雪が降った日に、ふと思いついて、箱根に行った。
いちど鎌倉から箱根に海沿いにドライブして行ったら楽しいだろう、と考えて、
馬入橋という変わった名前の橋を越えて、いつか書いた、尊敬する作家、北村透谷
https://james1983.com/2021/07/28/tookoku/
の誕生の地であることを記した石碑がある町を通って、箱根湯本に続く道を行こうと思ったら、大渋滞で、
半日経ってもつかなくて、途中で諦めて引き返したことがあったが、東京からならば、渋滞もなくて、あっというまに着いてしまう。
浅薄な日本趣味と笑われそうだが、蕎麦屋で、雪を見ながら熱くしてもらった日本酒を飲んで、すっかり満足してしまった。
箱根が好きで、軽井沢に別荘を買ったときも、最後まで箱根にするか、どっちにしようか悩んだ。
結局、十数年前の当時でも、日本はすでに熱帯のように暑くて、山荘を借りて、冷房なしで過ごすと、到底寝苦しくて、いられたものではなかったので、諦めて、泣く泣く軽井沢に家を買うしかなかった。
軽井沢も、雪は降る。
ほんとうは氷の町で、道東と気候は同じだとかで、ひたすら寒い割には雪は降らなかったそうだが、長野オリンピックでトンネルが出来たら、突然、大雪が降るようになったそうで、
塩沢湖の氷が薄くなって、ジープで渡れなくなったかわりに、雪が降って、シャーベットになって、クルマが横滑りして坂があがれなくなったわよ、と笑っていた。
なにしろ十二月も、たいていは初旬の、軽井沢の電飾のお祭りが終わると、いったん東京から別荘へやってきて、軽井沢でも大事な年中行事である水止めをしてからニュージーランドへ発つ習慣だったので、そう度々は雪が降るときに居合わせることはなかったが、いちど、今日は東京に戻るという朝になって、森が、銀色に凍っていたことがある。
真っ白に凍った森に、雪が「しんしんと」という、あの素晴らしい日本語表現がぴったりの様子で降って、まるで軽井沢が、お別れに、お化粧をした、あでやかな姿で挨拶してくれているようだ、と、モニとふたりで感傷的になったりした。
そうやって、軽井沢は軽井沢で、雪景色が美しい町だったが、なんだかわがままなことを言うと、軽井沢の長野の雪と箱根の雪は、おなじ気象だが異なるもので、
蕎麦屋でお酒を飲むためには、どうしても箱根でなければダメだと考えていた。
まことに軽薄な若者というしかないが、そのころは、箱根で、降り積もる雪を眺めて、熱燗で、
素の盛り蕎麦を二三枚も食べれば、それで良かった。
もう大満足で、堂々たる法規違反の酒気帯び運転で、当時はおお気に入りに気に入っていた、箱根富士屋ホテルで、洋式のバスタブで天然の温泉に浸かる贅沢で、翌朝は、レイトチェックアウトで、のんびり起きて、レストランで、カツカレーを食べて、よくあんな凍った急坂で死ななかったと、いま考えておもう、カーブだらけの道を、エンジンブレーキがろくすぽ利かないオートマ車で降りて、箱根湯本で、日本に来て味をしめた、「まるう」の蒲鉾を買って東京へ帰った。
若いときに、自分にとっては外国の、見知らぬ町に住んでみるのは、いまふり返っても良い考えだったとおもう。
東京とバルセロナとニューヨーク。
このみっつの都会が好きで好きで、手放しで好きで、隙さえあれば、ここで2ヶ月、あそこで3ヶ月と過ごして、あまつさえ、家まで買ってしまったが、どうなのだろう、いまの頭で考えると、
東京がいちばん好きな町だったのかも知れない。
街を挙げて、まるで人生の教師のような存在だったバルセロナを別格として、
むかしはマンハッタンの、喧騒どころではない、騒音ボックスのような街が好きだったが、
ひどい言い方をすれば、交尾期というか、盛りがついた猫が、次から次に相手を変えて、自分の生涯の伴侶を、無意識に探して彷徨していたようなもので、みっともなくて、思い出すと、
あああっ!と声が出るというか、若いということは、自分では判っていない他人への残酷さも含めて、どうしようもないものだという気がする。
そのころは、カリフォルニアが、よく考えてみれば、北のサンフランシスコも南のオレンジカウンティも、行けばいつも楽しい思いをしているのに、なんとなく気に入らなくて、アメリカといえばシカゴとニューヨークだったが、シカゴはいまでも最愛の街のひとつだが、ニューヨークは後半は、というのはモニと結婚してからは、あの街特有の欧州コンプレックスが鼻について、だんだんアミューズメントパークにいるような気持ちがしてきて、街とこちらに気持ちの「ずれ」が生じていった。
まあ、いまでも好きですけどね。
このブログ記事中にたびたび「オンボロ」として出てくるアパートの場所がよくて、
ちょうどチェルシーとヴィレッジの境目あたりで、いま考えても、ダンテの有名な
The Gates of Hellの
Per me si va ne la città dolente,
per me si va ne l’etterno dolore,
per me si va tra la perduta gente.
