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 キーラがユリウスに会いたいと言わなくなった。


 「お父さまとお母さまは、かくれんぼしているんでしょ?」


 ――かくれんぼ?


 怪訝に思ったレオニードは、顔を少ししかめてみせて、隠しごとをしていないかキーラに尋ねた。


 「ひみつよ。キーラはこうへいなの」


 キーラは少しおびえたようだったが、何か言いそうになるのを必死にこらえていた。


 そんな娘を見て、レオニードは口元をゆるめた。


 「キーラは口がかたいな。だが、お父さまはお母さまを必ず見つける」





 それまで、使用人たちがくつろいで、おしゃべりに興じていた休憩所に、突如、緊張感が走った。


 ユリウスの向かいに座っていた家政婦が慌てて起立して背筋を伸ばした。すぐに他の皆も追随して、家政婦と同じ向きで直立不動の姿勢を取った。


 何事だろうかと戸惑いながら、ユリウスも皆と同じように立ち上がって後ろを振り返った。すると、厨房付近に姿を見せないはずの人物が、コツコツと足音を立てながら近付いてくるのが見えた。


 ――レオニード!どうして、ここに?


 「見慣れない者がいるようだ」


 威厳のある声の主が、ユリウスの前で止まった。


 「おまえの立場は?」


 「アンナの友人です、侯爵様。彼女に赤ちゃんが生まれるので、手伝いに来たのです」


 ユリウスはお辞儀をして言った。万が一のときには、こう答えるように皆と示し合わせてある。アンナと友人なのは間違いない。


 「誰の許可を得た?」


 侯爵の低い声に、皆凍りついた。


 「どうか誰も罰しないで。責められるべきは、わたしです」


 「そのとおりだ。おまえのために誰かが処罰されることになる。早くここから去ることだ」


 「それは」


 ユリウスは言い返そうとしたが、侯爵がさえぎるほうが早かった。


 「代わりに、おまえに新しい仕事を与えよう」


 そう言うと侯爵は一呼吸おいた。ユリウスは、キーラと会えなくなると思うと胸が張り裂けそうだった。いったいどんな宣告がされるのだろう。ユリウスは聞きたくなかった。


 「ここの女主人の仕事だ」


 皆が息をのんでユリウスの反応をうかがっている。だが、心の耳をふさいだユリウスは、必死になって訴え続けた。


 「どうか追い出さないでください。ここが好きなんです」


 「女主人となれば自由に出入り可能だが、何が問題なのだ?」


 しかし、ユリウスは、今度は、新しい女主人が来るから、元愛人はここから出て行くように申し渡されたのだと思った。ユスーポフ侯爵の縁談話が絶えないことは、ユリウスも知っている。噂話を聞くたびに胸が痛んだものだ。


 「言い直そう。私と結婚してくれないか?」


 頭が混乱していたユリウスは、聞き違えたのかと思った。


 「レオニード、今なんて?」


 「私との結婚はいやなのか?」


 「結婚?」


 レオニードがうなずいた。


 「あなたが誰と?」


 「おまえとだ。結婚すると言ってくれないのか?」


 求婚されたことをやっと理解したユリウスの目に、涙が浮かんできた。胸がいっぱいになって声が出ない。


 そんなユリウスの様子にレオニードは表情をゆるめたが、すぐにユリウスを引き寄せ、そして、驚くべきことに皆の前でユリウスにキスを始めた。家政婦以下一同は、目の前で展開している普段の主人らしからぬ行動にあ然としている。


 二人の唇が離れると、レオニードが尋ねた。


 「私の意思は伝わったか?返事を聞きたい」


 「もちろん、断る理由はありません」


 その瞬間に、わあっというどよめきが起こり、拍手が響き、祝福の言葉がこだました。ユリウスは、皆にお辞儀して、ありがとう、ありがとう、と涙声で繰り返した。そして、レオニードに手を引かれて休憩室を後にした。背後は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。

aportrait53: 概要
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aportrait53: ようこそ!

