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 厩舎では、キーラがミハイルの弟レフとともに馬に餌をやっていた。ブランシュは、馬たちと遊びたそうにしっぽを振っている。

 

 「お父さま!」

 

 キーラが両手を広げて飛びついてきた。帰宅する父親にいち早く会うために、よく厩舎で過ごしているようだ。

 

 娘を抱きあげたレオニードが、レフに調子はどうかと声をかけると、レフは嬉しそうな顔をした。ヴェーラもリュドミールも、使用人の子どもたちとは親しくしてきたが、どこかに壁をつくってきた。しかし、キーラにとっては、ミハイルたちは分け隔てなく接すべき遊び仲間だ。

 

 キーラの母親が、彼らの両親たちを友人と考えているからだろう。それでいい。やがて垣根はできるだろうが、ユスーポフ家の当主となるのならば、彼らと強い絆を築かなければならない。そのためには、彼らのために自ら犠牲となるほどの行動さえ、ときには必要となる。レオニードの祖父も母親も、そうやって彼らと絆を築いてきた。レオニードとロストフスキーの間もそうだ。

 

 「お母さま、見つかったんでしょう?どうしてキーラに会いに来てくれないの?」

 

 母親が見つかったことが、どこかからキーラの耳に入ったようだ。キーラは、ユリウスがつくったという小さな布製のポシェットを、毎日のように肩にかけている。

 

 「少し体調が悪いようだが、お母さまは無事だ。残念だが、危険だから当分こちらには来られない」

 

 「お母さまに会いたい」

 

 キーラは今にも泣き出しそうだ。レオニードは、そんなキーラに馬に乗ろうと提案した。

 

 キーラは、元来、我慢強い性質だ。父親とともに馬に乗っているうちに、ヴェーラに言われていたことを思い出したようだ。

 

 「早く会えるように、キーラ、いい子にしてる」

 

 キーラは、ちゃっかりと父親に次回の馬に乗る約束をさせてから、レフたちのところに戻っていった。

 

 

 

 

 窓から庭を見下ろすレオニードの目に、キーラとレフが走り回っているのが映った。レフの頭にはキーラがつくったと思われる花冠がのっている。

 

 一年ほど前にユリウスとキーラと三人で侯爵家のりんごの花の咲く果樹園に出かけたことを、レオニードは思い出した。

 

 そよ風に吹かれ、さざめくように笑うりんごの花咲く木のそばで、母娘が白い野の花で冠をつくってお互いの頭に飾りあっていた。ブランシュは穴掘りに夢中だった。雲の切れ目から差し込む陽光のもとで思索していたレオニードは、ときどきそんな二人の様子を目を細めて見たものだ。

 

 キーラが、新しくつくった花冠を持って嬉々としてやって来た。

 

 「これは、お父さまに」

 

 キーラはそう言って、父親の頭に花冠のせた。

 

 「似合うわ」

 

 ユリウスがくすくすと笑って言った。りんごの花を背にして微笑むユリウスは女神のようだった。

 

 レオニードは、そのときのユリウスの眼差しに思いをめぐらせた。深い海のようでいて透明感のある瞳を見ると、命が洗われるようだった。レオニードは、その女神と娘を守るためなら、どんな困難にも立ち向かうつもりだった。しかし、その女神が他の男にも最上の笑顔を見せたと思うと、手に力が入る。

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  レオニードの心のうちは、ユリウスにみせた冷静な態度とは逆だった。あの男がシベリアから逃れた可能性は想定の範囲内だったが、あのメッセージを見たときは、頭を殴られたような衝撃を受けたのだ。

 

 

 

 先日、レオニードはユリウスの舘を再訪した。

 

 ユリウスは、あの男との間には肉体関係はなかったと主張した。だが、懐かしい人と会えて浮かれていたと悔いてもいた。

 

 「あなたが好き。あなたは、とても懐が深くて、愛情深い。あなたを尊敬している」

 

 「あなたと離れたくない。あなたは、わたしにはただ一人の人。なのに、わたしときたら、あなたが誤解するような行動を取って、どうかしていた」

 

