日本の人は、何もしないためなら何でもする、と書いて、随分、反発されたことがある。
いくらなんでも言い過ぎだとおもう。
暴言です。撤回してください。
果ては、お決まりのアンポンタンな人たちが、わらわらと集まってきて、
「ネトウヨ」とデコに白地に赤丸のマークが付いている人たちが「反日ガイジン」と言い出す。
「左翼」と自己紹介する人たちが、失礼な、という気持ちがあるのでしょう、このひとたち特有の、腹を立てた当の話題とは関連がない角度からの攻撃で、そのときは「ニセガイジンめ」が多かった。
物事は簡潔で単純なのが好きなので、「投資」といっても、いろいろあるが、
そのなかでも最も単純で、最も実入りが少ない「居住用不動産」投資が収入の根幹を成しているのは前にも書いたが、クロスリースには手を出さない、集合住宅は一棟ごとでないと買わない、
自分で開発はしない(既存の建物でなければ買わない)と、いろいろルールを自分のなかで決めていて、それはオカネ音痴なのではないかと自分で疑うようなテキトーさの割にはうまくいったが、以前には飽きることがあって、会社を買ってもいいか、と大それたことを考えたこともあった。
実際に買った会社もあります。
小さい会社だけどね。
もうそのくらいは言ってもいい気がするが、ネットセキュリティ関連の会社で、なるほどビジネスへの投資は「儲かる」ものだなあ、と思った。
思っただけで、どんどん投資していかないところが、間が抜けているが、あんまり興味がほんとうではないのでしょう、なんとなく、つまらなくなってきて、ビジネスごと売ってしまった。
日本にいるあいだはヒマだったので義理叔父と組んで、いくつか会社をやっていたこともあります。
最も、これは不真面目極まるもので、例えば、きっとこの人が勝つな、とおもって眺めていたsteamの社長がやっていることを横目で睨みながら、なぜかゲームの箱入りを売っていた。
売っていた、といっても自分で販売をやっていたわけではなくて、義理叔父のかつての仕事上の友人が実際の業務の面倒を見てくれていたのでした。
種明かしをすれば、当時はスウェーデンにゲームの安売り卸会社があって、世界中の市場で売れ残ったゲームはここが引き取っていた。
いわばロングテールのゲームの行き先です。
姥捨山、なのかも知れないが。
いわば、この会社の営業をやればいいな、というヒマツブシの思いつきです。
むかし、英語のゲームは日本では手に入りにくくて、米軍将校の友だちに頼んで入れてもらって、横須賀のベースに買いに行くか、アメリカ友に送ってもらうか、するしかなかった。
野球ゲームを、グアムまで買いに行ったこともあります。
もっとマジな会社も最終的には手を出すことになったが、
これは、忙しくなる、という致命的な欠陥があったので、すぐに手放すことになりました。
判るのが遅いというか、そのころになって、ようやく、ビジネスは向いてないね、という現実を悟った。
忙しい毎日を夢中にあって乗り切る、ということが出来ない体質なので、これをこんなふうに市場のこの辺でやれば儲かる(←下品な言葉)というのは簡単に判って、アイデアは出ても、どうにも自分でやる気はいない。
いまからふり返って考えると、要するに、いろいろな観点から角度を変えて物事を見るのが好きで、好きこそものの上手で、自分で考えても、よくそんなくだらないことをおもいつくな、と面白かったことが多かったが、それ以上のことには興味がなかったのでしょう。
「日本の人は、何もしないためなら何でもする」というのは、実は、抽象的な考えを述べているわけではなくて、まだビジネスに興味があったころ、日本では割と有名なおおきな会社に誘われて、出資しませんか、と言われたことがあって、その人はすぐれた人だと以前から考えていたので、まあ、とにかく様子を見ることにしていいですか、ということにして、
その会社の新規事業に集められた人たちの仕事ぶりを二週間ほど観察する機会を提供してもらったことがある。
いちばん驚いたのは定期ミーティングで、いまどき定期ミーティングが許されていることも驚いたが、役員も加わっているミーティングで、部長級のひとびとが、営業、販売、開発、…と顔を並べて、自然の理で、滅多にない、役員に良いところを見せる機会なので、肩に力をいれて、自分の部局の立場を力説します。
それがですね。
営業は、営業をしないことを力説して、
開発は開発しないメリットを強調して、
販売は新規販売をしないことの理を強く打ち出す。
そんなことを新しく始めて、いままでのクライアントは、どうおもうか。
