九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

Amazonの欲しいものリストを公開しています。Eメールタイプのギフト券を送れます。
https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/1CJYO87ZW0UPM

 埼玉の県営公園での水着撮影会が中止要請されたり撤回されたりとバタついている昨今です。この件は共産党の県議が申し入れをしたことで、「共産党の表現弾圧」 というストーリーが一部で盛り上がっています。まぁ、いつもの通り反共デマなんですが。(この辺の事実関係については『背景:埼玉県営公園における水着撮影会の中止-表現の自由ファクトチェックwiki』にまとめました)

 ただ、共産党の対応を見ている限り、事態の性質を捉え損なっているのではないかという気もしてきます。殺害予告じみたこともあったようですし、所属する議員や職員を守るという意味でも、ミソジニストに妙な攻撃動機を与えたり印象操作で悪者にされないためにも、この手の問題は党で事例を共有しつつ戦略を練ってことにあたるほうが良い気がします。

 そこで今回の記事では、部外者が出しゃばるようですが、この手の問題を追いかけ、ネットトロールとやりあってきた立場から色々な解説と提案をさせてもらおうと思います。

もはや「地方の地味な活動」ではない

 最初に、この手の問題はもはや「地方の地味な活動」ではなく、全国的に「燃え広がる」、より正確に言えば燃やされる性質のものであることを指摘しておきます。

 これまで一般に、行政の不適切な行為に対する申し入れというのは、重要ながら目立たない活動であったと思います。自衛隊が若者の個人情報を勝手に持っていくような問題に対する申し入れしかり、災害時に不足する支援の拡充を求める申し入れしかりです。こうした話題が全国紙で報じられることは稀で、大体は地方紙かしんぶん赤旗が報じるのがせいぜいといったものだったと思います。こうした、ある種「地味な」問題にもきちんと動く議員には頭が下がる思いです。

 このことは、これからも大半の問題で変わらないでしょう。ネットが発達したとはいえ、地味な問題にスポットライトが当たることは相変わらず稀です。これまでより確率は上がるかもしれませんが、低いことには変わりありません。

 しかし、例外があります。それが今回の水着撮影会のような、「地方の行政における性的搾取事案」とでも総称すべきケースです。このようなケースでは、ネットを介して事例が拡散し、「表現弾圧だ」として「炎上させられ」、全国レベルの話題になることが往々にしてあることを理解しなければなりません。

 今回の件で特徴的だったのが、中止要請された撮影会の1つの運営が、ネットで署名を呼び掛けたことです。これは一見すると奇妙に見えるかもしれません。この時点で既にこの撮影会は開催中止を決めていたはずですし、はっきりとした抗議が公に発信される前に一足飛びに署名の呼びかけに辿り着いているからです。

 しかし、これも前例があることを理解すれば、実はさほど意外ではありません。この手の「地方の行政における性的搾取事案」として直近に話題となったものに、千葉県松戸市がご当地Vtuberを称する(未成年と思われる露出の多い)キャラクターを警察の交通安全ビデオに出演させたケースがあります。この事例でも、抗議をした全国フェミニスト議員連盟宛というかたちで抗議署名が集められました。

 さらに遡れば、地方の行政ではありませんが、ファミリーマートの「お母さん食堂」の名前を変えるように求めた運動に対し、界隈では有名なネットトロール(要するに嫌がらせの専門家)が、不二家のお菓子「ミルキー」に対し「ママの味だけではなくパパの味というフレーズも使え」という署名を集めていました。なお、この署名を集めたネットトロールは、上掲のフェミニスト議連への署名を集めた人物でもあります。

 また、署名ではありませんが、最近の例であれば、女性支援団体への嫌がらせを執拗に行っている人々が、裁判費用と称して多額のカンパを集めているケースもあります。

 こうした戦法は最近になって目立って行われるようになったものですが、この戦略がとられるのはネットで騒動を大きくしつつ、署名数によって自分たちの勢力の人数を誇ると同時に仲間内で盛り上がる、ネットスラングで言うところの「祭り」を起こして楽しむためでもあります。要するに「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の嫌がらせをしながら、承認欲求と幾ばくかの金銭欲を満たすための戦略なのです。

