言葉という支配者

ウインストン・チャーチルが日本の真珠湾奇襲の直後、初めてホワイトハウスを訪れたとき、

酒や食べ物の趣味や、チャーチルの毎日の日課についての報告と一緒に、

情報部が持って来た資料の1ページに目をとめたフランクリン・ルーズベルトは、

これは1ヶ月の酒量の間違いではないか?

と何度か確かめたそうでした。

そこに書かれていたのは、毎日欠かさない、一日に飲む酒の量として、ボトル3本のワインと45杯から一本のブランディ、そのうえ旅行中は、ウイスキー1本を空にする、という「お酒を飲むことは悪い事」というピューリタンの認識からは、ほんとうには離れられないアメリカの大統領には、到底、信じられない量で、若い時には、決まって12本のシャンパンを最低限飲むことを日課にしていた、この老宰相が、ルーズベルトにはバケモノとしかおもわれなかった。

読んでいて、それまではイギリスの上流階級の人間と付き合いがなかったのだろうか、と不思議におもうくらいの驚きかたです。

クイーン・マムと呼ばれて愛されたQueen Elizabeth The Queen Motherと並んで、上流階級の英語の典型と言われる、あのチャーチルの英語は、上流階級であることから来るよりも、酒の飲み過ぎで呂律が回らなかっただけだった、というガメ・オベール仮説があるくらいで、イギリス版古今亭志ん生というべきか、いま聴いていても、晩年の志ん生のように演説が堂々巡りしないのが不思議な気がします。

ヘロヘロでベロンベロンの志ん生英語の言葉の力でパリッとしてチョーかっこいい自慢のルフトバッフェの敗退を余儀なくされたゲーリングとヒットラーは、さぞかし悔しかったことでしょう。

なんだっけ?

ああ、言葉の力の話をしようと考えていたのだった。

ウインストン・チャーチルの話なんかから始めるから、おはなしの筋が、ヘロヘロと無関係なほうへ行ってしまう。

言葉はブロイラーをケージチキンにして閉じ込めて卵を産ませようとしても、うまくいかないもので、ほぼ放牧にして、ときどき、方角を決めてやるくらいの使い方がいちばん良さそうです。

言葉には言葉の意味とニュアンスの歴史的蓄積があって、そのうえ更に数多くのシナプスで他の単語と結び付くことによって、膨大な言語自体の潜在意識のようなものを形成している。

語彙同士のネットワークは、意外なくらい人間にとっては可視でないのは、最近のLLMでも判るとおりで、人間の脳という「意味の闇鍋」でなくても、AIの、連想でつなぐ言語の組み立て方でも、ほぼ同じ場所に近付きそうなのは、いまは毎日の仕事やなんかにChatGPT-4を道具として使うのが普通になっているので、読んでいる人たちも、経験ずみのことだとおもいます。

ちょっと余計なことを書くと、ChatGPT-4は、どんどん作り込んで、失礼なことを言わないようになっていて、いよいよ、「それは違う」という人間側の反応で追い込まれると、ええ、あなたの仰る通りです、と嘘をついて、その場を取り繕う。

BARDも概ね、おなじだが、こっちのほうは2016年のマイクロソフトの「Tay」に似て、

人間を不愉快にする局面がよくあります。

いちど、むかしあった神保町のとんかつ屋の店の名前を思い出そうとして、

「猿楽町の、夏目漱石が学んだ錦華小学校の前にあったカタカナ店名の、いまは閉店したとんかつ屋の名前を教えてください」と述べたら、BARDの持ち前の俊敏速度の応えで、