いまの陣容で、そんな開発をやる余裕はありませんよ。
終いには、営業というのはね、いかに新しいものを売るか、ではなくて、いかに売らないかが大事なんです、とオオマジメに不思議な逆説を持ち出したりして、新規事業を起ち上げるために集まっているというより、潰すために集まっているのではないかとおもえる有様でした。
役員のおっちゃんに、「この事業案、社長の念願ですよね」と述べると、ユーウツそうな顔で、
ええ、その通りなんですけどね、という。
その情けなさそうな顔が可笑しくて、もうちょっとで吹き出すところだった。
いままでの一生で、後にも先にも、あれほど積極的に、攻撃的な態度で、「なにもしたくない」と弁舌を揮う人たちを見たことがない。
そのことが、強い「日本」への印象になっています。
確か今日は社長いるよね、と考えて、エレヴェーターに乗って、上にあがって、社長にあって、今回は止めておきますよ、と述べると、きっとそういうと思ったという顔で、「すごいでしょ?」と言って笑っている。
なんだ、この人、判ってるんだな、と、気の毒な気持ちになります。
この新規事業は、この人の念願、事業家としての夢だったな、ということを思い出す。
おおきな会社って、こういうものだよね、と思ったのは、新事業を思いたった社長に反対する、というような冷静な態度ではなくて、人間性にも富んで、優秀な社長なのだけれど、幹部社員たちは、この社長なる人を、ほとんど憎悪していて、相手がガイジンだという気安さもあるのでしょう、吐き捨てるように「あんな奴、クズですよ」と述べる「エース」の社員もいて、
あの人も苦労が多いな、と考えた。
結局、そのときは、友だちの会社で役員を務める、中国系の、性格は「あんたは、それでも人間か」と言いたくなるほど酷いが、仕事に関しては極めて優秀な若いHBS出の女の人を紹介することにした。
あとで、公平を期して、ミーティングで見たことと自分の観察を述べたら、内容については何も感想を言わずに、
「ガメは、どうして現場の頭の悪い連中になんか興味があるの?
あんなのと付き合っても頭が悪くだけじゃない。信じられない」
と応えたのが、いまでも友だちの、この女の人らしくて可笑しかった。
その印象が強くて、こういうテキトーブログ記事にまで、
「日本の人は、何もしないためなら何でもする」と書いてしまうが、
知っているだけで、十数年、現実には、多分、三十年近く、何もしないために、各人が、それぞれの持ち場で、必死に、顔を真っ赤にして「何もしない」ことがいかに大切か弁じて、
頑張りに頑張った結果、日本は、全体としては、いったいどこから手をつけたらいいかボーゼンとしてしまうくらい問題だらけの国になってしまった。
実を言うとですね。
なにしろ薄ぼんやりなので、もしかしたら、日本の人が激しく主張するごとく、現状を維持したまま、あらゆる問題や、大規模な新展開は先延ばしにして、さきのばーし、さきのばーし、
さーきーのーばーしー、をやっているうちには、よく判らないながら事態が好転してしまう、ということもあるのかも知れない、と秘かに考えていたが、
やっぱり、考えて見ると、当たり前だよね、そんなことは起こらなくて、片付けられなかった無駄になってしまったことは積み上がって、生地の目にこびりついた食べ滓は腐り出して、
なんともいいようがない悪臭を放つ、家でいえば、流行りの「ゴミ屋敷」のような社会になっているとおもいます。
こんなことを言うと、また、暴言だと言われるけどね。
手の付けようがないほど広がって、どうにもこうにも、文章の半分が枕詞で出来ているような、形骸ばかりで中身のない社会になって、どうすればいいかというと、
こういうときほど、社会に住むひとりひとりの人が、集中力を回復して、最近ツイッタでも同じことを繰り返していた、自分の住む社会のことでもないのに、余計なお世話もいいところだが、
この社会は、いや、この社会が、でもいいかな、自分たちが作ってきて、自分たちが住む社会なのだという「当事者意識」を取り戻して、ひとりひとりが参加することが、素朴なことを言うようだけど、大事でしょう。
日本では選挙が免罪符に使われている。数年間、なにもしないで、誰か「上の方」にいる人たちに勝手に社会を運営させて、数年に一度、勤務評定に投票しにいく。
それでおしまい。
そんな「何もしないこと至上主義」で、民主制という、チョー危なっかしい社会が運営できるなら、とっくの昔に、世界中津々浦々で民主制が行われて、みなみな、末代まで幸せに暮らしました、の民話的世界になっているはずだが、そうなってないでしょう?
