ジャニーズJr.(ジャニーズ・ジュニア)は、ジャニーズ事務所に所属するタレント集団。
同事務所の公式ホームページにて、プロフィールページが設けられていないタレントを指す総称。
「ジャニーズ・ジュニアー」、「ジャニーズ・ジュニアーズ」、「ジャニーズJR.」などの表記が使われていた時期も存在する。
現所属者と退所者を混合で、生年順に取り上げる。
名前の漢字の読みは「ジャニーズJr. / 研修生一覧 (五十音検索)」の項目を参照。
概要
- 主としてジャニーズ事務所に所属するタレントのバックダンサーを務める。
- Jr.のメンバーたちは、メジャーデビューを目指して個人同士、あるいはユニットごとに切磋琢磨し、学業や多忙な活動の合間を縫ってダンスなどのレッスンに励む。
入所年齢はどんどん低年齢化し、小学生での入所が珍しくなく、高校生になると退所する者が顕著である。
- 東京でレッスンを受けるJr.はそのまま「ジャニーズJr.」と呼ばれ、大阪でレッスンを受けるJr.は「関西ジャニーズJr.」と呼ばれる。
また、東海地区在住者のJr.を「名古屋ジャニーズJr.」として区別していた時期もあった。
- ジャニーズJr.は、
「フレッシュJr.」(通称:フレジュ)
「リトルJr.」、「Littleチーム」、「ちびっこJr.」(通称:チビジュ)
「ミドルJr.」、「弟組」(ファンからの俗称)
「ジャニーズSr.」、「兄組」(ファンからの俗称)
などの枠組、階層で分けられることがある。
- ジャニーズJr.の枠にまだ正式に入らない段階の者は、「研修生」(別名:レッスン生。通称:レッ生)と呼ばれる。
古くは、「芸研ジャニーズ」や「ジャニーズ・芸研グループ」などの名で存在していた。
そして、研修生をダンスのレベルによってアルファベットで区別し、一定試験をクリアしたらJr.に昇格出来るなどの体系も存在する。
- その他、ジャニーズ事務所に所属するグループのコンサートでバックダンサーの手伝いをするだけの「コンサートJr.」も存在する (主に名古屋や関西の現場に多い)。
彼らは事務所に所属している訳ではなく、元ジャニーズJr.や他者からの繋がりで集まった者たちであるが、ここから正式にジャニーズJr.へ復帰、昇格する場合もある。
また、違う事務所の子役からジャニーズJr.になるというケースも少なくない。
海外でも、2000年2月のKinKi Kidsのアジアツアーを皮切りに、台湾と香港でコンサートJr.のオーディションが行わることがあり、そこで選ばれた現地人によるコンサートJr.は、「台湾Jr.」、「香港Jr.」と呼ばれた。
2001年5月に選ばれた台湾Jr.の中には、後に関西Jr.を経て「ジャニーズWEST」のメンバーとなる中間淳太も在籍した。
なお、ジャニーズ事務所と業務提携していたタイの兄弟アイドルデュオ「GOLF & MIKE」の2名に対し、雑誌などで「タイJr.」と呼ばれたが、これはあくまでも通称であり、正確にはジャニーズ事務所所属でもジャニーズJr.でもない。
- ジャニーズJr.には正式なファンクラブは無いが、それに準ずるものとして「ジャニーズジュニア情報局」がある。
CDデビューを果たすなどして、公式ファンクラブが発足された者はジャニーズJr.とは呼ばれなくなり、Jr.から卒業と見なされる。
- また、過去に存在した「ジャニーズJr.」名義でのグループとして、1963年結成のバンド「ジャニーズ・ジュニア」と、1973年5月5日結成の「ジャニーズ・ジュニア (第1期生)」がある。
