第1章 血酒の誓い

第1話 夢から醒めて

 ズキズキと頭が痛んだ。二日酔いというのはこんな感じなのだろうか——それは酒を飲んだことのない嶺慈にはこれっぽっちもわからないことだが、鈍痛と共に針が脳を食い破るような痛みは、はっきり言って直接的に殴られるのとは事情が異なる嫌な痛みだった。


 柔らかいタオルケットの感覚に、まず違和感を覚えた。


 自分はついさっきまで何をしていた?


 いじめられていた犬を助けようとして、不良に声をかけて、それから——。

 じゃあここはあの世なのか。自分は死んでもなお、現世で転生して生き続けるのだろうか。

 などと益体もない考えを苦笑いと共に振り切った。夢だったのだ、きっと。本当は無感動なままバイトから戻り、眠りこけていたに違いない。


 嶺慈はベッドから出て真っ暗な部屋を見回した。

 本棚とテレビラック、電源が落ちたモニターに、机の上にはラップトップが一台。殺風景な部屋だ。

 ベッドに置いてあったスマートフォンをポケットにねじ込み、嶺慈は部屋をでた。


 三人家族で暮らしていた一軒家。今では一人暮らし。失踪した親に代わり、自分が光熱費から固定資産税から何から何までを払わねばならない。そう遠くないうちにも高校を辞めて、どこかに就職することになるだろう。

 両親は熱烈な恋愛の末、駆け落ち同然でこの愛知県豊富市にやってきて結婚した。親族との交流はなく、嶺慈には身寄りがない。

 色々な不安とストレス——そのせいで真っ白になった髪を、洗面所で改めて見つめる。ナイロン繊維のように荒れ、無理やり脱色したように白い毛髪。


 ——うんざりだ。


 けれど何よりもうんざりなのは、自分が両親との思い出をあまり持っていないことだった。

 大学の研究員だった両親は毎日帰りが遅かったし、嶺慈も最近は落ち着いてきたとはいえ反抗期だったのもあり、とにかく親を遠ざけていた。

 こんなことになるとわかっていれば、絶対に離れなかった。口ではいろいろ言っても、いざいなくなられると深い喪失感が底なし沼のようにぽっかりと口を開け、心を飲み込もうとする。


 リビングに入ると、犬がいた。


「ん……」


 茶色がかった灰色の毛。犬種はわからない。雑種だろうか。しかし体は大きく、外見的にハスキーと何かのミックスだろうと思われる。

 こいつは——。


「お前、なんで……」


 犬が起き上がり、玄関の方を見つめた。

 がちゃり、とサムターンが回る音。ドアの開く音。一瞬両親が帰ってきたのかと思い、嶺慈は犬と共に廊下への扉を開けたが、


「あら。起きてたのね」


 そこにいたのは近所のコンビニの袋を提げた赤髪の少女。

 見知らぬ——いや、彼女は、確か。


「あれは……夢じゃなかったのか」

「ええ。現実よ。そこのワンちゃんとあなたは一度死んだ」


 頭を金槌で殴られたような幻の音が聞こえた。ぐらりと視界が傾ぎ、嶺慈は壁に寄りかかる。


「じゃあここはあの世なのか。死後の——」

「いいえ、現世よ。そうね……私たちは生きてもいないし死んでもいない存在。此岸の妖怪レヴェナントと言われるものよ」

「レヴェナント?」

「妖怪、と書いてね。でも亡霊という認識で正しい。私たちは世間一般には存在しない人ならざるもの。私もワンちゃんも、そしてあなたも、もう常識の生物ではない」


 嶺慈の体がわななき、思わず少女の胸ぐらを掴み上げていた。


「ふざけるな! なんのつもりで俺を化け物なんかに——」

「人助け。強いて言えば恩返し」

「俺がお前に何をしたってんだよ! 恨みでもあったのか!?」

「ノイジーな野郎ね。つまらない男」

「は? ——ぐあっ」


 気づいたら天地がひっくり返り、背中から胸に痛みが駆け抜けて肺の中の空気が一気に掻き出される。投げられた——こんな、線が細い少女に。


「てめえ……」

「レナ。レナ・ドラクリヤ。てめえじゃない」

「名前なんか聞いてねえよ、クソアマ」


 難儀しながら立ち上がると、嶺慈はまたも掴み掛かろうとした。女だとか関係ない。一発引っ叩いてやる。

 だがそれを止めたのは犬だった。着ていた青いジャージの裾を咥えて止める。


「お前っ。……お前だって化け物にされたんだぞ」

「わふっ」


 気にしていない、という風に鳴いた。それから嶺慈の手の甲を舐め、レナの指先を甘噛みする。


「ちっ。もういい。……もういいけど、よくはなくて——ああもう、何がどうなってんだよ!」

「説明するわ。投げ飛ばしてごめんなさい。腹が立ったから。……八雲嶺慈、ね」

「なんで家の場所がわかったんだよ」

「学生手帳に書いてあったから」


 そういえば身分証明のためにいつも持ち歩いているんだった。嶺慈はそれを見たのが泥棒などの不審者じゃなくて良かったと安堵したが、果たして両手を挙げて喜んでいいものかとも思案する。

 何はともあれ嶺慈はリビングに向かい、レナが買ってきたサンドウィッチをつまみながら説明を受けることになった。


「私たちは一口にレヴェナントと言っても無数に種族がある。日本で有名なのは化け猫や妖狐、鬼。私たちは吸血鬼よ」

「吸血鬼……じゃあ、俺も、犬も」

「ええ。吸血鬼——正確には半吸血鬼になった。今はまだ血の渇きがごく僅かだけど、だんだん血が必要になる。採り方はおいおい教える」

「人の血は山菜じゃねえんだぞ。ったく」


 信じられない。信じられないが——自分だけでなくあの犬も無傷で蘇っているのだ。そして夢の最後を締め括った少女が実在し、あの出来事を克明に語っている。

 事実は小説よりも奇なりとはいうが、これはあんまりだ。いっそ残酷とまで言える仕打ちである。一体俺が何をしたって言うんだ——もし神に会えるのなら、そう聞こう、絶対に。


「あなたたちを吸血鬼に変えたことは悪いと思ってる。でも私もかつては命を救われた身よ。見捨てる気にはなれなかったし、犬を守って戦ったあなたはかっこよかった。死なせるには惜しいと思ったの」


 その犬はレナが買ってきたドッグフードを食べ終えて、嶺慈の足元で丸くなって眠っている。


「しばらくは私があなたの面倒を見る」

「あのな、親がいなくなって金に余裕がないんだ。飯代なんて自分のだけでも——」

「大丈夫、私とワンちゃんの分はこっちの活動資金から出す。あなたにも提供できるわ」

「俺は……いい。そういうのは嫌だ。なんか、わかんねーけど」

「そう。改めてしばらくの間よろしく、嶺慈」


 差し出された右手とレナの顔を見て、嶺慈は渋々握り返した。


「ああ、よろしく、レナ」

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