断崖に続く道路で

非公開フォーラムは、厳格に非公開なので、内容をここに書く訳にはいかないが、

インターネットやマスメディアなどでは知りえない、精確な情報にアクセスできます。

世の中には、下世話な言い方をすれば、信じられないような「裏情報」に通じている、主に現実の政治世界で生きているひとびとがいて、キューバ危機や、1983年のスタニスラフ・ペトロフによって救われた危機に匹敵する、まるで陰謀論が好きな人のような、

危機が生じては救われ、いまだに地球が生命体が存在することが不思議なほど、

人間の文明は危なっかしい綱渡りを繰り返してきていているのが判って、非公開でなくても、ゾッとしないので、見ない方が良いような「事実」が並んでいる。

今回のロシアの状況についても、知らなかったことがあって、

参加者は、ほぼ自動的に、明日、世界が終わりになったら、ということを考えざるをえなくなった。

そうです。

この記事はロシアの政治的カオスについてではなくて、明日、世界が終わりになったら、

ということについて日本語で考えるために書いている。

人間は、事故や、他の突発的で予期されない理由によって死ぬでなければ、誰しも一生にいちどは、この上ない真剣さで、「世界の終わり」について考える。

人間には死がつきものだからです。

ずっとむかし日本語記事でも書いたことがある。

人間が搭乗する航空機は、なぜか、必ず墜落することになっていて、

ほんの短距離で地表に激突することもあれば、何度も地球を周回するような、100年という長さに及ぶこともあるが、遠くから眺めれば、20年で死ぬ人も、100年で死ぬ人も、本質はおなじことで、

ごく僅かな「仕事」と呼べることをして、おおげさな言葉を使えば、ちょっぴり人類全体に貢献して、あらゆる人が、志半ばで、病んで、生命を失うことになる。

人間を30年くらいもやっていると、よっぽど愚かでなければ判ってくることで、

黒澤明の「生きる」のような映画が、英語人のあいだでまで高く評価されて、

スクリーンで、

「わたしには、もう、そんな時間はない」と述べる志村喬の姿に、

歯を食いしばるか、涙を流すか、真剣な面持ちになるのは、

つまりは、それが人間が人間でしかない以上、共通の真理だからでしょう。

死を、とりあえず考えないで毎日を暮らすのは、悪いことではない。

どちらかというと、充実した毎日を送ろうとおもえば当たり前の姿勢です。

しかし、それは罠でもあって、人間は様々な理由で、物理的な肉体の終わりが来る前に、

自分の人生に終止符を打ってしまう。

自ら生命を絶ってしまう人もいて、傷ましいことだが、

忙しい人生を送ることで、もう自分の人生は幕引きにしてしまっている人、というのは、特に有能なアメリカ人の友などには、たくさんいる。

朝早くに、起きてから、夜、遅い時間に眠るまで、朝食だけは、なんとかゆっくり時間をかけて、

奥さんや子供と一緒に摂って、子供たちを送り出したあとに、ゆっくりと起ち上がって、

皿を洗い、食洗機に並べて、テーブルを片付けてから、コートを羽織ると、

そこからはもう、無我夢中で滝を泳ぎ登るようというか、思考速度ではなくて、処理速度という言葉を使ったほうがいいような一日が始まる。

迎えに来たクルマに乗り込み、アシスタント/秘書の人からスケジュールとブリーフィングを受けて、飛行機に乗り込み、ソルトレイクシティに着くまでに会計のサマリーを頭に収納する。

そういう毎日がクールであると思えるくらい頭が悪ければ、エネルギーが続く限り、全力疾走して幸福のうちに死ねるかも知れないが、

たいていは、考える力が有り余っているひとたちなので、

ガメ・オベールのような嫌味な友だちが、ちゃんといて、

「そのくらい忙しいと、死んでるようなものだな」とニコニコしながら言われたりする。

コーノーヤーローと思うが、友だちなので、やむを得ない、と考え直して、

また全力で競泳するような日常に帰っていきます。

習慣を繰り返すことによって、numbってしまっていて、感動が消えて、

毎日の表面がプラスチックのように、感性が取り付く島がなくなっている人もいる。

朝、起きて、地下鉄に乗って、会社について、同僚を挨拶を交わして、デスクに腰掛けて、

さあて、今日は、なんだっけ、と一日を始める。

だんだん気持ちがフラットになってくると、

なんになる、なんになる、こんな一日を繰り返して、いったいなんになる、

と自分で自分に怒鳴られているような気になってくるが、

そんなこと言ったって、あんた、わたしはこれを止めると食えないんです、と自分自身に口答えしながら、

それで、案外、40年くらいはやれてしまえるもののようです。

しかし、自分は死んでいる。

死んでしまっているのは判っているが、ほかに、ぼくにどうしろと言うんですか。

ある日、すっくと起ち上がって、上司の机の前に立って、

あのですね、ぼくは、今日で会社をやめます。

もう、こんな生活は、うんざりだ、と辞表を手渡しながら述べる

長年の夢を果たすのは簡単だが、簡単なのは、そこまでで、

後は、天が、待ってましたとばかり七難八苦を与えてくれて、

気持ちの隅々までボロボロになって、

樹海ってのは、どうやって行くんだ、というところまで行ってしまいかねない。

枝に束ねたUSBケーブルをかけて、首をくくって、生前よりは随分ながくなった首で、だらんとつり下がっているところを、アメリカからやってきた、頭がいかれたyoutuberに動画に撮られて、

