ジャニーズ百科事典





ジャニー喜多川

   


ジャニー喜多川(ジャニー きたがわ、日本名での本名:喜多川 擴 〔きたがわ ひろむ〕、米国名での本名:John Hiromu Kitagawa 〔ジョン・ヒロム・キタガワ〕、作詞時の別名義:JOHNNY.K、1931年〔昭和6年〕10月23日 - 2019年〔令和元年〕7月9日)は、日本の元・実業家、芸能プロモーター。
ジャニーズ事務所、および関連会社のジャニーズ出版、ヤングコミュニケーション、つづきスタジオの旧代表取締役社長。 ジャニーズアイランド旧代表取締役会長。 ジェイ・ドリームの旧代表取締役社長 (名義だけの幽霊社長)。 元・CIA工作員、米国軍人、外交官。 同性愛者 (真性の少年性愛者、児童性愛者)
ロサンゼルス生まれの日系二世 (両親共に日本人)。 身長:153cm。 血液型:AB型。 87歳没。
姉はメリー喜多川。 なお、メリーは日本での戸籍登録時に、英語名である「メリー」の部分も加えて登録したが、弟のジャニーは英語名は付けず、「喜多川 擴」で登録した。


 




来歴

  • ジャニー喜多川の父親は、僧侶の喜多川諦道 (きたがわ たいどう)。 1898年(明治31年)に大分県で生まれた。(早生まれではない。また、1896年〔明治29年〕生まれと書かれた文献は誤り)
    私立古義真言宗聯合高野中学林(当時の修業年限は5年)、私立真言宗高野山大学(修業年限は4年6ヶ月)卒業。 以下の6枚は全て諦道の写真。

      
          (右は諦道の妻・江以)

       

    諦道は8歳で下稚児(少年修行僧)として和歌山県高野山の真言宗系の宿坊「普賢院ふげんいん」に得度(出家)し、13歳で同寺院の僧正に師事。 やがて高野山で真言密教の開教師(導師)となるが、放蕩三昧で、自ら「やくざ」や「遊び人」と称する異色の坊主だった。
    なお、「諦道は高校時代に野球で甲子園に出場した」と書かれた文献が存在するが、これは正確には誤り。 諦道の高校(当時は旧制中学校)時代は1911年4月から1916年3月の5年間で、諦道は私立古義真言宗聯合高野中学林の野球部に所属し、1915年(大正4年)に開催された「第1回 全国中等学校優勝野球大会」(後の高校野球)の関西地区予選には出場したが、初戦相手である大阪の明星商業学校に10対0で大敗しており、全国大会の代表校にはなれていない。 また、関西予選と全国大会が開催されたのは大阪の「豊中グラウンド」である (阪神甲子園球場の完成は1924年)。

    諦道の師の僧正が大隈重信後藤新平らと親しくしていたことから、諦道も海外への思いを強めるようになり、諦道を可愛がっていた和歌山市の有力者で親戚の大谷家(息子の大谷貴義〔1905年5月31日 - 1991年5月17日〕は宝石商として財を成し、児玉誉士夫と並んで「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた人物で、元首相の福田赳夫のパトロンでもあった)からの援助を受け、諦道は真言密教の布教のために1924年(大正13年)2月より世界一周の旅に出発した (当時25歳)。 大谷家との繋がりは、元々、諦道の父母が大谷家で世話になっていたことがきっかけであった。
    そして同2月、ロサンゼルスのリトル・トーキョーのサウス・セントラル・アベニューにあった「髙野山真言宗 髙野山米國別院」(1909年〔明治42年〕に渡米した富山県出身の青山秀泰を中心とし、愛媛県人1世らが大半の発起人となって弘法大師〔空海〕を信仰するために1912年〔大正元年〕11月28日に「米國髙野山大師教会」の名で発足)の大使教会に到着。
    ここではほんの2~3ヶ月だけ助法し、また世界一周旅行を続けるつもりだったが、当時の主監(最高責任者)が急に日本に帰国することになったため、急遽、諦道が第三代主監となる。 以後、1933年までの9年間、米国大使教会の運営を務めた。
    (ネット上では諦道が居た場所を、同じリトル・トーキョーの「真宗大谷派 東本願寺ロサンゼルス別院」とする記述も多数あるが、それは誤り)

    諦道は活発な布教活動に精を出し、ロスの日系人社会の顔役となる。 ハリウッドのランドマーク「グリフィス天文台」の麓に居を構え、大阪に居た妻・江以(えい。栄や栄子は誤り)も呼び寄せた。 そして生まれたのが、泰子(メリー喜多川)、眞一(まさかず。愛称:マー坊。1930年生まれ。背が高く無口な性格)、そして擴(ひろむ。ジャニー喜多川。愛称:ヒー坊)の三姉弟だった。
    諦道は仏事の他にも、奉納演芸を開催したり、ロスに寄港する日本海軍の歓待に尽力。 若く薄給な日本海軍兵のための食事会も始めた。 1930年5月27日に高松宮宣仁親王(後の海軍大佐)が、妻・高松宮妃喜久子(旧名:徳川喜久子。徳川慶喜の孫)と共にサンフランシスコに立ち寄って日系移民たちの前でスピーチを行った際には、奉迎会委員も務めた。 更に諦道は婦人会も設立し、毎週金曜日に寺院で婦人会を集めた料理教室を開いたり、日曜日にはサンデースクールとボーイスカウトも始めた。 ボーイスカウトは第79隊 (後に第379隊に改称) で、日系人少年33人で1931年に結成。(正式発足日は1932年2月7日。 ネッカチーフには胎蔵曼荼羅の蓮台を朱色に染めてマークにし、その朱色を「慈悲の精神」の象徴とした。 この79隊は、世界恐慌当時の反日の偏見に対し、日系人の子どもたちに自信をつけさせた他、1934年2月11日にはフランクリン・ルーズベルト大統領から表彰され、「ルーズベルト大統領賞」を受賞した)
    また、ジャニーの母・江以は日本舞踊の名取だったため、婦人会では日舞や踊りの練習、発表会が頻繁に行われていたので、諦道は婦人会の力を借り、違う宗派も集めた盆踊り大会を開催した。 (この盆踊り大会は、1934年よりリトルトーキョーで毎年8月に行われるフェスティバル「二世週日本祭にせいしゅうにほんまつり」へと発展していった)

  • 当時はまだ日米開戦前だったため、喜多川一家は日系移民の強制収容所に送られることもなく、1933年7月26日、就学前の3人の幼い子供たちに日本の教育を受けさせるため、サンフランシスコ港から貨客船「秩父丸」に乗って横浜港に到着し、大阪に移り住んだ。 諦道は多くの教会員や一般同胞から敬愛されており、日本に帰国する際には引き止め運動まで起こった。 (ネット上ではジャニーやメリーがアメリカで強制収容所に収容されていたとする記事が多数存在するが、これも誤報)
    諦道は道頓堀にある高野山真言宗の寺「法案寺」の住職の世話で、後にプロ野球チーム「ゴールドスター」のオーナーとなる橋本三郎の下で働くようになった。
    翌1934年5月24日、母・江以が26~27歳の若さで京都で逝去。 戒名は「真乗院芳室妙栄大姉」(霊標の行年は数え年で「二十八才」と彫刻)。 以来、メリーが2人の弟の母親代わりとなった。

  • やがて第二次世界大戦が始まり、1942年 (ジャニーは当時10歳)、父・諦道だけが大阪に残り、三姉弟は、和歌山市の有力者で親戚の大谷家が和歌山県東牟婁郡勝浦町(後の那智勝浦町)に持っていた島「中ノ島」の南紀勝浦温泉に身を寄せて疎開。 ジャニーはこの「中ノ島」から国民学校初等科(旧尋常小学校)へ、更に、坊主頭に詰襟の制服を着て旧制中学校へと通った。 中学2年の初夏、ジャニーは一人で大阪に遊びに行った帰りに、1945年7月9日(月曜)深夜から7月10日(火曜)未明にかけて、和歌山市街にて「和歌山大空襲」に遭遇したが、無事に逃げおおせた。
      (一方、三姉弟と離れて大阪で暮らしていた父・諦道は、道頓堀の劇場に通って舞台鑑賞をする内に森光子のファンになった他、橋本三郎が1946年2月に大阪で創設したプロ野球チーム「ゴールドスター (翌1947年に「金星スターズ」に改称)」のチームマネージャーを、1948年2月まで2年間務めていた (当時のチーム監督は坪内道則)。
      その後、諦道は橋本三郎の親族が経営する大阪の甘味処に居候。 続いて、同じく橋本の親族が経営する心斎橋の煎餅屋「杵萬」に居候するようになり、やがて1974年4月10日にそのまま「杵萬」で逝去。 75歳没。 葬儀は大阪の三津寺で盛大に執り行われ、僧侶も多数参列したが、ジャニーやメリーが姿を見せることは無かった。 墓は和歌山県北部の高野山真言宗総本山金剛峰寺の奥之院参道に「喜多川家之墓」として建立 (家紋は桔梗)。 戒名は「阿闍梨諦道大和尚不生位」(霊標の行年は数え年で「七十七才」と彫刻)。
      なお、諦道は生前に多くの書を残しており、「寿」の字が書かれた掛け軸が、京都府長岡京市「楊谷寺 (通称:柳谷観音)」の上書院の2階の床の間に飾られている)

      (左側の文字は「高野山前官大僧正諦道」。 そして左下の落款印が右読みで「諦道」)

       



  • 1949年に、「日本は敗戦でめちゃくちゃだから、学校はアメリカの学校に行った方がいい。市民権(米国籍)も無くなってしまう」という諦道からの意見で、同年11月12日、三姉弟のみで横浜港から米軍のLST(軍用船)の「W.H.ゴードン将軍号」(船室はもっとも安価な三等)に乗って渡米し、同年11月24日にサンフランシスコ港に到着し、再びロスに移り住む (当時、メリー:21歳、マー坊:19歳、ジャニー:18歳)。
    ※ 1947年に渡米したとするサンスポの情報は誤報。
    ロスに着いた三姉弟はまず、リトル・トーキョーの隣町に住む髙野山米國別院の総代の家を頼って間借りした。
    しかしそれほど広い家でもなかったため、やがて三姉弟は別の3ヶ所の知人の家を間借りすることで、それぞれ分かれて住むようになった (ジャニーが身を寄せたのは散髪屋)。 そしてジャニーはロスの高校に通って英語を学びながら、地元の老舗劇場 [注 1] にて音楽監督 [注 2] のアシスタント(雑用係)のアルバイトを経験したり、別の家庭に移り住んでハウスボーイ(住み込みでの家政夫)にもなった。 また三姉弟は、別院の檀家でもある有名な日系写真家・宮武東洋(1895年 - 1979年、香川県出身)がロスのリトル・トーキョーで経営していた写真館「宮武寫眞館」を手伝ったりもしていた。 (ジャニーのインタビュー記事による「宮武は喜多川家の親戚」という説は誤報)
    高校卒業後は、姉のメリーと同じロサンゼルス市立短期大学 (Los Angeles City College。2年制) [注 3] へ進学。 優秀だったマー坊は、ハウスボーイをしながらUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の理系学部に進んだ。
    ちょうどその頃、終戦後で劇場などが少ない時期だったこともあり、「高野山米国別院」の新寺院(1940年8月完成。リトル・トーキョーのイースト1stストリート342番地)の説教用の集会場「高野山ホール」(収容可能人数は約千人)のステージを、日本からやって来るスターたちが次々に利用するようになった。

     
    (以下の3枚は1枚目が2006年時、2・3枚目は2012年時)
     
     


    まず最初に、田中絹代が1950年に日米親善芸術使節として訪れ、婦人会と交流した。 そして笠置シヅ子&服部良一(1950年6月1日~3日)、大河内伝次郎、山本富士子(1951年、初代ミス日本としての公式訪米)、古賀政夫、ディック・ミネ、高峰美枝子、霧島昇、二葉百合子、浪曲師・広沢虎造(1950年)、漫談家・大辻司郎など、錚々たる面々が寺院のステージを踏んだ。 ジャニーはその度に、現地コーディネーターと通訳を買って出ていた。 1950年5月に美空ひばり(当時12歳)が、人気絶頂だったボードビリアン・川田義雄(後の川田晴久)と共に「第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演」のために渡米した際も、高野山ホールのステージがロス公演の会場となったため、ジャニーはステージマネージメント全体を担当。 川田の知遇を得ると共に、美空とも交流を深めた。 これらのことが、やがてジャニーが日本芸能界への進出を志すきっかけとなった。

  • やがてジャニーはロス市立短期大学を卒業したが、アメリカ国籍だったジャニーと兄のマー坊には兵役義務があり、当時勃発していた朝鮮戦争に参加するため、1952年にアメリカ陸軍に徴兵される。 マー坊はパラシュート部隊で優秀と認められ、幹部付きの当番兵となった。
      (朝鮮戦争後のマー坊は、徴兵で休学していたUCLAを卒業し、宇宙船関連の航空機メーカー「ノースアメリカン・ロックウェル・コーポレーション」のエンジニアとなった。 ロサンゼルスのガーデナに住みながらノース社でNASA関連の仕事をし、アポロの設計にも携わったが、1985年、くも膜下出血で倒れる。 メリーが日本に連れ帰り、大阪の病院に入院させるも、翌1986年1月9日に55歳で逝去した。 戒名は「樹徳院諦真法道居士」。霊標の行年は数え年で「五十七才」と彫刻。 なお、ロサンゼルスで結婚した日本人女性の妻との間には娘をもうけている)
    一方ジャニーは、アメリカの情報機関 「CIA (Central Intelligence Agency、中央情報局)」 [注 4] を介して韓国の戦災孤児に英語を教えながら諜報活動をする工作員としての任を命ぜられ、広島県江田島市の海軍兵学校跡地を使用した米軍の学校「江田島学校」(1955年一杯まで米軍および英連邦軍などが使用)で朝鮮語を習得するため、1952年に通訳の助手という肩書きで再来日する。 そして10ヶ月で朝鮮語をマスターした後、韓国の板門店 (発音:パンムンジョム、日本語読み:はんもんてん) に派遣され、1年2ヶ月間に渡って子供たちに英語を教えた。
      (なお、ジャニーはこうした自身の経験もあって、1960年から1962年と、1964年から1968年にかけて放送されていたイギリス制作のスパイドラマ『デンジャー・マン』(Danger Man。アメリカでの放送時は『Secret Agent』(シークレット・エージェント)に改題)を気に入っており、後にジャニーズ事務所のタレントによる企画ユニット「Secret Agent」を作り、ジョニー・リヴァースがドラマのアメリカ放送版で歌っていた人気主題歌『Secret Agent Man (秘密諜報員)』をカバーさせた)

  • 1953年に除隊した後は、アメリカへ戻らず東京に居住。 上智大学国際部(夜間部) [注 5] に社会人入学し、1955年にはバンドを結成して自らも芸能界へ参入した。 大学卒業後にバンドは解散。

  • ジャニーはその後、英語力と滞米経験を買われ、在日米軍施設「ワシントンハイツ」の中に1955年に建てられた独身米軍士官向けの4階建ての宿舎(後の渋谷区神園町「国立オリンピック記念青少年総合センター」)に住みながら、アメリカ大使館隷下に組織された駐留米軍の一セクションである「在日軍事援助顧問団」(MAAGJマグジェイ:Military Assistance Advisory Group Japan。1969年7月に「在日相互防衛援助事務所」〔MDAO:Mutual Defense Assistance Office〕に改編)にて、団長の庶務を行う団長事務室の下士官事務職員(立場は米国軍人および外交官)に任官され、旧防衛庁(霞が関)にあった顧問団の事務所に1958年より勤務。 (1960年1月11日より防衛庁が霞が関から赤坂の檜町地区 〔後の東京ミッドタウン〕 へ移転。 また、ワシントンハイツは1964年に東京オリンピックの開催を機に日本に全面返還され、ジャニーが住んでいた宿舎は五輪の女子選手村として使用されることになったため、ジャニーは1964年までにワシントンハイツから新宿区四谷3丁目へ転居した)