 レオニードは、この後、基地に行き、三日後に戻るそうだ。結婚式はその日に執り行うという。


 「三日後?」


 あまりに急で、婚礼の準備など何一つしていないユリウスは耳を疑った。


 レオニードは、財産と称号を求めて近付いてくる女性たちに辟易しているうえに、再婚相手の紹介の多さにうんざりしているそうだ。そのため、可能な限り早く結婚したいという。


 「つまり、あなたがわたしと結婚するのは、言い寄ってくる女性対策のためなのね?」


 口をとがらせてみせたユリウスに、レオニードは真顔で答えた。


 「もっと早く求婚するつもりだった。どこの誰とも知らない男を好きになり、その男を追って外国から来た女に、私は惹かれていた。その男のように愛されたかったのだろうな。その男とおまえが会っていたことで、心が揺れたのだ。私としたことが、おまえのこととなると冷静さを失うらしい」


 ユリウスはレオニードの気持ちを思って、微笑んだ。


 「あなたは、あなたよ。わたしは、あなたがユスーポフ侯爵じゃなくても愛したわ。むしろユスーポフ侯爵じゃないほうがいいくらい」


 「ユスーポフ侯爵が不満なのか」


 レオニードが意外とでもいうように眉を上げた。


 「ええ、嫉妬されるのは愉快ではないもの。でも、あなたがユスーポフ侯爵であっても好きよ」


 「そのように言われたのは初めてだ」


 レオニードは軽く笑った。


 「あなたも、わたしが誰であっても愛してくれたわ」





 ユリウスは、白地に金色のレースが施されたドレスと、レオニードの母親が婚礼のときに身につけたという繊細なベールにため息をついた。ドレスは、数週間前になじみの工房で既に仕立てられており、微細な調整が必要な程度だった。ベールを古い衣装箱から取り出したのは、フランスから戻ったばかりのカティアだった。


 「わたしが作ったのよ」


 カティアは、懐かしそうにベールを手に取って言った。カティアが夢中になって作製したというのは、レオニードの母親の衣装類だったのだ。ユリウスは、カティアがマカロフ家の出身で、あのオレグと姉弟だということを、このときに初めて知った。


 カティアは、レオニードの母親とともに学び育った。ことにレオニードの祖父に可愛がられ、目をかけてもらったそうだ。ユリウスは、レオニードの母親と同じく、カティアの作品を身に付けて結婚式に臨む。由緒ある世襲の侯爵の妻になるのだ。


 ヴェーラとリュドミールは、新しい家族を心から歓迎した。ヴェーラは、兄を信じて黙って様子を見ていたが、内心やきもきしていたという。

aportrait53: 概要
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aportrait53: 概要

  「お母さま、きれい。キーラもきてみたい」


 キーラは美しく装った母親を見て、おおはしゃぎだった。


 ユリウスが礼拝堂に入ると、正面にロシア正教の八端十字架が見えた。祭壇の前に立ったユリウスは、不思議な感覚にとらわれた。胸の奥からあふれ出てくる喜び。隣の力強い男性の存在。全てが、どこかで既に経験したことのような気がしてならないのだ。しかし、それが、いつ、どこで、なのか思い出せない。


 ユリウスが、あれこれと過去を思い出し、万感の思いにひたっているうちに、長い儀式も終わっていた。


 式もその後の祝賀会も、急なことだったので、ごく内輪だけで行われた。出席者のほとんどは使用人たちだった。カティアとロドニン、オレグ、ペトロワ、アンナ、ボリス、家政婦、執事、イリューシン、警備たち、そしてロストフスキーもいた。料理人たちは料理に腕をふるった。


 ユリウスはレオニードとともに、皆とともに、光とともに歩んできた。これからも光とともに歩むだろう。




 祝宴で、花嫁と花婿が最初のダンスを始めたときに、ブランシュが広間にまぎれ込んできた。そして、しばらく二人のまわりで楽しそうに飛び跳ねていたが、やがて踊っているユリウスとレオニードの手に、前足をかけていっしょに踊り出した。


 「ブランシュってば」


 ユリウスが笑った。レオニードも笑った。会場が笑いに包まれた。


 「キーラもいれて」







(終わり)

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aportrait53: テキスト
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