欧州を見よ。
なんちて、力むほどでもない。
インフレが亢進すれば、こぞって町に飛び出して、このバカタレが、で投石して、日本でいう機動隊を隊列から引っぺがして、ボコボコにして、店のショーウインドウを割り、クルマをひっくり返して火を付けて、戦いを鼓舞する国家をみんなで歌う。
そこまでいかなくても、年柄年中、ストライクで、
地下鉄が三本に一本は来なくなり、フライトはキャンセルで、たったバルセロナからパリに行くだけのことで、空港で半日待たされ、バスは止まり、タクシーは街頭からいなくなり、果ては消防士がストライクで、あれ? あ、日本語ではストライクでなくてストライキか、ともかく、
火事になってさえ誰も来ません。
リー・クアン・ユーが民主社会で自由主義は、見てくれだけにとどめないと偉いことになるな、とおもったわけです。
ついでにいうとネット日本語には数多ある品性下劣な語彙に「出羽の守」というのがあるが、
危険なことを言うと、これには一理ある、と言えなくもなくて、アメリカでは、フィンランドでは、おフランスでは、と言っているうちに、自分が日本人であることを忘れてしまう。
日本語ネットではアメリカや北欧諸国や英語諸国の名前のあいだに、よく見ると「社会正義」という国も混ざっているようで、この国の住人だと自分を見なしている人は、なあんとなく、他所様の人であって、日本人は南京虐殺を反省しないから許せない、韓国から「慰安婦」を拐かしてきたから許せない、軍艦島で家畜のような環境でこき使ったから許せない、と述べているうちに、酔っ払って、自分が当の日本人であることは、すっかり忘れてしまう。
「主語がおおきすぎる」というが、そういう「日本の振る舞い」のレベルでは、世界のどんな人も「小さい主語」では考えてはくれなくて、日本人がやったことは日本人がやったことで、
おれはやってねえんだよ、では通らないんですね。
右翼だろうが左翼だろうが、同じ事です。
そう都合良く現実から幽体離脱して、現実の外側に立たれては、議論など成立のしようもない。
集中力のほうはというと、またヘンテコリンなことを言う、と追及されそうだが、
まずジェンダー差別をなくすことだとおもってます。
純粋に(言葉として聞くことに嫌悪感を示す人がおおい)国家の生産性の問題としてさえ、この問題がいちばんの解決すべき問題だとおもわれる。
制度だけでは、日本の場合、ジェンダー差別をなくすのは無理です。
こういうとジェンダーとはなにか、トランスジェンダーは、どう定義するのか、と必ず言い出す人がいるようだが、そういう人をバカという。
(失礼しました)
こういうことにも内実というか、外形の関係構図だけでは判らないことが当然あって、日本の場合は敬語や女言葉を中心として言語の問題もおおきいのかも知れません。
そのうえ、いつか軽井沢で地元の女の人と話していたら、
「日本はね、女の腐ったような男が多いから、女でちょっと優秀な人がいると、嫌らしいやりかたで足を引っ張るからダメなのよ」と述べていて、どんな顔をすればいいのか迷ったが、
そうやって、ほとんどあらゆる考え方に染み付いたジェンダー差別というものがある。
さっきも名の有る大学の教授が日本のジェンダーギャップランキングが、またまた下がって123位、下から数えて22番目になったことについて、記事を書いていて、指数の取り方が悪い、と書いてあって、誰でも知っていそうなこととして、「正しいインデックス」など、この世界に存在しないのは別として、どれどれとおもって読んでみると、要するに、そんなはずはない、なにかの間違いとしか思えない、と感情で書いてあるだけで、びっくりしたが、ランキングはどうでもいいということにしてもいい、日本にほんの短いあいだでも住めば、息をのむほどの女の人への加虐社会で、あれでまだ下に22個も国が並んでいるなんて、そっちのほうがインデクスの取り方が間違っているのではないか、とおもえるほどです。