  • 1960年頃、ジャニーは知人のつてで、豊島区椎名町の豊島区立真和中学校(2005年3月に閉校)の野球部で専属コーチを務めるようになる (当時の真和中学の卒業アルバムの野球部の白黒写真にはジャニーも一緒に写っている)。


      前列右端がジャニー。 画像元:https://blog.goo.ne.jp/math19575

    そして1961年の夏、神宮外苑で模型飛行機を飛ばして遊んでいた少年たちに「野球をやろうよ」と声をかけ、自らも少年野球チームを新たに作った。 近所の少年たち約30名を集め、当時自分の住んでいた東京の在日米軍施設「ワシントンハイツ」(後の代々木公園)のグラウンドで指導した。
    やがて、大学時代にバンドのマネジメントなども担当していた経験から、1962年、ジャニーにとって最初に手がけるアイドルグループ「ジャニーズ」を作り出し、タレントのプロデュース業に軸足を移していった。 マネージメント活動が忙しくなると、在日軍事援助顧問団での仕事はずっと休職状態が続き、1966年に正式に退職。 同時に米国軍人や外交官ではなくなった。

    ※ ジャニーズ事務所設立への流れは、設立を参照。

  • 1998年11月、暴力団の儀式や盃事を模倣した、田辺エージェンシーの社長・田邊昭知の「五分義兄弟盃の儀」(還暦披露会 兼 生前戒名授与式)に出席し、媒酌人を務めた。
       

  • 2019年6月18日 午前11時30分頃、ジャニーが渋谷区の高層マンションの最上階にあるペントハウスの自宅で家政婦に体調の異変を訴え、病院に向かおうとした所、意識を失う。 そして家政婦の119番通報で同区広尾の日本赤十字社医療センターに救急搬送された。 集中治療室(ICU)で救命措置を施し、一般病棟に移ってそのまま入院。 診断結果は解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血。 自宅で倒れて以降、意識が戻らぬ状態が続いていたが、入院生活22日目の同年7月9日 16時47分に逝去。 87歳没。

        

  • 同年7月12日、ジャニーズアイランドが入居している渋谷のMTBビルの最上階(12階)にあるジャニーズJr.のダンスレッスンルーム(幅15m、奥行き35m)にて、Jr.を含む約150名の所属タレントたちと滝沢秀明だけで家族葬が執り行われ、同日に荼毘に付された。 出棺の際にジャニーの遺影を持って霊柩車の助手席に乗ったのは滝沢だった。 なお、この家族葬ではジャニーの遺影を背にしてタレントたちの集合写真も記念に撮られたが、TOKIOの長瀬智也のみ中指を立てた右手を掲げており、反抗的で意味深なポーズを取っている。

  • 2019年9月4日 (水曜日)、東京ドームでジャニー喜多川の「お別れの会」が執り行われた。 会は2部制だと報道されたが、正確には3部制で、11時からが「関係者 第1部」、12時半から「関係者 第2部」、14時から20時までが「一般の部」。 関係者の第1部には所属タレントを始め、事務所を辞めたタレントたちが出席したが、案内状(返信用ハガキが入った封書)が届いたメンバーは原則として、ジャニーズ事務所でレコード・CDデビューを経験し、連絡先が分かっている人のみ (一部例外あり)。 セレモニー全体の演出は、滝沢秀明がメインとなって手がけた。
    関係者の第1部に出席した所属タレントは、 近藤真彦少年隊東山紀之植草克秀のみ)、 内海光司 (報道からは漏れているが内海も少しだけ出席していた。長居が出来なかった理由は、舞台の稽古があったため)、 岡本健一佐藤アツヒロ中居正広木村拓哉TOKIO城島国分松岡長瀬)、 KinKi Kids光一)、 V6坂本長野井ノ原森田三宅岡田)、 大野櫻井相葉二宮松本)、 KAT-TUN亀梨上田中丸)、 関ジャニ∞横山村上丸山安田錦戸大倉)、 NEWS小山増田加藤手越)、 Kis-My-Ft2北山横尾藤ヶ谷宮田玉森二階堂千賀)、 Hey! Say! JUMP髙木伊野尾八乙女有岡山田中島知念のみ)、 A.B.C-Z五関戸塚塚田河合橋本)、 ふぉ~ゆ~松崎福田辰巳越岡)、 Sexy Zone中島菊池佐藤マリウスのみ)、 ジャニーズWEST中間濵田桐山重岡神山藤井小瀧)、 King & Prince平野神宮寺永瀬髙橋のみ)、 生田斗真風間俊介屋良朝幸内博貴中山優馬浜中文一Snow Man深澤佐久間渡辺宮舘岩本阿部向井目黒ラウール)、 SixTONES髙地京本田中松村ジェシー森本)、 Travis Japan宮近中村七五三掛川島吉澤松田松倉)、 HiHi Jets髙橋井上橋本猪狩作間)、 少年佐藤、金指、藤井岩﨑のみ) 7 MEN 侍 (中村、本髙、佐々木、矢花のみ)、 宇宙Six (山本、江田、松本、)、 MADE (稲葉、秋山、冨岡、福士)、 なにわ男子西畑高橋大橋のみ)、 少年忍者 (北川、内村、ヴァサイェガ渉、元木織山、安嶋、平塚、豊田、黒田、深田、檜山、青木、稲葉、久保、皇輝のみ)、 Jr.SP (蓮音、和田、松尾、中村)、 ジャニーズJr.林翔太野澤祐樹高田翔寺西拓人室龍太、小川優)の、全155名 (報道では154名)
    錦織一清山下智久長谷川純岡本圭人松島聡岩橋玄樹の6名は不参加。
    OBからは、飯野おさみ永田英二郷ひろみ葵てるよし、 板野俊雄、 小坂まさる森谷泰章曾我泰久松原秀樹井上純一豊川誕殿ゆたか、 大野祥孝、 川﨑麻世長谷部徹吉本和子ボビー吉野・ひろみ夫妻、 鈴木則行ひかる一平薬丸裕英布川敏和西条昇衛藤浩一柳沢超中村繁之宇治正高大沢樹生正木慎也佐藤寛之成田昭次高木延秀KNOB (中村亘利)木野正人赤坂晃佐野瑞樹今井翼Taka (森内貴寛)田中聖が「関係者 第1部」に参列した。
    その他の多数の元ジャニーズJr.たち(大嶌忍、星英徳、小原裕貴国分博古屋暢一、三浦勉、尾身和樹、川野直輝、田中純弥、大堀治樹、田中大樹など)は、「関係者 第2部」に参列した。
    一方、元ハイ・ソサエティーの元持勲、元ジャニーズJr.の平本淳也、木暮毅、石丸志門、石井哲也、藤沢裕介、中本雅俊、蓬田利久、中岡真一郎、伊藤智之、提箸一平、高橋実靖、元研修生の長渡康二らは、「一般の部」に参加。  前田耕陽は「関係者 第1部」に招待されていたが、遅れて来たために「一般の部」に関係者入口から入場した。  浅倉一男(元・浜田一男)は「関係者 第2部」に参列できる立場ではあったが、当日は舞台の稽古があったため、午前中にドームの前まで訪れ、ドームの外からジャニーにお別れの挨拶をしたのみでその場を後にした。  この他、一説では森且行もお忍びで訪れていたと言われている。
    ジャニーズタレント以外からも、(以下五十音順) 青木源太アナウンサー、秋元康、芦田多恵、生島ヒロシ、石井ふく子、伊集院静、泉ピン子、今村良樹 (元「ずうとるび」。息子がジャニーズJr.の今村隼人)、内館牧子、うつみ宮土理、大久保好男 (日本テレビ会長)、小倉智昭、 北大路欣也、北島三郎、久米宏、黒木瞳、黒柳徹子、小泉博 (元「東京ボンバーズ」)、駒井千佳子、 SAM、山東昭子、 大地真央、武田鉄矢、舘ひろし、司葉子、デヴィ夫人、テリー伊藤、徳光和夫、 中山秀征、名倉加代子、 爆笑問題および太田光代、服部克久、林真理子、船山基紀、堀尾正明、 前田美波里、馬飼野康二、真琴つばさ、桝太一アナウンサー、松井五郎、松浦勝人、真矢ミキ、未唯、三浦知良・りさ子夫妻、みのもんた、森公美子、森浩美、 山田美保子、 和田アキ子など、数多くの著名人が「関係者 第1部」に訪れた。  元俳優・歌手の川原田新一も、平本淳也に誘われて「一般の部」に参加した。  「関係者の部 (1部・2部)」への参加者は約3500名、「一般の部」への参列者は約8万8000名に及んだ。
    弔辞は近藤真彦、東山紀之、堂本光一、髙橋優斗の4名が読んだ。 弔電もたくさん届き、その中から安倍晋三首相の弔電を近藤真彦が代読し、大型ビジョンにも文面が映し出された。 また、「関係者の部」に参加した者にのみ、メッセージカードと、ジャニー喜多川の幼少時など、多くの秘蔵プライベート写真が詰まった特別なフォトブック『Thank You & Forever Johnny』(A5判、厚さ約1.5cm)が引き出物として配られた。 「一般の部」への参列者には、同年7月の家族葬で撮影された祭壇の写真がプリントされたポストカードが、退場時に配布された。
    なお、参加するかが注目されていた元SMAPの3名による新しい地図稲垣吾郎草彅剛香取慎吾)は、仕事を理由に欠席。 元TOKIOの山口達也も、案内状は届いたが出席は辞退した。
    お別れの会の日の夜には、川﨑麻世主催によるOB飲み会「ジャニーさんを偲ぶ会」が都内で開かれ、板野俊雄、森谷泰章、井上純一、吉本和子、ひかる一平、中村繁之、大沢樹生、今村良樹(元・ずうとるび)が改めて合流した。 また、田原俊彦の元マネージャー・宇野伸一郎は、お別れの会には参加していなかったが、親しい友人でもある森谷泰章に招かれて、OB飲み会には参加した。

  • ジャニーの父・母・兄が眠っていた和歌山県北部の高野山真言宗総本山金剛峰寺の奥之院参道の「喜多川家之墓」(家紋は桔梗)を、2019年6月にメリー喜多川が億単位の金をかけて新たに建て替え、ジャニーもそこに入ることとなった。 戒名は「宝澍院諦応擴道大居士」(霊標の行年は数え年で「八十九才」と彫刻)。 そしてそのすぐ左隣には、藤島泰輔の墓であり、メリー喜多川や藤島ジュリー景子の生前墓でもある「藤島家之墓」も同時に建立(豊島区の霊園からの改葬)された。
    同年11月下旬、メリーら親族数名と近藤真彦とで、ジャニーの納骨と開眼法要が静かに執り行われた。

  • 2020年7月9日、渋谷・MTBビル最上階(12階)のダンスレッスンルームにてジャニーの一周忌法要が執り行われ、所属タレントがほぼ全員出席した (中居正広は同年3月31日に円満退所したばかりだったが不参加)。 高野山の寺院から僧侶を招き、祭壇にはジャニーが愛用していた帽子、使用していた車椅子、等身大のマネキンが設置された。


人物、エピソード

  • 好きなもの - 野球、演歌、イリュージョン、歴史 (特に楠木正成と彰義隊に共感を覚える)

  • 好きな言葉 - 「勝てば官軍」

  • 好きな花 - 純白の胡蝶蘭 (花言葉は「純粋な愛」)

  • 食事は甘党、肉食。 好きな食べ物は焼肉、ビーフストロガノフ、「フォルクス」のステーキ、Calbeeポテトチップスの「堅あげポテト」など。 酒はあまり飲まない。

  • おしゃべり好き。

  • 咳払いをよくする。

  • 若い頃は非常に短気で、怒る前になると唇がピクピクと引き攣る癖があった。

  • THE GOOD-BYE」の衛藤浩一や、「ORIGINAL LOVE」の田島貴男に顔が似ていると言われることがあった。

  • 美空ひばりが1988年4月11日に「不死鳥コンサート」を開催した際、美空のために会場の東京ドームを押さえてあげたのがジャニーだった。

  • ジャニーは、その時々で一番気に入っているジャニーズJr.を、常に自分の膝の上に座らせて抱き寄せる行為が好きだった。 この行為に関しては、複数の元Jr.が証言している。
    また、ジャニーは所属タレントに対し、ステージや歌番組、雑誌などで、セミヌードにさせることをとても好んだ。 若手の所属アイドルを中心に、セミヌードのグラビアを女性向け芸能誌だけでなく、テレビ情報誌にまで掲載することがよく見られた。 他の芸能プロダクションのアイドルでもたまにやっていることではあるが、ジャニーズ事務所のタレントは特に顕著だった。

  • 人に対する好き嫌いが非常に激しい。 人を一瞬で好きになるが、一瞬で嫌いにもなる。
    ジャニー喜多川というたった一人の人間の、ほんの些細な意向、気まぐれによって、膨大な数の少年たちの人生がいとも簡単にバタバタと変えられてしまう。 本来ならスターになれる逸材であっても、ジャニーの個人的な感情一つでその道は断たれてしまい、逆に気に入られればスターにされ、億万長者にもなれる。 ジャニーの独裁がもたらす影響力はあまりにも大きく、残酷でもあった。

  • ジャニーズ事務所の合宿所が原宿のマンションの6階にあった1980年代のある日、マンションの下にたむろする女性ファンたちを疎ましく思ったジャニーは、バケツ一杯に汲んだ水を6階の窓からファンたちの頭上めがけてぶっかけたことがある。

  • ジャニーズ事務所のタレント以外でジャニーが好んだ芸能人は、竹本孝之、薬師丸ひろ子。 逆に嫌っていたのは、沖田浩之、尾崎豊。 ただし沖田に関しては、「沖田が竹の子族として話題になっていた時にジャニーが一度スカウトを試みたが、沖田に断られた」という逸話も存在する。

  • 1985年8月12日、羽田発大阪行きの日航機が群馬県の御巣鷹山に墜落し、520人が死亡した「日本航空123便墜落事故」。 当初はこの便に、ジャニーと少年隊も搭乗する予定だった。 前日の11日に、大阪の新歌舞伎座で近藤真彦の主演舞台『森の石松』が初日を迎えた。 ジャニーは少年隊と一緒に翌日の12日に応援のために観劇しに行く予定だったが、少年隊のコンサートの現場だった中野サンプラザに居たジャニーに、大阪の舞台のスタッフから「マッチが舞台の会見を開くから急いで来てほしい」と電話が入る。 これにより、ジャニーだけが急遽12日の搭乗予定を1日前倒しして大阪に飛び、少年隊は東京に残ることとなった。

  • フォーリーブスの江木俊夫は自著の中で、「ジャニーズ事務所に最大の利益を与えたのはSMAPだろうが、ジャニー喜多川さんが今でも理想のアイドル像として思い描いているのは郷ひろみだろう」と述べている。 ジャニーは郷が事務所に在籍していた当時、六本木にあった合宿所の電話番号の最後の4ケタをわざわざ「5163 (郷ひろみ)」にしていた程だった。
    しかし、タレントのマネジメントで神経を使い過ぎ、「十二指腸潰瘍の末期」と診断されて1974年6月から3ヶ月間、赤坂の山王病院で入院生活を送っている間に、当時事務所で一番の稼ぎ頭であり、最も可愛がっていたその郷ひろみが、バーニングプロダクションに引き抜かれてしまった(注:移籍が正式に完了したのは翌1975年4月1日)。 ジャニーズJr.のメンバーやスタッフまでも引き連れたこの大きな移籍騒動でジャニーは相当なショックを受け、その後は麻雀に埋没することが多くなり、森進一和田アキ子を六本木の合宿所に招いては、明け方まで麻雀をしていた。 なお、和田アキ子はジャニーのことを「ジャニ子」、メリー喜多川のことを「メイ子」という愛称で呼んでいる。
    この他、ジャニーにとっての最高傑作は「少年隊」、そしてジャニーの生涯で最大の発明は「光GENJI」だと評されることもある。

  • 1980年代に、「ジャニー喜多川と黒柳徹子が結婚します。会見はテレビ朝日の第1リハーサル室で行います」というイタズラ情報のFAXがマスコミ中に送られたことがあった。 この一件以来ずっと、ジャニーは黒柳から「旦那さん」と呼ばれていた。

