第17話 「ぽっかりと空いた穴」



 夏の夜風が少し凍える公園。

 オレは手を伸ばしたまま滑り台の頂点で固まっていた。


「おいマジかこれ、どーすんだ」


 逃げられた、と言ったらいいのだろうか。フラれた、でないだけマシだろう。


 なぜ、どうして。どこから話がおかしくなってしまったのか。さっきまで普通に思い出話に花を咲かせていたはずなのに。


「苗字が変わったってことに、異常に反応してたよな……」


 わざわざ向こうから聞いてきたくらいだ。何か重要な問題だったのだろう。

 さすがにこれだけの条件が整っていれば、見えてくるものはある。

 小二以前、オレが引っ越す前、こっちの地域に住んでいたことが関係あるのかもしれない。


 そして必然、彼女が怒った理由を照らし合わせてみれば、


「昔、オレたちは会っていた?」


 自然、結論はそうなるだろう。

 ごくごく普通の、テンプレートみたいな答えだ。

 彼女が一目惚れしたとかいう中学生時の一件よりも、さらに前、もっと幼い時に。


 …………ここで思い出せればどれだけよかっただろう。


 だが、どれだけ頭を振り絞っても、出てくる「以前」の思い出は、父さんとの記憶、小学校ではしゃいでた記憶、その二つが大部分を占めている。


 もう高校生なのだ。小学校低学年の思い出なんて、美化された一部しか残っていないのも当然。


 もしも、時雨とオレが親しく仲良く遊んでいた仲だったというのなら、絶対に記憶の片隅に残っているはずなのだ。


 けれど、わからない。

 全くもって、思い出せない。


「これでよく似た他人だったというオチはねーだろうな」


 全てが勘違いからだったなんて、そんな悲しさは——。


 ……いや、どっちだっていい。昔に何があろうと、今さっき、オレと話していた時雨が、オレの中での時雨だ。


 告白され、買い物に行ったり、料理を作ってもらったり、お祭りに行ったり。

 それらを共にしたことに、嘘偽りは絶対ない。


 ……とはいえ、過去はどうでもいいだろで終わる話だったのなら。オレたちって昔からの知り合いだったの? と聞いても素直に答えてくれるのなら。時雨はいきなり、逃げ出したりはしないのだ。


 どうする。思い出した、って演技をするか。いや、ダメだ。思ってもないことをつらつらと語れるほど、オレは名優ではない。下手な演技は藪蛇だ。


 せめて、せめて何か思い出すきっかけやヒントがあれば————。


 そこまで考えて。


 ヒント。ヒントとは、誰かから授かるものだ。そしてヒントを出せるのは当該事実を知っている人物。

 幼少期のオレのことを知っている人物!


 なんのことはない。

 毎日、会ってるじゃないか。



 四コール目くらいでお目当ての相手に繋がった。


「もしもし、母さん。ちょっと聞きたいことがあって。今、いける?」


 割と真面目に、自分からかけるのは初めてなような気がする。


『何よ。今電車の中だから喋れないんだけど』


 さて。どこから突っ込めばいいのだろうか。めちゃくちゃ小声で、ガタンゴトン聞こえるから本当なんだろうけど。


 たしか、夕方から友達とディナーに行くとか言ってたのも、同時に思い出した。


「降りれる?」


『え、めんどくさ。今じゃなきゃダメ?』


「今じゃなきゃダメ」


 時は一刻を争うのだ。


『なんなのよ、一体。次の駅もうすぐ着くから待って』


「うん」


 オレの思いがどれだけ伝わったのかわからんが、じゃあなしとばかりに了承してくれた。


 待つこと一分少々。


『で、あんた。デートはどうだったの?」


「今聞く? まぁ、半分成功、半分失敗ってとこだ」


『はあ? ……あー、喧嘩でもしたの? そーいう時は早めに男の方から謝っときなさいよ』


「だから、謝る前に聞いときたいことがあるんだよ。……小学生の時の、引っ越しする前ってさ、オレってどんな奴だった?」


『どんな……? そんなのあんた自身が一番わかってるでしょ?』


「わかってないんだよ。なんか大事なこと忘れてる気がしてさ。女の子の知り合いとか、いなかった?」


『女の子ぉ? 知らないわよ、そんなの。ママ友付き合い自体、全然なかったし、他所様の子なんて覚えてないわ』


「そっか……」


 仕方ないっちゃ、仕方ない。


 一〇年近く前の子供の友達なんて、いちいち覚えてたりしないか。ていうか、覚えてたらさすがに今日、会った時に気づくよな。……いや、待てよ。あの時時雨はだいぶと大胆なメイクをしていた(らしい)。それで気づかなかったという線もありうる。


