ゴヲスト・パレヱド

夢咲ラヰカ

千年前の夜明け

プロローグ

 狐をとして子を生ましめし縁


    ——日本霊異記上巻第二より


×


 発端は、欽明天皇の御世のことである。


 ある山中に生まれ落ちた狐には尾が九つあった。

 千年を生き霊力を蓄えたわけではない。生まれた時から九尾だったその白狐は、天性の才覚と力を秘めた生まれながらの大妖怪であった。

 しかし妖怪にしては不可思議なことに人間に好意的な考えを持つ、そんな女狐であったのだ。


 その好意の理由が人間への恋慕だと知った娘の母親は、娘を守るために人間を殺そうと暴れ回り、挙句最後には人間が放った矢に打たれ倒れて死んだ。


 彼の時代——百済くだらより仏の教えが伝来した極東の地では、それを認め受容せんとする開明的な崇仏派の蘇我氏と、蕃神あだしくにのかみを祀れば日本古来の神の怒りを買うとした廃仏派の物部氏との間で政争が起こっていた。


 ある意味では妖怪が過ごしやすく、本来的な——獣、事象としての本意を存分に振るっていた時代だろう。

 その頃の妖怪には人間と共存するという思想自体が根付いておらず、化かす、驚かす、場合によっては殺して喰らうといった考えが主だった。

 彼らにとって大なり小なり人間など糧に過ぎぬ——おおよそ、そういった認識に過ぎぬものだったのだ。


「父上、妾は人間と共存することを選ぶ」


 故に、若き狐の発言は異端そのものだった。


 それが生を受けたのは、そう、まだこの国に仏という概念が伝来してまもない頃だった。


「本気でいいようるのだな、ひいらぎ。お前の母上は、人間に討たれたのだぞ」

「構いませぬ。その程度、人間を恨む理由にはなりませぬ。妾は人間に思いを寄せる身。たとえこの身滅びることになろうとも、愛する男の腕で逝きたいのです」


 山奥の狐だらけの異空間——現世から隔絶されたその異質な箱庭で、柊と呼ばれた九つの尾をもつ白狐は決然と言い放ち、父の老いさらばえた狐に背を向けた。


「ここにはもう戻りますまい。母上のように怨念に塗れた最期など、御免被る」


 柊はそう言い捨て、箱庭の破れ目である白樺が二本立つ隙間に消え、去っていった。

 父狐は娘のその姿はまさにお前の母のようだと思い、戻るにせよ人間と過ごすにせよ、好きにしたらいい——と、その未来を彼女自身の意志に委ねた。


 ——それから約五〇〇年後。

 西暦一〇二〇年。平安中期、寛仁四年の夏。


 後の世に裡辺地方と呼ばれる土地で繰り広げられていたのは、日の本の、そして世界の明暗を分ける決戦だった。


×


 山をいくつも跨る巨大な龍が宙を舞い、数えきれない無数の脚から熱線が打ち出される。地上にいる全国からかき集めた無慮三〇〇〇を超す術師が結界を張り、それらを防いだ。

 鉄をもとかす熱線が結界と衝突し、激しい閃光と火花を撒き散らす。曲線を描いた火花が地面に降りかかると同時に木々を一瞬で焼き尽くし、そこへ大地をゆする咆哮が一つ上がり、龍の巨体がぐるりと渦を巻いた。


「弓兵、構えぇーーーーーーーーッ!! 撃てぇーーーーーーッ!!」


 武将が号令を上げ、地上に展開していた将兵たちが弓を放った。それぞれ人間が撃つもの、妖怪が撃つもの——大きさも威力もばらばらだが、巨体を誇る鬼族が放つものの中には、虎さえ一撃で吹っ飛ばす代物まである。