  • 所属タレントからの呼称は、「ジャニーさん」、または「社長」。 そして所属タレントは皆、ジャニーに対して“タメ口”である (「敬語は堅苦しいから」とジャニーから敬語禁止令が出されるため)。

  • かつてTOKIOの国分太一がジャニーに、「ジャニーさんが思う(事務所史上の)最強のグループって、どのグループだったの?」と尋ねた際、即答で「少年隊」と答えた。 その理由として、「踊りが完璧。歌も歌えて、自分たちで演出もできていた」と述べていたことを、国分が2019年9月4日放送のフジテレビ『TOKIO×カケル 300回記念スペシャル』で明かした。

  • 姪(ジャニーの兄・眞一の娘)が、福岡市内でピアノ講師をしている。

  • 指原莉乃主演の映画『薔薇色のブー子』(2014年、監督・脚本:福田雄一)にて、「やめちゃいなよYOU!」、「ジャニーさん」という台詞を、ユースケ・サンタマリアが喋っている。

特徴

  • ジャニー喜多川は「源平合戦」、「彰義隊」、「白虎隊」、「二本松少年隊」、「新選組」などの歴史ものが好きで、日本の芸能史上、アイドルのグループ名に「〇〇隊」、「〇〇組」というネーミングを最初に採用した人物。(白虎隊、少年隊、シブがき 〔“シブがき”の部分のみファンによる命名〕、桜隊、男闘呼組、三多摩新鮮組、少年新撰組など。 但し「〇〇組」というアイデアをジャニーに提案したのは中村繁之
    以降、多くのグループがこのネーミングを使用するようになった。
    (例:「筋肉少年少女隊 (筋肉少女帯の旧名)」、「いいとも青年隊 / 半熟隊」、「少女隊」、「乙女隊」、「おめで隊」、「うしろ髪ひかれ隊」、「茶々隊」、「渡り廊下走り隊」、「ばってん少女隊」、「うしろゆびさされ組」、「おニャン子クラブB組」、「あすか組」〔原作漫画は1985年8月連載開始〕、「桜っ子クラブさくら組」、「平成おんな組」、「維新組」、「モーニング娘。おとめ組」、「モーニング娘。さくら組」、「ほね組 from AKB48」、「新選組リアン」、「でんぱ組.inc」、「モーニング娘。天気組」、「民族ハッピー組 (旧名:演歌女子ルピナス組)」、「民謡女子ハピネス組」など)

  • 自分にとって思い入れの深い人物、関連グループの名前やキーワード、また、自身がプロデュースしながらも売れなかったり消滅してしまったグループの名前やキーワードなどを、後に再び引用して焼き直すことが多い。

    • 初代ジャニーズ中谷良のリードボーカル曲『裸の少年』(1966年。作詞:中谷良、作曲:三保敬太郎。ジャニーズのアルバム『ジャニーズとアメリカ旅行』に収録。 ただし実際に作詞したのは中谷ではなくジャニー喜多川)
                  ↓
      ジャニーズJr.のバラエティ番組のタイトル『裸の少年』(2001年4月7日 - 2009年9月26日、テレビ朝日)
      なお、楽曲『裸の少年』は、後にフォーリーブスの北公次もソロ曲としてカバー。(1969年。北のシングル『ひとりぼっちになった時』のB面、およびフォーリーブスの1stアルバム『ヒット!ヒット!ヒット! フォーリーブス・ゴールデン・ショー』、ハイ・ソサエティーの1stアルバム『世界へジャンプ! ハイソサエティ・サプライズ・プレゼント』に収録)
      更に、2012年~2013年にかけて公演されたミュージカル『JOHNNYS' World』でも、Hey! Say! JUMPの山田涼介が同曲をカバーしている。

    • あおい輝彦 → 葵テルヨシ (「葵」の字の由来は、葵が名古屋出身ということで「葵の御紋」からの引用)

    • クエスチョン・マーク・アンド・ザ・ミステリアンズ(1966年に全米1位のヒット曲を出したアメリカのガレージ・ロックバンド)、および 『クエスチョンズ67/68』 (シカゴの1969年のシングル。ハイ・ソサエティーが1971年のアルバムでカバー) → クエッション → 村田勝美&ハイクエッチョンズ → (読み方は「クエスチョンズ」。「嵐」の当初のグループ候補名。なお、もう一つの候補名は「あけぼの」だった) → Question?

    • ミュージカル・アカデミー(旧名:ミュージカル・アカデミー合唱団。1960年代~1970年代に活動していた男性12名(結成時の人数)のコーラスグループ。 1965年のミュージカル『焔のカーブ』ではジャニーズとも共演した) → Musical Academy

        
        画像はコーラスグループの「ミュージカル・アカデミー」

    • ジャニー喜多川 → 公次 (「キタ」の部分を引用)

    • 北公 → 成田昭 (「」の文字を引用)

    • Four Tops(1960年代半ばに全米1位のヒット曲を出していたアメリカのR&Bコーラスグループ) → フォーリーブス → Four Tops

    • フォーリーブス・ミュージカル『少年たち』シリーズ(1969年 - 1976年)  → 少年隊のコンサート内ミュージカル『少年たち』(1985年)  → ジャニーズJr.のミュージカル『少年たち』シリーズ(2010年 - )

    • 『夏の嵐 ~第1章 光 / 第2章 影~』(1970年8月1日に発売されたフォーリーブスのアルバム)、および『少年たち パートⅡ ~ 青春の光と影』(1976年3月~4月に行われたフォーリーブスの10周年記念ミュージカル)  → 『シャドー』(急遽発売中止となったJOHNNYS' ジュニア・スペシャルの幻のラストシングル)  → 『PRIVATE LIFE ~Light & Shadow~』(1987年4月28日に発売された少年隊のアルバム)  → ライト・イン・シャドウGENJIの当初のグループ名)  → B.I.Shadow

    • フォーリーブスと永田英二がレギュラー出演していたバラエティ番組『ギャグジカル ジュンとヨッパ』(1970年11月5日 - 1971年3月25日、TBS)  → ジャニーズJr.の2011年のライブ公演『GAG+MUSICAL=ギャグジカル みんなクリエに来てクリエ! 2011

    • ハイ・ソサエティーの1970年のデビューアルバム『世界へジャンプ!』 → 『JUMP ’84
    • Hey! Say!』 & 『JUMP ’84』 → Hey! Say! JUMP
        Hey! Say!』は、1989年に発売された光GENJIの3rdアルバム。(「Hey! Say!」というネーミングは、ジャニーズ事務所が行ったイベントでも何度か使用されている)
        JUMP ’84』は、1984年の春休み期間中に行われたジャニーズ事務所企画のコンサートイベント。
        なお、Hey! Say! JUMPの“JUMP”は、「Johnny's Ultra Music Power」の略だが、
        JUMP ’84』の方は、「JOHNNYS ULTRA MUSIC PANIC」の略で、田原俊彦近藤真彦シブがき隊THE GOOD-BYEジャニーズ少年隊の5組で、会場を変えながらリレー形式で開催されたコンサートだった。
         

    • フォーリーブスの1972年のシングル『あなたの前に僕がいた』(作詞:ジャニー喜多川 〔名義は「北公次」〕) → 2012年のライブ公演『ジャニーズ座 Youの前にはMeがいる!

    • フォーリーブスの1976年のシングル『踊り子』 → 男闘呼組のバックダンスグループ「踊り子

    • フォーリーブスの1978年5月1日発売のライブアルバム、および同年7月26日~8月31日に行われたフォーリーブス解散コンサートツアーのタイトル『LOVE FOREVER』 → 1983年8月4日公開の田原俊彦のドキュメント映画『TOSHI in TAKARAZUKA Love Forever

    • 名前のイニシャルがAからZまで全て揃った26人のメンバーを集め、ミュージカルを上演できるようなグループを作りたいという「ジューク・ボックス」の当初の構想 (アルファベット「A to Z」へのこだわり) → A.B.C-Z → Sexy Zoneの当初の構想ユニット「A.B.C-xyZ」 → Sexy Zoneの「xy」の赤字化 (「アルファベットの連続」であるという意味を強調するため)

    • 亜井じょう豊川誕 → 横山ジョー (横山侯隆から横山裕に改名する際の候補名。きっかけ自体はジャニーの目の前にあった上焼肉弁当から)

    • JOHNNYS' ジュニア・スペシャル → Jr.specialFour Topsの旧名) → Jr.BOYS Special → Spe千 → Jr.SP (旧名:ジャニーズJr.SP

    • ジャニーズ・ジュニア・エース、および、ジャニーズJR.(1970年代前半の「ジャニーズJr.」の表記) → JR.A (ジェイアールエー)
        ※ ジャニーズ・ジュニア・エースの「エース」の部分のアルファベット表記は、「Ace」ではなく「A」一文字だった。

    • ザ・ニュース → NEWSSAY・Sのバックバンド) → 2003年にデビューしたNEWS

    • 学園もの
    • リトル・ギャング → Little Gangs関西ジャニーズJr.内のダンスユニット) → Lil かんさい (リトルかんさい)

    • 4 JETS → 4 JETS+2 → スーパーJETS (いずれもジャニーズ退所後の郷ひろみのバックバンド。長沢悟、山本雅史が参加)、および ジェット (メッツのメンバーの出身バンド) → HiHi Jets

    • 未都由 → 横山裕 (ジャニーが人を呼ぶ際の「You」のネーミング)

    • Hi - Hi - Hi』 (ジャニーズ退所後のあおい輝彦のヒット曲) → 光GENJIの2ndアルバム『Hi!』 → Hi! See Me IN KYOTO → バラエティ番組 『Hi! Hey! Say!』 (2007年 - 2009年、テレビ東京) → ジャPAニーズHi!School → HiHi Jets

    • 男女の合同
    • Aチーム → Aぇ少年 → Aぇ! group
    • Bチーム → 微笑年 → B-少年 (Sexy Zoneに当初予定されていたグループ名) →  少年 (旧名:Tokyo Boyz → 東京B少年 → Sexy美少年)

    • スマープTHE GOOD-BYE衛藤浩一の愛称) → SMAP

    • 少年忍者 → 参・忍者 → ちびっこ忍者! → 少年忍者 → 7忍者 → 5忍者

    • 田原俊彦のシングル曲『It's BAD』、およびマイケル・ジャクソンのシングル曲とアルバムタイトル『BAD』 → B.A.D.

    • ジャニーズ・シニア → ジャニーズSr.

    • 『SHOW劇 MASK』 → MASK

    • KANZAI BOYA → Jr.Boya、および、関西BOYS (KANSAI BOYS)

    • カミセントニセン (それぞれV6の内部ユニットの略称) → Spe千

    • Hey! Say! BEST → Jr.BOYS BEST

    • Sexy Boy → Sexy Boyz

    • Hey! Guys → Noisy Guys

    • 大看板を意識して絡めたユニット名 

      ジャニーは、国や地域、日本史、新元号、企業、施設、作品などの大看板から引用してグループ名を命名することも非常に好んだ。

      1. 日本国
      2. ニューヨーク (NYC boys → NYC
      3. 東京都
      4. 浜松町 (TOKYO浜松町
      5. 近畿地方 (KinKi Kids
      6. なにわ (なにわ皇子 → なにわ男子
      7. 京都 (Hi! See Me IN KYOTO → KYOTO大原村 → 京男
      8. 源氏物語 (光GENJI
      9. 平家物語 (平家派
      10. 新選組 (三多摩新鮮組 → 少年新撰組
      11. 白虎隊 (白虎隊
      12. 二本松少年隊 (少年隊
      13. 新元号からの引用
      14. 『週刊少年ジャンプ』 (『JUMP ’84』 → Hey! Say! JUMP
      15. エフエム東京 (F.M.Tokyo
      16. 日本武道館 (舞闘冠 → They武道
      17. JR、JRA (JR.A
      18. ハローキティ (K.K.Kity → Kitty
      19. 黒澤明監督の映画『七人の侍』 (7 MEN 侍
      20. たのきんトリオも主演したことのある映画『嵐を呼ぶ男』 (男闘呼組の当て字のヒント、およびのネーミングヒントの一つ)
      21. ジャニーズタレントが幾度も出演してきたミュージカルシリーズ『阿国』 (MAIKO & お国


  • どことなく顔立ちや路線の系統が似ている人物が、新旧のジャニーズ(一部ジャニーズ以外のアイドルにも)の中で繰り返されているようにも窺える。(本人たちが先輩に憧れて真似る場合も一部含む)

    • 長沢純 (ジャニーズではない) → 真家ひろみ
    • あおい輝彦 → 二重瞼に整形後の赤木さとし
    • 中谷良 → 猶場輝彦
    • 嶺のぼる → 喜多見英明
    • 北公次 → 岡のりお
    • デビュー直後の北公次 → 山本淳一
    • 北公次 → 薬丸裕英 → 山本淳一 → 千賀健永
    • 北公次 → 髙橋海人
    • 江木俊夫 → 国分太一
    • 青山孝 → SMAP結成直後の中居正広、原知宏
    • おりも政夫 → 鮎川太陽 → 阿部亮平
    • 初期の永田英二 → 大倉忠義
    • 小谷純 → 中居正広
    • 吉本あき弘 → 原知宏
    • 岡のりお → 高橋一也、成田昭次
    • 畠山昌久 → 宇治正高、倉田順一 → 山口達也 → 森本慎太郎
    • 郷ひろみ → 志賀泰伸
    • 葵テルヨシ → 加藤シゲアキ
    • 青山信宏 → 星英徳 → 朝村智史 → 中野俊介 → 小川優、矢花黎、影山拓也
    • 森谷泰章 → 森内貴寛 (後のTaka)
    • 曽我泰久 → 香取慎吾
    • 松原秀樹 → 国分太一
    • 揚石浩吉 → 殿ゆたか
    • 中川昌哉 → 大倉忠義
    • 岡本祐幸 → 山下智久
    • 城みちる (ジャニーズではない) → 相葉雅紀
    • 若き日の井上純一 → 二宮和也
    • 1977年時の豊川誕 → 内博貴
    • 未都由 → 初期の屋良朝幸
    • 川﨑麻世 → 八乙女光
    • 渋谷哲平 (ジャニーズではない) → 加藤シゲアキ
    • 田原俊彦 → 錦織一清
    • 近藤真彦 → 植草克秀 → 中村繁之 → 諸星和己 → 中居正広
    • 野村義男 → 宮田俊哉、藤井直樹
    • 中村誠 → 田中聖
    • 叶屋博基 → 正木慎也
    • 竹本孝之 (ジャニーズではない) → 手越祐也
    • 本田恭章 (ジャニーズではない) → 岡本健一
    • 錦織一清 → 中島裕翔
    • 東山紀之 → 堂本光一
    • 植草克秀 → 高木延秀
    • 平本淳也 → 萩谷慧悟
    • 宇治正高 → 横尾渉
    • Jr.時代の内海光司と石丸志門
    • 内海光司 → 初期の古川栄司
    • 大沢樹生 → 松岡昌宏、玉森裕太
    • 三好圭一 → 志賀泰伸
    • 柳沢超 → 佐藤アツヒロ → 佐藤敬 → 高橋直気 → 佐藤勝利
    • 守屋二郎 → 二宮和也
    • 東昌孝 → 重岡大毅
    • 山本陽一 (ジャニーズではない) → 野中和久
    • 成田昭次 → 原知宏
    • 高橋一也 → 田中聖、髙橋海人
    • 岡本健一 → 初期の木村拓哉
    • 田代秀高 → 田中純弥 → 嶋﨑斗亜
    • 城島茂 → 大谷幸生
    • 初期の赤坂晃 → 初期の松本潤
    • 中居正広 → Jr.時代の堂本剛、渋谷すばる
    • 草彅剛と岡田賢一郎
    • 坂本昌行 → 猪熊務
    • 村田義治 → 菊池風磨
    • 伊東正美 → 浜田一男
    • 初期の長瀬智也 → 亀井拓 → 中山優馬
    • 堂本光一 → 山田涼介、橋本良亮、藤井流星
    • 佐野瑞樹 → 初期の岡田准一
    • 森田剛 → 屋良朝幸、Jr.時代の赤西仁
    • 三宅健 → 伊藤達哉 → 向井康二
    • 原知宏 → 神宮寺勇太
    • 目黒正樹 (後の仁科克基) → 菊池風磨
    • 中浜慶幸 (後のRuiza) → 赤西仁
    • 佐々木大地 → 山下智久
    • 生田斗真 → 川﨑皇輝
    • 風間俊介 → 桐山照史 → 後藤泰観 → 猪狩蒼弥 → 安嶋秀生
    • 長谷部隼 → 嶋﨑斗亜
    • ジミー Mackey → 小島健
    • 山下翔央 → 浮所飛貴
    • 髙木雄也 → 原嘉孝
    • 大倉士門 → 髙橋海人 → 藤井直樹
    • 京本大我 → 道枝駿佑
    • 佐藤勝利、中島健人 → 平野紫耀、永瀬廉 → 浮所飛貴