 こうした署名やカンパに応じてしまう人々の心理についてはここでは立ち入りませんが、重要なのは、こうした戦略を主導する人々の動機が私的な欲求の充足であり、そのためには騒ぎは大きければ大きいほどよく、真実に忠実である必要は何もないということです。残念ながら、道徳が存在しないネットにおいてはこうした人々に限って資金やリソースを効率よく集める傾向にあり、逆に自らの欲望の充足のために「騒動」に乗ろうとする人も現れています。

 このような状況下では、行政に対する申し入れはもはや「地方の地味な活動」ではありません。少々大げさに言えば、極右政治家や活動家が各地にある戦時中の加害行為を記念する碑や像を攻撃したり、統一協会系の人々が性教育やセクシャルマイノリティへの権利を攻撃したりする類の、はっきりと組織的ではないかもしれないが明らかに一市民の活動規模を超える勢いでなされる攻撃の一種であるとみなすべきときです。

 (まぁ、実際には、女性の権利が憎い人々はおおむね歴史修正主義者や統一協会関係者と被っているでしょうから、いずれ、あるいはすでに接続はあるかもしれません。女性支援団体への攻撃は自民党の地方議員が扇動している側面もありますし)

 性的搾取であるという批判に対する反発、攻撃、バックラッシュが一市民の活動規模を超える勢いでなされる攻撃の一種であるとするならば、これに徒手空拳で立ち向かうのは不可能であり、無謀です。共産党は高齢化による党員減が課題であるとはいえ、まだまだ全国にしっかりと組織が根付いている稀有な野党政党であるはずです。相手方が一大勢力で攻撃してくるのであれば、共産党も組織を土台としてしっかりと対策を取らなければなりません。性的搾取を看過するという選択肢がない以上それ以外に手はありません。

ネットトロールの特徴を理解しなければならない

 ネットトロールに対応するには、その特徴をきちんと理解しなければなりません。
 といっても、それを説明するのはかなり大変なのですが。彼らの思考回路や特徴は肌感覚で理解するほうがわかりやすいというのが正直なところではあります。

 まぁ、とはいえ、私のように何年もこの手の厄介者をちぎっては投げちぎっては投げしろということもできませんし、そんな時間もないでしょう。ここでは不完全かもしれませんが、こうしたネットトロールの特徴と対策を出来る限り解説することを試みます。

・異常なまでの攻撃性
 ネットトロールの特徴として最初に、そしてしっかり頭に入れておかなければならないのは、その異常なまでの攻撃性です。これは本当に危険であるため、身の安全のために理解しなければなりません。

 彼らの攻撃性を代表するのが、何度も持ち出して恐縮ですが、暇空茜を始めとする人々による女性支援団体への攻撃です。彼らの嫌がらせはネット上でのデマに始まりましたが、ついにはバスカフェへ実際に訪れ妨害するところまで行きました。また、バスカフェへ行かなくとも殺害予告は日常茶飯事、商品の送り付けも頻繁、開示請求した資料から保護シェルターの住所を割り出そうとするなど、悪ふざけから本気で命にかかわる行為までありとあらゆることをするのが彼らです。

 彼らの攻撃性の高さは、手間を惜しまないくせに途方もなく大馬鹿という最悪の特徴を持っています。これは私の事例ではありませんが、私の正体だと思い込まれた人が殺害予告をされた際には(この時点でだいぶヤバいのがわかるでしょう。無関係な人にも思い込みで殺害予告するレベルなので)、暇空に嫌われ攻撃されている別の人物のアドレスを調べ上げてなりすますということまでしています。彼らは嫌がらせのために、常識では考えられないことまでやってのけるのです。実際の殺人に至っていないのが奇跡と思えるほどです。