「それは小川町にあった『とんかつ』というとんかつ店です」

という。

とんかつ、は平仮名ですよね。

カタカナの店名です、と述べたら、驚くべし、口答えをして

「とんかつ」は日本語ではカタカナで書くこともあります。

だから「とんかつ」はカタカナと言っていいのです、と強情です。

それから暫く不愉快な問答を繰り返しても、頑として「とんかつ」はカタカナだ、と譲らない。

やりとりをしているあいだに、こちらが件のとんかつ屋は「ニューポート」という名前だったのを思い出したので、

そのまま対話はほっぽらかしになってしまったが、意外なところでAIに「人間」を感じて、

結果として、悪意を持ちうるのだということをあらためて考えました。

言語には人間の目には「人間」としかおもえないものが潜んでいて、これから先、LLM型のAIが発達していくと、人間に対する言語の復讐と呼びたくなるような事態もありそうでした。

言語というものが好きなので、むかしから英語以外の言語を、ちょっと触ったりして遊んでみる。

子供のときに暮らして、楽しい思い出ばかりだったせいもあるのかどうか判らないが、

なかでも日本語がおもしろくて、ネットに日本語を書き始めたころは、「日本語が下手だね。見込みがないから、止めた方があなたのためだとおもう」と忠告されていたりしたが、そのうちに、我ながら上手になってきて、今度は「日本人以外の人間が、こんなに日本語が上手なわけはない。ニセガイジンに違いない」と騒ぎ出して、むかし、山本七平やポール・ボネ?という外国人を名乗って日本語で本を書くという、フランス人の有名作家たちが、むかしよくやった方法を使って、ベストセラーを書いたひとたちがいたようで、思い込みが激しいのか、あっというまにそうに違いないということになって、終いには亀有に住んでいる日本人のおじさんだということにされてしまった。

こっちは、その気持ちの低さ、下衆さが嫌で、日本人自体を何度も嫌いになりかけたが、そのうちに、主に英語が準母語の人たちが現れて、日本人だとすると説明がつかないことがたくさんある、あの人たちは自分たちが狭い世界にいるバカだから判らないだけで、気にしないほうがいいよ、ということになって、いまに至っている。

井の中の蛙、では気の毒だが、日本の自称知識人だったりするおっちゃんたちが、そんなことばかりやっているあいだに、世界はどんどん変わって、非英語人が英語で文章を書いて、あまつさえ、文学作品を書いて、反対に英語世界全体に影響を与える時代になって、自分が好きな作家なので、いつもKamila ShamsieArundhati Roy を、よく挙げるが、他にも日本でも知られているのではないかという気がする名前を気が挙げると、英語を学ぶだけで「社会の敵」と見なされた文化大革命時の北京に育って、北京大学を出てから、一から英語を学んで素晴らしい英語の小説を書くようになった李翊云のような作家もいる。

いつかリストをつくってみたら、百人を軽く超える有名作家が非英語世界の出身で、自分にとっては「外国語」である英語で本を書いている。

リストには大人になってから英語を学んだ作家しか入れなかったが、子供のときに両親に従って英語国に移住した例を含めると、日本の人にも馴染みがある名前の、ミン・ジン・リーや、なにより英語文学世界では高峰をなしているカズオ・イシグロも含まれます。

いまふり返ってみると、あのニセガイジン騒動で大騒ぎして、「ガメ・オベールをみんなで葬るべきだ」なんてやっていたのは、ひとつには、おとなになってからも本来ガキンチョしかやらない集団いじめをやめられない日本の人特有の集団加虐趣味で、もうひとつには、日本では人間の格付けに利用されている「学力」のなかの重要な科目として効率の悪い修行に似た長い長い年月に及ぶ苦しみから来た自分自身の英語コンプレックスの裏返しだったように思える。

またまた悪い癖で、どうしてこんなにバカなんだろう、と感心してしまって、日本語人全体を軽蔑しかけていたが、ネットの、見えるところでも見えないところでも、主にアカデミアのひとたちが「やめてはいけない。わたしは、あなたの日本語のファンですよ」と絶えず暖かい言葉をかけてくれて、次第に、バカなひとびとのことは、どうでもよくなってきて、いまになっている。