ジャニー弁

  • ジャニー喜多川は、所属タレントを呼ぶ時に名前では呼ばず、誰に対しても「You」と呼んでいた。(ただし横山裕のことだけは「ヨコ」と呼んでいた)
    また、「今日、日曜日だしYouプール来ちゃいなよ」などと、ジャニーズJr.の面々を唐突に電話で呼び出すこともあった。
    更に、「You、〇〇しちゃいなよ」という一声でグループが結成されたりコンサートが決定したりと、軽いノリながら重要な決定を下すことも多い。
    この「You」、「〇〇しちゃいなよ」といったいわゆる“ジャニー弁”は、所属タレントのみならず多くの芸能人によってしばしばネタにされている。

住居侵入被害

  • 2011年8月17日午前9時45分頃、渋谷区渋谷の自宅マンションに男が侵入し、ジャニーを閉め出して篭城するという前代未聞の事件が起こる。 報道では、帰宅したジャニーが自分の部屋のある階のオートロックを解除した際、近くに潜んでいた男も一緒に中に入り、素早く無施錠だったジャニーの玄関扉を開けて中に入り、内側から鍵をかけたとされている。 そしてジャニーはフロントを通じて110番に連絡し、約40分後、駆け付けた警視庁渋谷署員が室内に突入。 男は取り押さえられ、住居侵入容疑で現行犯逮捕された。 ジャニーは34階建てのタワーマンションの最上階(リーマンショック前は時価14億の部屋)に住んでいたが、この事件による怪我や室内の物品の破損・盗難は無かった。
    侵入した男の名は、プリペイドカードや各種金券類を取り扱う、創業50年の老舗会社「株式会社サンデックス」の代表取締役社長・鵜瀞敏男 (うのとろ としお、世田谷区尾山台、当時52歳)。 鵜瀞は、「知り合いのジャニー喜多川さんの家に入っただけ」と供述。 一方のジャニーは、「男との面識は無い」、「同じマンションの住人かと思った」と話した。 しかし、ジャニーの住む高級タワー億ションのセキュリティは非常にしっかりしており、24時間有人管理システムや、エレベーターを降りてもガラス扉でガードされているダブルオートロックシステムを導入。 つまり同じマンションの住人でさえ、別の階には行けない程の頑丈なセキュリティであった。 しかもジャニーの住む34階に住戸は2戸しかなく、もう一つの部屋もジャニーズ事務所の所有物件。 こうした状況の中で「見知らぬ男に自宅に侵入された」という説明には不自然な点が多く、実際にはジャニーは鵜瀞と面識があったのではないかと見られている。 芸能ライター曰く、ジャニーは近い関係者には「犯人と面識があった」と認めているとのこと。
    鵜瀞の会社の取引先企業リストにはジャニーズ事務所の名前もあるため、利権をめぐっての金銭トラブルの可能性が挙げられたが、鵜瀞が明治大学工学部を卒業後に母親から継いだ会社の月商は3億円以上、内部留保も3億円を超えている。 更には世田谷区尾山台に164坪の広い土地を所有。評価額は2億8000万円。 鵜瀞はこの土地を外車ディーラー12社に駐車場として貸している。 また、国立市にも300坪、2億3000万円相当の山林・畑などを持っているほどのリッチな資産家であるため、ジャニーとの金銭トラブルというのは考えにくく、しかも事件のあった日は鵜瀞の52歳の誕生日だったため、何かしらのプライベートな付き合いでのもつれが原因だとも見られている。 ネット上でも、「古くに肉体関係のあったゲイ友達で、痴情によるもつれ」、 「ジャニーが数十年に渡って収集してきた所属タレントたちの児童ポルノコレクションを見るため」、 「少年たちへの性的児童虐待の証拠を掴もうとした正義の侵入」などの説が浮上した。  なお、ジャニーはこの事件で世間に住所を知られてしまったため、翌9月の上旬に転居した。

交通事故

  • 2012年10月16日午後3時頃、ジャニーが仕事の打ち合わせに向かうために一人で車を運転していた際に、追突事故を起こす。 事故は港区北青山の見通しのいい直線道路で起き、40代の男性が運転する軽自動車に衝突。 ジャニーに怪我はなかったが、追突された男性は軽傷を負った。 ジャニーは普段、運転手付きの車やタクシーを利用しているが、時々自分でも運転していた。
    警察の調べに対してジャニーは、「前の車が信号で止まったのに気付かず、ぶつかってしまった」と説明。 警視庁赤坂署はジャニーを自動車運転過失傷害容疑で書類送検した。 この事故についてジャニーは事務所を通じ、「今後は車の運転は行いません」とコメントした。 以後、ジャニーの専属運転手は元・忍者遠藤直人が担当。

ホームエレベーター事件

  • 2014年、ジャニーが自宅に新しく設置したホームエレベーターに乗った際、ドアが開かなくなり、閉じ込められてしまうという事態が発生。 携帯電話を持っていない状態で、非常ベルも未設置だったため、閉じ込められていた時間は実に4日間にも及んだ。
    老体にもかかわらず、4日間飲まず食わずの状態が続いて意識朦朧とする中、たまたま事前に洗濯機を注文し、家の鍵も預けておいた電気屋が、洗濯機を届けるためにジャニー宅の中に入って来てくれたため、ジャニーがエレベーター内から「助けてくれー!」と大声で叫び、何とか無事に救出されて一命を取り留めた。 一歩遅ければ、ジャニーズ事務所の歴史、そして日本の芸能史も変わってしまう一大事であった。 エレベーター会社からの正式な使用許可が下りる前に使い始めてしまったのが故障の原因だった。

性的児童虐待について

  • ジャニーが同性愛者(真性の少年性愛者、児童性愛者)であり、事務所に所属する男性タレントに対して性的児童虐待(同性愛行為の強要)を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されてきた。

  • まず、駐留米軍の「在日軍事援助顧問団 (MAAGJ)」に勤務していた頃(1958年~1966年)から、外交官ナンバーの車で新宿・花園神社の界隈に繰り出し、「ケニー」、「L」、「牛若丸」といったゲイバーで遊んでいたこと、更に新宿駅南口で網を張り、田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿の「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことを、当時のゲイ仲間・原吾一が、著書『二丁目のジャニーズ』シリーズで明かしている。

  • ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントは「ジャニーズ」の4名(真家ひろみ飯野おさみあおい輝彦中谷良)で、当初は池袋の芸能学校「新芸能学院」に所属させていたが、学院内にてジャニーが15名の男子生徒たちに性的児童虐待行為をしていたことが発覚。 オーナーの名和太郎(本名:高橋幸吉。2000年6月7日に急性心不全で逝去。81歳没)はジャニーを1964年6月28日付で解雇した。 しかしジャニーが、ジャニーズの4名も一緒に引き連れて出て行ってしまったためにトラブルとなり、裁判へと発展した (通称:ホモセクハラ裁判)。 なお、当時のジャニーは在日軍事援助顧問団(MAAGJ)に在籍する下士官事務職員として、米国軍人および外交官の立場にあったが、新芸能学院との騒動は「MAAGJの公務の範囲外の職業活動」で起こった問題であるため、「外交関係に関するウィーン条約」(日本では1964年6月8日に発行)の第31条1項による外交特権「外交官は接受国の刑事・民事・行政裁判権からの免除を享有する」の対象から漏れ、訴えられた。
    この裁判は長期化し、1964年から実に4年に渡って行われた。 ジャニーズの4名も実際に証言台に立っており、その証言記録は『女性自身』(1967年9月25日号)、『ジャニーズの逆襲』(データハウス刊)、『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社刊)にて再現されている。 『週刊サンケイ』(1965年3月29日号)でも「ジャニーズ騒動 “ジャニーズ”売り出しのかげに」として5ページの記事が組まれた他、ルポライターの竹中労も、著書『タレント帝国 芸能プロの内幕』(1968年7月、現代書房)の中で「ジャニーズ解散・始末記」と題してジャニーの性加害について言及した (当書はその後、初代ジャニーズを管理していた渡辺プロダクションの渡邊美佐の圧力で販売停止)。 なお、『ジャニーズスキャンダル調書』では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。

  • 『週刊現代』(1981年4月30日号、講談社)にて、「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」と題し、ジャーナリストの元木昌彦がジャニーの性趣向問題について言及。
      (直後、ジャニーの姉のメリー喜多川から編集部に「今後、講談社には一切うちのタレントを出さない」と猛クレームが入り、元木は処分として『週刊現代』から『婦人倶楽部』の部署へと異動させられた。 この件については、『週刊文春』(1981年5月28日号、文藝春秋)でも、「大講談社を震え上がらせたメリー喜多川の“たのきん”操縦術」と題して報じられた。 なお、ジャニーの性的児童虐待についてメリーは、「弟は病気なんだからしょうがないでしょ!」と言ってずっと放任していた)

  • 元所属タレントの告発も相次いだ。 元フォーリーブス北公次は『光GENJIへ』(データハウス、1988年12月)、 元ジューク・ボックス小谷純やなせかおるは『さらば ! ! 光GENJIへ』(データハウス、1989年9月)、 元ジャニーズ中谷良は『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年10月)、 元ジャニーズJr.平本淳也は『ジャニーズのすべて ~ 少年愛の館』(鹿砦社、1996年4月)、 山崎正人は『SMAPへ』(鹿砦社、2005年3月)をそれぞれ上梓。 タレントの生殺与奪の全権を握るジャニーの性的要求を受け入れなければ、仕事を与えられずに干されてしまうという実態が明るみに出た。 中でも『SMAPへ』は、ジャニーが行っていた性行為の内容について最も細かく具体的に描写しており、少年に肛門性交を強要していたことも明かしている。
    同じく元Jr.の蓬田利久も、漫画『Jr.メモリーズ ~もしも記憶が確かなら~』(竹書房の漫画雑誌『本当にあった愉快な話』シリーズ、著:柏屋コッコ、2014年1月~2015年4月)に取材協力する形で暴露している。
    ジャニーは肛門性交時にノグゼマスキンクリームメンソレータムベビーローションなどを愛用しており、少年隊もラジオ番組で、錦織一清が「ジャニーさんと言えばメンソレータム思い出すなぁ・・・」、東山紀之は「合宿所はいつもメンソレータムの匂いがしてた」など、分かる人には分かるギリギリの発言をしている。
    元Jr.の星英徳も、ジャニー喜多川の死後になってネット配信で、「ただのJr.だった自分ですら、何十回もやられた。 ジャニーさんが特に好んだのは、小中学生の段階のJr.。 時には平日の朝から学校を休んで合宿所に来いと呼び出され、マンツーマンで性行為を受けた。 その最中は、当時付き合ってた彼女のことを毎回必死に頭で思い描きながら耐えてた。 メジャーデビューしたメンバーは必ず全員やられている。 必ずです! 全員やられてる! そもそも断ったらデビュー出来ない」と幾度も打ち明け、ジャニーによる性被害や当時の事務所内での異常な状況を説明した。
    ジャニーズの出身者以外からも、浜村淳が関西ローカルのラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(MBSラジオ)の中でジャニーズのことを「あのホモのおっさん」と発言したり、ミュージシャンのジーザス花園が、2009年発表の自作曲『ジャニー&メリー』で、AV監督の村西とおるもブログやTwitterで糾弾している。

    ジャニーに対する感謝、愛情が誰よりも強いことで知られるKinKi Kids堂本剛(児童劇団の子役出身)は、小学5年生の段階で子役活動を辞め、一旦芸能界を引退していたが、姉による他薦でジャニーズのエンターテインメントの世界に触れ、自分もスターになって成功したいという感情が芽生える。 しかし成功するためには、まだ幼い小学6年生の段階からジャニーの性的な行為を耐え忍ぶしかなく、剛が中学2年生の14歳の時に奈良県から東京の合宿所に正式に転居してからは、ジャニーの性行為は更に過熱していった。 当時剛と非常に親しい関係にあった元Jr.の星英徳も、「剛は普通のJr.たちとは違うレベルの性行為をジャニーさんから受けていて、そのことにいつも悩んでた。剛が病んじゃったのはジャニーさんが原因」と、2021年6月25日の深夜にツイキャス配信で証言した。
    剛にしてみれば、確かにジャニーには芸能界で大成功させて貰って感謝はしているものの、幼い頃から異常すぎる性体験を強いられ、自分の心と体を捨て去るという代償を払わされてきた訳であり、更に人一倍繊細な性格がゆえ、15歳からは芸能活動へのストレスも相まってパニック障害を抱えるようになり、長年に渡って自殺を考えるほどに苦しんだ時期が続いた。 自分で選んだ道ではあるし、ストックホルム症候群やグルーミングの効果によって、ジャニーに対して大きな感謝はしつつも、もしジャニーと出会わなければ、こんなにも苦しい思いをすることは無かった、という愛憎が入り混じった複雑な感情から、剛の自作曲『美しく在る為に』は、ジャニーへの思いや、芸能活動への葛藤が描かれた曲だと、一部のファンの間では解釈されている。 その歌詞の一部には、
    「あたしが悪いなんて 云わせないの あなたが悪いなんて 云う筈がないの 人は勝手だったもの 何時も勝手だったもの 美しく在る為に 勝手だったもの」とある。 [1]

    光GENJI諸星和己も、2016年11月6日放送のバラエティ番組『にけつッ ! !』(日本テレビ)に出演した際、千原ジュニアとの会話でジャニーについて、
      千原 「数年後に大スターになると見抜くその力よ」
      諸星 「違う違う、たまたま、たまたま」
      千原 「先見の明がすごいんでしょ?」
      諸星 「僕の考えだと、“結果論”だね。 あの人(ジャニー喜多川)の目がいいとか、見抜く力がすごいとか、“全く”無い!
    と断じ、ジャニーに対する世間の過大評価に異を唱えた。 そして番組の最後では、「ジャニーの感性はね、あれホ〇だから!」と締めくくった。
      ジャニーについてはよく、「少年の10年後の成長した顔が見えていた」などと評されてしまうことがあるが、それは間違い。 確かに子供の頃は冴えない平凡な顔をした者が、美容整形なども踏まえて将来二枚目に化けたパターンもあるが、その一方、小さい頃は可愛かったのに、成長と共にどんどん劣化してしまったパターンも少なくない。 そもそも、テレビなどで頻繁に同じタレントの顔を目にしていれば、視聴者の目はその顔に慣れていく訳だから、マイナス面はどんどん軽減されていく。 ジャニーが持っていたのは権力と財力であって、人の10年後の顔はおろか、人の本質や将来を見抜けるような特殊能力、神通力は存在しない。 ジャニーは将来を予見して採用していたのではなく、ただ単に、今その瞬間の“自分の好み”の少年、個人的に性欲を感じる“やりたい相手”を選んでいただけであり、その少年がたまたまスターになるかならないかは、諸星が述べた通り、後からついてきた“結果論”に過ぎない。 ジャニーに個人的に嫌われれば、いくらスター性や才能がある者であっても捨てられるし、ジャニーに個人的に好かれれば、スター性の無い者であっても権力と財力でメディアにゴリ推しされ、結果、誰でも人気者になれた。 こうした、ジャニーの個人的な好み、機嫌だけで全てが操作・決定される、非常に特殊で独裁的な事務所だったため、多くのスターを製造した一方、本当に将来有望だったはずの多くの才能も死んでいった。
    なお諸星はこの放送の一ヶ月後の2016年12月2日に大沢樹生と共に開催したトークライブでも、ステージ上で「俺が何で結婚しないか? ホモだから。 ジャニーみたいなものだから」と発言し、ジャニーを茶化している (諸星自身がゲイであるという部分は自虐による冗談であり、諸星はゲイではない)。

