第6話 「名前を、呼んで」
はっきり言ってオレは、このショップで買いたいものがあるわけじゃなかった。
店舗限定特典ポストカード——的なものがあることは重々承知ではあるが、オレはよっぽど好みの作品でない限り自重している方だし(正直、集め始めるとキリがないというのもあるが)、どちらかといえば、マーケットから流れ出た同人誌とかを漁りたいタイプだ。
とはいえ、もうちょっと見てきて良い? という一ノ瀬の言葉を聞いて頷かない選択肢などない。
……ただ、ここでオレの経験の少なさが露骨に出る形となった。
女の買い物は長い。
そんな当たり前のことをオレは知らなかったのだ。
占めて「六時間」。
もう一度言おう。六時間だ。
初めてであるという補正が働いたのだとしても、何十冊もの書籍類を躊躇なくぽんぽんとカゴに入れていく一ノ瀬に、オレは従順な僕の如く付き添った。
『いやー、ついついね。あ、これもいいなぁ』
そうやって本当に楽しそうに笑う彼女を、どう止めるというのだろう。
まあ、少し前に話題になった「爆買い」を地で行くような姿を平然と晒しているのを見て、なんか違う意味で恥ずかしくないの?とは真剣に思ったが。
ともあれ、大量のビニール袋をほくほく顔で背負った一ノ瀬を、これ以上余分に歩かせるのはどうかと踏みとどまったわけだ。
本当はいろいろ、午後のプランも考えていたわけだけど……しょうがない!
「お、重い……」
店を出て、エンターテイメント施設が立ち並ぶ通りを、鈍重に進みながら一ノ瀬は言った。
「当然だな。結局、何冊買ったんだ?」
「レシート、本の上にあるから、見て」
「お、おう」
袋内で積み重ねられた書籍の上のレシートを手に取る。下方を見る。
『合計:84点』
「買いすぎだろ……」
「やっぱり?」
「……というか、半分……いや、七割寄越せ。持つから」
「だから、いいって。あたしが買ったものなんだし」
「なんでそこだけ変にプライド高いの?」
レジを通す前から幾度となく持ちかけているのだが、謎に強情で、自分で全て持とうとする一ノ瀬。
「ったく、もう」
「あっ」
背後から思い切って、荷物を掠め取ったのだ。
指を赤くしながらぷるぷる震える一ノ瀬を見て、さすがに男として看過できないところまで来ていた。というよりね。周りからの視線がやばいんですよ。サイテーって声が、目線から聞こえる。
「いいって言ったのにー」
プクー、と可愛らしく頬を膨らませる一ノ瀬は、それはそれで眼福であったが、ぜえはあと息を荒くしていては素直に喜べないというものだ。
「見てられなかったんだよ」
「でも……自分のだし」
「…………?」
少し小さくなった一ノ瀬の声には疑問を持ったが、尋ねる前に、「まあ、弥生だからいいよね。おんなじだし!」と、むしろ押し付けてくるように荷物を任されたので、曖昧に頷くしかできない。
「あー、楽になった」
手をにぎにぎとほぐす一ノ瀬。
「……疲れてるみたいだし、ちょっと座ろうぜ」
ちょうどよくベンチを見つけたので、袋を持ちつつ指を指す。オレにしては珍しく、強引に進めた。いやまあ、何も持ってなかったとしても歩き疲れていたので、正直休みたかった。
「……あ、なんか手が痺れてきた」
圧力をかけすぎて正座した後の膝状態になっているであろう手を擦りながら、一ノ瀬もオレの隣に座る。
しばらく呼吸を整えてから、オレは聞いた。
「もう八時前とかになっちまったけど、時間は大丈夫なのか? ほら、門限とか」
オレは男だからいいとして、女の子の親は厳しかったりすると聞く。
「うん、平気。お父さん帰ってくるの、いつも一〇時とかだしね」
「ふーん、親父さんはなんの仕事してんだ?」
「塾の講師。だから勉強に厳しくてさー、テストを見せる時とかヒヤヒヤだよ」
うー、と何かトラウマを思い出したかのように苦い顔をする一ノ瀬。
「まあ、意外とうちの学校、テスト難しいからな」
別に進学校というわけでもないが、我が母校、浜町高校の偏差値は平均よりも上の部類だ。よくよく考えてみれば、日本語能力が怪しい一ノ瀬がこの高校に入学できたのも、父の教育の賜物なのかもしれない。
「そうそう、大学受験とか考えるともう、嫌になっちゃう」
「大学なー。一ノ瀬は決めてんの?」
「んーん、全然」
「だよな。まあ、オレらは二年だし、まだ先でいいよな」
「そうだよそうだよ」
全くもって無計画だが、だいたいの高校二年生なんて、こんなもんだと思う。
……そしてしばらく、勉学についての愚痴を言い合った……。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
言って、オレは立ち上がる。
「だね」