 このような集団が相手ですから、特に女性議員が行動を起こす際には十分に気を付ける必要があります。殺害予告やその他嫌がらせには毅然とした対応を取り、加害者に責任を取らせる必要があります(それが攻撃者を減らし別の被害を防ぐことにも繋がるでしょう)。

・議論はできない/相手と対等にならない
 彼らは真実がどうでもいいので、彼らを相手にした議論はできませんし、してはいけません。攻撃を誘発するだけです。また、こうしたネットトロールにまともに反論しようとすることは、彼らを自身、つまりまともな議員と対等に扱うことであり、彼らにとってこれほど都合のいいことはありません。嫌がらせをしているだけなのに議員と同じ立場に立てるのですから。ですから、対等に扱うことも避けるべきです。

 水着撮影会の件で、共産党の県議はアベマへの出演を断ったようですが、賢明な判断です。一見するとまともそうなメディアであっても、その内実は女性蔑視にまみれているということは残念ながらよくあります。特にアベマはひろゆきを肯定的に扱うレベルのメディアですから、この件でまともな報道は不可能でしょう。こうした場に出演することも、まともな議員とネットトロールを同列に扱う演出に利用される恐れがあります。

 しかし、言われっぱなしというのも癪でしょう。後述するように、ネットトロールは「自分たちが優位である」という空気感が欲しいので、それを与えることにもなりかねません。なので、出鱈目には明確な反論が必要ではあります。

 この場合に有効なのは、組織としての公的なステートメントとして主張を発信することです。個別具体的な意見に反応しないことで相手を対等に扱わないようにしつつ、誤った風説はしっかりと否定できます。また、個々の議員が個別に応じないことで攻撃を避けられるメリットもあります。

 もし仮に、個々で対応しなければいけない場合は、直接反論することは避けるべきでしょう。引用RTの機能を使用し、自身のフォロワーなどの外部に「こんなひどいことを言う人がいるが、事実ではない」と発信する(ネットスラング的に言えば、ある種晒し上げる)かたちで対応すべきです。あくまで、相手個人に対応しているわけではないことを示すのが重要です。

 なお、相手は真実がどうでもいい類の人物なので、論駁による態度の変化を期待してはいけません。議員に嫌がらせをしてくるような人間はもう手遅れなので、何を言っても無駄です。発信はあくまで、手遅れになっていない人たちに向けることを意識すべきです。

・彼らは勝っている雰囲気が欲しい
 ネットトロールはネット上でのやり取りにおいて、「自分が勝っている雰囲気」を目指していることを理解すべきです。実際に勝つ必要はなく、ただ勝っているっぽい感じが出ていればいいのです。Twitterでブロックされたり反論が途絶えたりすると勝ち誇るのはこうした特徴故の行動です。

 ですから、相手方にこの雰囲気を与えず、常に相手を負け犬に留めることが肝要です。先ほどアベマへの出演を承諾しなかった件に触れましたが、もし出ていれば、ネットトロール側の出演者がわーわーと支離滅裂なことを延々と言い立て、まともな側がその意味を理解できずに茫然としているなかで番組が終わり、ネットトロールが「相手は反論できなかった」と勝ち誇ることになっていたでしょう。というか、これまでもだいたいそうでした。

 リアルタイムの議論において、ネットトロールは無敵に強さを誇ります。そりゃ、デマは言いたい放題、嘘も言いたい放題、主張が180度変わってもお構いなしですから負けようがありません。普通であればこんなもの惨敗もいいところですが、ネットトロール界隈ではこうした行為が負けにカウントされないので無敵です。安倍晋三の国会答弁だと思えばわかりやすいでしょう。

 こうした相手に勝っている雰囲気を出させないのは、実際かなり困難ではあります。ですから、こちら側は隙を作らず相手にまともに応じないのも1つの手になってきます。

事例の集積と論理武装を

 恐らくですが、今後もこのような事例は幾度となく出てくるでしょう。そのたびにゼロから議論するのははっきり言って無駄です。それぞれの事例では共通する点も多く、またネットトロールの反応もだいたい同じですから、これまでの経験を集約し効率的な戦い方をする必要があります。