「一〇年も前だしな」


『だいたいそうじゃなくたって、引っ越し前なんて事故のことしか覚えてないわよ』


「そう……だよな。ごめん、思い出させて」


「別にいいわよ。済んだことだし、それこそ事故だし。あんただけでも生きててくれたから、こうして話ができるんだから」


 ……そう。一〇年前。

 小学一年生の終わり頃。

 オレは事故にあった。


 父さんと一緒に、アニメ映画を観に行く途中で。車で、ドカン。なんてことない対向車との接触事故だ。


 ただそれが運悪く二トントラックで、運転席側がぐちゃぐちゃになったことだけは鮮明に覚えている。正直、血みどろで動かない父のことよりも、頭を強く打ったショックの方が大きかった(後の検査では、特に後遺症とはなかったようだが)。


『あの時はほんと、生きた心地がしなかったわねー』


 それこそ今は明るく言っているが、オレだって今だからこそわかる。当時の母さんの心境は、地獄だっただろう。


 不意だったが、今生きていることの奇跡を実感する。


 オレ自身に影響があったとすれば、観に行く予定だった作品がなんだったのか、全く覚えていかったことぐらいだ。一日分どころか一週間分くらいの記憶がすっかりと飛んだ。ただそれだけ。


 言うなれば、ぽっかりと空いた空白の一週間。

 どれだけ過去を探っても一片も思い出せないのはそこだけ。


 そこだけ——。

 まさか。まさかな?


『あ、そーいえば』すると、母さんが思い出したような声をあげた。『あんたさっき、女の子がどうだって言ってたわよね』


「ああ。昔……なんか女の子の友達がいた気がするなって思って」


『喧嘩の原因ってそれ? ……まあ、いったん置いといて。翔が病院で意識を取り戻した時ね。ずっとつぶやいてたのよ。「しーちゃん」、って。たぶん、女の子よね。その後じゃないの、あんたが言ってる子』


 しーちゃん。

 し。し?

 おいおい、こりゃあいよいよ。


「あんたが意識取り戻してから聞いた時は、覚えてないって言ってたけど。……ねえ、ひょっとしてその子と偶然、再会したとか? それで時雨ちゃんと喧嘩しちゃったり? どう? 当たりでしょ』


 母さんは水を得た魚のように生き生きとし始めたが、オレは「しーちゃん」に囚われていた。

 知ってる? いや、知らないんだけど。けれど。



『かけるくん。また、お話ししようね』



 そんなイメージが、チラつく。


「……ッ」


 なんだ、これは。

 待て。どこだここは。そうだ。ここだ。この公園の滑り台、この場所で。


 ——ダメだった。シルエットは浮かんでいるのに、声は一瞬、聞こえたのに。霧散してしまった。


 あれは、時雨だったのか?

 記憶には残っていない。


 でも、たとえ記憶を無くしているのだとしても、「心」には残っているのかもしれない。


 だから、一瞬だけでも頭をよぎったのだ。

 彼女の声と、姿が。


 十分だ。もう、すぐに、思い描けなくなってしまったけど、あの一瞬だけでも十分。

 問いを投げかける理由にはなる。


 母さんが何か言っているが、ほとんど入ってこない。


「ごめん。時雨に謝りに行くからそろそろ切る」


『あ、そう。じゃ——』


 いちいち付き合わせたうえで悪いが、これ以上長引かせるのもあれなのでぶっちぎる。この埋め合わせは、母さんの好きなクッキーでも買っていくことで埋めるとしよう。


 オレは走るように滑り台を降りて、駆け出した——。


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