- 1963年に結成されたバンド「ジャニーズ・ジュニア」(便宜上での初代Jr.)は、「ジャニーズ」のバックバンドであり、ジャズ喫茶などでのライブ活動も行っていた。
当グループを“最初期のジャニーズJr.”、“事実上のジャニーズJr.第一期生”という見方も出来るが、その後のジャニーズJr.の定義からは外れたバンド専門のグループに当たるため (ただし松下公次だけは正式なJr.枠)、当サイトではJr.の一覧表にこのバンドメンバーの名前は記載せず。
- 1973年5月5日に結成された「ジャニーズ・ジュニア (第1期生)」とは、フォーリーブスや郷ひろみのバックダンサーとして活動していたグループを指す。
まず最初に、1969年初頭頃から同年末にかけて、「ジャニーズJr.」の呼称が一時消滅していた時期がある。
その間のJr.は「ジューク・ボックス」と呼ばれていたが、ファンに対して行われたJr.の人気投票で上位6名を選抜し、1969年末に同じ「ジューク・ボックス」名義で正式にグループ化された。
ジューク・ボックスがグループ化されて以降、残りのJr.は「ジューク・ボックス・ジュニア」と呼ばれるようになる。
この名義では、1971年8月のミュージカル『少年たちシリーズ第5作 ~ フォーリーブス・ミュージカル 明日なき友情』、
1972年1月~3月のミュージカル『少年たちシリーズ第6作 ~ フォーリーブス・ライブ・ミュージカル 生きていくのは僕たちだ!』(1971年10月公演には不参加)、
1972年12月のミュージカル『フォーリーブス物語 ~ 星に帰った若者』などに出演。
テレビでも、1972年12月より郷ひろみの看板バラエティ番組『ひろみと共に』(テレビ東京。毎週金曜正午からの30分番組)にアシスタントとしてレギュラー出演を開始した。
そして、翌1973年5月5日 & 6日に日本劇場で行われた『第49回 ウエスタン・カーニバル 郷ひろみショー』にて、板野俊雄、林正明、畠山昌久、山縣孝良、鈴木寛の5名で「ジャニーズ・ジュニア」として登場し、ジャニーズJr.の呼称が復活 (このステージでは小坂まさるはソロ名義で出演)。
これが後にグループとしての「ジャニーズ・ジュニア (第1期生)」となっていった。
メンバーが続々と増えていく中、1974年春に、小坂、板野、林、畠山、山縣、鈴木寛、柏木孝夫、近藤純市、吉田義久(吉田は1974年3月の一番最後の参加者)の9名に定着したため、ジャニーズ・ジュニアの第1期生はファンから「9人ジュニア」という俗称でも呼ばれた。
(なお、9名に定着するまでの間には、鳥越晃、原川吉臣、鈴木節夫、池田洋の4名も一時参加していた)
この9名で、ジャニーズ事務所の自主制作による2枚組ライブLP『フォーリーブス・郷ひろみ ジョイント・リサイタル』に参加したり、フォーリーブス主演の映画『急げ!若者 TOMORROW NEVER WAITS』(1974年7月、東宝)や、北公次主演の連続テレビドラマ『ボクは恋人』(1974年7月からの参加、フジテレビ)などにも出演していた。
当時は、「1、2、3、4、郷ひろみ! 6、7、8、9、ジュ~ニア!」という応援コールもあった。
しかし1974年夏、ジャニー喜多川は9名のジュニアを3名(板野、林、山縣)と6名(小坂、近藤、畠山、鈴木、吉田、柏木)に分割し、3名の方にだけ「ジュニア・スペシャル」という新しい名称を与えた。
この采配が引き金となり、紆余曲折を経て、9名中の6名(小坂、近藤、山縣、鈴木、吉田、柏木)がバーニングプロダクションへ移籍して「メッツ」を結成。
