第6話 朝の一幕

「起きろ。ランニングだ」


 朝四時半。七月の空が白んでいる時間帯に柊によって叩き起こされた燈真は、寝ぼけ眼をこすりながらジャージに着替え、運動靴を履いて外に出た。

 まだ涼しい外気。裏庭は整備され、ちょっとした運動場くらいの広さになっている。一周四〇〇メートルほどか。ということは直線で八〇メートルくらい、曲線は一二〇メートルか。中学生の頃体育委員だったので、ちょっとだけ詳しい。


「どれくらい走るんだ?」

「初日だし、とりあえず……そうだな、五周してこい」

「五周か。よし」


 燈真は準備運動をし、最後に首を回してゆっくり体を慣らし、歩き出した。そこから徐々に加速してトラックに合流し、ランニングを始める。

 二〇〇〇メートル走——普通に言えば長距離走の類である。しかし体力自慢の燈真にとっては苦しくはない。

 ただ初日でこれなのだから、慣れてきた頃には十キロ走れ、みたいになるだろう。野球部並みだが——ただ、運動自体は好きなので燈真は気にしていなかった。


「一定のペースで走れよー。ペース配分が分からねば妖力切れを起こしてしまうでなー」


 なるほど、これはのちの妖力の訓練にも関わっているらしい。

 一気に決めず、長期的に体力を使う。妖力も同じらしいが、考えてみれば当然だった。戦っている最中にガス欠を起こせば待っているのは死だ。長距離マラソン的にペース配分を考えねばならない。


 燈真はそれでも八分ほどで完走する。

 弾んだ息を整えて、柊から渡されたタオルで汗を拭う。


「どうだ、朝一番に走るのは」

「思ってたより悪くない」

「よし。じゃあ朝風呂だ。運動の後の熱い湯は体に沁みるぞ〜。妾と入るか?」

「千五百歳の老狐と?」

「冷静だなお主は……妾の美貌の前ではお主くらいのガキなんぞイチコロだと思ったが」

「からかってんのが目に見えてるしな。でもでかい浴槽に一人だけってのは……奏真と竜胆ってもう起きてるか?」


 柊は頷く。


「ああ。退魔師は基本早起き。竜胆も内勤を目指しておるから早起きだ。先に風呂場に行け。奴らを呼んでくる。着替えは椿姫がコーデしたものがあるでな、それを持っていくぞ」

「変なもんじゃなきゃいいが」


 燈真は玄関から別館へ渡り、風呂場へ。

 そこは民宿風の温泉宿という作りで、銭湯のような雰囲気がある。

 合板の足置きとタイル、難燃性のカーテンの仕切りなどがある脱衣所で燈真はジャージなどを脱いで汚れ物をカゴに突っ込む。


 柊のこだわりで脱衣所には瓶に入ったコーヒー牛乳やフルーツ牛乳があり、それを冷やすガラス張りの冷蔵庫もあった。彼女が昭和に見た文化の中でこれらをいたく気に入ったのであるとかなんとか。

