大阪・豊中の高1男子自殺:遺族手記(全文毎日.jpからのコピペです)
テーマ:日常
大阪・豊中の高1男子自殺:遺族手記1 死にたいと思っているあなたへ
■はじめに
このお話を書くのは大変つらくて、そして勇気のいることでした。しかし、私たちの子供が自ら命を絶ってから1年が過ぎようとしている今でも、全国各地で中学生や高校生の自殺があいついでいます。もうこれ以上子供たちを死なせたくないという思いと、ある1人の高校生が自殺した後のつらく悲しい体験を読んでもらうことによって、1人でも自殺をやめてくれたらと考え、思い切って書くことにしました。
今、このお話を読んでくれているあなたは、一度でも「死にたい」と思ったことがありますか? もしそうなら、このお話を最後まで読んで下さい。そして読み終えた後に自分のまわりにいる人たち--家族や友達や先生やそのほか自分と親しい人たちのことを少し考えてみてください。そして、もし自分が死んだらその人たちにどれほど大きな悲しみや苦しみをあたえてしまうかということも想像してみてください。
2008年2月28日
大阪・豊中の高1男子自殺:遺族手記2 祐太朗がいなくなった日
■祐太朗がいなくなった日 07年2月26日
まず最初に、自殺した私たちの子供について紹介します。
名前 岸祐太朗
趣味 鉄道、ミリタリー、マンガ・アニメ
特技 クラシックバレエ、中国語
祐太朗がいなくなったのは、2007年2月26日のことでした。私(お母さん)が午後6時半ごろ、仕事から帰ってきたら祐太朗はまだ帰っていなかったので、携帯に電話しました。しかし、呼び出し音のしない、つながらない状態でした。少し不安を感じながらそのまま夕食の支度などをしていましたが、8時になっても9時になっても帰ってきません。携帯もあいかわらずつながらないままです。今まで帰りが遅くなるときはたいてい連絡をくれていたので、不安がますますつのります。いてもたってもいられません。ふと先週彼の帰りが遅くなった理由を思い出しました。「放送室で眠ってしまっていた」。彼は放送部だったので、放課後は放送室によくいました。ひょっとしたら、と思い、彼の高校に連絡することにしました。9時半ごろのことです。まだ先生が残業で残っておられたら、と思ったのですが、学校の電話は留守番電話になっていました。先生が聞いてくださることを期待して、メッセージを残し、担任の先生のパソコンメールにも連絡しましたが、返事は来ませんでした。10時を過ぎましたが帰ってきません。クラシックバレエのレッスン以外の日はこんなに遅くなったことはないので、警察に捜索願を出すことにしました。
携帯はつながらないし、もしかしたらそこに残っているかもしれない学校とも連絡がとれない、最悪のことが頭をよぎり、足がガクガクふるえましたが、まだこの時は自殺しているとは思ってもいませんでした。なにか事故があったのではないかと考えていました。仕事から帰ってきたお父さんと「とにかく落ち着こう」とお互いに言いました。
捜索願を出すなんて初めてのことだったので、とりあえずお父さんといっしょに近所の交番に行きました。警官はパトロール中でいなくて、交番の中の電話でどうしたらいいのかを聞きました。写真を持って警察署の方まで来て下さいとのことでした。一度家に帰って写真を探し、警察署まで行きました。倉庫のようなせまい部屋でいろいろ聞かれました。警察の人は家出を疑っているような口ぶりでしたが、家出なんか一度もしたことがないし、する理由も見あたりません。
「学校の放送室に残っている可能性があるので、何とか探してもらえませんか」
と、お願いしました。それと、携帯電話が出している電波から今いる場所を調べてほしいともたのみました。しばらく待った後、学校の周辺を担当する警察から、祐太朗の高校の先生と連絡が取れたが、校内は誰か人がいたら警備システムが作動してすぐに分かるとのことで誰もいないとの返事が返ってきました。警察と先生が学校の中に入って探してくれるものとばかり思っていたので、それは信じられない返事でした。しかたがないので家に帰って、警察からの連絡を待つことにしました。家に帰ると午前0時半を過ぎていました。ひょっとしたら帰っているかもしれないというわずかな希望を持っていましたが、やはり帰っていませんでした。