 バウッ——と空気を切り裂く鋭い飛翔音と共に、大量の矢が宙を駆け抜けた。

 鋭い鏃が月明かりを照り返し、龍に突き刺さる。


「撃て撃て撃て! 投げ槍でも矢でも構わん! 片っ端から撃て! 術師は結界の維持に注力せよ!」


 術で声量を増幅して大喝をあげるのは柊である。その姿は巨大な狐の姿で、腰からは九つの尾が生えている。

 五〇〇年前に狐の里を出奔した九尾は人間の軍勢を率い、史上最悪の〈魍魎もうりょう〉と戦っていた。

 柊自身も一際巨大な狐火を形成し、それを射出。音を遥かに超える勢いで飛翔したそれは龍の顔面に突き刺さり、爆音と爆炎を撒き散らす。

 飛び散る肉片と骨片、焦げて乾燥した、黒く炭化した血肉が剥落して落ちる。


「七日七晩の疲労が来ておるぞ! やつの守りはない! 畳みかけよ!」


 七日七晩——そう、この戦いは休みなくその間ずっと続いていた。柊はその戦闘中、一瞬たりとも休まず戦い続けていた。

 毛皮はパサつき、流れた血が乾燥してへばりつき、全身からは普段の美しさが消えかけ獣臭が立ち込めている。けれどその紫紺の目には敗北など見えておらず、未だ勝利を確信した炎が宿っていた。