 幸い、共産党は個々の議員のレベルが高く、組織もしっかりしているので、このようなことはやろうと思えばできるはずです。一支持者としては、ぜひやってほしいというのが正直なところです。そうなれば、水着撮影会のような行為に疑問を抱きつつ問題点を言語化するのが難しかった人たちも助かるでしょう。

 なお、私のこれまでの経験から言えるのは、未成年を性的に扱う行為は問題点が理解されやすく、これを擁護する側の旗色も悪くなりやすいということです。そりゃ大問題ですから当然なのですが、問題だと明らかにしやすい点をおさえてフォーカスを当てるのも戦略的に必要なことでしょう。

 世間は入管法改悪だのLGBT差別増進法だの悪いことばかりですが、こういう時だからこそ、目の前の問題を蔑ろにせずきっちりと解決していく必要があります。そのためにも、共産党の議員の皆さんには頑張っていただきたいと思います。事実、水着撮影会の件だって、申し入れがどこまで効いたかはさておくにせよ、申し入れがなければ我々はその問題を知ることすらなかったわけですから。

 今回取り上げるのは、いわゆる「ポリコレ」について扱った1冊です。著者はそれぞれジェンダー、人種、障害に関する専門家であり、それぞれの立場からポリティカル・コレクトネスの来歴と現在、そして展望を論じています。

簡単な問題ではない

 本書のタイトルからして、ポリコレとは何ぞやというわかりやすい説明を期待しがちですが、本書を読んでもその概念が簡単なものではないことだけがわかるような読後感があります。事実、冒頭からすでに、著者3名の中でもこの概念に対する理解や姿勢に相違があることが率直に述べられています。

 しかし、そもそも当然ではあります。元来ポリティカル・コレクトネスは「法律で規制されるほど明白な差別や問題のある言動」ではなく、その少し手前にある「法律では規制されないが問題だと思われるもの」を批判するための概念だからです。概念の定義や使用され方からして、既に微妙な要素に触れているものであるので、概念自体も微妙なわかりにくさや認識の差異を生じさせるものとなってしまうのは無理からぬものでしょう。

 そうしたわかりにくさの中で、比較的平易にポリティカル・コレクトネスを解説しているのがハン・トンヒョン氏によるものでしょう。氏はポリティカル・コレクトネスを「社会的望ましさ」と規定し、望ましくない表現の程度によって対応させることで解説しています。氏の描いた三角形の図では、下から順に「多様性・配慮に欠ける表現」→「偏見・固定観念を助長する表現」→「差別扇動(ヘイトスピーチ)」と問題があるレベルへと上がっています。そして、それぞれの表現について「多様性・配慮に欠ける表現」にはポリティカル・コレクトネスによる奨励や代案提示(ポジPC)を、「偏見・固定観念を助長する表現」にはポリティカル・コレクトネスによる批判や抑制(ネガPC)を、「差別扇動(ヘイトスピーチ)」には法律や条例による禁止や規制を当てていくかたちになっています。

 直近の例であれば、『リトルマーメイド』で黒人の女優が主演を務めたことを肯定するのがポジPCによる言説でしょう。また、『月曜日のたわわ』が日経新聞に公告を出したこととその内容を批判するのがネガPCにあたります。

 ただし、どのような表現が多様性や配慮に欠けると言えるのか、偏見や固定観念を助長すると言えるのかは判断が分かれるところであり、社会や文脈によっても変化します。そういう微妙さがポリティカル・コレクトネスの難しさであると同時に、表現を扱ううえでは避けられない問題であると言えるでしょう。

「栞を挟む」機能

 表現の是非は常に議論され、社会の中で合意点が見いだされなければいけません。しかし、著者らはポリティカル・コレクトネスに「議論を止める」機能があり、そのような機能にこそポリティカル・コレクトネスの意味があるのかもしれないとも指摘しています。