ジャニーズ事務所に残った3名(板野、林、畠山)も「JOHNNYS' ジュニア・スペシャル (通称:JJS)」を結成し、それぞれレコードデビューした。(詳細はそれぞれの項目を参照)
- 上記の「ジャニーズ・ジュニア 第〇期生」という呼称は、1976年に入所した第7期生で最後となる。
そして1978年の「JOHNNYS' ジュニア・スペシャル」解散以降、ジャニー喜多川は、“ジャニーズ・ジュニア”という呼称はもう使いたくないとして、意図的に封印する (錦織一清がラジオ、植草克秀がテレビ番組で言及)。
その間ジャニーズJr.は、ファンたちからは「ジャニっ子」、事務所内では「ジャニーズ少年隊」と呼ばれていた。
1981年になり、「ジャニーズ少年隊」の名前を使った単独のグループが結成される (少年隊の前身グループ)。
これにより、ジャニーズJr.は「ジャニーズ・ジュニアーズ」という名称で復活する。
テレビ東京の『ザ・ヤングベストテン』(1981年10月6日 - 1982年9月21日)や『レッツGOアイドル』(1982年10月16日 - )にて、この名称で登場。
その後、「ジャニーズ・ジュニア (ジャニーズJr.)」の名称へと戻っていった。
1990年代半ばには、番組名に「ジュニア」の名を冠したテレビ番組を持ち、その後も東京ドームなどの3大ドームや日本武道館でコンサートを行うほどの人気を獲得している。
この他、少年隊のバックを務めるJr.に対する総称として「少年隊ジュニア」、
ユニットに所属していないJr.に対する総称として「Jr.BOYS」という名称も存在した。(ただしいずれも、単独グループの名称としても使われている。詳細は各リンク先を参照)
嵐のバックを務めるJr.に対する総称としては、「嵐組」も存在した。
- ジャニーズJr.は長らく、ジャニーズ事務所とは契約書を交わさないまま芸能活動をする存在であったが、2018年より、第一線で活動するJr.たちは事務所と正式に「年間専属契約」を結ぶように改定された。
- 2021年1月16日、ジャニーズ事務所はコーポレートサイトにて、ジャニーズJr.に対して22歳での「活動終了制度」を設けることを発表。
これは、満22歳に到達したJr.は、“ジャニーズJr.としての活動継続”について事務所と話し合いの場が持たれ、最初の3月31日(締め日)が到達するまでの間に“双方”が合意すればJr.としての活動が続くが、合意に至らない場合は退所(リストラ、自主退所の2種)となるもので、最初の締め日は、制度の発表から2年後の「2023年3月31日」とした。
よく、「22歳までにメジャーデビューできなければ退所」という“定年制度”だと誤解されてしまうが、双方が合意さえすれば22歳以降でもJr.としての活動が継続できるので、一つのボーダーラインではあるが、定年制度ではない。
ジャニーズ事務所の公式発表でも、「年齢制限に関わる制度」との表記であり、「Jr.の年齢を22歳までに制限する」と断定している訳ではない。
[1]
そして最初の締め日である2023年3月31日、22歳未満の者も多数含めた、関東Jr.14名、関西Jr.2名の、計16名が一斉に退所となった。
ジャニーズJr. 一覧 (関東組)
関西ジャニーズJr. 一覧
愛称:関ジュ、関ジュニ。 関西Jr.、および関西研修生の入所日順のリストは、「入所日順リスト」を参照。
名古屋ジャニーズJr. 一覧
詳細は 名古屋ジャニーズJr. 一覧 を参照。
元気Jr.