  • 1988年~1989年にかけ、月刊誌『噂の眞相』もこの問題を数回取り上げた。 しかしジャニーズ側は、「『噂の眞相』という雑誌はこの世に存在しないもの」という姿勢を貫いていたため、全く相手にされることは無かった。

  • 1999年10月28日号から2000年2月17日号にかけ、『週刊文春』がジャニーズ事務所に対する糾弾を14回に渡ってキャンペーンとしてシリーズ掲載。 ジャニーが所属タレントに対してセクハラ・児童虐待を行い、事務所内では未成年所属タレントの喫煙や飲酒が日常的に黙認されていると報道し、約15名もの元ジャニーズJr.が取材に協力した。 出版元である文藝春秋は、他の大手出版社と違ってジャニーズ事務所との癒着や影響力が皆無に等しかったために出来たことだった。

      【キャンペーン開始の引き金的な記事】
      1. 江木俊夫 公判で元アイドルが「ジャニーズ」批判 (1999年10月7日号)

      【14回のキャンペーン】
      1. 青山孝 元フォーリーブス衝撃の告発 芸能界のモンスター「ジャニーズ事務所」の非道 TVも新聞も絶対報じない (1999年10月28日号・p252~255)
      2. ジャニーズの少年たちが耐える「おぞましい」環境 元メンバーが告発 「芸能界のモンスター」追及第2弾 (1999年11月4日号・p190~193)
      3. ジャニーズの少年たちが「悪魔の館」合宿所で 「芸能界のモンスター」追及第3弾 強いられる“行為” スクーブグラビア ジャニーズ「喫煙常習」の証拠写真 (1999年11月11日号・p26~29)[1]
      4. テレビ局が封印したジャニーズの少年たち集団万引き事件 追及キャンペーン4 マスコミはなぜ恐れるのか (1999年11月18日号・p188~191)
      5. ジャニー喜多川は関西の少年たちを「ホテル」に呼び出す 追及第5弾 芸能界のモンスター (1999年11月25日号・p188~191)[1]
      6. ジャニーズOBが決起! ホモセクハラの犠牲者たち 芸能界のモンスター追及第6弾 (1999年12月2日号・p195~197)
      7. 小誌だけが知っているジャニー喜多川「絶体絶命」 追及第7弾 (1999年12月9日号・p179~181)[1]
      8. ジャニーズ人気スターの「恋人」が脅された! 追及第8弾 (1999年12月16日号・p185~187)
      9. ジャニー喜多川殿 ユー、法廷に立てますか? 「噴飯告訴に答える 追及第9弾」 (1999年12月23日号・p179~181)
      10. 外国人記者が「ジャニー喜多川ホモ・セクハラは日本の恥」 追及第10弾 (1999年12月30日号・p38~40)
      11. ジャニーズ裁判 元タレントはなぜ「偽証」した キャンペーン再開! (2000年1月27日号・p180~181)
      12. ジャニー喜多川よ、ファンもこんなに怒っている 徹底追及(第12弾) (2000年2月3日号・p165~167)
      13. NYタイムスも報じたジャ二ー喜多川「性的児童虐待」 (2000年2月10日号・p172~173)
      14. ジャニー喜多川「性的虐待」 日本のメディアは腰くだけ ピュリツァー記者が激白 (2000年2月17日号・p34~35)

      【追加報道】
      1. スクープ撮! ジャニー喜多川の素顔 (2000年3月16日号)
      2. ジャニー喜多川の性的虐待! 母親が決意の告白 「息子は私に訴えた」 (2000年3月23日号・p184~186)
      3. 新展開 ついに国会で質問されたジャニーズ性的虐待 なぜNYタイムスしか報じないのか (2000年4月27日号・p176~179)
      4. ジャニーズ疑惑 梨元勝国会で証言へ! (2000年5月4日・11日合併号・p180~181)

    大手メディアがこの性的児童虐待問題をこれほどまでに取り上げたのは1960年代以来初めてのことで、その波紋は大きく、自民党衆議院議員・阪上善秀(後の宝塚市長)も、2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げた [注 6]。 1999年11月、ジャニー側は名誉毀損であるとして文藝春秋を訴え、1億2000万円の損害賠償と謝罪広告を求める民事訴訟を起こした。

  • 2002年3月27日、東京地裁の一審判決では、「高度の信用性を認めがたい。 証人の証言はたやすく信用できない点を残している」としてジャニー側が勝訴し、東京地裁は文藝春秋に対し、ジャニーへ440万円、ジャニーズ事務所へ440万円の、計880万円の損害賠償を命じた (井上哲男裁判長)。 文春側はこれを不服として東京高裁に控訴。

  • 2003年7月15日の二審判決では、ジャニーのハラスメントに関する記述について、
    「喜多川が少年らに対しセクハラ行為をしたとの各証言はこれを信用することができ、喜多川が、少年達が逆らえばステージの立ち位置が悪くなったり、デビューできなくなるという抗拒不能な状態にあるのに乗じ、セクハラ行為をしているとの本件記事は、その重要な部分について真実であることの証明があった」
    と結論づけられ、ジャニー側の性的児童虐待行為を認定 (矢崎秀一裁判長)。 このため、性的児童虐待部分のジャニー側の勝訴は取り消され、損害賠償額はジャニーへ60万円、ジャニーズ事務所へ60万円の、計120万円に減額された。 ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され (藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と性的児童虐待行為認定が確定した。[1]

  • しかし各芸能マスコミは、一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「ホモセクハラが認められた」という肝心の理由は書かなかった。
    この問題について、懐疑主義団体「JAPAN SKEPTICS」の機関誌『NEWSLETTER 53号』にて、当時同会の副会長だった草野直樹が批判。 「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。 そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている。 報道におけるタブーのベールを抜いた報道には、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう」と訴えた。
    芸能評論家の肥留間正明も、「芸能界でホモセクハラが裁判になったのは異例。 真実と認められたのも初めてで、これは社会的な事件」と語っている。
    また、ニューヨーク・タイムズや、イギリスの新聞・オブザーバーなどの海外メディアも大々的に取り上げ、この問題をタブー視するなどして真実を報道しない卑怯で腰抜けな日本のマスメディアの姿勢、体質を批判した。

  • 以後もジャニーズ事務所と文藝春秋は対立。 2006年に『武士の一分』が映画化された際、ジャニーズは文春文庫で発売されている藤沢周平の原作本の帯に、主演の木村拓哉の写真の使用を一切許可しない、という対抗措置を取っている。 また、木村が工藤静香と結婚した際にも、会見への週刊文春の参加を禁じた。 そのため、文春側は巻頭グラビアで白紙ページに木村とインタビュアーの輪郭のみを描き、ジャニーズによるメディア統制であると非難した。

  • 2010年3月14日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「新約・ジャニーズ暴露本」開始。

  • 2018年6月6日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「いま振り返るジャニーズの“少年愛”報道」開始。

  • 2019年7月9日にジャニーが逝去。 その際、テレビや雑誌など、日本の主要メディアではジャニーを賛美する歯の浮くような美辞麗句のみが並べられ、まるでジャニーを聖人君子かのように崇め奉った。


    他者の訃報であれば、「光と影」、「成功の裏で・・・」などと、故人の両面の部分、功罪が報じられたりもするが、普段「権力に立ち向かい真実を伝えるのがメディアでありジャーナリズムである」などと言ってるマスコミは、ジャニーの性的児童虐待問題については一切触れることはなかった。
    一方、イギリスの放送局「BBC」、イギリスの通信社「ロイター通信」、アメリカの音楽メディア「ビルボード」、アメリカの芸能系ネットメディア「ハリウッド・リポーター」、英字のオンラインジャーナル「Japan Focus」、日本拠点とする英字ネットメディア「JAPAN TODAY」など、海外メディアでは是々非々で性的児童虐待問題にもしっかりと言及。 Japan Focusでは「絶対強者。タレント業界の大物である故ジャニー喜多川氏。日本で彼を最高の成功者へと押し上げたのは、彼の子どもたちに対する絶え間ない性的虐待を見て見ぬふりしてきた芸能界だった」と、2019年7月15日にジャーナリストのデビッド・マクニールが言及 [1]。 そしてBBCのニュース記事では、日本の主要メディアで闇の部分が一切報道されない不自然で異常な状況について、
    「ジャニーズ事務所は業界であまりに圧倒的な存在だったため、ジャニー喜多川氏を批判することはほとんど不可能だった 強大なジャニーズ事務所を脅かそうと挑む人は、日本の主要メディアには皆無だった」 と論じた。[2]
    酷いことに、日本の主要メディアはこのBBCによる記事を報じる時でさえも、ジャニーに対する賛辞の部分だけを抜粋。 日本のメディアの弱腰で不公平な姿勢や、性的児童虐待問題について述べている部分は、全てカットされた。 こうした、たった一社の企業に飼い慣らされ、腐敗しきった日本の業界の中で、ジャニーズの暗部に斬り込んでまともな記事を書いたり意見を述べたのは、ジャーナリストの元木昌彦本多圭LITERAの編集部、そして村西とおるだけであった。
    ジャニー喜多川という人間は、趣味と実益を兼ねた上で、巨万の富と名声ばかりか、自分好みの美少年たちを無限に選びたい放題の酒池肉林の中、数千人に及ぶ少年たちと関係を持つという性的な幸福も含めて、およそ人類史上、ほかに例のないほどの享楽の生涯を送った。 しかしその実、決して人として優れた人物という訳ではなく、「少年愛」という趣味・性癖、生まれ落ちた時代、育ってきた環境がたまたま上手く重なってバズっただけである。
    己の性欲の赴くまま、「芸能界デビュー」というこれ以上ない甘いエサを用いて少年たちを誘惑。 実際にアイドルタレントとして成功させれば莫大な利益が自分にも舞い込み、タレント本人やそのファンたちからも感謝されるという完璧なWinWinシステムが結果的に構築された。 そして獲得した権力と財力を使いながら、好き放題やりたい放題の独裁政治で、個人的な趣味をこれでもかと謳歌しながら生きていただけの、究極の道楽者に過ぎない。
    ジャニーの成功の影には、切っても切り離せない膨大な数の、悔し涙を呑んだ少年、体と人生をもてあそばれた少年、将棋の駒のように安易に使い捨てられた少年が居り、ジャニーはそうした少年たちの屍の上に成り立っていた。


  • 嵐の活動休止に際して松本潤がアメリカの雑誌『Variety』のニュースサイト(2020年11月2日付)でインタビューに応じた際、記事内ではインタビュー内容と併せて、ジャニーが性的児童虐待に関する報道をされていることや、事務所の持つ強大な力によってそのことが日本国内のメディアでは報じられていないことも指摘した。

  • 海外向けに日本のエンタメ情報を提供するWebニュースサイト「ARAMA JAPAN (あらま!ジャパン)」が、元「7 MEN 侍」のメンバー・前田航気のインタビューを掲載 (2021年1月2日付)。 ジャニー喜多川の性的児童虐待問題について、「ジャニーズのタレントや社内の他の誰かから、アイドルの虐待について聞いたり見たりしたことがありますか?」と問われた前田は、ジャニー喜多川とジャニーズJr.の何人かが性的な関係を持っていたことを告白。 自ら望んでジャニーと肉体関係を持つJr.も居たことを明かした。 そうした状況の背景には、ジャニーがタレントのデビューに関して強い決定権を持っていた権力構造があると証言した。 (しかし記事掲載後、何らかの横やりが入ったのか、ジャニーに関する部分のみ削除された) [1]
    前田がジャニーズ事務所に所属していた期間は、2011年から2018年秋まで。 つまり、ジャニーは週刊文春との裁判で2004年に敗訴してもなお、晩年までずっとJr.への性的虐待を続けていたことになる。

  • 2022年11月13日には元ジャニーズJr.の岡本カウアン(2012年2月入所)も、自身のYouTubeチャンネルで“ガーシー”こと東谷義和と「GaaSyy × KAUAN OKAMOTO 緊急生配信」を行い、Jr.たちに対するジャニーの性加害を暴露した。 [1]

  • 2023年3月7日、イギリスの公共放送局「BBC」の知的・教養チャンネル「BBC Two」が、ジャニーの性的児童虐待について特集した50分間のドキュメンタリー番組『Predator:The Secret Scandal of J-Pop (J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル)』をゴールデンタイムに放送 (BBCワールドニュースでも3月18日~20日に計4回放送)。
    番組の紹介文は以下の通り。
      「彼の“子どもたち”を頼りにしていたテレビ各局がほとんど無視していた、数十年に渡る子どもたちへの性的虐待をつまびらかにする。
      ジャニー喜多川が経営する伝説の男性限定タレント事務所は、少年たちをスーパースターに育て上げてきた。 しかし喜多川の暗い秘密は日本で50年以上守り続けられてきた。 喜多川の事務所に所属していた少年らが長きに渡り訴えてきた性的虐待の疑惑だ。
      2019年にこの大物が亡くなった後も、日本のメディアはほとんど沈黙を守ってきた。 なぜか。 J-POPアイドルの息苦しい現実、喜多川がメディアに与えた影響を探り、見て見ぬふりをすることの残酷な結末をあぶり出す」
    BBCは、日本で言えば「NHK」のような存在。 そんな影響力のある放送局が、ゴールデンタイムで日本芸能界の“恥部”を放送した。 ジャニーの性的児童虐待問題を世界で初めてテレビで取り扱い、4名の元ジャニーズJr.(平本淳也、小林直行、髙橋竜、吉岡廉)も出演して証言したこの番組は、歴史的な快挙と呼ぶに相応しいものであったが、ジャニーズ事務所に飼い慣らされている日本の大手メディアは正常に機能しておらず、いつものように卑怯な総スルーで黙殺した。 民放ではなく公共放送のNHKですら、ジャニーズに忖度してこの長年に渡る大きな性的児童虐待問題をスルーした。
    [1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]
    なお、陰謀論界隈では、「ジャニーと同じ性趣向を持つ中曽根康弘元首相にジャニーズのタレントたちの体を献上することで、ジャニーが性的児童虐待で訴えられそうになる度に中曽根が圧力をかけて刑事事件に出来なかった」という話が度々語られたり [13][14][15][16]、 ジャニーが大昔にCIAの工作員、米国軍人、外交官などの立場にあったことを引き合いに出し、「ジャニーを逮捕したり、性的児童虐待をメディアで大々的に報道すれば、日米の外交問題に発展してしまう。だからジャニーに対しては何も出来ない」と見る向きもある。

  • 『週刊文春』が、ジャニー喜多川の性的児童虐待の糾弾キャンペーンを23年ぶりに再開 (2023年3月9日発売の同年3月16日号より)。

  • 2023年3月9日、国会(参議院の総務委員会)にて、「政治家女子48党」の浜田聡参議院議員が、国民の受信料で成り立っている公共放送のNHKさえもがジャニーの性的児童虐待をしっかりと報じない忖度問題について、NHKの専務理事・林理恵に見解を問い質すも、「その都度、総合的に判断しております」という陳腐な文言でお茶を濁された。
  • 同年3月17日、東京・丸の内にある「公益社団法人 日本外国特派員協会 (FCCJ)」にて、BBCのドキュメンタリー番組のレポーターのモビーン・アザーと、ディレクターのメグミ・インマンがオンライン会見を開いた。 会見場には朝日新聞、毎日新聞、フジテレビなど国内主要メディアの姿もあったが、朝日新聞社が運営するウェブメディア「GLOBE+」のみ、ドキュメンタリー番組についての記事を掲載した。[1]