 著者らの指摘によれば、ポリティカル・コレクトネスはある種の「これは問題だから止めておこう」という前提や共通の合意として機能し得るものです。「とりあえずこれは問題だよね」ということにしておけば、延々と同じ論点での議論を強いられることなく前に進むことができ、これ自体は便利で重要なものです。

 というのも、表現における議論はバックラッシュ、つまりマイノリティの人権を否定する揺り戻しの中で行われ、あるいは揺り戻すことを目的に行われる場合が往々にしてあるからです。「女性を蔑ろにする表現はやめよう」というポリティカル・コレクトネスを気に入らないミソジニストは、その前提を破壊するためにどのような詭弁を使ってでも議論で相手を論破しようとします。そして、目的が前提の破壊であるために、彼らは自身の主張が何度否定されてもゾンビのように立ち上がって延々と同じことを繰り返すのです。

 このような振る舞いは歴史修正主義でお馴染みの光景です。彼らは歴史学の共通理解を否定し、学術的蓄積の一切を否定し続けることで自説を押し通そうとし、また議論を何としてでも続けることで学術的成果に議論の余地があるかのように装うことを目的としています。人々が「ポリコレ棒」という言葉を遣い、表現の自由を盾に暴論を吐くとき、実際に行われているのは表現版の歴史修正主義者のような言動なのです。

 こうした際限なきバックラッシュに抗い、建設的な議論を前に進めるためには、「とりあえずここはもう議論が終わったんだ」ということで議論を止めてしまい、暴論は無視するほかありません。議論を止めることにはある程度副作用もありましょうが、バックラッシュの土俵に乗るわけにはいかない以上、やむを得ないことではあります。

 特にマイノリティは、自身の権利を勝ち取るために戦い続けてきた歴史があります。少数派ですからリソースも少なく、無駄な揺り戻しに時間を割いている余裕はありません。際限なき議論を終わらせるために、「もう今はこういう時代なんだよ」とざっくり切って捨ててしまえることは強力な武器になるでしょう。

 清水晶子他 (2022). ポリティカル・コレクトネスからどこへ 有斐閣

 今回は前々から気になっていた中公新書の1冊です。人がなぜ陰謀論を信じるのかについて研究を続けている政治学者の著者による新書ですが、わりあい研究手法についても踏み込んで書かれており、卒業研究のテーマを探している大学生にもうってつけの1冊かもしれません。(ただ、新書向けに研究手法を説明しようとしてかえってわかりにくくなっている気もしないではない)

測定の難しさ

 本書を一読してまず思ったのは、陰謀論を信じているかを測定することの困難さです。本書では様々な手法で陰謀論への信念を測定していますが、いずれも苦労があったことが窺える内容です。

 例えば、もっともベーシックな手法として、具体的な陰謀論を挙げ、それを信じているか直に聞いてしまうものがあります。「異星人からの接触の証拠は、一般人には伏せられている」などという陰謀論について、「そう思う」とか「あまりそう思わない」といった選択肢を選ばせるということです。

 ただ、この聞き方には色々な問題もあります。この世のあらゆる陰謀論について尋ねることはできないのでどこかで恣意的に項目を決めなければいけないとか、測定した時期によって回答結果が大きく変わりそうだというのもありますが、特に大きな問題だと思われるのが、項目の中に「それもしかしたら陰謀論じゃなくて事実では?」と思えるものも含まれていることです。

 特に象徴的なのは「多くの重要な情報は、私利私欲のために市民から慎重に隠蔽されている」という項目です。恐らく項目としては、政府のような権力者が情報を握りつぶしているというような陰謀論を想定しているのでしょうが、解釈によっては、例えばモリカケ問題における公文書の破棄だとか、直近であればマイナンバーカードの問題を知っていて今日まで明らかにしなかったという問題もこの項目が言うところの「隠蔽」に該当し得ます。

