第3話 七夕の朝、幻獣を添えて

 稲尾家での初日は概ねゆっくり過ごせたと言えるだろう。

 家主であり家長、千年に渡り当主の座を守る稲尾柊が夜遅くまで退魔局の会議で帰ってこれず、歓迎会に同席できなかったというアクシデントはあったものの、千年前裡辺を邪龍から守った英雄ともなればそれくらいの多忙は当然であると燈真は理解していたので、なんら問題に感じなかった。


 歓迎会は夜十時にはお開きとなり、燈真は別館にある温泉という規模の風呂で体を温めて自室で眠るに至った。


 翌朝——。


 雀の鳴き声に混じって鹿威しの音が響き渡り、山から吹き下ろす朝の風が開け放った窓から入ってきてはレースカーテンを揺らす。

 ほのかに香る味噌汁の出汁と味噌の匂いに、燈真は鼻をひくつかせた。

 ああそうか、俺は稲尾家に来たんだった。実家じゃあ飯なんて宅配フードサービスしか使ってなかったな。


 手料理を食べるのなんて、母さんが死んで以来だから——十年ぶりだろうか。


 父だってきっと、好きで子供をほったらかしにしていたわけではないだろう。男手ひとつで子育てせねばならず悪戦苦闘だったに違いない。

 元来ワーカーホリック気味だった父はとにかく仕事で稼いで子育てに貢献しようとした。美味しいものは外食に頼り、子育てにおいて必要なコミュニケーションはそういった専門の家事代行サービスに依頼した。


 父は責められない。

 大人になれなかった自分が悪い。


「とーまー、あっさだっぞ」


 ドアをどんどん叩く音と、菘の間延びした声。


「あさごはんさめちゃうぞー。わっちがぜんぶたべちゃうぞー」


 なんて可愛い脅しなんだ、と思って燈真は苦笑した。それからタオルケットをまくって起き上がる。


「今降りるよ」

「じゃあまってるね。かおあらっておひげもそってね。ごはんたべたらおでかけだかんね」

「あいよ」


 顎をさすると微かにちくっとする。

 ため息をついた。男も十六になればヒゲくらい生えるが、大人になったという喜びと同じくらいおっさんになってしまったという絶望がのしかかってくる。

 ベッドから降りてタオルケットを畳み、枕を整えて置き直す。

 寝巻きを脱いで防臭殺菌のアルコールシートで体を拭ってシャツに袖を通し、実家から持ってきた安物の黒い部屋着ジャージに着替えた。


 部屋を見渡す。


 五〇インチのモニターとデスクトップマシンが一台、キーボードユニット付きの液晶タブレットのエレパッドが置いてある勉強机、本棚には燈真が家から持ってきた漫画と小説が並び、クローゼットには着替えの類。

 中央にはガラステーブルが置かれ、座椅子がひとつ鎮座していた。

 ゲーム機の類はVGSⅡという近年発売された携帯ゲーム機と据え置き機を兼ねたものが、燈真持参で持ち込まれている。


「パソコンにタブレットまで置いてあるなんてな……金持ちはスケールが違えや」


 とはいうが、実はパソコンの方はお下がりだったりする。

 家族の中に熱烈なネトゲユーザーがおり、彼が「ラグがひどい。こんなのマシンスペックが低すぎる骨董品だ」といって使わなくなったものをここに持ってきただけらしい。昨日聞いた。


 それはそうと今日は七夕だ。

 桃の節句や端午の節句と同じ五節句であり、あまり知られていないがそうめんが七夕の節句の行事食だったりする。夏にぴったりだと思うが、稲尾家でもそういった行事は執り行うらしい。

 昨日の夜、笹の葉に願い事を吊るしたのを思い出した。

 菘が「山のようなプリンを食べたい」と書いて笑いを生み、燈真はなんとなく「平穏無事に過ごせますように」と書いていた。


「とうま、そろそろだいじょぶ? おとこのぶぶんおさまった?」

「もうちょっと言葉を選ぼうな、菘」


 ドアを開けると菘が尻尾をもっさもっさ揺らしながら待っていた。

 可愛い顔をしているが実年齢は二十一歳であり、人間基準で言えばとっくに大人である。そういうことを知っていても不思議ではないが、無論、妖怪としては子どもだ。注意くらいする。


「おとこのこはあさになるとけだものになるって、おねえちゃんが……」

「合ってるけどあえて言っちゃダメだろ」


 二階の廊下に出て、突き当たりの『ROY』という部屋を見た。

 ロイ・ガーグルという少年がそこにいることは聞いているが、絶対に入るなと言われていた。

 重度の引きこもりでネトゲ廃人、頑固で石のように部屋から動かない——らしい。


 それでも稲尾家には重要な妖材じんざいであるため重用され、家で暮らしているとか。なんでも情報屋として、インターネット越しにクラッキングした情報を売って柊から生活費を手に入れているという。