 と、


「おはよう。退魔師としての訓練を始めたんだってな」

「おはよ、燈真。僕は座学中心だから一緒に走らなかったね」


 奏真、竜胆がやってくる。

 二人と一匹で風呂場に入った。石造りの浴槽にはあらかじめ湯が張られ、燈真たちは掛け湯をしてからまず体を洗う。


「燈真、その胸どうした」


 へちまで体を擦っていると、奏真が聞いて来た。


「うん、僕も気になってた。聞いちゃダメだったかな」

「ああ、これは」


 燈真の胸には傷跡がある。縫い傷のような、大きな切り傷のようなものだ。


「母さんが俺を救うために……町医者のもとで心臓移植したんだ。ドナーは俺の叔父さん」

「そうだったのか。ってきり誰かにやられたのかと思った。ってことは成功したんだよな、それは」

「ああ。俺としては母さんの自分の病気を心配しなかったことに腹が立つけどな」


 母もまた同じ心臓病を患っていた。買い物中、血を吐いて病院に担ぎ込まれて緊急手術が行われたが、執刀から六時間後に死亡が確認された。


「お母さんは、燈真のことがそれだけ大事だったんだよ。僕らの母さんも普段外ほっつき歩いてるけど、たまに帰ってくるとべたべたひっついてさ」

「仲良いんだな」

「まあね」


 体を洗い終え、竜胆も丹念に洗っていた尻尾の泡を落とす。

 奏真はどこか物憂げな顔をする。


「俺の両親は何してんだろうな」

「奏真の親?」

「そう。任務中に行方不明になったんだ。俺の一族は代々竜を使う。操竜師つってな。優秀な操竜師だった俺の親は、ある任務で行方不明になった」

「そう……か」


 気楽に見つかるさ、なんてことは言えなかった。

 それは燈真にしてみれば「お前の母ちゃんそのうち蘇るさ」というくらいの失礼極まりない暴論だとわかっていたからだ。


「悪い、湿っぽくなったな。湯に浸かって忘れようぜ」

「僕はゆっくり浸かりたいな〜」

「子供ってすぐ出たがらないか?」


 などと言いながら、男たちは風呂に浸かるのだった。


×


 舌小帯短縮症。

 菘が患っている病気だ。


 舌小帯が短く、手術に踏み切るほどではないが今後活動していく上でまだ滑舌に問題があるようなら施術せねばならないと、彼女の母・楓は考えていた。

 もし菘が子供っぽい喋り方が不利になる仕事に就くのなら、確かにそうした方がいい。


「おねえちゃん、わっちのびょうきってしんじゃうびょうき?」

「ううん。喋りにくかったりするだけだって。寝てる間も息できてるし、イビキもそんなに酷くないし、手術はいらないらしいけど……菘は将来、どんなお仕事したい?」

「おえかきしたい! ふうけいとか、どうぶつとかかきたい!」

「そっか。じゃあ、絵描きの本買って来てあげるね」


 居間で朝食を待つ間、姉妹はそのような会話をしていた。

 椿姫が着ているのはセーラー服の裾をロングコート風に長くしたデザインの黒い衣類である。下は白のホットパンツと黒のニーハイだ。

 彼女らが通う県立魅雲高等学校は、時代の流れを汲んで私服登校を許可している高校である。


 制服も一応あるが、それを着るのは生真面目な生徒やデザインを気に入った者で、多くは私服だ。比率としては七:三で私服の方が多い。

 菘は発言の通りお絵描きをしている。

 妖怪は長寿。成長がゆっくり。しかし身体性を伴う物事は体が自然と覚えていくため、菘の絵は身内贔屓なしでも上手い方だった。

 絵葉書サイズの画用紙に鉛筆で紫陽花を描き、水彩コピックで色を塗っていく。これらのセットは当初柊が買い与えたものだが、菘の中でこだわりができているらしく、現在はお小遣いをやりくりして地元の文具店で購入していた。


「風呂上がったぞ」


 燈真たちが戻ってきた。寝転がっていた万里恵が「私たちの出汁が出てたでしょ」と余計なことを言うが、この土日で彼女の扱いを学んだ燈真は「はいはい」と流していた。

 万里恵はオレンジのフリルスリーブTシャツに白のテーパードパンツという爽やかな夏コーデ。大人っぽさで女子力を上げ、彼氏を手に入れようという魂胆だろう。


「燈真君似合ってんじゃん」


 燈真が来ているのは黒のサマージャケットに白地に黒ボーダーのシャツ、黒いテーパードパンツである。

 コーデしたのは椿姫で、燈真から「垢抜けつつウェーイってならない、地味めな服を頼む」と昨日言われ、父・靖雄やすおと奏真の衣類を借りて用意したのだ。

 ちなみに燈真が持参した服はいずれも地味すぎ、なんとも微妙なデザインの部屋着が大半だった。普段いかにファッションに気を使っていないかがわかる。


「さっすが私。いいセンスしてる」

「自信過剰な女は嫌われるわよ椿姫」

「ふんっ。私についてこれないやつなんて番としてふさわしくないわよ」

「じゃあ姉さんは一生独身じゃないか」

「にいさんほんとのこといわないで」


 弟妹の毒舌に椿姫は閉口する。


「それより今日の朝飯ってなんだ」

「奏真さん奏真さん、それなんですがね、私の卵を使ってるんですよ! あっ、でも無精卵ですけどね。おかしいですね、愛する殿方は確かにいらっしゃるのですが」

「クラム、怒るぞ」

「ここで興奮しちゃうから私はダメなんですかね」


 奏真も大変だな、と燈真は思った。

 ややあって伊予がやって来た。万里恵と椿姫、氷雨が手伝いに向かう。

 十名——引きこもりのロイを加えれば十一名の食事を一匹で用意する伊予には頭が上がらない。


 配膳されたのはふっくらしたオムライスと、オニオンスープとサラダだった。


 そうして例によって菘の号令で、一同は朝食を口にするのだった。

 まだまだ朝早いが、高校が遠いので仕方がないし、なにより早起きは三文の徳という柊の考えが大きいのだった。

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