下田渡海事件に見る松陰の対外思想
松陰の対外思想は、未来攘夷と即時攘夷を行ったり来たりすることになる。ここで改めて、未来攘夷と即時攘夷の違いを説明しておこう。
未来攘夷とは、現状の武備ではまったく西欧諸国と互角に戦うことなど叶わないと認識し、無謀な攘夷を否定したものの、攘夷の方針自体は堅持して通商条約を容認し、その利益で富国強兵、海外侵出を企図した攘夷思想である。また、即時攘夷とは外国人殺傷や外国船砲撃といった過激な行為に走ったり、あるいは、勅許も得ずに幕府が締結した通商条約を、一方的に廃棄したりすることを主張し、それによる対外戦争も辞さないとする攘夷思想である。
嘉永6年(1853)6月のペリー来航にあたって、一方的に我が国法(鎖国)を破り、長崎回航の要請も無視して、堂々と浦賀に停泊したことに対し、松陰には激しい憎悪があった。しかも、和親と通商、つまり開国を押し付ける夷狄に対する敵愾心は旺盛で、その要求を鵜呑みにしかねない幕府への猜疑心があったのだ。
即時攘夷から未来攘夷へ
ペリーの再来航時の松陰は、「墨夷膺懲」(夷狄であるアメリカを征伐してこらしめること)を志向していた。時と場合によっては、ペリーを暗殺することすら躊躇しない心積もりであった。まさに、即時攘夷である。
しかし、下田渡海事件の際には、「墨夷膺懲」の方向性を必ずしも断念したわけではなかったものの、ペリー暗殺はあきらめて、渡航計画にまい進することになった。つまり、未来攘夷へ転身したことになるのだ。
確かに、この段階では、通商を回避した日米和親条約が締結された事実があった。通商条約の締結を阻止するために、ペリー暗殺を企てるという大義名分は、すでに失われていたことは間違いなかった。松陰の即時攘夷から未来攘夷への転身は、その事実のみが影響したのだろうか。
次回は松陰が即時攘夷から未来攘夷へ転身した理由を明らかにするとともに、その背景を探ってみたい。