つらいつらい夜の始まりでした。だいじな子供がいないのです。生きているか死んでいるかも分からないのです。でも、学校の門が開くまで探すことすらできないのです。ひたすら朝がくるのを待ちました。午前2時過ぎに警察から電話がありました。携帯電話の電波は昨日の午後4時頃途絶えていて、やはり学校周辺から出ているとのことでした。学校の近くを警察官が捜索してくれていると聞いて、とてもありがたく感じました。
■発見・再会 2月27日
待ちに待った朝がやってきました。午前6時過ぎに、運動部の顧問の先生ならもう来ておられるかもしれないと思い、学校に電話しましたが、まだ留守電のままでした。途方に暮れましたが、お父さんの知り合いの知り合いに祐太朗の学校の先生がいたのを思い出したので、朝早くに迷惑とは思ったけれども、事情をお話しして先生の電話番号を聞き、やっとその先生から学校へ連絡を取ってもらうことができました。
しばらくしてからその先生から電話がありました。お父さんが出ました。
先生「岸くんがやばい状況です」
お父さん「やばいってどういうことですか」
私「死んでるなら死んでるって言って下さい」
先生「放送室で、首をつって……」
お父さんの声は絶叫となりました。もう、何を言っているのか分かりません。とにかく弟(当時小学6年生)を連れて学校へ向かうことにしました。お父さんと私の職場、弟の学校には「事故で重体」ということにして連絡し、3人で電車に乗り込みました。途中で学校周辺担当の警察からお父さんの携帯に
「亡くなられていますので、警察の方に来てください」
と連絡がありました。お父さんは「きれいな体で亡くなっていましたか?」と、泣きながら聞いていました。ちょうど通勤時間帯で、電車の中には大勢の人がいましたが、会話の内容を察してくれたのか、通話をとがめる人はいませんでした。
覚悟はしていましたが、望みの糸は断ち切られました。駅には警察の車が迎えに来ていました。警察署に到着してすぐに遺体と対面できるのかと思いましたが、通されたのは取調室のような部屋でした。弟は私たちから離され、別の部屋に連れて行かれました。
そこで、柔道着の帯で首をつったと説明を受け、その後いろいろ聞かれました。いじめはあったかとか、何か悩んでいたかとかです。たまたま前の日に成績や進級についての悩みを聞いていたので、そのことを話しました。あとから思い出してみたらそれ以外のこともいくつか彼は話していたのですが、そのときは、気が動転してしまっていて、そのことしか思い浮かびませんでした。
お父さんも、私も、とても感情的になって話をしていたと思います。その内容を警察の人は機械的にパソコンへ打ち込んでいきました。そして、プリントアウトしたものを
「これでいいですね。確認して下さい」
と見せられ、確認しました。
その後、遺体の確認まで少し待ち時間があったので、職場や弟の学校に、「事故で重体ではなく、自殺で死亡した」と連絡しなおしました。次に、祐太朗を一番かわいがってくれていたおばあちゃんがテレビで知る前に、このことを伝えなければいけないと思いました。
私「おばあちゃん、心を落ち着けて聞いてね……。祐太朗、死んでん」
おばあちゃん「えっ……」
私「学校でな、首つって死んでん……。テレビで知る前に知らせないと、と思って……」
つらい連絡でした。その後のおばあちゃんは号泣してもう言葉になりませんでした。少し前に病気をしていたので、電話口で倒れてしまわないか、そればかりを心配しました。とりあえず祐太朗のおじさん(私の弟)の車でいっしょに家まで来てもらうように言い、電話を切った後、おじさんにもつらい連絡をしないとなりませんでした。
しばらくしてから警察の人が呼びに来て、いったん外に出て、小さな倉庫のような所に案内されました。そこに祐太朗はいました。よく、亡くなった人を、「変わり果てた姿」と言いますが、まさにその通りでした。まるで鬼の形相のようでした。彼の姿を見たお父さんは腰が抜けたようにその場に座り込んで大声を上げて泣きました。私は、子供の最期の姿をよく見ておこうと気を張っていたせいか、涙は出ませんでした。祐太朗はこれから大学病院に運ばれて、くわしい死因や死亡時間を調べるために解剖されるとのことでした。決まりなのでしかたがありません。私は警察の人にお願いしました。
「目も、口も、閉じさせてきれいにして返してください」