詳細は 元気Jr. を参照。
研修生一覧
詳細は 研修生一覧 を参照。
ゲスト参加者
「ゲスト」とは、ジャニーズJr.である友人の付き添いや、他のプロダクションなどからの出向などで、ダンスレッスンを体験させてもらった者。
つまり、ジャニー喜多川による審査を通らずにレッスンに参加した者。
五十音順
- 大崎丈二 (後の高知東生)
-
1964年12月22日生まれ。高知県高知市与力町出身。身長:180cm。B型。左利き。
高知市立追手前小学校、私立明徳中学校(後の明徳義塾中学校)、私立明徳高校(後の明徳義塾高校)卒業。
1990年代後半に関西ローカルのトーク番組にて、「かつてジャニーズ事務所に所属し、ジャニーズJr.としてレッスンを受けていたことがある」と自ら告白。 また、周りの友人たちにも「自分は元ジャニーズ」と告げている。
しかし実際はジャニーズJr.だった訳ではなく、レッスンにゲスト参加していただけであった。
高知は19歳で上京した後、六本木で5歳年下の大沢樹生(当時未成年)と知り合って飲み仲間となり、大沢に頼み込んで1984年にジャニーズJr.のダンスレッスンに数回潜り込ませてもらっていた。
- 高知の父親は、徳島市の極道「勝浦会・並谷組」の組長で、徳島市内で建設会社の会長や、「新浜消費生活協同組合」、「徳島県内水面漁協組合」などの組合長もしていた張間久彦。 渡世名:並谷久彦。 1926年生まれ。
母親(並谷の愛人)が高知県の出身で、高知は私生児として生まれた。
当初は母方の祖母と叔父夫婦が住む高知市の家で4人暮らし。
祖母からは「あんたは犬と一緒に箱に入れられて、鏡川(高知市内を流れる川)に捨てられてたから拾ってきた子」と言われて育てられた。
そして、小学4年の頃からたまに家に訪れては、野球のグローブやスパイクなどを買い与えてくれていたおばさんが居たが、ある日、このおばさんが実の母親だと祖母から知らされ、小学5年の11歳の時から母と2人で住み始めた。
しかし、一緒に暮らしてみたら母は毎晩酔っ払って帰宅。
テーブルに金だけ置いて2~3日帰ってこないこともあったため、次第に母のことは嫌いになっていった。
また、当時母は、高知県で有名な極道の親分・中井啓一(中井組組長。他に、高知市市議会議員 → 三代目山口組舎弟 → 一和会最高顧問)の愛人でもあった。
母とは小学校卒業まで一緒に暮らした。
なお、高知は小学生の時に高知市街でスカウトされ、四国電力のCMに出演している。
- 家庭から逃げ出したいという一心で、中学は高知県須崎市の私立明徳中学校(後の明徳義塾中学。全寮制)に入学、入寮。
そのまま私立明徳高校(後の明徳義塾高校)に進学。
中学・高校と野球部に所属し、高校3年だった1982年春、「第54回 選抜高等学校野球大会」にて同校は初の甲子園出場も果たしたが、高知は補欠だったためにグラウンドには立てず、スタンド席で応援団長を担当した。
- 1982年の夏、母親が自ら車を運転して高知の寮を急に訪れ、少しだけ会話をする。
その帰り道、母は生命保険の保険金を息子に残すべく、車でトンネルの入り口に突っ込んで自殺。
高知は17歳、母は41歳だった。
なお、それまで高知は時々母に会いに来ていた高知県の極道の親分が自分の父親なんだと思っていたが、母の死亡届を提出する際、実の父親は別の人物であることを初めて知った。
- 高校卒業後は高知市に戻って一人暮らしをし、地元百貨店「高知大丸」でアパレルの仕事をするも長続きせず、高校の同級生2人と共に、高知市内にあったホストクラブ「原宿伊達男倶楽部」にてアルバイト。
- 1984年、矢沢永吉の著書『成りあがり』に感化され、横浜を目指して19歳で上京。
しかし「若者の街・原宿に行ってみたい」と思い直し、横浜へは行かずに代々木公園で2週間ホームレス生活をする。
その最中に出来た友人の部屋に居候させてもらいながら、昼は原宿のショップ店員、夜はショーパブで舘ひろしの物まねをしたり、銀座のホストクラブにも勤務した。