  • 同年3月18日、脳科学者の茂木健一郎がTwitterで、
    • 「ジャニー氏に対するBBCの報道に対して全く沈黙し、公共放送としては死んだに等しいNHKなど、日本の現状は憂鬱なことばかり」[1]
    • 「NHKは、ますます「Jさんといっしょ」。 NHKが変わります! NHKはall J!(ヒントJapanではありません)。NHKは、Jさんといっしょ。NHKは、Jさんにしかられるのが怖い。そして、NHKの国際報道は、マイナスJ!(Japanじゃない) これを見れば 新しいNHKが爆誕!!」 [1]
    • 「ジャニー氏に関するBBCの報道(今日、日本でも放送)にもかかわらず、NHKは一切とりあげずに沈黙し、ジャニーズ事務所はメディア対応せず、何があったのか検証もしません。BBCとあまりにも違う日本の「公共放送」、そして国際基準と異なる事務所の文化。」 [1]
    • 「ジャニー氏の問題をNHKが報道しないのは、紅白とか大河とかいろいろ「大人の事情」の忖度だろうけど、国際的な基準とあまりにも乖離しているので、NHKは公共放送としての評判を致命的に毀損し、ジャニーズ事務所は所属アイドルの世界進出がムリになる重大なリスクがあるけど、本当にそれでいいのか?」 [1]
    などとツイートし、疑問を呈した。 更にシラスにて30分の有料番組『ジャニーズとNHK』を急遽配信し、ジャニーズ事務所に対するメディアの忖度問題を批判した。
    同日には国際ジャーナリストの高橋浩祐こうすけもTwitterにて、
      「ホモセクシュアル(同性愛者)であったジャニーズ事務所創業者の故ジャニー 喜多川氏による性的虐待。よく言えば少年愛だが、これは犯罪だ。「長い物には巻かれろ」といった「沈黙は金」の時代は終わらせないといけない。BBCの記者に指摘されているのが恥ずかしい。僕ら日本人でもっと追及しないと」
    とツイートした。[1]

  • 同年3月23日、阿佐ヶ谷ロフトAで行われたトークイベントで、AV男優のミッキー柳井がフォーリーブスの付き人時代にジャニー喜多川から肛門性交を強いられたことを告白。

  • 同年4月10日、柴田優呼(日本記者クラブ会員、明治学院大学国際平和研究所研究員。元・朝日新聞記者→ニューヨークのセント・ジョーンズ大学准教授→ニュージーランドのオタゴ大学准教授)も、「事務所全体が加害行為に加担していた」、「報道後の事務所の対応もまともな企業の対応と言えるでしょうか」とTwitterで厳しく批判した。[1]

  • 元ジャニーズJr.の岡本カウアンが、『週刊文春』(2023年4月13日号)にて、ジャニーからの性的児童虐待を告白。 続いて同年4月12日、「公益社団法人 日本外国特派員協会 (FCCJ)」にて記者会見「ジャニー喜多川の被害者とされる者が声をあげる (Alleged Victim of Johnny Kitagawa Speaks Out)」も開いた。[1]
    これを受けてようやく大手メディアも、ラジオ番組や新聞でのみ、ジャニーの性的児童虐待について報じた。
    同日、ジャーナリストの松谷創一郎はPRESIDENT Onlineにて、「被害者が少しずつ声を上げ始めたが、ジャニーズ事務所は疑惑に応えず、企業が求められる説明責任を果たしていない。ジャニー氏が遺していった巨大な負の遺産の前で身動きが取れなくなっている」と指摘した。[2]

  • カウアンの告発記者会見から丸一日以上経った4月13日、NHKがようやく夕方4時からの5分間のニュース番組で会見について報道。 とはいえ取り上げた時間はわずか2分。 数千人の少年に対する約60年間におよんだ大きな性的児童虐待問題が2分。 日本の公共放送として批判を招かないための、「一応うちは報道はしましたよ」と言わんばかりのごくごく最小限度の目立たない報道で、NHKがジャニーズ事務所の顔色を窺っているのは明白だったが、日本のテレビ番組がジャニーの性的児童虐待問題を取り上げたのはこれが初となった。

  • 同じく4月13日、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳が、自身のYouTubeチャンネル「田村淳のアーシーch」でライブ配信を行い、ジャニーの性的児童虐待について「許されることじゃない」、「まだ右も左も分からない少年に対してそういう行為で手なづけてスターへの道を約束する・・・、こんな方法はあっちゃいけないと思うし、今後こんなことが起きないでほしいって僕は強く願います」と言及した。 [1]

  • 同年4月14日、元ジャニーズJr.の岡本カウアンが、“青汁王子”こと三崎優太のYouTube Liveにて、改めてジャニー喜多川からの性被害について告白。[1]

  • 同年4月15日、『週刊文春』の編集長・加藤晃彦が、弁護士ドットコムニュースの取材に対し、
    「亡くなっているからと言って免責されるものではない」、「ジャニーズ事務所という芸能事務所は、男性アイドルを世に出していくというビジネスモデルで巨額の利益をあげている。彼らのデビューと性加害とが極めて密接に結びついている以上、性加害はいわゆる個人犯罪ではないと考えています。それにも関わらず、元所属タレントからの告発について説明しない、できないのは、これだけ大きな社会的影響力を持つ企業としては率直に言って失格だと思います。また、一人の大人として恥ずかしいことだとも思う。
    当然ながら、なぜこういう性加害が繰り返されたのかと検証をして公表する社会的義務はあると思いますし、その結果によっては、長年、経営にかかわっていた藤島ジュリー景子社長、ジャニーズ事務所の役員達の責任も問われなければならないでしょう」と回答した。 [1]

  • 同年4月19日、ジャニーズファンの有志が任意団体「PENLIGHT ジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会」を設立し、署名活動を開始。

  • 同年4月20日、岡本カウアンが、小選挙区補欠選挙千葉県第5区、「政治家女子48党」の政見放送に出演。[1]

  • 同じく4月20日、元ジャニーズJr.でタレントのマイコーりょうが、YouTube動画でジャニーズ時代の体験談を告白。 ジャニーズ事務所に対し、「闇が深い」、「システム自体間違ってる」、「まともじゃない」などと指摘した。[1]

  • ジャニーズ・スポンサー不買推進の会」発足 (2023年4月22日)[1][2]

  • 同年4月23日、オリエンタルラジオ中田敦彦も、YouTube動画で「【ジャニーズと児童虐待】(Johnny's child abuse)初代ジャニーズから岡本カウアン氏まで児童虐待と告発の歴史を完全解説。日本最大の芸能事務所による戦後最大規模の「連続児童虐待」事件。」と題し、1時間以上に渡ってジャニー喜多川の性的児童虐待問題を取り上げる。[1]

  • 2023年4月25日、北村晴男弁護士が「ジャニーズ性加害問題 ジャニーズvs週刊文春」と題したYouTube動画を公開。 ジャニーズに忖度ばかりして公平な報道をしない日本の卑怯なマスコミについて、「全くまともではなかった。どうしようもないマスコミばかりだった。マスコミの役割、報道の役割、これを考えると、怒りを禁じ得ない」と指摘。 以降も「ジャニーズ性加害問題 カウアン岡本さんの被害とマスコミについて」、「ジャニーズ性加害問題③」と、次々に批判動画を公開した。

  • メディアには未公開ながらも、ジャニー喜多川から口淫されている最中にスマートフォンで隠し撮りした決定的な証拠動画(通称:Xファイル)を“最後の切り札”として所持している岡本カウアンの一連の動きに対し、ジャニーズ事務所の危機を感じた藤島ジュリー景子社長が同年4月下旬~5月上旬にカウアンを呼び出して、約2時間に渡って対話。 ジュリーの隣にはPR会社「サニーサイドアップ」代表取締役社長・次原悦子が同席。

  • 2023年5月10日発売の『週刊文春』(同年5月18日号)にて、元ジャニーズJr.の橋田康も中学1年生の頃からジャニー喜多川に性的虐待を受けていたことを告発。[1]

  • 同年5月11日、ジャニーズファンの有志による任意団体「PENLIGHT ジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会」が記者会見を開き、ジャニーズ事務所にジャニー喜多川の性的児童虐待の謝罪と第三者による調査を求めるため、1万6,125筆の署名を郵送したことを報告。[1]

  • 同年5月13日、元ジャニーズJr.の二本樹顕理も、「文藝春秋 電子版」の連載「ルポ 男児の性被害」にて、中学時代にジャニー喜多川から性的虐待を受けていたことを告発。[1][2]

  • 同年5月14日21時、一連のジャニー喜多川の性的児童虐待について藤島ジュリー景子社長が記者会見を開くことを避け、わずか1分9秒の謝罪動画と、一問一答形式の文書をジャニーズ事務所のコーポレートサイトにて発表。 ジャニーの性加害を事務所、また自身は知らなかったのかについてジュリーは、文春との裁判でも過去に事実認定されている事柄にもかかわらず、「知らなかったでは決してすまされない話だと思っておりますが、知りませんでした」という浮世離れした非常にまずい回答を文書で行った。 更に驚くことに、匿名での自由回答でアンケートを行えば充分調査は可能なのにもかかわらず、被害者の心理的負荷を理由に掲げて「第三者委員会は設置しない」とした。
    https://www.johnny-associates.co.jp/news/info-700/
    (このジュリーの発言に対し、近藤真彦は同年5月19日のインタビューで、「嘘はダメ」、「知ってた、知らないではなくて、もう知ってるでしょ」と指摘 [1]。 元・忍者志賀泰伸も「ウソつけ!」と指摘 [2]。 弁護士ドットコムニュースも、「取締役の“知らなかった”は法的に許されない」と指摘 [3]。 実業家の“ひろゆき”こと西村博之もジュリーの発言は嘘であると指摘した [4]
    元ジャニーズJr.で実業家の平本淳也も、「会見も開かずに『知らなかった』とする事務所の説明にはあきれてしまう」、「(ジャニーの性加害を)事務所が知らないわけがない。『知らなかった』『確認できない』で逃げようとしている。まだ『自分たちはこれぐらいの対応で許される』と思っているのではないか」と回答。[5]
    そしてBBCの番組制作を手掛けたモビーン・アザールも、「私は撮影前にもジャニーズ事務所に何度も連絡しました。何度も電話をかけたし、メールもしました。ドキュメンタリーの監督を務めたメグミ・インマンも同じように連絡しました。ジャニーズ事務所が我々に回答できる機会は無数にあった。性加害の実態について弁明する機会は何度もあった。 私は絶対に「知らなかった」などという藤島ジュリー景子社長の言葉を信じません。私はメールもしたし、電話もしたし、あなたと直接話もした。回答を求めた。ジャニーズ事務所の対応は人間性に欠けるし、倫理的に破綻しています」と述べた。[6][7]
    ノンフィクションライターの窪田順生も、「事実を認めない」「会見しない」「第三者委員会を設置しない」という“3ない戦略”だと厳しく批判。[8]
    その他、識者らもジュリーの動画・対応について意見を述べた。[9]

  • これを受け、翌15日からは各テレビ局のワイドショーでもついにジャニーの性加害問題が解禁されたが、これまでジャニーズ事務所に対して忖度し、報道をしてこなかったメディアの責任については総スルーした。
    また、1999年に『週刊文春』がジャニー喜多川氏の性加害について報じた取材チームの一員でジャーナリストの二田一比古は「日刊ゲンダイDIGITAL」の取材で、
    「社長であるジュリー氏が自ら動画に出演して謝罪したことは進展といえますが、全部が故人であるジャニー氏とメリー氏のせいというのは無理がある。99年当時、ジュリー氏は取締役ですから当然、責任はあります。ただ、責任はジュリー社長だけではありません。ジャニーズ事務所のベテランのタレントたちはジャニー氏の性加害についてまったく知らなかったのか。少年隊の東山紀之など報道番組のキャスターを務めるタレントも多い。これまで美談ばかりで神格化されたジャニー氏について何をどう思っているのか説明する責任があります。ジュリー社長の謝罪動画で幕引きということはあり得ません」と指摘した。[1]

  • 同じく5月15日より、音楽プロデューサーの松尾潔が冷静かつ的確に分析・指摘したコメントをRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』にて発表。[1][2]

  • 2023年5月16日、国会で立憲民主党が開いた「性被害・児童虐待」に関する国対ヒアリングに、元ジャニーズJr.の岡本カウアン橋田康が出席し、ジャニー喜多川から受けた性被害を告発。

  • 同年5月17日、元NHKでフリーの武田真一アナウンサーが日本テレビ『DayDay.』に生出演し、「性犯罪というのは“魂の殺人”とよく言われるくらい本当に重い罪であるということを、社会に広く共有すべきだと思います」と厳しく批判。

  • 同17日、NHKが報道番組『クローズアップ現代』にて、ジャニー喜多川の性加害について独自取材した特集「“誰も助けてくれなかった” 告白・ジャニーズと性加害問題」を放送。 元ジャニーズJr.の小林直行二本樹顕理が出演し、性被害を証言。[1]

  • 同年5月18日発売の『週刊文春』(同年5月25日号)にて、AV男優のミッキー柳井が同年3月23日のトークイベントに引き続き、フォーリーブスの付き人時代にジャニー喜多川から肛門性交を強いられたことをイニシャル「G」として改めて告発 (記事では「数年間働きました」とあるが、実際の勤務期間は半年)[1]。 同記事では、元ジャニーズJr.の杉浦城之もジャニー喜多川からの性的虐待を告発。

  • 同年5月21日、元ジャニーズJr.で「ジャニーズ評論家」の石丸志門が、ジャニー喜多川から口淫だけではなく肛門性交まで強いられた被害をブログで告発。[1]
    続いて『FLASH』(同年6月27日号)でも、改めてジャニーからの性的虐待を告発した。[2]

  • 同年5月22日、日本共産党が衆議院第一議員会館にて、「故ジャニー喜多川氏による性虐待問題等についてのPT 第1回会合」を開催。[1]

  • 同年5月23日、ここまで来てもまだ日本のメディアがジャニーズ事務所に忖度し続けていることを「日刊ゲンダイDIGITAL」が指摘。[1]

  • 同日、YouTubeの「元文春記者チャンネル」にて、「ジャニーズ問題は戦後最大の犯罪」と形容される。[1]

  • 同年5月24日、ビートたけしが「第76回 カンヌ国際映画祭」に合わせて行われたインタビューでジャニー喜多川の性的児童虐待問題について、「こうした話は(この業界に)ずっとあった。 日本でもLGBTQ(性的少数者)の問題やセクハラについて声を上げられる時代がようやく訪れた。 こうした事務所はタレントを奴隷のように扱い、それが今日まで続いてきた」と言及した。

  • 同年5月25日発売の『週刊文春』(同年6月1日号)にて、元・忍者志賀泰伸もジャニー喜多川から肛門性交まで強いられる程、30~40回に渡って性被害に遭っていたことを告発。 被害のせいで摂食障害になり体重が42kgにまで落ち込んだり、その後も心的外傷後ストレス障害によるフラッシュバックに悩み続け、2023年時でもまだ心療内科に通院する場合があることを明かした。[1][2]

  • 同25日、ジャニー喜多川の性的児童虐待について、BS-TBSの番組『報道1930』が90分に渡って特集。[1]

  • 同年5月26日、元ジャニーズJr.の橋田康が「公益社団法人 日本外国特派員協会 (FCCJ)」にて記者会見を行い、ジャニー喜多川からの性被害と児童虐待防止法の改正を訴えた。[1]

  • この記者会見後、すぐに藤島ジュリー景子社長から橋田に連絡が入り、同日夜に両者が面会して対話。 岡本カウアンとの面会時と同じく、ジュリーの隣にはPR会社「サニーサイドアップ」代表取締役社長・次原悦子が再び同席。

  • 同26日、橋田康、岡本カウアン、二本樹顕理、志賀泰伸の4名が発起人となり、オンライン署名サイト「Change.org」にて、「ジャニーズ性加害問題「#児童虐待防止法改正」を求めます!」と題した署名活動を開始。[1]