一ノ瀬も後に続いた。
初夏とはいえ日が落ちきった時間に、一つの場所に留まり続けるというのは肌寒い。
「デートのセオリーというか……荷物的に、家まで送ろうか?」
なんとなく反応はわかりつつも、一応聞いてみる。
「うーん、気持ちは嬉しいけど、ごめんね。駅まではお願いしようかな」
「了解」
気合入れて踏ん張り、総重量五キロは超えてるであろう四つの袋を持ち上げる。「やっぱり男の子だね」と楽しそうに一ノ瀬が言ってくれるのは、オレも嬉しい。でも、さっきの遠慮は一体なんだったんですかねえ。
聞いても答えてくれなさそうなのは……なんとなくわかっていた。
そうして、駅の入り口。彼氏冥利に尽きる運び屋の仕事を完遂し、お別れの時間となった。
時間が時間なので晩飯についての話もあったが、一ノ瀬はお父さんのご飯を作らにゃいかんらしい。思わぬ家庭的な面を見れたのもあったし、今度は弥生にも作ってあげるねと言われた。
もう、今日オレ、晩飯いらねえわ。この思い出だけでいい。
「お疲れ、弥生。楽しかったよ」
「ああ。オレも初めて女の子と遊んだけど、楽しかった」
楽しい。本当にその一言に尽きた。
「……ほんとに、女の子と遊ぶの初めてなの? 小さい時も?」
「あー、そりゃあったかもしれないけど、そういうのはノーカンだろ?」
「女の子は何歳でも女の子なんだから、同じように扱ってあげなきゃかわいそうだよ」
「はいはい。気をつけます」
その理屈だとオカンと何回デートしてんだって話だけどな。
「よろしい」
でも、一ノ瀬は満足げに頷いた。
「……。じゃあな、一ノ瀬。また月曜日に、学校で」
そこでは話すことはないかもしれないけど、また会うことに変わりはない。
「……時雨、だよ」
一ノ瀬はぽそりと言った。
「へ?」
言葉は当然聞こえていたが、意味を理解できない。
「急にどうした、一ノ瀬」
「だから、時雨だって」
少し照れたような声で、彼女は再び言う。
「だからって……あ、まさか」
「そうだよ。ばか。鈍感男。名前で呼んでってこと。恋人なんだから」
「お、おう……」
なるほどなるほど。いや、意味は分かりましたが、しかし。
オレにはハードルが高い話なのですが。
一ノ瀬の瞳は、それはものすごく真剣で。
「……しぐれ」
「……っ。もう一回」
「時雨」
「もっと!」
「一ノ瀬時雨」
「なんでフルネーム⁉︎」
限界だった。
「すまん、ちょっとマジで、恥ずかしい」
想像以上にくるものがあった。
なんで。世の一般高校生男子は、女の子のことを呼び捨てになんてできるのだろう。それとも、オレが初心なだけ? ほんと、誰か教えてください。
「恥ずかしいかなぁ。でも大丈夫、あたしもちゃんと弥生のこと、カケルって呼ぶよ」
「いやそういう問題じゃなくて……」
ちなみにそれ、余計にクリーンヒットしてます。
……嫌じゃないけど。
「もしかして…………カケルくんとかの方がいい?」
「あ、いや。カケルでいいです」
なんか一気に幼くなった気がするので、それは避けたかった。
「そ……。じゃあ、あたしのことも時雨って呼んでね。じゃないとカケルちゃんって呼ぶから」
これも、口調と声音が
「わかったよ。これからは……名前で呼ぶ」
でも、確かに恋人だと、それが「普通」であることに変わりはない。
距離感は大事だ。これからも彼女と付き合い続けていくというのなら。
一番最初の、簡単なステップだ。
「あ、でも! 絶対に絶対にぜーったいに、学校では呼ばないでよ⁉︎ 言ったらギッタンギッタンにして口封じするから‼︎」
怪しい日本語で一気に捲し立てられる。
「わかってるよ。絶対に呼ばない」
オレも半ば自分に言い聞かせるように言った。
呼んでしまったら最後。オレたちはあのクラスにいられない(精神的に)。
「本当に頼んだからね。……じゃあね、カケル」
「おう、……時雨」
今度こそ自分の意思で、彼女の名前を呼んだ。
ふふっ。
笑って、時雨は去っていった。
………………なお、これは両人とも知る由もないし特に知る必要もないお話だが、彼らが中学生時代のお話の顛末は、こうだ。
当時の翔はかなりの高熱を発症しており、満身創痍の状態であった。視界がぼやけてまともに見えてなかったこともあり、「顔力」を最大に発揮して圧力に押された不良は退散となったわけだ。
お礼を言う時雨に名前をあっさり答えたのも、正常な判断能力が失われていたからであった。
だから弥生翔が、一ノ瀬時雨との遭遇を覚えていないことは全く持って当然の話であるのだが…………。
——真実は一つとは、限らない。
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