途中を東西に
「山之手通」という道が貫いて
いたが、今は無い。
このあたり一帯は旧武家地だ。
目の前の木立は国立広島大学
附属校。幼稚園から中学まで
がある。娘が通っていた。家
の目の前が学校なので通学至便
だった。
附属校。幼稚園から中学まで
がある。娘が通っていた。家
の目の前が学校なので通学至便
だった。
元々は明治期は女子師範学校
だった。その以前は城前の武家
屋敷だった。
青い看板の信用金庫の場所が
青い看板の信用金庫の場所が
江戸時代に我が家のあった
場所。西之築出(にしのつきだ
し)の酉之御門を入ってすぐ。
お台場のような海の上の要塞
のような埋め立て地に住んで
いた。
弓術指南番や槍術指南番の屋敷
もある江戸期の住宅街。うちは
砲術屋で会津の八重の桜のうち
みたいなもん。
みたいなもん。
江戸期の地図等の絵図を見ると
こんな感じだった模様。
天正までの家族は諸人に至る
まで全て判っているが、こう
した女性がいたかどうかは
不明。山本さんの場合は特別
だったのではなかろうか。
八重さんは女性の社会進出の
魁(さきがけ)だったからだ。
八重さんは女性の社会進出の
魁(さきがけ)だったからだ。
実際の山本八重さん。
これは明治期の記念写真だ。
幕末動乱時代の東西内戦で
スペンサーカービンを撃ち
まくって西軍兵士を薙ぎ倒し
た時代のものではない。
女性といえども武家であるの
で、武士の刀の差し方と下緒
さばきをしている。この刀の
角度が鶺鴒差し。45度まで
傾けると落とし差しとなり、
武家ではだらしないとされた。
登城時や平時にはここまで刀
を水平にして武士は差した。
だが、敵に柄を取らせぬ実用性
から45度まで傾ける落とし差
しも九州新陰流には残っている。
ただし、「落とし差し」と明確
に伝承している。落とし差しを
鶺鴒であるなどというねつ造は
していない。江戸期から残る
本物は本物を伝える。
一方、ねつ造新派は出鱈目を
創作する。時代考証も甘い。
一方、ねつ造新派は出鱈目を
創作する。時代考証も甘い。
上の写真よりやや若い頃の八重
さん。
もっと若い娘時代は、丸顔で
かわいらしい女性だったのでは。
かわいらしい女性だったのでは。
日本のアニー・オークリーの
ような銃遣いだった。
アニーより20年ほど早い時代
の人。
おばあちゃんになってから。
おばあちゃんになってから。
同志社大学を創立した新島襄
に嫁いだ。
かわいいおばあちゃんだ。
笑顔の新島八重の写真は珍しい。
というのも、昔の人は写真撮影
はかしこまっての撮影であり、
スナップ写真は非常に珍しい
からだ。これが八重さんの素顔
の表情だろう。
なお、男性も女性も武士に爪先
外向けデローンは無かった。
これは武士の所作ごとの一つだ。
爪先開きの直立などは明治期
に西洋式軍隊方式が徹底され
てからの事。武士がいた時代
には武士にそれは無い。