やがて、任侠系の映画俳優を目指して劇団の門を叩いたが、言葉の壁で挫折。
また、大沢樹生や尾崎豊と六本木で飲み仲間となった他、20歳の時には嶋大輔とディスコで殴り合いの喧嘩をしたことがきっかけで親友となった。
- その後、AV女優専門の小さなプロダクションを経営。
AV製作の青年実業家として一部マスコミに顔を出しつつ、女優たちをスカウト、マネジメントし、あいだもも、庄司みゆきらを育てた。
なお、高知は「自分はAV男優はしていなかった」とYouTube動画で述べているが、実際はあいだの作品『極上ヴィーナス 快楽女王』(1990年、ジェット)でのみ、高知自らも男優として出演している。
- 1991年、あいだももと結婚。
なお、SMAPの木村拓哉が、かつて好きだったAV女優にあいだの名を挙げている。
- 親友・嶋大輔のつてを頼り、芸能事務所「フロム・ファーストプロダクション」に所属させてもらう (経営者は小口健二)。
そして28歳だった1993年、「高知東急」の芸名で、日本テレビ開局40周年記念ドラマ『西遊記』(1993年3月28日放送。主演は本木雅弘で、同じくフロム・ファーストグループの俳優)にて、銀閣大王役でデビュー。
芸名の由来は、デビュー年齢が遅かったため、社長の小口が、「高知から急いで東(東京)へのぼれ」との意味で命名した。
- 井上晴美との不倫が発覚し、1996年にあいだももと離婚。
井上の他にも、宮崎萬純 (高知のデビュードラマ『西遊記』で共演)、武田久美子、三原じゅん子、かとうれいこ、高橋由美子など、多数の女優たちと浮名を流した。
これらのことから、業界内では「共演女優を平気でたらしこむ男」として知れ渡り、女優を抱える多くの芸能事務所が、高知と共演させることを避けるようになった。
- 1996年、東京急行電鉄(東急グループ)が、「高知県に東急が進出したと誤解を受ける」と、不正競争防止法を根拠にした芸名使用停止を求め、裁判となる。
1998年3月13日に東京地方裁判所一審で敗訴したが控訴せず、「東京で生きる」ということで、“急”の字を改め、「高知東生」に変更した。
- 1999年2月7日に女優・高島礼子と再婚。
なお、前妻・あいだもも、後妻・高島は、1997年3月公開の映画『陽炎 3』で共演している。
- 1999年6月、フロム・ファーストプロダクションを退所。
- 同年夏、高知夫妻の自宅が空き巣被害に遭い、約500万円の現金が盗難される。 被害の第一発見者は高知。
- 同年10月より、元・ジャニーズJr.の宮崎幸正が代表を務める芸能事務所「マジックカンパニー」に所属。(高知は2000年代後半に一時、「アンダーワールドプロダクション」とも業務提携)
- 2003年4月6日から11日までの間に、高知夫妻の自宅が “再び” 空き巣被害に遭い、金庫の現金数百万円と、約10万円の腕時計が盗難される。
そしてまたしても被害の第一発見者は高知。 このあまりにも出来すぎた展開に、ネット上では高知の自作自演を疑う意見が相次いだ。
高知夫妻が当時住んでいたのは、世田谷区深沢の8階建て高級賃貸マンション。
夫妻が住んでいた上層階は1フロアに1世帯が住み、家賃は推定40~60万円。 著名人が多く住み、地元では“芸能人マンション”と呼ばれていた。
近所に40年間住んでいる男性(当時52歳)は、「あのマンションが出来て以来、泥棒が入ったなんて今まで聞いたことがない」と驚いていた。
- 2004年、義父(高島礼子の父)がパーキンソン病を発病する。
- 妻へのマッサージが日課だったことに加え、たかの友梨ビューティークリニックのCM出演や、同社のグランプリ大会での司会・審査員などを通してエステ業界のノウハウを得て、2006年2月15日、「株式会社 ティービージェー」を世田谷区駒沢に設立。
加圧トレーニングスタジオ「T-BODY」や、エステティックサロン「T's Beauty Esthetique Club (略称:エスクラ)」などを経営するようになる。