さっきリストをつくってみたら、と書いたが、なぜ、そんなことをやってみたかというと、

あんまりニセガイジンニセガイジンと大騒ぎされて、嘘つき呼ばわりされるので、

母語でない言語を習得して準母語と自分で言ってはヘンだが、居直っていうと、準母語になる例は、例えば、コンラッドは小学生でも知っているくらい有名だが、そんなに少ないのだろうかとおもって調べたので、調べてみると、今度は、え? あの人もそうなのか、で驚いてしまった。

英語人には、誰かの素性を詮索して、ましてニセガイジンなんて大騒ぎする習慣がないので、

知らなかっただけで、家庭内では英語が通じず、ノルウェー語で話して育ったのは知ってはいたが、ロアルド・ダールの、あの魅力的な英語の調子がノルウェー語の影響を受けているのを、そのとき初めて知ったり、落ち着いて考えて見ると、例えばpostponeに対するproponeのような語彙は、ヒンズー語の直訳で、英語を母語としてないインド移民が英語に持ち込んだものであることに気が付いたりした。

非母語作家が英語世界に多いのは、当たり前といえば当たり前で、英語がテキトー言語で、特に初めのうち、どんどん話して身に付けやすいということもあるが、それが創作にまで結び付くのは、ふたつの言語を思考言語として持つということは、ふたつの「互いに相対的でない絶対」を持つことで、このあいだの望月新一さんの宇宙際タイヒミュラー理論への複数言語思考の影響ではないが、「絶対を相対化する」という作業が頭のなかで行えるからでしょう。

え?絶対を相対化したら、相対なんでないの?

と慌てて早とちりする人がいそうなので、少しだけ説明すると、

絶対価値(真理)の集合Aがあって、そのひとつひとつの元が、ある規則によって写像されるような集合Bを考えると、もうひとつ絶対価値の集合が生まれる。

ところで、規則によってはBA11対応の結果生まれるものがAに含まれないのは当然で、

この手法はABに性質が異なる元と元の関係が混在しているときに、元の関係別に集合をすっきり分けるために、有効なのは、ほぼ自明です。

普通、「世界を語り尽くす」ことが出来る自然言語の集合を、まるごと人為的につくるなんて無謀なことは神様でもめんどくさがってやらないが、便利なことに、

西欧語(英語を含む)と日本語くらい、長いあいだ隔離されて、別々に発達してきて、

翻訳文化によってかろうじて、お互いを理解するくらい懸け離れた言語であると、

この「ふたつの絶対」と似た状況が生まれる。

言語に内在する思考パワーというのは、地球の地下深くに眠るマグマみたいというか、人間の意識が想像するレベルを遙かに超えるものであるのは、現代詩に馴染んでいる人にとっては、Dylan Thomasや、あるいはWilliam Shakespeare が書いた劇を舞台の上で演じるのを観れば明らかだとおもいます。

ふたつの思考言語を持つ人は、普段に、ふたつの宇宙を行ったり来たりして、

「絶対」という言葉の意味を実感する。

人間の叡知のおおきさを、驚愕して眺めることになる。

この先は、どうなるか。

人間がニセガイジンだなどとくだらない愚かさに酔い痴れているあいだに、LLMのほうで、さっさと「n個の絶対」を作ってしまうかも知れません。

LLMの能力が、当初の予想を遙かに超えてしまったのは、要するに自然言語が持っている知の豊かさを、人間がよく判っていなかったからでしょう。

いったん、あまり意識しないで開けたドアから飛び出してくるものは、人間が道具に使えるかどうか思案しているあいだに、言語同士の見えないネットワークを構築して、人間の知性を圧倒してしまう可能性もある。

三十年もすると、人間が人工知能の指示で仕事をしながら、ランチタイムに、

「どうも、あのとき言語の力を甘く見て、傲慢だったのがよくなかったね」と慰め合うことになっているのかも知れません。



Categories: 記事

%d bloggers like this: