松陰は、極めて強烈な皇国思想に貫かれていた。皇国思想とは、日本の歴史が朝廷(皇室)を中心に形成されてきたことに着目し、万世一系の天皇を国家統合の中心と捉える思想である。しかも、松陰にはそれを裏打ちする陽明学に根差した直情的な信義が存在した。
陽明学とは、明の王陽明が始めた儒学の一派である。陽明学は、現実を批判して心の中の道徳心を追求し、実践に活かそうという知行合一の立場を貫いた。そのため、現実社会の矛盾を改めようとする革新性を持っていた。つまり、危険思想の一つとされていたのだ。
松陰の行動原理

松陰の行動は、何が何でも朝廷や藩への忠誠を全うすることを前提に置いており、自分の信義が正しいと判断すれば、他人の忠告などには一切耳を傾けなかった。そのため、計画性がなく、極めて感情的になることも少なくなかった。こうした松陰の言動は、同時代人から見ても突飛な行動として捉えられることが多々あったのだ。それどころか、松陰の行動によって、藩が窮地に陥る可能性すら感じ、松陰を苦々しく思う藩要路もいた。
松陰は、確固たる行動原理を必ずしも持ち合わせておらず、どちらかと言えば、相手の意見に感化されやすかったが、裏を返せば、柔軟な対応力を持ち合わせていたと言えよう。しかし、一度琴線に触れて信義と連動した場合、実力行使もいとわない、過激で頑固な一面も有していた。この行動原理が、松陰を死地に陥れることになったのだ。