  • 同26日、日刊ゲンダイDIGITALにて元ジャニーズJr.の平本淳也によるシリーズ連載「ジャニー喜多川氏「性加害」半世紀の真実」開始。

  • 同年5月31日、国会で立憲民主党が開いた「性被害・児童虐待」に関する第2回の国対ヒアリングに、元ジャニーズJr.の二本樹顕理が出席し、ジャニー喜多川から受けた性被害によって「自尊心を破壊されました」と証言。

  • 同年6月1日発売の『週刊文春』(同年6月8日号)にて、元ジャニーズJr.の中村一也も中学生の時にジャニー喜多川から性的虐待を受けていたことを告発。[1]

  • 同年6月5日、橋田康、岡本カウアン、二本樹顕理の3名が国会にて、オンライン署名サイト「Change.org」での署名活動「ジャニーズ性加害問題「#児童虐待防止法改正」を求めます!」による3万9,326筆の署名を与野党の6党(自由民主党、公明党、立憲民主党、日本維新の会、国民民主党、日本共産党)の担当者に手渡しで提出。

  • 同年6月8日発売の『週刊文春』(同年6月15日号)にてジャニーズ事務所の元マネージャー・関口律郎が取材に応え、自身もジャニーズJr.6名ほどに対し性加害(口淫)を行っていたことを告白。[1]

  • 同年6月12日15時頃、自民党の「虐待等に関する特命委員会」が橋田康と岡本カウアンを自民党本部での会議に招き、非公開でヒアリング。

  • 同日、岸田文雄首相がジャニーの性的児童虐待問題について、衆院決算行政監視委員会で「性犯罪防止のための対策強化について、小倉少子化相のもとで関係府省会議を(明日)開催する。被害申告や相談をしやすい環境の整備を進めなければならない」と表明。

  • 同年6月13日、ジャニーの性的児童虐待問題を受け、政府が子供や若者の性被害の防止強化に向け、関係府省庁(内閣府、法務省、文科省、厚労省、警察庁、こども家庭庁)の合同会議「こども性被害防止会議」を初開催。 議長の小倉将信 こども政策担当大臣は、「(ジャニーからの)被害に遭った当事者とも面会し、直接声を聞きたい」と表明。

  • 同日、ジャニーズファンの有志による任意団体「PENLIGHT ジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会」がオンラインで記者会見を開き、ジャニー喜多川の性的児童虐待の問題検証や実態調査などを求めるため、追加の署名2万4,557筆(前回との総数は4万0,682筆)を、6月7日付でジャニーズ事務所に郵送したことを報告。

  • 同年6月13日発売の『ニューズウィーク日本版』(同年6月20日号)が、「ジャニーズ帝国の落日」と題した特集を組む。

  • 同年6月17日、TBSの報道ドキュメンタリー番組『報道特集』にて、特集「検証・ジャニー氏性加害の原点」を放送。

  • 2001年4月25日発売の日本語ラップ『キ・キ・チ・ガ・イ』(DJ OASIS feat. 宇多丸, K DUB SHINE)にて、RHYMESTERの宇多丸が天皇制、および昭和天皇を批判したリリックが、ジャニー喜多川にもそっくり当てはまっている。

      「まるで常習的性犯罪者 なのに裁かれずに死んだ酷い人」


出演

テレビ

  • 日曜ビッグスペシャル 「LOVE FOREVER 完全独占中継 さようなら フォーリーブス」
      (1978年8月27日 日曜20:00~21:48、テレビ東京)
  • JOHNNYS’World : Top of the J Pops (2013年1月27日、NHKワールドTV)
      ジャニー喜多川を特集した50分の特番で全編英語放送。 ジャニーは住吉美紀アナウンサーとの対談にて出演したが、ジャニーの顔は画面には映されず、声も吹き替えにされた。 唯一、ジャニーの帽子とサングラス姿の写真だけは少し映された。
  • ニュースウォッチ9 「ジャニーズ若手華麗な舞台 なぜ戦争の場面が?」 (2018年1月26日、NHK総合)
      顔は出さず、音声も別人に差し替えられたが、ジャニーのインタビューが放送された。

映画

  • TOSHI in TAKARAZUKA Love Forever (1983年8月4日、東宝)
      田原俊彦のコンサートリハーサルのシーンで、姉のメリー喜多川と共に映り込んでいる。

ラジオ

  • 蜷川幸雄のクロスオーバートーク (2015年1月1日、NHKラジオ第1放送)
      ジャニーはこの日、自身の思い入れのある曲として、 The Association『Never My Love』、 The Monkees『Monkeesのテーマ』、 Perry Como『Papa Loves Mambo』、 笠置シヅ子『東京ブギウギ』、 映画「ウエスト・サイド物語」より『COOL』、 あおい輝彦『時計をとめて』、 Doris Day『Sentimental Journey』の7曲を紹介した。


受賞歴

  • 1970年3月 - GSアイドル雑誌『ティーンルック』の最終号(1970年3月10日号、主婦と生活社)での誌面企画「喜んでいただきま賞」にて、「取材協力賞」を受賞。 ジャニーの顔写真も掲載された。

  • 2003年4月 - 第28回 菊田一夫演劇賞「特別賞」受賞
      (ただし授賞式には堂本光一を代理人として行かせた)

  • 2011年9月 - ギネス・ワールド・レコーズに認定
      「最も多くのコンサートをプロデュースした人物 (2000年 ~ 2010年に8,419回)」と、「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物 (1974年~2010年に232曲)」として認定され、 帽子とサングラスで変装した顔写真が、2012年版のギネスブックに掲載された。
      2011年9月23日放送の日本テレビ『ZIP!』では、「80年の人生をショー・ビジネスの仕事に打ち込んできて、ギネス・ワールド・レコーズによって認められたことに感動しています。 この年月の間に芸能界の創造性は格段の進歩を遂げました。 ギネス・ワールド・レコーズ・ブックがある限り、新しい記録に挑戦し続けようと思います」というジャニーのコメントが、キャスターによって読み上げられた。
      なお、「プロデュースした」と言うと、ジャニー自身が舞台演出や、作詞、作曲、編曲などを行ったように思われがちだが、あくまで「興行や製作の出資者・責任者」という意味であり、「数多くのコンサートを行ったタレントたち、およびナンバーワンを獲ったタレントたちを発掘し、デビューさせた人。 また、それらのタレントの所属事務所の社長であり、興行や製作の出資者、責任者」という表現が正しい。
      ジャニーズ事務所のミュージカル作品でも、特にジャニーの晩年はギネス記録を常に意識し、「作・演出:ジャニー喜多川」などとよくクレジットされていたが、ジャニーが脚本の一文字一文字を執筆していた訳でも、つかこうへいや蜷川幸雄といった通常の舞台演出家が行うような、一つ一つのセリフや身振り手振りを細かく演技指導していた訳でもなかった。 公演データのスタッフ一覧では名前が伏せられているが、実際には補佐を務めるプロ(“ゴースト脚本家”や“ゴースト演出家”)が必ず付いており (川浪ナミヲなど)、一つ一つの演技に対する細かな指導は、その補佐役が行っていた。 ジャニーが行っていたのは、単に「こんな感じで」というアイデアの提供や、設定決めなどの“大枠”の部分だけである。 そのため、「作・演出:ジャニー喜多川」とクレジットされている場合、「作」は脚本というよりも「企画」や「原案」、「演出」は「演出補」、もしくは「構成」、「製作総指揮」、「監修」などの表現が正しい。

  • 2012年 - 再びギネス・ワールド・レコーズに認定
      「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」として認定され、2013年版のギネスブックに掲載された。

  • 2019年12月30日 - TBS『第61回 輝く!日本レコード大賞』にて、この年から新設された「特別音楽文化賞」を受賞。
      (逝去後のため、授賞式には近藤真彦が代理人として出席)


ジャニー喜多川を演じたタレント

※ パロディも含む。
  • あおい輝彦 
      (ミュージカル『いつか何処かで ~ フォーリーブス物語』〔1967年6月~7月に10日間、大阪フェスティバルホール〕にて、1人2役で演じた内の一つがジャニー役だった)
  • 戸塚祥太
      (ミュージカル『ABC座 ジャニーズ伝説』シリーズにて。 2017年、2018年、2021年の3回)
  • ビートたけし
      (フジテレビ『武器はテレビ。 SMAP×FNS 27時間テレビ』内のコーナー「さんま・中居の今夜も眠れない」(2014年7月26日深夜〔7月27日未明〕に放送)にて、たけしがジャニー喜多川のパロディキャラクター「ジャニー喜多ノ川」として中継ゲスト出演。 冬季オリンピックカーリングコーチの日系カナダ人という設定で、喜多ノ川とのトークの対応を直接行ったのは香取慎吾だった)
  • 堂本光一
      (KinKi Kidsのコンサートツアー「KinKi Kids Concert Tour 2019-2020 ThanKs 2 YOU」(2019年12月14日&15日:東京ドーム、31日&2020年1月1日:京セラドーム大阪)と、2020年7月18日放送のTBS『音楽の日』にて、楽曲『KANZAI BOYA』を披露する際にジャニーに扮した)


参考文献

  • 高松宮宣仁親王殿下 高松宮妃喜久子殿下 奉迎記念寫眞帖
      (1931年〔昭和6年〕11月3日発行、帝國印刷所出版部。非売品)
  • 羅府新報 (ロサンゼルスの日系新聞。1933年〔昭和8年〕8月25日付)
  • 女学生の友 (1964年4月号、小学館)
  • 佛教東漸七十年記念出版 「日本佛教渡米史」
      (常光浩然 編、1964年5月、佛教出版局) 第四章・各宗派の布教活動 第四節「高野山真言宗」
  • 週刊平凡 (1964年7月2日号、平凡出版)
      「おしゃべりジャーナル 育ちがよくてマナーがよくて/ジャニーズ」
  • 週刊明星 (1964年7月5日号、集英社) 「特報 ジャニーズ やむを得なければ解散」
  • ミュージック・ライフ (1964年11月号、新興音楽出版社)
      「ジャニーズの若い涙/この人をルポしよう」
  • 女学生の友 (1964年12月号、小学館)
  • 平凡 (1965年3月号、平凡出版) 絵物語「四つの夢に乾杯」
  • 週刊サンケイ (1965年3月29日号、産業経済新聞社) 「ジャニーズ騒動 “ジャニーズ”売り出しのかげに」
  • 女性自身 (1967年9月25日号、光文社)
      「ジャニーズをめぐる“同性愛”裁判 東京地裁法廷で暴露された4人のプライバシー」
  • タレント帝国 芸能プロの内幕 (竹中労 著、1968年7月、現代書房) 「ジャニーズ解散・始末記」
      ジャニー喜多川の性的児童虐待について言及した最初の単行本。 後に初代ジャニーズを管理していた渡辺プロダクションの渡邊美佐の圧力によって販売停止された。
  • 女性自身 (1968年10月21日号、光文社) 「同性愛裁判に四年ぶりで結論!」
  • 髙野山米國別院五十年史 1912-1962
      (風早勝一 著、川島宏之 編、1974年1月、高野山米国別院)
       「喜多川諦道師の時代」の章 (全10ページ)
  • ジャニーズ・ファミリー ~裸になった少年たち~
      (和泉ヒロシ 著 〔後の小菅宏〕、1976年6月、オリオン出版)
  • フォーリーブスの伝説 (フォーリーブス 著、1976年8月、泰流社)
      ジャニー喜多川による文章が掲載。
  • 週刊明星 (1978年6月18日号、集英社)
      インタビュー記事 「フォーリーブス 秘められた“喝采”と“失意”の青春12年間 ! ! アイドル・メーカー、ジャニー喜多川氏が明かす偶像の裏表」
  • Music research (1981年3月2日号、リサーチ社) ジャニー喜多川のインタビューを掲載
  • 週刊現代 (1981年4月30日号、講談社)
      「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」 (メリー喜多川のインタビューも掲載。文:元木昌彦
  • 月刊明星 (1982年2月号、集英社)
      「アイドルの条件はきびしいのだ シブがきトリオ、少年隊にみるジャニーズ・ファミリーの研究」(ジャニー喜多川のインタビューを掲載)
  • 噂の眞相 (1983年11月号、噂の真相) 「ホモの館」
  • キミがスポットライトを浴びるためのアイドル読本
      (長倉孝 著、1986年4月、日本ビジネスライフ社)
  • 平凡 (1987年11月号、マガジンハウス) ジャニー喜多川のロングインタビュー
  • 週刊アサヒ芸能 (1988年11月24日号、徳間書店)
      「衝撃! あの北公次(元フォーリーブス)に「禁断の愛」を告発された「ジャニーズ事務所」社長の困惑! 二人の4年半を赤裸々に・・・」
  • 噂の眞相 (1988年12月号、噂の真相)
      「あの北公次が“ジャニーズ事務所体験”を赤裸々に告白!」
  • 光GENJIへ ~ 元フォーリーブス北公次の禁断の半生記 (北公次 著、1988年11月、データハウス)
    • 光GENJIへ・再び (北公次 著、1989年2月、データハウス)
    • 光GENJIへ3 ~ みんなで考えようジャニーズ問題 (北公次 著、1989年4月、データハウス)
    • 光GENJIへ 最後の警告 (北公次 著、1989年5月、データハウス)
    • さらば ! ! 光GENJIへ (北公次 著、1989年9月、データハウス)
    • 光GENJIファンから北公次へ (北公次 著、1989年12月、データハウス)
  • 8人目の光GENJI (SHADOW 著、1989年6月、データハウス)
    • 新・光GENJI ~ ハロー・アイ・ラブ・ユー (SHADOW 著、1989年10月、データハウス)
    • がんばれ ! ! 光GENJI ~ 新・光GENJIへの手紙 (SHADOW 著、1990年2月、データハウス)
    • 新・光GENJI解散! ~ 7人の新たなる旅立ち (SHADOW 著、1990年5月30日、データハウス)
  • 牧歌メロン 2号 (1989年8月、南原企画、バロル舎)
      北公次 & 新・光GENJIインタビュー 「邪淫巣ジャニーズ大奥㊙物語ストーリー
  • ジャニーズの逆襲 (中谷良 著、1989年10月、データハウス)
      表紙では拘束されている男性の写真が使用されているが、これは顔の部分だけジャニー喜多川の顔写真をコラージュしたもので、『FOCUS』(1988年12月2日号、新潮社)に掲載されたジャニー喜多川の白黒写真が元ネタとなっている。
  • ジャニーさん ~ 光GENJIへ総集編 (4コママンガ作品、鶴田康文 著、1990年3月、データハウス)
       
