「宅間守」と「学校の責任」のすり替え

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命日反応のように毎年この重苦しい6月8日がやってくる。反吐が出るほど、学校の責任についての記事が書かれ、宅間守の名前は出てこない。マスコミとは所詮は代筆屋であり、誰かの情報で記事を書くわけだ。池田小事件だと弁護士が情報源なのであろう。世論を動かすことで法的責任が変わってしまう根源的な問題である。そもそも7年後の同日に行われた秋葉原の加藤智大の事件では被害者遺族が出てこないし、つまり、誰かの過失を問えないのであろう。宅間守とか加藤智大を逆さにして振っても一円も出てこないから、なんらかの過失責任を他所に求めるのは弁護士の戦法なのであろうが、なぜ世間がそれにお付き合いしなければならないのか、ということである。この問題について指摘する人がほとんどいないのも、著名な文化人からすれば「学校のせいにした方が安全」という保身もあるだろう。お金があるところを攻めるという論法にお付き合いしているのである。つまるところ、池田小被害者の遺族は「金目当て」なのだが、金目当てに事件に巻き込まれたわけでもないのは、言うまでもない。事後的に「金目当て」になるだけである。果たして遺族は宅間守への怒りはないのか。弁護士の指導の元に、遺族が事後的に金目当てになることについて、われわれはよくよく考えなければならない。最初から金目当てで犯罪に巻き込まれる人はいないが、巻き込まれたからには賠償金を取り立てようとする、それ自体は至極当然だとしても、やはり胡散臭いのである。なぜ宅間守に責任を問わないのか、(お金がない人に責任を問うても仕方がないので弁護士的には当たり前だが)、お金さえ出てくればいいのか、と言いたい。狙いやすいターゲットを狙うというのでは宅間守と変わりがない。
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