■『ガンダム』と『ヤマト』の物語に見える「集中と拡散」
――一方、『ガンダムNT』では富野由悠季監督が描いたニュータイプ論について、もう一歩踏み込んでみようという試みを感じたのですが、そうした意識はありましたか?
福井
『ガンダムNT』では、精神論でしかなかったニュータイプという概念を、劇中の人間がどう捉えているかという具体論に少し置き換えていますね。精神論としてより先に進んでいることではないです。
劇中の登場人物が言っているように、多くの人は現象しか理解しないので、その理由にあまり眼を向けないんですよね。
そうなると、モビルスーツをすごく強く動かせる人=ニュータイプということになってしまう。それは、富野監督が提示したものとは大きくかけ離れている。
劇中世界でニュータイプはどんなに摩耗されても顧みられなくなったということと、劇中の動きと現実世界の動きは悲しいほどシンクロしているんですよ。
それこそ、ニュータイプがゲームのように消費され、使い果たされているという。
そうであれば、もうちょっとそこは自覚したいというか、「今までのことを拾い集めてみるとこう言っているよ」ということくらいは、一旦言葉にしておこうと。そんな感じでしたね。
だから、ニュータイプの表現に関しては、何を足したという意識ではなく、起こっていることを「解説」するとこうなったという感じですね。
――お話を聞くと、『ヤマト2202』は大きく広がり、『ガンダムNT』は人に焦点を当てて寄っていくという、「集中と拡散」のような対比的なイメージがあるんですが、そうした印象はありましたか?
福井
そういう意味で言うと、同時期に関わっていた作品なので、同じものをやっていてもつまらないという意識はあったと思います。
仰る通り、『ヤマト2202』は大きく広がっていく物語なんですが、最終章である第七章は驚くような勢いで個人に収斂していく展開が待っています。
対して『ガンダムNT』はミニマムなところを突き詰めていくようであって、最後は『ガンダム』史上初めて本当に銀河に向かって飛び立つガンダムが出現して、すごく遠くに、広い方向に向かっているので、そう言う意味では対象的ですよね。
――話の広がり方やまとまり方は違いながらも、描こうとしているテーマ性は意外なほど似ているという感じですね。
福井
似ていますね。やはり、両方ともベースとなっているのは70年代の同じ時期に生まれたものですからね。
『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』も当時のヒッピー文化を引き受けた後のニューエイジ文化など、あの辺りの影響をガッツリと受けながら作られているわけですから、発想がどこか似ている。それは『スター・ウォーズ』も一緒ですよね。
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