薩摩藩によって過酷な収奪を受けていた だけ
と思われがちな琉球、
しかし、近年は食糧を融通しあうなど、
琉球や薩摩が倒れないように
相互間の 援助体制があった事も分かってきました。
そんな琉球にとって、物分かりの良い 殿様が
薩摩藩4代藩主 島津吉貴です。



殿様







1709年の大飢饉を救援


島津吉貴は、1704年に30歳で藩主の座につきました。
それから、5年後、琉球では相次ぐ台風で大飢饉が起こり
3200人の餓死者を出しました。
この時に、吉貴は白銀2万両、米3000石を救援しています。

1712年、国王号を許す


1711年、島津吉貴が中将に任官した慶賀で、
美里王子 朝偵が鹿児島に向かい、途中風雨で遭難死しました。
そこで翌年、今度は国王の弟である野国王子朝直が出発
無事に使節を果たすと、吉貴は
「琉球は長く国司号だったが、
以後は従来通り中山王を名乗って良い」と許します。


1711年首里城正殿焼失 材木を提供する



1711年、失火により首里城正殿が焼失しますが、
それを再建する為の木材の調達に苦心しました。
薩摩藩に救援を要請すると、吉貴は19500本の原木を調達して寄贈し、
これで首里城正殿が 再建する事が出来ました。




イシハラマサミツの感想

石原


島津吉貴は、1721年に病気を患い
隠居して747年に死去しますが、
この時代、琉球は薩摩とも 中国とも関係が良好であり、
そこには、吉貴の影響が あるように思えます。
もちろん、そうする事が薩摩藩の利益になるという
考えもあったのでしょうが、
琉球を嫌っている藩主より 協力的な藩主の方が
交渉はやりやすかった事でしょう。