Giustizia mosse il mio alto fattore;
fecemi la divina podestate,
la somma sapïenza e ‘l primo amore.
Dinanzi a me non fuor cose create
se non etterne, e io etterno duro.
Lasciate ogne speranza, voi ch’intrate.
から採った、
Lasciate ogne speranza, voi ch’intrate.
(汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ)
の扁額がある美術素材屋や、あとでプーチンがウクライナに攻め込んだときに、たびたびニュースに登場することになる、ウクライナコミュニティの中心、カフェVeselkaが組み込まれた散歩コースが懐かしい。
「そぐわない」という言葉は、この場合は、「そぐわない」のかもしれないが、最後にモニの
「宮殿みたい」と間抜けな表現をしたくなるパークアヴェニューのアパートと、自分のオンボロとを往復して過ごした毎日の終りのほうでは、なんだか気持ちにそぐわない街になって、
いまでも住居は残してあるものの、モニとふたりで出会った場であるフレンチコミュニティのひとびととも、すっかり疎遠になってしまっている。
街の記憶とはヘンなもので、バルセロナは頭のなかでは音楽とカバと食べ物、それもタパスのようなものよりも、四角く切ったツナやタコとポテトのピザや、豚の頬肉や、プローンのスープで、
テラスからいつも正面の遠くに見えていたサグラダファミリアや、近所のPark Güellは
頭のなかでは「現実に見た絵葉書」のような頼りない存在で、
巻き寿司というつもりなのでしょう、「マキ」という名前で出てきた、スーパーの焼き鳥パックから一本だけ取りだして麗々しく皿においた「日本料理」や、ディアゴナルとパッサージュ·ド·グラシアの交叉点から、あんまり遠くない贔屓のレストランで見た、いかにも大学教授風のおっちゃんが、ひとりでやってくるなり、テーブルについて、初めにまず、バルセロナでは一般的な、日本でいう「おしぼり」のビニール袋を、「パンッ」というおおきな音を響かせて破って、
やってきたウエイターに、「取りあえず、ビール」と述べていて、あんたは日本の人かと笑いをこらえるのが苦しかったことや、これは記事に書いたが、「革命広場」という名前の小さな広場で、
なぜか壁に向かって、酒樽の上に立って、フランス国歌「ラ·マルセイエズ」を歌っていたカタロニア人のおっちゃんや、なんだか、取り止めのないことばかり思い出す。
気が付いている人もいるでしょうが、バルセロナの「革命広場」は、フランスの街にある「革命広場」とは意味が異なっていて、というよりも、むしろ、正反対で、フランコの独裁制のもとで、1970年代まで、ダンスを踊る自由すらなかったカタロニアでは、「革命」は、遠い昔の挫折の記憶で、酔って、「ラ·マルセイエズ」を歌う、風采のわるいおっちゃんを、樽のテーブルのカバを飲みながら見ていて、涙をこらえるのが大変だった。
東京は、言うまでもない。
思い切った事を言えば、ぼくをつくった街で、
自分の、ここまでの人生をふり返って、一貫して流れる至福感は、東京の、毎日が祝祭日のような「わああああー」と湧き起こるエネルギーに体を浸した感じや、やや信じられないくらい内省的なひとびとが、折に触れて見せる天然の優しさや、
なによりも、言いたい事の半分どころか、一割も言えない、引っ込み思案の、訥弁の、
高い文化性に由来している。
おとなになってから再訪した東京では、外国人ばかりの、みっつのクラブに入り浸っているような、あんまり他人に誇れないダメダメな滞在生活だったが、それでも、やっぱり東京は東京だな、と、優しい気持ちになることが多かった。
日本の人が日本のネガティブな面ばかりあげつらうのは、ちょっとインドの人たちに似ていて、
