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ユリウスの肖像
45
「あなたたちは人でなしだわ」
ユリウスはしばらくぼう然としていたが、我にかえると安心感と同時に怒りがこみあげ、その勢いにまかせて彼らをなじった。もし、アレクセイが来なかったら、ユリウスは暴行されて、そのあと、どうなっただろう。
「わたしがアレクセイの知り合いではなかったら、殺されていたんでしょうね」
ユリウスは、エフレムに利用されたヴェーラのことや、残酷な結果に終わったアレクセイとの再会を思い出して、怒りとともに涙がこみあげてきた。
「わたしの知りあいは、あなたがたの仲間にだまされて、今もまだ心の傷を抱えたままだわ。それに、アナスタシアは?彼女はアレクセイを助けたのに、あなたがたは彼女を助けないの?」
アレクセイの顔色が変わったが、ユリウスは感情にまかせて涙を流しながらまくしたてた。
「名誉も財産も失ったアナスタシアは、もう役に立たないし、それどころか足手まといになるかもしれない。だから、あなたがた唯物論者は彼女を助けないのでしょう?人は物質にすぎないんですものね」
「違う!」
アレクセイが拳で壁をたたいて叫んだ。感情的になったアレクセイの様子を見て、口ひげの男が割って入った。
「我々は彼女を見捨てるつもりはない。だが、今は何も言えない」
口ひげの男もまたアナスタシアに助けられたことを話した。
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*
ユリウスは口ひげの男の妻のもとに預けられることになった。
彼らの住居に向かう道中、アレクセイたちは逃げようとするユリウスの腕をつかんだ。ユリウスとアレクセイの距離が近付くと、ユリウスの心臓がいっそう落ち着かなくなった。
口ひげの男はフョードル、その妻はガリーナといった。ガリーナは、かわいらしく、素直な感じの女性だったが、ユリウスのことを監視しているようにもみえた。ガリーナは、夫に頼まれたのか、それとも純粋に好奇心からか、それとなくユリウスのことを聞いてきた。
ユリウスは口を閉ざしたが、それでもガリーナはユリウスにお茶を用意するなど、いそいそと気をつかってくれた。
ガリーナは、ユリウスに着替えを渡して、やぶれたブラウスをつくろおうと申し出たが、ユリウスは礼を言ってから、自分の服だから自分で直したいと伝えた。けれども、繊細な絹は手の施しようがない状況になっていたので、結局、麻で新しくつくることになった。
ブラウスだけでなく上着やワンピースも、馬に乗ったり転んだりしているうちに、あちこちがほころんでいた。ユリウスの服は活発に動き回るためにつくられてはいなかったのだ。そこで、動きやすいワンピースも新たに縫うことになった。
ユリウスは最初のうちはガリーナと話すのをためらったが、同じ部屋で女が二人で縫物をするようになると、ぽつぽつと会話が始まった。
ガリーナは、アレクセイのこととなると目を輝かせて話した。どうやら彼には友情以上の感情をもっているようだ。そんなガリーナが夫といっしょになったのは、窮地に陥ったときに、シベリアから帰還したばかりの夫に助けられたことがきっかけだったという。
その話は、ユリウスとレオニードとの関係と重なった。瀕死のユリウスを助けたのがレオニードであり、最悪のときにそばいてくれたのが彼だったと言っていい。
ユリウスは、ガリーナには、アレクセイに会いたくてロシアに来たが、ひどい再会をしたあとに死にかけたこと、そして親切な人に助けられたことは話した。その親切な人がどこの誰かについては、口がさけても言えない。
妊娠していたガリーナは、産着やおむつ、そのほかにもさまざまな出産の準備をしなければならなかった。そんな状況だったので、ユリウスは、赤ちゃんのための生地を自分のブラウスやワンピースに使うことを心苦しく思った。それに、ユリウス自身の妊娠中の不安や心細さも思い出した。
また、ユリウスが地下室に連れていかれたと聞いたときに、状況を察したガリーナがアレクセイたちを地下室まで急がせたということもわかった。
そこで、ユリウスは少しはガリーナの力になりたいと思い、身につけていたネックレスや隠しておいた指輪を赤ちゃんのために売ってくるように渡した。
「金髪で青い目の女性を助けたら、お礼にもらったと言えばいいわ」
そう言ってユリウスは、「ガリーナへ、ユリウスより」と紙切れに書いた。
ガリーナが外出するときは外から鍵をかけたので、ユリウスは一人取り残されることになった。それはユリウスに思索の時間を与えた。
ガリーナは、夫を愛することは夫が大切にしている思想を愛することだと言って、難しい本を読んでいた。彼女によると思想によって二人はいっしょになれるそうだ。その思想というのは、暴力革命の指導者の思想だ。
ガリーナのその話を聞いて、ユリウスは、レオニードとの関係について、これまでにない視点で考えるようになった。
ユリウスは、家族に対するレオニードの愛情は理解できるにしても、ロマノフ家に対する忠誠心は行き過ぎだとさえ思うこともある。それでも、いつからか、それがレオニードなのだと思うようになっていた。いまは家族やロシアに対する彼の強い愛の思いに尊敬の念すら覚えている。
そのレオニードがユリウスを助けたのは、皇帝からの保護命令があったからだけとは思えない。万が一のばあいには、秘密がもれないように射殺することさえ同時に命じられていたのだから。ユリウスが出奔したときには、射殺するどころかモスクワまで迎えに来たのだ。
くわえてアレクセイの助命嘆願だ。ユリウスにアレクセイを会わせると約束していたとしても、反逆者の命を助ける必要はない。だから、ひょっとしたら助命嘆願はユリウスのためではなかったかとも思う。そんなことを考えると胸が熱くなる。
だが、レオニードの口から出る話ときたら、キーラのことを除けば、ユスーポフ家やロマノフ家、ペテルスブルクやロシアの歴史だった。劇場に行けば建造物の由来を話し、人と会えばその人の地位や人物評を行った。軍事行動や兵器については当然ながら詳しく、ドイツに関しては名参謀モルトケと宰相ビスマルクの信頼関係がドイツを強くしたと論じていた。ユリウスにとっては、そんな話の大半はどうでもいいことだったのだが。
そんなレオニードに対してイライラすることもあった。そんなときに怒りをぶつけても、彼はたいてい沈黙するだけだった。
レオニードが自分の感情を積極的に表明することはなかったが、しだいに彼の考え方、生き方がユリウスには見えてくるようになった。彼は、家族を愛し、ロシアを愛し、愛するものを守ろうとしている。彼にとってはそれが善なのだ。
レオニードはユリウスの過去を受け止め、ユリウスの罪については、母親を守るためだったのだから、神の裁きをそこまでおそれることはない、と考えているようだった。それまで罪の意識に支配されていたユリウスにとっては、神など存在しないほうが都合がよかったが、彼の生き筋を見るにつれて、考え方が変わってきた。
レオニードの強さは、自らの信念に忠実なところだ。それは、個をこえたところにあり、決して自我我欲に基づくものではなかった。そんな彼を、ユリウスは支えたいと思うようになっていた。彼の宮廷や軍での地位は低くはないが、そこは敵や日和見主義、裏切りが横行する戦場でもあり、気が休まることがないのだ。
そのレオニードとは、もう何年もともに過ごしてきた。アレクセイと音楽学校で過ごした期間に比べれば、何倍も長く濃密な時間だ。それなのに、アレクセイに再会してからというもの、なぜユリウスの胸が数年前と同じようにさわぎ続けるのだろう。
――これが、オルフェウスの窓の力なの?
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