「変わり果てた姿」の祐太朗との再会の後、私たち3人は警察の車に再び乗り込みました。遺書など自殺の理由の手がかりになる物が残っていないか家宅捜索するために自宅へ向かうためです。警察署の表玄関にはもうマスコミの人がたくさん来ているとのことで、裏口から出て、家へ向かいました。
警察の人といっしょに家の中をくまなく探しましたが、結局遺書などは見つかりませんでした。彼の書いていたブログにもそのようなことは書いてませんでした。
警察の人が帰ってから、祐太朗の高校の校長先生から電話がありました。記者会見を開くので、よろしいですねといった内容でした。お父さんが、記者会見より、家に来て何があったか説明するのが先ではないのかと激しく怒りました。結局、記者会見は行われたようでした。当日、テレビは恐ろしくて見ることができませんでしたが、インターネットでのニュースは何とか見られたので、その内容を知ることができました。自宅にもマスコミの人がやって来るかと怖かったのですが、それはありませんでした。
そうこうしている間に、おばあちゃんとおじさん夫婦が来ました。お寺や葬儀会社の手配、彼の死をまだ知らせていない人に連絡したりしているうちに、夕方になりました。
午後5時半過ぎに、ようやく祐太朗の高校の先生たちがおわびにやって来ました。昨日、学校で何があったのか先生に問いただし、勝手に開いた記者会見のことや、昨夜学校内を探してもらえなかったことなどの怒りをぶつけました。
夜になって、降り出した雨がはげしくなりました。玄関のインターホンがなるので、マスコミかとおそるおそる出て行くと、小学校時代からの友人のSくんをはじめとした中学校の時の同級生が7、8人、傘を手に立っていました。
「ニュースを見て、みんなで来たんです」
どうやら遺体が家に帰ってきていると思って、会いに来てくれたようです。
「ありがとう、ありがとう」
思わず彼らに言ってしまいました。
せっかく来てくれたのだからと、上がってもらうことにしました。急きょ、近くのスーパーでジュースやスナック菓子を買ってきました。彼らとは祐太朗の思い出話で盛り上がりました。中には私たちが知らなくて、もしバレていたらどなりつけたような話、思わず笑ってしまうような話もあり、気持ちがなごみましたが、主役のいないパーティーにふと寂しさを感じました。
「ぬれせんべい、みんなに食べてもらおうや」
お父さんがいいました。
『銚子電鉄 ぬれせんべい』。鉄道ファンであった祐太朗は銚子電鉄の存続を願って購入していました。注文してから3カ月待ち、祐太朗の死の2日前にようやく届きました。喜んで写真まで撮って、すぐに食べるのはもったいないと置いていた物です。食べずに彼は死んでしまいました。友達に食べてもらうなら、祐太朗も怒らないだろう。そう思いました。
彼らは午後10時前までいてくれました。祐太朗からちょくちょくは聞いていましたが、彼にはこんな良い友人たちがいたのだと、あらためて思いました。
長い長い1日が終わりました。ベッドに横になると、張りつめていた気がゆるみました。涙と、もう祐太朗はいないんだという感情とが同時にあふれてきて、ねむることができませんでした。
2008年2月28日
大阪・豊中の高1男子自殺:遺族手記3 仮通夜・通夜・葬儀
■仮通夜 2月28日
泣きながらいつの間にか眠ってしまったようでした。目覚めた瞬間、いままでのことは全部夢であってほしいと思いましたが、やはり夢ではありませんでした。
今日は解剖のすんだ祐太朗を私が迎えに行かなければなりません。葬儀会社が用意してくれる寝台車には1人しか乗れないので、私が行くことになったのです。
行きは電車で大学病院に向かいました。途中でモノレールに乗り換えました。祐太朗が小さい頃、乗りたがったので、用もないのにモノレールに乗って往復したことを思い出しました。こんな悲しい思いで再びモノレールに乗るなんて、思いもよりませんでした。
駅に着くと冷たい雨が降っていました。法医学研究室には指定の時間より少し早めに着きました。自動販売機とイスのある休憩所でしばらく待つように言われました。1時間以上待ったでしょうか、警察の人が何人かやって来ました。それぞれ、彼の持ち物--カバンや着ていた制服、ビニール袋に入れられたこまごました物を持っていました。
「持ち物の確認をお願いします」
