痕戒のヴァンパヰア
夢咲ラヰカ
【壱】王の血涙
プロローグ
私立
民俗学コースを専攻する生徒が捌けたそこで、五十近い白衣の男性が資料を手早くまとめてアタッシュケースに押し込んでいた。それを手伝うのは同じく白衣の四十半ばの女性。
「急いで
「わかっている!」
ケースに鍵をかけ、手錠で己の手首と固定する。研究室を慌てて出て、周りの生徒や教員から不審がられつつも彼らは駐車場の車に乗り込んだ。
女性が——妻の
「大丈夫ですか?」
「ああ。……パンドラの箱を開けてしまったのかもしれん。息子に顔向けできん」
夜の街を駆け抜ける。ビルの航空誘導灯が雨で煙り、雨粒が窓を走って光を歪めて景色を微かに捻じ曲げた。
十六年前に友人から知らされた手がかりをもとに始めた今の研究は、まさにパンドラの箱だった。
開けてはならないものだったのだ。
そのとき、背後のトラックが猛スピードで突っ込んできた。
妻がハンドルを切ってそれを回避し、嶺太は完成で窓に体を押し付けられる。
轟音と共にトラックが反対車線のバスと正面衝突。あたりに叫喚と悲鳴が撒き散らされた。
嶺太は何事かと目を凝らし、その雨の向こうにゆらめく人影に息を呑んだ。
「今すぐここから離れなさい!」
「は、はい!」
アクセルを全開にして加速。人影が凄まじい勢いで跳躍してカエルのように飛び跳ねながら追いかけてくる。
車は水溜りを踏んで派手に水を撒き散らし、通行人から怒号を向けられながらさらに加速。とうとうパトカーまで追ってくるが、やかましいサイレンの音はあの人影が踏み潰し、エンジンを握りつぶして黙らせた。
飛び出す警官の首を一撃で刎ねる動き——敏捷性、速度、膂力、いずれにしても人間ではない。
嶺太は悟った。我々は知ってはならない領域に足を突っ込んだ、入ってはならない神域を怪我したのだ、と——。
×
両親と兄が行方不明になって一ヶ月が経った。
最初は買い物かなんかだと思っていた。ちょっと遅い帰りになるんだろうと。
しかしその日は帰ってこなかった。次の日も、その次の日も。警察に失踪事件と知らされて、頭が真っ白になった。心理的にも、ストレスで物理的にも頭髪は真っ白になった。
家族が失踪して一ヶ月後の自分は、やはりというか、わかりきったことだがどこか空虚に過ごしていた。現実というものは確かにそこにあるけれど全てが上辺だけの曖昧な情報として体を素通りし、心にはなんの引っ掻き傷も残さない。
淡々と高校の一年B組に通って、黙々とバイトをして、誰もいない家に帰る。
のっぺりとしたつまらない一日がそうやって終わっていく。休みの日があると発狂しそうになるのでバイトを入れる。何もしない時は睡眠薬を飲んで無理やり寝る。
そんな日常が一変したのは、じっとりと蒸し暑い初夏の夜だった。
「あれは……」
いつもと同じ道だが、いつもと違う嫌な気配。
数人の、自分と年齢が変わらない少年グループが何かを蹴っていた。聞こえてくるギャインッという悲鳴から、犬がいじめられているんだと察して
「ハハッ、生きたボールでサッカーってのも悪くねえな」
「おいおい、血ぃ吐いてんじゃん。死ぬんじゃね? サツジンザイだよ俺ら」
「ばーか、キブツソンカイザイだって。物扱いなんだよ、犬っころなんざ!」
これが本当に同じ人間か? 嶺慈は怒りを感じた。
冷静に考えれば声などかけず、無視して道を変えて家に帰るべきだ。それくらいは考えればわかる。
だが嶺慈の中の正義と照らし合わせて考えたとき、それが大きな間違いであることもまた明白であった。
気づけば嶺慈は自分と年の変わらぬ少年の肩を掴んでいた。