自分たちがいかに日本を愛しているか、という気持ちの表明なのでしょう。
それは丁度、「日本スゴイ」のひとたちが、よそ目には、日本を愛しているようには到底見えなくて、自分が日本人で、日本はスゴイので、自分もスゴイという幼稚な理屈を誇示しているようにしか思えないことの正反対で、日本に対して怒り、ときには憎みさえして、切歯扼腕という言葉を、そのまま絵に描いたような、やりどころのない感情に身を任せるのは、
つまりは日本という自分が生まれた国を愛しているからに他ならない。
日本語との付き合いは長くなったので、さっき、東京、バルセロナ、ニューヨークと挙げたときに、あれ?クライストチャーチも好きなんじゃなかったの?と思った人がいるとおもうが、クライストチャーチはロンドンとおなじで、自分にとっては故郷で、「他国の街」とは到底感じられない。
好きか嫌いか聞かれても、なんとも、答えようがない。
それとおなじことで、ほんとうは日本の人にとっても、批評として評価するのに十分な距離が日本という祖国に対して保てないのは、容易に想像できます。
出来れば、だから、1年でも、それが無理なら数ヶ月でもいい、他国の、自分が気に入った街に住んでみればいい。
日本語世界の標準に照らすと、とんでもないことを言う、ということになるでしょうが、
たまには英語人側の気分で話をさせてもらうと、ちゃんとしたビザなんかなくても、いたいだけいればいいんですよ。
イギリス人やNZ人などは、適正なビザなしで、アメリカに不法滞在する人などは、珍しくもないくらいたくさんいて、クルマを運転していて、お巡りさんに呼び止められて、や、やばい、をしていたりするが、たいていの場合は、お巡りさんが、まあ、行っていいよ、ですませてくれるようです。
ぼく自身は、それでは可愛げがない、と日本の人は言いそうだが、ビザを簡単に取れる特殊なケースなので、ちゃんとは判っていないのを認めるが、ビザの問題で、収容されて、首を絞められて殺されたりするのは、オーストラリアと日本くらいのものなのではないか。いや、これも、知らないだけかな。
前に、「所詮、本は世界へのガイドブックにしか過ぎないのをおぼえていたほうがよい」と述べた。
へへへ。
実は、いまでも、そう思っているんです。
中世美術の本は、どんなによく書かれた本でも、中世へのガイドブックにしか過ぎない。
でも、だからといって、中世にタイムトラベルするわけにはいかないよね。
出来たら、素晴らしいだろうけど。
中世は、近代全体のプロパガンダで不当に貶められているだけで、暗黒の時代などでは全然なくて、悪魔と神が、いわば整頓した世界で、いまよりもずっと住みやすい理屈で成り立っていたとおもうが、気楽に中世に出かける、というわけにはいかない。
でも(現代の)欧州には行けるでしょう?
ガイドブックを読み耽るのは趣味として悪くないが、それだけでは「教養」と呼ぶには足りない。
「教養」は日本語では、くすぐったいというか半分死語だが、ほんとうは大事な語彙です。
人間が人間であるために必要なものです。
本を読み終わったら、閉じて、空港へ出かけて、本で読んだ文明のなかへ、現実に旅立ったほうがいいとおもう。
そのとき、きみは、自分がどこにいたか、理解するのではないかしら。
日本語人のきみは、日本が、ずっと好きだったことに気が付くとおもう。
一面のラヴェンダーの畑に、ひとつだけ鮮やかな黄色の菜の花、が咲いているような、
「他と異なる」というのは、すごいことなんです。
他と異なる小文明は、たくさんあるが、そのなかで普遍性を獲得するところまで行ったのは、数えるほどしかない。
日本は、紛う方なく、そのひとつで、この灯火に消えてほしくない、とおもっています。
ぼくが日本で、どれほど素晴らしいものを見たか、もっと上手に伝えられるといいのだけど。
Categories: 記事
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