と言われ、一つ一つ、カバンの中身まで確認しました。ビニール袋の中には、彼の物といっしょにそれらがあった場所を書いたメモが入っていました。
それが終わると、死体検案書を渡されました。死亡時間は午後9時ごろと書かれていました。
祐太朗の持ち物を持って、寝台車へ向かいました。寝台車のなかでは、白い布につつまれた祐太朗が待っていました。彼のとなりに乗り込み、おそろしく冷たくて固いその体に触れながら、彼が生まれて、病院から家に連れて帰った時のことを思い出していました。あのときの祐太朗は小さく、やわらかくて、あたたかくて、うれしい思いでいっぱいで連れて帰ったな……と。それが、こんなことになるなんて、あのころは思いもしなかったな……と。
そんなことを考えると、また涙が流れてきました。寝台車の中から見える空はどんよりとした灰色でした。祐太朗が好きな場所があれば通りますよと言われていたので、彼が入りびたっていた鉄道模型店の前を通ってもらうことにしました。ただ通り過ぎるだけかと思っていたら、運転手の人はその店の前に来ると車を止め、窓を開けてくれました。そして、家の前を通り、葬儀会場へと向かいました。
葬儀会場ではお父さん、弟、おばあちゃん、おじさん夫婦、葬儀会社の人が出迎えてくれました。白地に紺の模様の着物を着て、布団の上に横たわった祐太朗の表情は昨日警察署で見たときのあのまま、鬼の形相でした。
「あれは、祐太朗じゃない!」と、私は思わず泣きくずれてしまいました。お父さんも、おばあちゃんも、みんな泣いていました。
「湯かん(亡くなった人を洗って、きれいにすること)されますか?」
葬儀会社の人が聞いてきたので、お願いしますと答えました。お風呂が好きだった子が2日も入れなかったなんて耐えられなかっただろう、とお父さんが言いました。湯かんした後に生前気に入ってた服を着せることができると聞き、服を取りにおじさんの車で家に戻りました。黒のジーパン、田宮模型のマークのTシャツ、自衛隊の戦闘機がプリントされたグリーンのトレーナーを持って行き、着せてもらうことにしました。
湯かんは若い女性2人が、気持ちよく、手ぎわよくしてくれました。立ち会って見ることもできたのですが、彼の鬼の形相を思い出すと怖くてできませんでした。湯かんが終わり、おそるおそる祐太朗に近づき、顔を見ました。彼の顔はおだやかな、生きていたときの顔に変わっていました。まるで眠っているかのようでした。
その後、葬儀会社の人と通夜や葬儀の打ち合わせをいろいろしました。小さいころから鉄道が好きだった祐太朗の最後の晴れ舞台なので、祭壇には彼が今まで集めた鉄道関係のコレクションをめいっぱい飾ることにしました。祭壇の花も、花屋さんに無理を言って花電車にしてくれるようにお願いしました。
そして、通夜や葬儀に来てくれた人に渡す品も祐太朗らしいものにしたいという話になったときに、お父さんが、「銚子電鉄のぬれせんべいにできないかな」と言いました。祐太朗にとって大変思い入れはあったけれども、食べることのできなかった、あのぬれせんべいです。でも、注文が殺到して生産が追いつかないと聞いていたし、量が多いので断られるかもと思いながら、ダメもとでお父さんが電話をし、事情を話してお願いしてみたところ、工場をフル回転させて作って送ります、と快く引き受けてくださいました。通夜に間に合わなくても、葬儀の時だけでも渡せたら、と思っていると、翌日の朝、早速届き、ありがたさで胸がいっぱいになりました。銚子電鉄のみなさんのあたたかい心づかいには今でも本当に感謝しています。
打ち合わせも終わり、少し落ち着いたところで、葬儀をしてくださるお寺の住職が枕経を上げに来られました。この住職は祐太朗を赤ちゃんの時から知っていて、この人も悲しませることになると思うと、申し訳ない気持ちでいたたまれなくなりました。住職は、祐太朗を一目見るなり、「大きく、りっぱになられましたね」とおっしゃいました。その言葉を聞いて、ますます申し訳なく、つらく、悲しくて何とも言えなくなってしまいました。
祐太朗の携帯が戻ってきたので、その携帯のアドレス帳から手当たりしだいにメールや電話をし、通夜と葬儀の日の連絡をしました。学校の友達以外にも鉄道関係などで多くの友人がいたので、その人たちにも悲しい知らせをしなくてはならなかったのです。