「おい、やめろよ」
「あ?」
こちらを振り向かせた少年からは濃いアルコール臭がして、嶺慈は眉を顰める。未成年飲酒——酔っ払いだ。
「やめろって言ってんだよ。どけ。病院に連れていく」
「うるっせえなお前ッ!」
強烈なパンチが腹にめり込んだ。ドムッ、と食い込んだ拳がゆっくり離れ、嶺慈は胃液を漏らしながらうずくまり、呻く。
喧嘩なんて小学校以来していないし、そもそも強くない。そんな暴力的な生活とは無縁だったのだ。
護身術として身につけた格闘技も、嶺慈の絶望的な運動神経のなさでは役に立たない。
だが、何かあるはずだ——使える手段が。
「ははっ、でっけえボールだ!」
「やれ! 蹴っ飛ばせ!」
少年らがはしゃぎ、嶺慈を蹴飛ばし始めた。通行人もいたが、彼らは自分たちに飛び火するのを恐れて道を引き返していく。
彼らを責める気にはなれなかった。誰だって、巻き込まれるのは嫌だ。
嶺慈だって嫌に決まっている。こんな痛いこと。
でも、正直どうでもいいという思いが彼を突き動かしたのだ。生きる気力を失い、せめて最期は正義のヒーローのように華々しく死のうとでも思ったのかもしれない。だからいつもは押し込んでいる正義の考えを急に持ち出したのかもしれない。
どうせ死ぬのなら、かっこよく死のうと。そうだ、自分は死のうとしていた。
生きていけるかわからないこの世界に見切りをつけて、死のうと——。
うずくまって血を吐きながら、嶺慈は痛みに耐えた。だがだんだん温度感覚がわからなくなり、痛いのか熱いのか冷たいのかさえ理解できなくなってきた。
嶺慈は非暴力で——全身を丸めて痛みに耐えていたのだが、それも限界だった。
「なあ、おい……やべえんじゃねえのか?」
不良の一人がそう言った。
嶺慈の体が痙攣していることに気づいたのだ。血の泡を吹き、震え、不明瞭な呻き声を漏らしている。
「お、おい、ずらかろうぜ」
「オレっ、知らねえっ!」
少年たちが去ろうとした先——そこに、電柱の上から何かが舞い降りてきた。
オフショルダーで丈の長い黒衣の裾を翻し、長い赤みがかった黒髪を揺らす。
一際美しい少女が青い目で少年たちを射抜き、その後ろの嶺慈と犬を見遣った。
「全部見てたわ。ええ、全部」
「んだよっ! てめえも殺すぞ! サツにでもチクる気か、あぁ!? ヤッちまうぞ!」
「やってみなさい」
ギン、と青い目が月のように煌めき、少女が身を低くして駆け出した。
一人の鳩尾に拳打を打ち込んで昏倒させると、素早く回し蹴りを繰り出して別の一人の首を打ち据える。
殴りかかってきた少年の腕を掴んで一本背負を決めて、横にいた別の少年の股間を蹴り上げる。最後の一人には綺麗なアッパーを見舞って、一方的に制圧してみせた。
「失せろ。次に犬か猫を傷つけたら殺す」
温度を氷点下にさせるような怒気を孕んだ声で少女がそう言った。少年たちはぼろぼろになりながら逃げ散っていく。
「さて……生きてるわね」
虫の息である嶺慈は霞んで色を失った視界で少女を見た。美しい子だ。続いて犬を見る。だいぶ弱っている。もう助かる見込みはない。
「まずはあなたから。大丈夫、眠ってもいいわ」
少女が嶺慈の顔に手を当て、口の端を噛んで顔を近づけてきた。
血の赤と、
強烈な眠気が襲いかかってきて、嶺慈はがっくりとその場で横になった。
十六年の人生があっけなく終わった。そう思った。
——そしてそれは、決して間違いではなかったのである。
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