 この辺は、項目のうち「多く」とか「私利私欲のため」とか「慎重に」と言った言葉の解釈にもよるところでしょうが、陰謀論を測る尺度の中に事実を認識していても「そう思う」と回答できる項目があるのはいただけない気がします。

 また、流石に日本では陰謀論でしょうが、「政府は、罪もない市民やよく知られた有名人の殺害に関与し、そのことを秘密にしている」も、著名なジャーナリストを殺害した国もあるわけですから、国によっては陰謀論ではなく事実だと解釈される可能性があります。面白く難しいところでしょう。

 ちなみに、先ほどの異星人云々の陰謀論を信じている人は25%ほどいるようです。どの陰謀論もおおむね20%くらい信じられていることが多く、この結果だけを見ると人類の知性に絶望したくなる気持ちもわいてきますが、それも早計でしょう。この中にはトランプ支持のデモ行進をしちゃうような人と「宇宙人とかいるんじゃない?知らんけど」レベルの人が混在していると考えられ、後者を陰謀論者と呼んでいいかは疑問が残ります。こういう問題も難しいところです。

 なお、先ほどの隠蔽に関する陰謀論を信じている人は40%を超えており、やはり単なる事実として理解されているのではという気がします。

Twitterと陰謀論、意外な結果

 本書ではSNS利用と陰謀論の関係も検討されています。特にTwitterと言えば、暇アノンの大暴れもあって陰謀論の元凶であるかのような気もしてきます。ですが、本書の研究では、Twitterの利用と陰謀論には関係がなく、それどころかTwitter利用は陰謀論を信じる可能性を減らすかもしれないようです。

 どうしてそのような結果になるのか、著者は更なる研究を進め、Twitter利用が「他人は陰謀論を信じやすい」という信念、いわば第三者効果を強くすることを示しています。つまり、Twitter利用は陰謀論を信じやすくしないが、他人が陰謀論を信じるものだという信念は強くするという関係にあるようです。まぁ、暇空のような極端にバカみたいな陰謀論者のアカウントが、イーロン・マスクの改悪によって四六時中TLに出現するようになれば、そういう信念を抱くようになるもの当然だとは思います。実際、目の前に陰謀論者がいるわけですから。

 また、個人的には、一口にSNS利用と言ってもその形態に多様性があることも要因である気がします。確かに、暇アノンや一時のQアノン、反ワクチン、レイシストのように陰謀論を内輪で強化し続ける不健全な利用もありますが、実際には多くのアカウントが「ノンポリ」な利用法、しかも個人的な知り合いをフォローしあうFacebookの延長のような使い方をしているのではないかと思います。そう考えると、我々が抱くSNS利用のイメージと実際との間に乖離が生じていても不思議ではありません。

世界の解釈としての陰謀論

 本書の知見としてもう一つ興味深いのは、人々の興味関心のうち、政治的な関心は陰謀論の受容に結びついてしまう一方、日常への関心はその逆であるということです。これは恐らく、陰謀論が世界の様々な物事を解釈する機能を有することと関係するのでしょう。

 実際、陰謀論というのはたいていの場合、大仰です。ナニカグループが暗躍しているという陰謀論はありますが、自分の周囲で誰それが悪さをしているんだというようなスケールのものは、あったとしても陰謀論とは呼ばれないでしょう。

 関連して、特に左派では、選挙での敗北を解釈するために不正選挙の陰謀論が信じられがちであることも指摘されています。日本では左派が弱いためこの陰謀論はおおむね左派で信じられているものですが、アメリカではトランプが敗れた際に同様の陰謀論があったことは未だに印象的です。

 裏を返せば、日常を過ごすだけであれば人は陰謀論を必要としないのでしょう。コロナ禍はそうした日常が否応なく「世界的」「政治的」な潮流に巻き込まれる事態であり、そのことが人々を陰謀論への惹きつけてしまったのかもしれません。

 秦正樹 (2022). 陰謀論 民主主義を揺るがすメカニズム 中央公論新社

↑このページのトップヘ

ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
詳細はライブドア利用規約をご確認ください。