夜になり、葬儀会社が用意してくれたお弁当が届き、それを見てはじめて今日一日何も食べていないことに気づきました。その夜は、元の顔に戻って棺に入った祐太朗のそばにずっといました。祐太朗は身長が180センチ以上あったので、棺は190センチの特大を用意してもらいましたが、棺に入れるとき、ひざを曲げないと入りませんでした。
「夜9時に死んで、一晩中見つけられずにつるされていたから、身長が伸びてしまったのかもしれない」
お父さんがポツリとつぶやきました。ブルーグレーの色をした棺の中はドライアイスがいっぱいにしきつめられていました。
つらくて悲しいのには変わりないけど、やっと祐太朗が戻ってきて少しホッとしたような、複雑な気持ちでした。
■通夜 3月1日
祐太朗の祭壇ができあがりました。遺影は昨年の夏、家族で中国を旅行したときの1枚を選びました。遺影の前には、特注の花電車を置いてもらいました。そのまわりには、今まで鉄道イベントなどで買い集めた鉄道部品、Nゲージ、鉄道関係の本、愛用のカメラと三脚などを飾りました。祐太朗の自慢の品々です。祐太朗の戒名は、鉄道に関係する字を入れてほしいと住職にお願いし、「乗」の1字をいただきました。
通夜には、本当にたくさんの人たちが参列してくれました。小学校、中学校の時の同級生とそのお母さん、先輩、小学4年生からの担任の先生全員、高校の友人、放送部の部員、鉄道関係の友人、クラシックバレエと中国語の先生と生徒の人たち、近所の人、お父さんとお母さんの職場関係の人、彼をわが子のようにかわいがってくれていた人、つい10日前のイベントで祐太朗と知り合った人まで、様々な人が彼のために涙を流し、手を合わせてくれました。初めて顔と名前を知った人も多かったです。名のらずに帰られた人もいたかもしれません。
クラシックバレエの先生が、怒るように言われたことが今でも忘れられません。
「何で、何でこんなことになったの、誰が、何が、悪いの?」
そして友人の一言も。
「おれだって、いじめられてて死にたいと思ったことあるけど、死なずにここまで来て、やっと友達ができたと思ったのに、その友達が死んでしまうなんて……」
名残を惜しむように、多くの友人が彼の棺のまわりで長い間残っていてくれました。
次の日の明け方、お父さんと歩いて家に帰り、3日ぶりのお風呂に入りました。
■葬儀 3月2日
葬儀の時間は、祐太朗の友人が来やすいように、一番遅い時間にしてもらいました。平日で学校がある日なので、昨日より参列者は少ないです。祐太朗の高校は生徒代表2人だけが忌引き扱いで参列でき、他の生徒は欠席扱いになるとのことでした。それでも学校を休んで参列してくれた友人もいましたが、どうやら同じクラスの生徒は来ることが出来ないようでした。
葬儀の途中、お父さんの携帯がなりました。祐太朗のクラスメイトからの電話でした。
「今から、クラス全員で行ってもいいですか」
思ってもみなかったことでした。学校で、何があったのかは私たちには分かりません。当然、「出棺を待ってもらうから来て」と返事しました。出棺の時間を過ぎましたが、ぎりぎりまで待ってもらうことにしました。しばらくすると、学校の制服を着た子たちが一人また一人と走ってきました。私は思わず葬儀会場の入り口に出て、一人一人を出迎え、声をかけていました。やがてクラスメイト全員が彼の棺のまわりにそろいました。棺が閉じられ、霊柩車に乗るまでみんなは口々に、
「帰ってこいよ!」
「絶対帰ってこいよ!」
彼に呼びかけながら棺につきそってくれました。最後はクラスメイト全員に見送られての旅立ちとなりました。
霊柩車にはお父さんが乗り、私たちはマイクロバスに乗り込みました。葬儀会場を出るとき、祐太朗の高校の先生が何人か、立っているのが見えました。車は山の中にある火葬場を目指して走ります。いつのまにか空が晴れているのに気づきました。火葬場で、棺がこれから火葬する炉に入るのを見送りました。16年間大切に育てた祐太朗の体とはこれで永久にお別れです。出棺の前、祐太朗の棺の中には、友人からの手紙、彼が好きだったお菓子、毎月買っていた雑誌の3月号を入れました。
火葬が終わるまで2時間ぐらいかかるので一度葬儀会場に帰って待ち、再び火葬場に戻りました。お骨拾いの骨は全部拾うつもりで一番大きい骨つぼを用意してもらいました。太くて、たくさんの骨でした。骨つぼに入りきらないほどで、入れるのに苦労しました。木箱に入れられ、白い布に包まれた骨つぼは私が抱いて帰ることにしました。骨だけなのにずっしりと重かったです。