店の内装は高島礼子がデザイン。
しかし高知は、エスクラのカップル個室に若い女性を連れ込んで浮気を繰り返すようにもなったことが、後に店舗関係者の証言で明らかとなった (『東スポWeb』2016年7月3日付)。
- 2007年11月、加圧スペシャルインストラクターの資格を取得。
- 大手エステチェーンとの業務提携が頓挫したり、スタッフの経理上の不正も発覚するなど、一向に軌道に乗らないビジネスに不満がたまり始めていた2009年春、知人の誕生日会で五十川敦子 (1982年8月11日生まれの33歳。 鎌倉女子大学中等部・高等部卒業。 横浜市旭区の歯科医の次女。
同市中区相生町の高級クラブ「横浜 V.I.P クラブ」のホステス・あつこ。
元・モデル事務所「フォルテシモ」に所属したレースクイーンの「あつこ」)と出会い、不倫関係が始まる。
- 2010年後半より、五十川敦子と覚醒剤の接種を開始し、“シャブ愛人”の関係となる。
- 2012年、「一般社団法人 日本トータルビューティー協会」を、「株式会社 ティービージェー」と同住所にて設立し、理事長となる。
副理事長は高島礼子。
そして高知は愛人である五十川敦子も、日本トータルビューティー協会の賛助会員として堂々と招き入れた。
- 2014年8月29日、Instagramを開始。[1]
- 2015年6月30日付で芸能事務所「マジックカンパニー」を退所し、俳優を休業。
- ヘルパーの協力を得ながら義父の介護をする内に「体温」の重要性を知り、2015年11月、NPO法人 日本レホルム連盟の資格「体温管理士」を取得。
- 2016年5月15日、Twitterを開始。[2]
- 51歳だった同年6月24日午前8時半過ぎ、横浜市南区の高級ラブホテル「LUSSO CROCE ASIAN RESORT」の客室で、愛人の五十川敦子と一緒に寝ていた所を、覚醒剤と大麻の所持により、関東信越厚生局麻薬取締部に現行犯逮捕された。
2人がこのホテルを使用するのは初めてではなく、横浜市外の別のホテルに2人で出入りする様子も以前から確認されていた。
高知らは24日午前2時頃にホテルにチェックイン。麻薬取締部の捜査で、客室から覚醒剤4グラム (4袋、約200回使用できる量)、大麻が詰まったタバコ3本と、計2グラムの乾燥大麻が見つかった。
室内にはストロー6本やガラス瓶などの吸引具があり、灰皿には大麻が詰まったタバコと同じ物の吸い殻が残されていた。
高知らは容疑を認め、覚醒剤と大麻について、「2人で使うためのもの」と供述した。
続いて家宅捜索が行われた結果、五十川の車からは覚醒剤の空袋「パケ」、五十川の自宅からは覚醒剤2グラム(約100回使用できる量)とガラス瓶、そして高知が高島礼子と同居している自宅の高知の書斎の棚の引き出しからは吸引用のストローが見つかり押収された。
また、高知は実際は義父の介護をしておらず、専門のヘルパーを雇っていたことも判明した。
- 2016年7月19日、覚醒剤の使用を認めたとして、五十川と共に覚せい剤取締法違反(使用)で再逮捕。
同じ頃、拘留中の高知が高島礼子宛てに離婚届を送付。
- 同年7月29日、保釈金500万円で高知が保釈される。
- 同年8月1日、高知と高島礼子が離婚。
- 同年8月2日、保釈金200万円で五十川も保釈される。
- 同年8月31日、初公判が東京地裁(室橋雅仁裁判官)で開かれ、検察は高知と五十川に懲役2年を求刑。
また、この公判で証拠採用された高知の供述調書により、高知は10代で大麻、そして20代の時点で既に都内のディスコで仲間らと覚醒剤を使っていたことが明らかとなった。
- 同年9月15日、東京地裁は高知と五十川両名に対し、懲役2年、執行猶予4年の判決を下した。
- 同年より、俳優仲間の紹介で歌手の清水節子と出会い、清水の運転手 兼 付き人として働き始める。