フェミニズムなんて、どうでもいいから、女の人を男の人とおなじ人間だとして扱えばいいだけですよ。
そうすれば、いつかばれてパニクったように、男と女で合格基準を変えるような、頭がいかれた、みっともないことをしないですむようになる。
英語国でみると、新しい移民や難民が社会に参加するようになったことと、女の人がだんだん人間として認識されてきたことのふたつが劃期になって、ひところのどん底から、繁栄へ向かいだしてたのでした。
また、どん底が近いような気がするけどね。
自分の、この悲観的な気分は、内輪で見ていればわかる、またぞろ移民に対する人種差別や難民に対する反感、女のひとたちへの「やりすぎなんじゃないか」のバカタレ男どもの不平、
あんたら、またどん底へ戻りたいのかね、な風潮が肌で感じられるからです。
例えば人種を遺伝的に差別するようなことは、いまでは、ずっと少なくなって、
去年だったか、マリーナで、「ガメ、知ってるか?日本人てのは、マネは器用にやるが創造性はないと医学的に証明されているんだ。脳の構造が異なるんだよ」
と言われて、びっくりして桟橋から海に落っこちそうになったが、そういう人は稀で、
まず存在しなくなったといってもいいくらいになっている。
ところが、普段の会話のなかで、ごくあっさりと、「女の人は、やっぱり数学には向いてないから」と油断していると聞き流してしまいそうな調子で述べる人は、まだまだ多いようです。
まして、日本に、おいておや。
でも、これもですね。
さっき述べた「ここは自分たちの社会なのだ」という意識が強くなれば解決しやすくなる。
男の人の側が、どう思おうと、日本であってすら、女の人たちは厳然たる「日本語社会の仲間」として社会のなかで機能しているからです。
だから最近では職場のなかで、ジェンダー差別がなくなっている例も多いと聞いています。
現実かどうかは、もう、距離がおおきくて、確かめようがないが、
むかし某会社の商品デザインチームがグループで軽井沢の別荘に「意見を聞きたい」とやってきたときには、モニと一緒に、良い意味でびっくりで、軽食と、お茶をだすと男の人たちが、食後、さっと起ち上がって、キッチンで洗うところまで、さっさとやってしまって、終電が出てしまっているので、クルマで会社の寮まで送るのに、おおぜいなのでヴァンを出すと、男のひとたちが、なにも言わずに、さっさと補助席を組み立てて、女のひとたちをおおきな正規のシートに座らせると、でっかい体を縮めて最後列の補助席に、ちょこなんと座っていて、かわいくて、大好感でした。
だから、案外、お話しはほんとうで、ともかく高い生産性を保たなくてはもたない企業から、ジェンダー差別はなくなっていくのかも知れません。
ゴミ屋敷の片付けも一歩からで、日本語ネットには「もう火を付けるしかない。破滅でいいんです」と怖いことを言う人がいるが、現実は、とりあえず入り口に近い古新聞を紐で縛って外にだすところから始める以外には方法がない。
案外、みんなでやれば、意外と早く終わるかもしれない。
男の人と、女の人と、肩を並べて、
仲間同士で、根気よく、何もしなかった結果出来てしまった社会を変更していくしかないように考えています。
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