 数年前に完全防音設備を設置する工事も行ったらしく、噂では現在ゲーム実況を撮ったりしているらしい。

 いろんな妖怪がいるものである。


 一階に降りて顔を洗っている間、菘はじっと燈真を見ていた。

 シェービングジェルを塗ったくってヒゲを剃っている間も。

 ちょっとひりひりする顎を撫でていると、菘が、


「おとうさんもおひげそるのきらいっていってたよ」

「親父さん? そういやお前らの両親を見てないな」

「うん。おとうさんとおかあさんは、ようかいとにんげんのゆうわをすすめる……んと、サークル? だんたい? でこうえんかつどうをしてるんだって」

「人妖融和団体の講演活動か。ってことはボランティアとかもしてるんだろ? あれだ、NPOつったっけか」

「そうそう、こくないでかつどうするから、えぬぴーおー!」


 まだ少しひりつく顎を軽く叩きつつ、燈真たちは居間に入った。


「おはよう」

「おはよー!」

「おはよー」「おはよう」「おはようございます」


 居間には既に椿姫や万里恵、竜胆、昨日挨拶した雪女の風吹氷雨ふぶきひさめ、専業退魔師の黒塚奏真くろづかそうまとその式神をしている青い髪をした竜族の女、クラム・シェンフィールドが各々飲み物を手にくつろいでいた。

 燈真は菘の隣に腰を下ろして、竜胆が持ってきた麦茶で喉を潤しつつあくびを噛み殺す。


「出かけるって聞いたけど、どこに行くんだ?」


 その質問に答えたのは、襖を開いてやってきた女だった。


「妾の酒を買いに行く」


 入ってきたのは見るも美しい一匹の妖狐。

 先端が紫色の狐耳と九本の月白の尾、豊満な乳房と長い髪。後ろを房にしてまとめ、その房の数は二つもある毛量。

 着流しに煙管が妙に画になる美貌——月白御前、稲尾柊だ。


「……!」

「そう固くなるな。妾は固くなられることと敬語を使われることが好かん。敬語なんぞ仕事だけで充分。仕事とプライベートは分けたい」


 上座に腰を下ろし、雁首に手を添えて優しく叩いて卓上の灰皿に灰を落とす。

 開け放たれた障子窓から吹き込む風が煙草の匂いを連れ去り、微かに滞留するのは甘い残り香だけだ。


「煙草は嫌いだけど、柊みたいに煙草が似合う女になりたいなーとは思うかな」

「椿姫よ、煙草を吸う女は男から見たらどう思われるだろうな?」

「はん! そんな狭量な男なんぞこっちから願い下げよ!」


 まるで親子のように——場合によっては姉妹のように見える二匹だが、実際には千年三十四世代の世代差がある。

 それでも柊は椿姫や竜胆、菘の代になっても未だ娘・息子といって憚らない。

 自然界の狐も祖母などが子育てに参加するケースはあり、動物園などではむしろベテランのお母さん狐がいるほどだったりするのだ。

 加えて日本においてはタヌキ・キツネ、そしてこの裡辺特有のリヘンオオカミはオスも積極的に子育てに参加することで知られる。

 稲尾家においては女親が圧倒的な権力を持つらしいが、父親の存在もまた忘れてはならないものとして一族の遺伝子に刻まれているのだ。


「クュルルルルルッ」


 縁側に一羽の鳥が降り立つ。


梟狐きょうこじゃないか」


 そこにいたのはキツネのような頭部と、毛皮に似たもふもふの羽毛を持つ梟らしき猛禽類だった。

 かの生物は幻獣と呼ばれる生命体で、通常の生物学的な知見では未だ詳しい生態がわかっていない。妖怪のように見えるが、妖怪にしては知能が低く妖気濃度も低い存在——生得的な生体としての能力で自然界上位に君臨する生物、そういう認識で相違ない。


「燈真、梟狐を見るのは珍しいか?」


 奏真が黒髪を風に揺らしつつ聞いてきた。エメラルドグリーンの目が優しげに梟狐と燈真を行き来する。


「ああ。数えるくらいしか見たことがない。凄いな、狐みたいにもふもふしてる」

「わっちのほうがもふもふだもん」


 梟狐は菘に近づいていって、顔を擦り寄らせた。菘はそれを撫でて、柊が梟狐の足に留められていた紙を解く。


「ほれ」


 柊がどこからともなく取り出した生肉を咥えて飲み込み、梟狐は「クュルルルッ」と鳴いて飛び去っていった。

 菘は椿姫から受け取ったアルコールペーパーで手を拭い、柊は紙を広げる。


 今時鳥で文書をやり取りするなんて古風だなと思わなくもないが、電子メールと違って盗み見されるリスクは低いだろう。なんせ物理的に奪わない限り見ることは敵わないのだから。


「ふむ……今年のきつねごろしは出来がいいらしい。期待できるな」

「きつねごろしって物騒だな。鉄塊みたいな剣か?」

「それは私たちをころすための剣でしょう燈真さん。大吟醸きつねごろしですよ。魅雲村の醸造所のお酒です」


 クラムから冷静なツッコミが入り、燈真は「ああ、そういうことか」と合点がいった。


 柊が大の酒好きで酒豪であることは有名である。今まで名うての大酒飲みたちが飲み比べを挑み惨敗しているほどなのだ。


「椿姫ちゃん、万里恵ちゃん、手伝ってくれるー?」

「はーい。行くよ、万里恵」「はいよー」


 伊予、椿姫、万里恵の三匹がかりで朝食が運ばれてきた。

 炊き立ての五目ご飯と、油揚が浮かんだ豆腐の味噌汁に、塩鮭とだし巻き卵、ほうれん草とにんじんの胡麻和えに白菜の浅漬け。

 菘がぱちん、と手を合わせて、


「それじゃあ、いただきまーす!」

「「「いただきます」」」


 稲尾家揃っての朝食と相なった。

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