やがて、清水のショーの司会や、ゲストボーカルも務めるようになった。
- 2018年4月13日、約2年間休止していたTwitterでのツイートを再開。
- 2019年2月より、自助グループ「公益社団法人 ギャンブル依存症問題を考える会」に参加。
同年5月11日、同会のYouTube公式チャンネル内にて、代表・田中紀子と共にシリーズ動画「たかりこチャンネル」をスタート。
- ギャンブル依存症を描いたTwitter連続ドラマ『ミセス・ロスト ~インタベンショニスト・アヤメ~』(2020年5月14日 - 6月11日、全11話)に出演し、俳優業に復帰。
その後、依存症の正しい知識などを伝えるための、特定非営利活動法人ASK認定の資格「依存症予防教育アドバイザー」を、養成講座を受けて取得し、全国各地での講演活動も開始。
- 2020年9月、自伝本『生き直す 私は一人ではない』を青志社より上梓。
- 同年9月一杯で執行猶予を終える。
- 光文社『小説宝石』にて、青春の狂騒と悔悟を描いた高知による初の自伝的小説が、2021年1月・2月合併号から2022年3月号まで、全6回に渡って連載される。
- 2021年3月15日から12夜連続で配信された、ギャンブル依存症を描いたTwitter連続ドラマ『前略 ハルカ様』に出演。
主演は元ジャニーズJr.の中村優一 (1987年生まれ)。
- “紀州のドンファン”こと野崎幸助を殺害するために須藤早貴が用いたとされる覚醒剤が、高知が所持していた覚醒剤と成分が限りなく一致。
覚醒剤は精製過程によってそれぞれ成分が異なり、別々に精製された覚醒剤が同じ成分になることは極めて稀なため、和歌山県警と大阪府警が、「末端の売人は違ったとしても、覚醒剤を扱う〝親〟が一致するのではないか」と推測して捜査を進めていた。
このことが2021年4月29日に東スポWebで「高知東生ルート」と題して報じられたため、高知のことが再び話題となった。
- 2021年10月、YouTubeチャンネル「街録ch ~あなたの人生、教えて下さい~」に出演し、これまでの人生を語る。
- 2022年2月24日に覚醒剤で逮捕された田中聖を、同年春に自身の自助グループに招き入れ、回復のための12ステップを指導する。
しかし田中は同年6月29日に再び覚醒剤で逮捕された。
- 2022年11月2日発売の清水節子のCDシングル『雨のバル』のカップリング曲である『粋な関係』にて清水とデュエットし、歌手デビュー。
そしてもう一つのカップリング曲『今宵 アンタと・・・』では作詞を担当し、作詞家デビュー。
『雨のバル』と『今宵 アンタと・・・』はMVも制作され、2曲とも高知がゲスト出演した。
- 雑誌『婦人公論』(2023年5月号、中央公論新社)の「私の書いた本」のコーナーにインタビュー掲載。
- 高松〇〇
-
1966年生まれ。神奈川県厚木市出身。厚木市立林中学校卒業。
中学時代の同級生でジャニーズJr.の平本淳也と時田孝明(後の安藤孝秋)に付き添い、高校時代に4~5回レッスンに参加した。
器械体操が非常に得意で、東山紀之にスワン(伸身バック宙)を伝授したのはこの高松だった。
- 中山秀征
-
1967年7月31日生まれ。群馬県藤岡市出身。B型。173cm。愛称:ヒデちゃん、ヒデさん。
[1]、
[2]
藤岡市立神流小学校 → 藤岡市立北中学校(3年の2学期一杯まで) → 川崎市立柿生中学校(3年の3学期のみ) → 神奈川県立柿生高校(後の神奈川県立麻生総合高校) → 東京都立久留米高校中退。
兄弟は3歳上に兄 (2歳下に妹も居るという説は誤報)。 元・おニャン子クラブの“ゆうゆ”こと岩井由紀子との長年の交際を経て、元・宝塚歌劇団星組トップ娘役の白城あやかと結婚。子供は息子が4人。 長男は俳優の中山翔貴。
中山は1981年から東京の児童劇団「NAC (エヌ・エー・シー)」に所属していたが、1984年1月(中学3年の3学期)に、渡辺プロダクションの新人オーディションに合格。