「おお、すげえ、ほんものの死体じゃん。日本まで来た甲斐があった」と何百万という視聴回数のなかで繰り返されるなんて、あんまり良い死に方ともおもえない。

最もくだらないのは悪意に取り憑かれてしまう一生で、

自分では全く自覚がないが、一日ネットに貼り付いているのはいいが、

ちょっと目立つ存在がいると、悪意仲間と語らって、自分の思い込みと呼んだほうが実態に近い想像力で、集団で、嬲りつくす。

ほんとうは、優等生だったのに失敗した自分の人生が許せないだけなのは、少しでも心理学知識がある人間が見れば明らかで、それがばれてしまっては惨めこのうえもない行為だが、

学歴が高いばかりでバカな本人を含めて、そういう心理を見透してしまう人間は、意外なくらい少数で、ゴロツキの心性そのまま、「わたしは、こんな人間は相手にしていないが、見せしめのために記録に残しておく」という、この手の愚かな人間の決まり文句を述べて、

気晴らしだ、くらいのつもりで、相手を「晒し者」にする。

ほんとうは、相手を「晒し者」にしたとおもっているのは、本人とネットゴロ仲間だけで、

自分は、ごく自然にSNSのネットだけが世界だと思い込んでいるが、特に日本語の場合、

実社会に近い世界は、公開のSNSの外側に、もう広がっていて、

現実社会で「晒し者」になっているのは自分のほうで、能力が実際にあれば、

あったかも知れないドアを自分で閉じて、悪意が分泌した泥濘が深くなった、悪意の泥沼から、

抜け出せなくなっているのは、出版人や大学人、あるいはビジネスマンたちが、外側がジッと見ていて、「なんだ、こいつは」と思われているせいなのを、本人は、面白いほど気が付かないようです。

なんだか、自分の人生が失敗に終わるしかない構造を、自分の悪意で作り上げてしまっている。

ネットの例をだしたが、御存知のとおりで、実社会にも同じ構造が、およそ文明社会なら、どこにでもあって、連合王国が、その不可視性の典型だが、アメリカでもフランスでも、確として存在して、だいたい自分は優秀であるはずなのに、なぜこんなに評価されないのか、と不満を鬱積させている人は、この罠にかかっている人が多いようです。

周りも迷惑だが、本人の、「自分という最良の友だち」がいちばん気の毒で、悪意は、

その人の人生に早々と終止符を打ってしまう。

よく知られているように、よりよく生きるのは、よりよく死ぬことの同義語だが、よりよく死ぬためには、いったい、どう生きていけばいいのか。

ついこのあいだまで、「世界が明日終わったら」という条件は無視できるほど可能性が低い想定だったが、いまは現実に起こりうることのひとつとして考えなければならなくなったようで、兼好法師は「死は遠くにあるのではない。きみの隣にいて一緒に歩いているのだ」というが、

人間というのはおかしなもので、世界が永遠に続く、というのは個人のライフスパンから考えれば、という意味だが、自分がどう生きていくか、ということを考えるときには世界は永遠であるに越したことはない。

世界が明日終わりになることを心配しなくてよかったときには哲学的に「よりよい死にたどりつく方法」を沈思黙考すればよかったが、切羽詰まってくると、ハウトゥー的な思考になっていくのが判って、笑ってしまう。

つまり、どうやって生きるかが、頭のなかで具体的になってくる。

どんなことを考え始めるかというと、

1 余計なことはやらない

2 忙しい、と感じたら、優先順位をつけて、低いもののほうから数えて全体の五分の四は切り捨てる。そのときに不義理や怒り出すかもしれない相手の感情は無視する

3 思い切って、愚かな人間とは付き合わない、相手にもしないと決める

20ほどもルールを決めると、驚くべし、冷酷無比な嫌なやつの出来上がりだが、

そこで怯むと、自分の人生がなくなるので、

おまえは人非人だと言わば言え、

おれはなにしろ、これから精一杯生きなくちゃならないんだ、と自分を叱咤激励して、見事、

冷酷人間ベムになりおおせるしかない。

言葉を変えると、意識的に生きていくほかには方法がないようです。

人間は肉体という不可逆的に、一方向にボロくなる衣装を着ている。

ボロくなり、重く感じられるようになって、自分にとっては重荷になってゆく。

30代も終わりになってくると、以前には、酔っ払って、ふと悪心を起こして、日本でいう「跳び箱」の要領で路上駐車のクルマなどは楽々と跳び越していたものが、だんだんバク転も怖くて出来なくなっていく。

身体能力が高い人ほど、肉体は早々と衰えるものだという現実を正しく感知している。

日本の1980年代って、オフコースみたいな若おやじがつくったおやじ曲と、

ユーミンみたいな女おやじのおやじ曲で出来てるんですよね、という若い人がいて、

聴いてみて、なるほどと、大笑いしたことがあったが、

そのときに聴いた、日本語が聴き取りやすい、という重大な美点がある、そのユーミンの曲の一節をおぼえていて、

「わたしは明日(あす)から変わるんだから」と述べていて、

日本語で、頭のなかで、ときどき鳴り出す。

毎日、変わろうと「決意」するくらいで、ちょうど、いいのよね、と素朴なことを考える。

それにしてもプーチンのおかげで、人生の背過ぎが伸びてしまうなんて。

なんだかなあ、とおもうが。

考えてみれば人間の一生なんて、ごく稀な場合をのぞいては、総じて「なんだかなあ」なものに決まっているので、せめて、深刻に考えすぎないようにしようとおもっています。



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