 そんなユリウスの必死の言葉に心がかき乱される。嘘ではないだろうが、割り切れない。レオニードは、思考の空転を止め、義務と責任を果たすべく、未決の書類が積まれた書斎机に向かった。

 

 書類のいくつかは再婚相手の紹介だった。独身となった資産家の侯爵のもとには、親切心や下心からの縁談が次々と寄せられる。それぞれに対して、誠実に対応しなければならない。

 

 陛下でさえユスーポフ侯爵の再婚を望んでいるようだ。また、独身でいる限り、侯爵夫人の地位を狙って、寝室にまで潜り込んでくる不埒者も現れかねない。

 

 レオニードは、頭を左右に小さく振り、いささか疲れ気味の頭を働かせようとコーヒーを頼んだ。

 

 書類の山のなかには、ユリウスからの手紙もあった。

 

 先日ユリウスの舘を訪れたときに、彼女はドイツに一人残された姉に手紙をしたためていた。ロドニナから姉の様子を聞き、いても立ってもいられなくなったらしい。

 

 「何が起こったのか姉には知る権利があるわ。それに、嘘をつき続けてきたことを謝りたいんです」

 

 姉に謝罪したとしても、許されるとは思ってはいないが、とにかく謝りたいとのことだった。ユリウスらしい。

 

 「あなたに隠しごとをしたくないから、目をとおしてほしいの」

 

 彼女は、疑われるべき点などないことを示したいようだった。

 

 しかし、十代半ばで故国を後にしたユリウスは、母国語をほぼ忘れており、言葉が出てこないので、少し時間がかかると言っていた。それをようやく書き上げたようだ。

 

 手紙の内容をロシア語に訳したと思われる紙が添付されていた。翻訳というよりも下書きかもしれない。

 

 レオニードは、辞書を手に取って、「親愛なるマリア・バルバラ」で始まるドイツ語を読み始めた。概ね理解したが、難解な部分もあった。おそらく添付の訳と相違ないだろうが、念のために、専門家に該当箇所の翻訳を依頼することとした。

 

 他には不審な点もなく、生い立ちや異母姉の企みなど、モスクワでユリウスから聞いたことと一致する。アーレンスマイヤ氏の立場と帝国銀行の中身についての言及はなかった。

 

 レオニードはユリウスの過去について思いを巡らせた。男としての生活は苦しかっただろう。親しい者たちの死は、まだ若く、やさしい彼女にとっては、つらいことであっただろう。

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 もしレオニードが、生まれながらに女と偽って生きることを父母に強制されたら、物心のつかない幼少時はともかくとして、成長過程のどこかで爆発しただろう。女学校に通うことなど想像すらできない。そもそも性別を偽ることなどありえない。ばかなことだ。

 

 だが、そのばかなことをユリウスは強いられたのだ。嘘をつき続けたのは、彼女の意思ではなかったはずだが、良心の痛みが消えないようだ。ユリウスは嘘をつくには繊細すぎる。故郷にいられなくなっただろうことは、容易に想像がつく。

 

 ノックの音がして、執事がコーヒーを持って現れた。

 

 数年前から、ユリウスの館と侯爵家では、ドイツの主婦が考案したというろ紙で濾す方法で、コーヒーをいれている。雑誌でその方法を知ったユリウスと舘の料理人が、さっそく取り入れたのだ。

 

 「あなたにおいしいコーヒーを飲んでもらいたいから」

 

 レオニードはコーヒーを口に含んだ。苦く、雑味のない味だった。

 

 

 

 

 手紙に不審な点がないことが確認できると、レオニードは、所用でパリに戻るロドニナに、ドイツかフランスで投函するように依頼した。

 

 封筒のあて先もユリウス自身が書いた。差出人は、ユリウスとだけになっている。居場所を姉に知られたくないらしい。手紙を手がかりにして、姉がユリウスの居処を探し当て訪ねて来ても、心苦しくてとても会えないと言う。そこで、国外で手紙を出せば、ロシアにいることは知られないだろうと考えたのだ。

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