応募の際に送ったカセットテープには、西城秀樹の『ナイトゲーム』と、柏原芳恵の『夏模様』を吹き込んだ。
(「“第2の吉川晃司募集”のオーディションに応募した」や、「応募用テープには梅沢富美男の『夢芝居』を吹き込んだ」という説はいずれも誤報。 そもそも、中山が応募した時点では吉川晃司はまだ芸能界デビューすらしていない)
歌手志望だった中山は当初、歌手部門に入るも、3ヶ月で見切りをつけられる。そしてドラマ部門に移るも、やはりすぐに見切りをつけられてしまい、1984年4月、渡辺プロダクションに新設された若手お笑いタレント養成機関「BIG THURSDAY」に配属された。
1985年、「ABブラザーズ」を結成。 以降はタレントとして活躍。
中山は、最初の歌手部門に居た時期に、ジャニーズJr.のダンスレッスンに渡辺プロダクションからゲスト参加していた。
芸能レポーターの井上公造も、2002年1月31日放送のワイドショー番組内にて、「ヒデちゃんはかつてジャニーズJr.のレッスンを受けていた」と証言している。
雑誌『週刊セブンティーン』(1984年3月6日号、集英社)でも、Jr.たちと共にモデルとして掲載された。
- 山根健一
1969年12月27日生まれ。横浜市南区永田出身。O型。元「劇団東俳」所属 (1986年時)。
3歳年下の劇団の同僚・大内(後に「十川」姓に改名)がジャニーズJr.になったため、山根も大内を通じて16歳の時にジャニーズの合宿所に一泊だけし、ダンスレッスンも一度だけだが体験した(1986年時)。
同じ1986年には、劇団東俳の仕事で単発ドラマ『桃尻娘』(1986年2月27日、フジテレビ)にもエキストラ出演した。
(同ドラマの続編『帰って来た桃尻娘』(1986年8月28日)には三好圭一が出演)
横浜市立永田台小学校、同市立永田中学校、そして私立横浜隼人高校を経て、横浜市立港商業高校(定時制)を卒業。(港商業高校では2歳下の後輩にジャニーズJr.の佐藤正人も在籍。[1])
その後、1993年(23歳時)に横浜市中区にてホストクラブ「DANDY」と「ナイルクレセント」を一時経営。
この両店では、ジャニーズのダンスレッスン体験の際に出会って以来親しくなっていた元Jr.の前薗宏一郎も、副社長 兼 ホストとして勤務していた。
[2]
- 村野功明
1992年2月19日生まれ。神奈川県川崎市宮前区出身。B型。 愛称:あっくん。
振付師の香瑠鼓の下でダンスを習っていた縁から人脈が広がり、麻布十番の「つづきスタジオ」で行われたジャニーズJr.のダンスレッスンを、2004年の中学1年生の時に一度、更に2006年の中学3年生の時にもう一度体験した。
2006年の時には、ジャニー喜多川から頭を撫でられ、「プリティボーイ」、「天使」などと言って貰えた。
なお、香瑠鼓と共に、『にんげんドキュメント』、『NHKニュース おはよう日本』、『めざましテレビ』、『ルックルックこんにちは』、『モーニングショー』などのテレビ番組にも出演した。
『ジャニーズJr.名鑑』
詳細は 『ジャニーズJr.名鑑』 を参照。
関連項目
外部リンク
- 公式Twitter (2023年5月27日 - )
- YouTubeチャンネル
- ジャニーズJr.公式エンタメサイト 「ISLAND TV」
- 公式サイトURL - https://j-island.net/ (2019年3月1日 - )
- Twitter ① (2019年3月12日 - )
- Twitter ② (2018年11月16日 - )
- Johnnys' ISLAND STORE (実店舗:2019年5月30日 - )
出典:フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』より改訂
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