「む……」


 龍が粉塵を振り払い、爛れた顔面を再生させながら口腔を開いた。すり鉢のような螺旋状になった口腔部には無数の牙が並ぶ。その中にドス黒い妖力を圧縮していた。

 大技でとどめを刺そうという腹だろう。


「怯むなァッ! 虚仮威こけおどしに頼っておるだけだ! 攻撃し続けよ!! 勝って英雄とならんか馬鹿者共!!」

「うぉぉおおおおおおおおおおっ!!」


 柊には見えている。すでに妖力の大半をあの邪龍に注ぎ込み、柊の最大妖力は大幅に目減りし、十全の力を発揮できない。それでも信じている。

 愛して、愛したが報われず、それでも諦めきれなくて出戻って、その子孫と恋し結ばれた——愛おしい旦那のことを。


 邪龍が、魍魎の王・ヤオロズが濃縮妖力弾を放った。

 圧力だけで意識が掻き消えそうになる一撃。地上ではすでに魂を手放したものが多数いる。


 そこに、空間が波打つ結界が百近く重ねられた。

 百重ももえ結界——しかも、全てが空間のつながりを断ち切り、分断したそれ。


 黒い球体が結界を空間ごと叩き割る。その余波で山が揺れ、木々が根こそぎ吹っ飛び、柊は補助結界を張って守りを固めた。

 やがて八十枚目の結界でヤオロズの攻撃が失速し、空間分断結界の使い手——柊の旦那にして稀代の術師・稲尾善三いなおぜんぞうは結界で球体を包み込み、それを圧殺した。


 潰した瞬間衝撃が駆け抜けるが、それを指向性を持たせてヤオロズに放つ善三。柊の隣に現れていた彼の右腕は、術の反動で皮膚が裂けて血まみれになっていいる。

 空間が圧縮され歪み、それが元に戻ろうとする力とヤオロズ自身の妖力弾の残滓が邪龍の胸を吹き飛ばし、墜落させていく。


「墜としたぞ! 皆、総攻撃だッ!」


 善三が怒鳴り、意識を保っている術師が各々得意とする攻撃術を加え始めた。

 山を削り、谷を埋め、起伏を更地に変えて大地に横たわったヤオロズが鎌首をもたげる。驚くべきことにさっきの濃縮妖力弾を再び形成し始めたのだ。


「おい善三、防げるか?」

「防ぐしかない。腕を無くしたら、面倒を見てくれるかな」


 善三が両腕を突き出し、結界を形成——


 しようとした直後、ヤオロズの首が真上に弾かれ、砲撃が空を貫いた。

 誰かが力なく頽れる邪龍の喉を蹴り付けたのか、山を跨ぐ巨体が吹っ飛び、のたうち回る。


「よぉ、随分楽しそうな祭りじゃねえか」

狭真はざま……!? 来たのか!」

「楽しい祭りにゃあうまい酒といい女が集まるからな。酒豪で美女……そうとも、柊は俺が狙ってたんだがなあ」


 黒髪、海のような目、四本腕の多腕妖怪。異様な気配を酒臭さと一緒に漂わせる、風来坊——狭真。


「いい女なら、俺の知り合いに綺麗な子がいる。奥手な子だ。狭真が手を引いてやるといい」

「俺の目にかなえば——な!」


 飛びかかってきたヤオロズを殴りつける狭真。一撃、その一撃でヤオロズの尾骨が粉々に砕け散り、圧力で脳が潰れて右目と右の耳穴から脳髄が溢れ出す。


「こいつ……不死身だな」


 狭真が眉を顰める。


「ああ。だから妾が封印するのだ。——最強を名乗れるのも今日限り。妖力の多くを楔に、こいつを眠らせるのだ!」


 善三が意を決したように、声を増幅。


「全員、縛り上げろ! ——〈封神縛鎖ほうしんばくさ〉!」


 号令と共にあちこちから大小様々な鎖が伸び上がり、龍を縛り付ける。暴れ、抵抗しているヤオロズの肉が裂け、鎖がバキバキ砕けてちぎれていく。


「悠長にやる時間はない。離れておれ。巻き込まれるんじゃないぞ」


 狭真と善三がそれぞれ術を駆使してヤオロズからヒトを遠ざけ、彼ら自身も距離を置いた。

 柊が人の姿に化け、狐耳と九つの尾を揺らしながら合掌する。


「お主はやりすぎた。履き違えたのだ、温もりの求め方を」


 光が生まれ、柊を包み込む。ゆらめく月白の狐火がヤオロズに燃え移り、長くこだまする悲鳴が上がった。


「今は眠れ。じきに、妾の言った言葉の意味がわかる」


 ボンッ、と炎が掻き消え、柊の掌に真っ白な宝珠がふわりと降り立った。

 その中心に縦長の瞳孔が走り、柊を睨め上げる。

 静かな沈黙か訪れ、ヤオロズを形成していた妖力の残滓が赤黒い粒子となって拡散していった。


「終わってみればあっけないものだ」


 あたりの惨状を見回し、柊はふらりとよろける。それを善三が支えるが、彼もまた全身傷だらけ血まみれだ。


「狭真、お主はまた旅か?」

「ああ。じっとしてるのは性に合わねえ。——そうだ」


 狭真が振り返り、物憂げな顔で言う。


「もうちっとしたら、ここが中心になるらしいぜ。何の中心かは言えねえが……気ぃつけろよ」


 意味深長な発言に、善三は眉根を寄せる。どういう意味だろうか。


「狭真、酒と女の子は?」

「善三よ、優秀な術師は子種を配るべきだぜ。お前にくれてやるよ」

「はあ? 俺は——ぐぉっ」

「こらバカモン。浮気なんぞ許さんぞ」


 払暁が訪れる。

 遠くの雲間から、海と空の境界から朝日が昇る。


「これを勝ちと言っていいのかな」


 善三の独り言が、柊には妙に心に刺さった。


 あたりは決して勝ったと言える状況ではない。

 数えきれない命が奪われた。

 それは決して柊のせいではない。けれど、自分がもっと守れたのではと——。


「柊、お前より先に俺が死ぬことは分かりきっている。だから、頼みたい」

「何を」

「……子供たちには、偽りのない愛情を向けてくれ」


 柊は目を大きく開き、そうして胸に手を当て——頷いた。


「ああ。子供らは、必ず幸せにしてみせる」


 善三が微笑んで、——喀血した。


「……っ、ぁあ——善三、そんな……嘘だ、嘘だと言ってくれ!」

「肺病を患っていた割には、長生きだろう。……でも、柊に看取ってもらえるんだ。悪くはない最期だ」

「ぃ——ぁ、あ……あぁ……」


 慟哭がこだまする。

 それは狐の鳴き声のように、裡辺の地に長らく滞留し、空へ消えていった。



 それから、千年——。

 裡辺は再び、災禍の渦中となる。

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