葬儀会場に戻り、住職にお経を上げていただいてから、骨になってしまった祐太朗はようやく自分の家に帰ることができました。家では葬儀会社の人が祭壇を作ってくれていたので、そこに祐太朗の骨つぼを置きました。特注の花電車も、まだきれいだからと葬儀会社の人が運んでくれ、祭壇の横に飾りました。
葬儀会場からの荷物を運び終わり、おばあちゃんやおじさん夫婦も帰り、家族3人だけになりました。すべてが終わってホッとすると同時に、これまでの疲れと、さびしさと、悲しさ、つらさ、むなしさが一気にどっと押し寄せてきました。そして、4人いたはずの家族が1人減り、3人になってしまったことをあらためて実感しました。
2008年2月28日
大阪・豊中の高1男子自殺:遺族手記4止 祐太朗が残したもの
■祐太朗が残したもの
疲れと寝不足のせいもあり、葬儀が終わった日の夜は泥のように眠ってしまいました。
朝、目がさめたときにまた、昨日までのことは夢ではなかったのだろうかと思いましたが、やはりこれは現実で、もう祐太朗はいないのです。祐太朗のいないこの後の何十年もの人生をどうやって生きていけばいいのか、考えることはそればかりです。
警察から返された祐太朗の持ち物を、お父さんと弟と私と3人で一つ一つ調べるように見ました。財布には、死の前日、買いたいNゲージがあるからというので私が渡した1万円がそのまま残されていました。カメラもありました。おそらく、通学途中に電車の写真を撮るために持っていた物でしょう。教科書やノートが無造作に入ったカバン、それといっしょに持っていたリュックの中には柔道着、そして切られた柔道着の帯と制服のネクタイがビニール袋に入って入れられていました。これが彼の命をうばったのだと思うと、たまらない気持ちになりました。制服のポケットに入っていた物も、全部ビニール袋に移されていました。小銭、家の鍵、折りたたまれたプリント、お菓子のゴミなどでしたが、みんな彼のなごりが残っていました。
そして、携帯電話です。ここにきてようやく、祐太朗が生前友人たちとやりとりしていたメールの中身を見ようという気持ちになることができました。彼が発見された当日は、「大丈夫か」「生きてるか」「返事くれ」など、安否を尋ねる友人たちのメールでいっぱいになっていました。それ以前の友人とのメールのやりとりの中から、家族が知らなかったこと--祐太朗が自殺をほのめかしていたことと、これが自殺の理由だろうかと思える彼の考えていたことが分かりました。
祐太朗の自殺の理由の、本当のところは祐太朗にしか分かりません。ただ、彼が死の直前家族に言っていたことや、残されたメールの内容から、当時彼に起こった出来事や、考えていたことのほんの一部は分かりました。
▽学校で放火事件があったときに犯人と疑われた
▽学校の授業方針に大きな不満と怒りを持っていた
▽成績や進級についての不安があった
▽心が疲れてしまったり、体調をくずして通院している同級生を大変心配していた
今から思えば、私たちが思っている以上に祐太朗自身も疲れてしまっていたのですが、それを1人で解決しようとしたのかもしれません。
「この学校は、誰かが死なないと、変わらない」
死の前日、彼が言っていた言葉です。私は、「自殺」という意味にとれたので、
「あんたは死んだらあかんし、死のうとしている子を止めないとあかんよ」
と、言いました。翌日、彼が学校へ行く前、疲れた顔をしていて少し不安に感じたので、
「あんたは死んだらあかんよ」
と、もう一度声をかけました。
「分かってる」
と、彼は言ってくれましたが、それが最後の会話となりました。
■おわりに
今になって考えてみたら、悔やまれることばかりです。あのときにああしていれば、こうしていればと思うのですが、もう取り返しはつきません。どんなことをしても祐太朗は帰って来ないのです。私たちはかけがえのない家族の1人を永久に失ってしまいました。そして、その悲しみ、苦しみは死ぬまで消えることはないでしょう。
祐太朗の自殺は、本当に多くの友人知人を悲しませ、家族を不幸のどん底に突き落としました。自ら命を絶つことによって、あなたの悩みや苦しみは消えるかもしれません。しかし、そのあと残された家族はそのことによって自分を責め、一生苦しみ続けることを分かってほしいのです。
2008年2月28日