  • アメリカ開教 昭和の密教東漸 (高橋成通 著、1990年4月、東方出版)
  • SPA! (1990年7月4日号、扶桑社) ジャニー喜多川の独占インタビュー
  • 週刊明星 (1990年8月2日号、集英社)
      「直撃 少年隊「育ての親」が語り尽くした『MASK』のすべて SHOW劇インタビュー」
  • 女性自身 (1992年8月18日号、光文社) ジャニー喜多川のインタビューを掲載
  • 噂の眞相 (1992年9月号、噂の真相)
      「アイドル王国・ジャニーズ事務所のタブーの領域 ジャニー喜多川の“素顔”写真を遂に本誌が発見!」
  • Myojo (1992年11月号、集英社) ジャニー喜多川のインタビューを掲載
  • ハイ!どうぞ ~ ジャニーズ・タクシー奮走記 (立花正太郎 〔真家ひろみ〕 著、1993年5月、マガジンハウス)
  • Views (1995年8月号、講談社)
      「老舗企業徹底研究 ジャニーズ事務所の“アイドル資本主義”」(ジャニー喜多川の5時間、約1万5千字に及ぶインタビュー記事。文:宇井洋)[1]
  • 二丁目のジャニーズ (原吾一 著、1995年11月、鹿砦社)
    • 二丁目のジャニーズ 死闘篇 (原吾一 著、1996年4月、鹿砦社)
    • 二丁目のジャニーズ 最終戦争篇 (原吾一 著、1996年7月、鹿砦社)
  • BRUTUS (1996年2月1日号、マガジンハウス)
      「美男子ファクトリー ジャニーズ伝説。」
  • ジャニーズのすべて ~ 少年愛の館 (平本淳也 著、1996年4月、鹿砦社)
    • ジャニーズのすべて (2) ~ 反乱の足跡 (平本淳也 著、1996年6号、鹿砦社)
    • ジャニーズのすべて (3) ~ 終わりなき宴 (平本淳也 著、1996年9月、鹿砦社)
  • ジャニーズ輪廻論 (矢﨑葉子 著、1996年6月、太田出版)
  • 月刊現代 (1997年1月号、講談社)
      「産業としての『ジャニーズ』を科学する」(文:弓狩匡純)
  • 芸能界スキャンダル読本 (1997年2月、宝島社・別冊宝島299)
      浅野恭平 寄稿 「ジャニーズ事務所の憂鬱」
  • AERA (1997年3月24日号、朝日新聞社出版本部)
      ジャニー喜多川のインタビューを掲載。 このインタビュー現場には、中居正広も特別に同行させて貰っていた。
  • 朝日新聞 (1997年3月24日付、2011年10月22日付、2017年1月24日付) インタビュー
  • ジャニー喜多川さんを知ってますか ~ 初めて語る伝説の実像
      江木俊夫・小菅宏〔こすが ひろし。旧名:和泉ヒロシ〕著、1997年7月、KKベストセラーズ)
  • ジャニーズの憂鬱 アイドル帝国の危機 (1998年5月、鹿砦社)
  • ジャニーズ帝国 スターたちの反乱 (原吾一 著、1998年7月、コスミックインターナショナル)
  • ジャニーズ・プロファイリング ~ 犯罪心理捜査 (伊藤彩子 著、1999年6月、鹿砦社)
  • ボクの夢はキミたちが描く夢 ~ ジャニー喜多川が語るジャニーズ塾の子供たち
      (あおきひろし 著、1999年8月、メタモル出版)
  • ジャニーズお笑い進化論 (西条昇 著、1999年12月、大和書房)
  • レプリーク (2002年1月号、HANKYU BOOKS) ジャニー喜多川のロングインタビュー
  • 噂の真相 (2002年2月号、噂の眞相) 裁判記事
  • シアターガイド (2002年7月号、モーニングデスク) ジャニー喜多川のロングインタビュー
  • 不滅のアイドル王国 (天馬飛呂志 著、2002年12月、ブックマン社)
  • 週刊現代 (2003年6月28日号、講談社) 「国税が捜査!ジャニーズ巨額脱税の全容」
  • サイゾー (2003年8月号、サイゾー) 「ジャニーズ事務所申告漏れ」
  • 芸能界スキャンダル大戦争 (2004年5月、鹿砦社)
      「美少年アイドル帝国・ジャニーズ 虚飾の裏側」
  • SMAPへ ~ そして、すべてのジャニーズタレントへ (木山将吾 〔山崎正人〕 著、2005年3月、鹿砦社)
  • シアターガイド (2006年5月号、モーニングデスク)
      西条昇による特別寄稿 「ジャニー喜多川の仕事」
  • サンデー毎日 (2006年7月16日号、毎日新聞出版) 「アイドル帝国「ジャニーズ」、韓国スーパースターがお好き」
  • THE HARD COREナックルズ (Vol.4:2006年8月号、ミリオン出版)
      「芸能界最新事情 ジャニーズと韓国・統一教会を結ぶ点と線 ジャニー喜多川と韓国を結ぶある巨大宗教団体の影 韓国のスーパーアイドル「シンファ」の存在」
  • 残響 ~ 闘魂!俺が生きた芸能界の半世紀! (上条英男 著、2007年2月、シモンズ)
  • 芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術
      (小菅宏 著、2007年3月、講談社)
  • ワシントンハイツ ~GHQが東京に刻んだ戦後~ 第14章 「アイドル誕生」 (秋尾沙戸子 著、2009年7月、新潮社)
  • シリーズ連載 「新約・ジャニーズ暴露本」 (2010年3月14日 - 、サイゾーウーマン)
  • 週刊文春 (2010年12月30日&2011年1月6日合併号、2011年1月13日号、文藝春秋)
      連載「日米徹底取材 『アイドル帝国』を築いた男 ジャニー喜多川社長の『ルーツ』を追う!」。
      この記事で自分の過去を暴かれたメリー喜多川は激昂し、文春の中村竜太郎記者をジャニーズ事務所に呼び出して、5時間に渡って恫喝している。 [1]
  • 日刊スポーツ (2011年9月25日付) ジャニー喜多川のインタビュー
  • タブーの正体! - マスコミが「あのこと」に触れない理由 (川端幹人 著、2012年1月、筑摩書房 ちくま新書)
  • 文藝春秋 (2012年7月号、文藝春秋)
      「『ジャニーズ帝国』 原っぱからの五十年史」(文:二田一比古)
  • アイドル帝国ジャニーズ 50年の光芒 ~ 夢を食う人・ジャニー喜多川の流儀
      (小菅宏 著、2012年6月、宝島社) - 新書
  • ジャニ研! ~ ジャニーズ文化論
      (大谷能生、速水健朗、矢野利裕 著、2012年12月、原書房)
  • ジャニーさんに愛される息子に育てる法 ~ アイドルの掟 ①
      (ジャニーズウォッチャー45年・小菅宏 著、2013年11月、竹書房)
  • ジャニーズ魔法の泉 ~ アイドルの掟 ②
      (ジャニーズウォッチャー45年・小菅宏 著、2013年12月、竹書房)
  • FLASH (2014年2月4日号、光文社)
      「日本のテレビを牛耳る怪物 ジャニーズ帝国 一人勝ちの研究」
  • 芸能人はなぜ干されるのか? ~芸能界独占禁止法違反~ (星野陽平 著、2014年5月、鹿砦社)
      第5章 「ジャニー喜多川の少年所有欲求」。 2016年9月に増補新版が発行。
  • ジャニーズのアイドル育成による日本組織論
      (慶應義塾大学大学院経営管理研究科の学生・王旖旎 (オウ イニ、Wang Yini) による論文、2014年)[1]
  • ジャニーズ50年史 モンスター芸能事務所の光と影 (ジャニーズ研究会 編著、2014年12月、増補新版:2016年3月、鹿砦社)
  • ジャニーの伝言 ~ 嵐、SMAP、キスマイたちを育てたジャニーズ事務所社長の夢と言葉
      (小菅宏 著、2016年2月、サイゾー)
  • 高野山米国別院開創百周年 1912-2012 (2016年、WEB資料)[1]
  • アステイオン
      (85号、公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、2016年11月)
      東京大学大学院情報学環特任助教の周東美材しゅうとう よしきによる論考「いつも見ていた『ジャニーズ』 ~ 戦後日本のメディアと家族」。
  • ジャニーズと日本 (矢野利裕 著、2016年12月、講談社現代新書)
  • ジャニーズの正体 エンターテインメントの戦後史 (太田省一 著、2016年12月、双葉社)
  • テレビとジャニーズ (太田省一 著、2018年2月、blueprint/垣内出版)
  • なぜジャニー喜多川社長は出てこないのか 事務所がつけ上がる「甘えの構造」
      (文:元木昌彦、2018年5月7日、PRESIDENT Online)[1]
  • シリーズ連載 「いま振り返るジャニーズの“少年愛”報道」 (2018年6月6日 - 、サイゾーウーマン)
  • 異能の男 ジャニー喜多川 ~ 悲しき楽園の果て (小菅宏 著、2019年3月、徳間書店)
  • 月刊Hanada (2019年8月号、同年6月26日発売、飛鳥新社)
      高田文夫の連載「月刊Takada」にて、高田が少年時代に少年野球チーム「ジャニーズ」と対戦した思い出が綴られている。
  • 週刊文春 (2019年7月25日号、同年7月18日発売、文藝春秋)
      「本誌しか書けない 稀代のプロデューサーの光と影 ジャニー喜多川 審美眼と「性的虐待」」
  • ジャニー喜多川礼賛の中で元ジュニアの「性的虐待」告白・・・誘いに抵抗したらステージの隅っこ (文:元木昌彦、2019年7月18日、J-CASTテレビウォッチ)[1] 
  • ジャニーズの暗部に触れないメディアの罪 少年たちへの“性的虐待”という事実 ジャニー喜多川はそんなにすごい人だったのか? (文:元木昌彦、2019年7月23日、PRESIDENT Online)[1]
  • ジャニーズは努力が9割 (霜田明寛 著、2019年8月1日、新潮社)
  • ジャニー喜多川氏に人生を弄ばれたジャニーズ創成期メンバー メディアは美化報道を自重すべし! (文:本多圭、2019年8月2日、日刊サイゾー)[1] 
  • 週刊ポスト (2019年8月2日号、小学館) 「高田文夫 少年野球チーム「ジャニーズ」と闘った少年時代」
  • EX大衆 (2019年10月号、双葉社) 「ジャニーズ帝国の50年史」
  • 文藝春秋 (2019年9月号、文藝春秋) 作家・木田佳和「ジャニー喜多川 少年を愛しすぎた男」[1]
  • ユリイカ (2019年11月臨時増刊号 総特集=日本の男性アイドル、青土社)
  • 悲劇喜劇 (2020年1月号、早川書房)
    • 小特集:ジャニ―喜多川 (岡本健一、堂本光一、石川直)
    • 小特集:ジャニー喜多川の仕事 (矢野誠一)
  • 野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想 (元木昌彦 著、2020年4月、現代書館)
  • 婦人公論 (2020年7月28日号、中央公論新社)
      近田春夫と矢野利裕の対談 「ウォッチャーが語るジャニーズの「過去」と「未来」」[1]
  • 柳田由紀子 「追悼メリー喜多川 知られざるアメリカ赤貧時代」 (2021年9月11日、文春オンライン)
    • #1 「旧知の日系アメリカ人が初告白「ジャニーはヒー坊、メリーは泰子ねえちゃんだった!」
    • #2 「親も金もなく、弟ジャニーとも離れ離れに!」メリー喜多川の知られざる《LA家政婦暮らし》現地証言」
  • 柳田由紀子 「真珠湾攻撃から80年」 (2021年12月8日、文春オンライン)
    • #1 「《秘蔵写真》「FBIに捉えられ、便器に頭を入れて寝た父」“もうひとりのジャニー喜多川”を直撃」
    • #2 「「夢は『 少年』を高野山米國別院の舞台に立たせること」LAでブロマイドを売っていたジャニー喜多川の青春時代」
  • 文藝春秋 (2022年1月号、文藝春秋) 100周年記念企画「100年の100人 - ジャニー喜多川 トークを学べ」[1]
  • 女帝 メリー喜多川 (小菅宏 著、2022年4月15日、青志社)
  • 芸術新潮 (2022年6月号 - 2023年4月号、新潮社) 立川輪太郎による連載「ジャニー喜多川が創ったもの」
  • BBCのジャニー喜多川「性加害」報道が問う、エンタメ界の闇と日本の沈黙 (文:コリン・ジョイス、2023年3月16日、ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)[1]
  • なぜジャニー喜多川氏の性加害を日本メディアは黙殺するのか・・・英BBCからの取材に私が話したこと ~ なぜ日本を代表する出版社が圧力に屈したのか
      (文:元木昌彦、2023年3月17日、PRESIDENT Online)[1]
  • 英BBCがジャニー喜多川の「少年虐待」を特集 番組制作に協力した私が言いたいこと
      (文:元木昌彦、2023年3月19日、日刊ゲンダイDIGITAL)[1]
  • なぜトップニュースにしないのか・・・依然としてジャニー喜多川氏の性的虐待を問題視しないメディアの罪 英BBCが世界中に報じる大問題なのに・・・
      (文:在ロンドン国際ジャーナリスト・木村正人、2023年3月31日、PRESIDENT Online)[1]
  • 広告 Vol.417 特集:文化 (2023年3月31日、博報堂広報室)
      批評家・矢野利裕と社会学者・田島悠来の対談 「ジャニーズは、いかに大衆文化たりうるのか」
  • 日本人が「ジャニーズの夢」から覚めるとき (文:ノンフィクションライター・西谷格にしたに ただす、2023年4月15日、ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)[1]
  • あの時、新聞やテレビが報じていたら・・・ジャニーズの少年たちの「性被害」は拡大しなかったはず
      (文:元木昌彦、2023年4月23日、日刊ゲンダイDIGITAL)[1]
  • 創 (2023年6月号、創出版)
    • NEWS EYE 「ジャニーズ事務所の性加害告発とメディアタブー」
    • 望月衣塑子の連載コラム 「望月衣塑子の「現場発」」 - 『性暴行とメディアの沈黙』
    • 森達也の連載コラム 「極私的メディア論」 - 『ジャニーズ問題と空気の研究』
  • ジャニーズ性加害問題で事務所は“金づる”であるファンの反発とスポンサー離れ危機に大慌て
      (文:元木昌彦、2023年5月21日、日刊ゲンダイDIGITAL)[1]
  • ジャニー喜多川の性加害問題は日本人全員が「共犯者」である 戦後日本最大の性犯罪 (文:ノンフィクションライター・西谷格にしたに ただす、2023年5月23日、ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)[1]
  • ニューズウィーク日本版 (2023年6月13日発売の同年6月20日号、CCCメディアハウス) 「ジャニーズ帝国の落日」
  • ジャニーズ問題が日本社会に突き付けた、性教育とメディアの「タブー体質」 (文:ジャーナリスト・西村カリン、2023年6月15日、ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)[1]


注釈

  1. ^ 『ジャニーズ・ファミリー ~裸になった少年たち~』(和泉ヒロシ〔後の小菅宏〕著、1976年3月、オリオン出版)や、 『芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(小菅宏 著、2007年3月、講談社)、 『ジャニーさんに愛される息子に育てる法 ~ アイドルの掟 ①』(小菅宏 著、2013年11月、竹書房)などでは、この劇場の名前を「アーニー・パイル劇場」としているが、これは誤り。 「アーニー・パイル劇場」とは、1945年から1955年まで東京宝塚劇場がGHQに接収されていた際の名称、もしくは、アメリカ軍統治時代の那覇の国際通りに存在した映画館「アーニーパイル国際劇場」であり、ロサンゼルスにはこのような名称の劇場は存在していない。
    誤りが起きた原因は、小菅氏がジャニー喜多川から聴き取りをした際に、「宝塚のアーニー・パイル劇場のような所」という説明を、そのままロスの劇場の名前が「アーニー・パイル劇場」だと思ってしまったため。 なおアーニー・パイルとは、第二次世界大戦末期の沖縄戦で命を落とした従軍記者の名前。

  2. ^ 『ジャニーズ・ファミリー ~裸になった少年たち~』(和泉ヒロシ〔後の小菅宏〕著、1976年3月、オリオン出版)や、 『芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(小菅宏 著、2007年3月、講談社)などでは、「音楽監督」ではなく「ミュージックメーカー」という名称で記述されている。

  3. ^ ディプロマミルとされる方の「ロサンゼルス市立大学 (City University Los Angeles)」とは異なる。

  4. ^ 『ジャニーズ・ファミリー ~裸になった少年たち~』(和泉ヒロシ〔後の小菅宏〕著、1976年3月、オリオン出版)では、アメリカの情報局の名をCIAではなく「CID」と誤植されている。 CIDは、アメリカ陸軍犯罪捜査司令部(The United States Army Criminal Investigation Division Command。通称:CID、USACIDC)のことであり、情報機関ではない。

  5. ^ 第2次世界大戦後、上智大学はGHQ/SCAPにより「GHQの兵士とその子弟の高等教育機関」として指定され、国際部(駐留米軍兵士およびその家族を主な対象とした夜間プログラム)が設置された。
    1952年にGHQによる日本占領が終わった後も、米軍やアメリカ大使館の関係者およびその子弟の入学が多かった。 なお、同大学は1957年までは男子のみ入学が許可され、女子は入学できなかった。

  6. ^ 第147回国会青少年問題に関する特別委員会第5号
     「ジャニー喜多川のセクハラ・児童虐待疑惑についての阪上善秀の国会質疑」
     


外部リンク








出典:フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』より改訂
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