この記事は、BuzzFeed Newsが独自に実施した調査のパート4である。パート1はこちら、パート2はこちら、パート3はこちらから。
このプロジェクトは、ピューリッツァー危機情報センター、オープン・テクノロジー基金、ECFJ(Eyebeam Center for the Future of Journalism、ジャーナリズムの未来のためのアイビーム・センター)の協力のもとで行われた。
中国とカザフスタンの国境沿い。山並みに囲まれ、人里離れた場所に、ある秘密が隠されている。一帯に住むイスラム系少数民族を、何千人という規模で拘束する目的で建設されたハイテクな強制収容所が、急速に増設されているのだ。
中国・新疆ウイグル自治区のイリ・カザフ自治州モンゴルキュレ(昭蘇)県にあるこの収容所は、2017年に建設が始まった。しかしそのほとんどが包み隠されている。
グーグル・マップの中国版「百度地図(バイドゥマップ)」に表示される衛星画像からも、かなりの部分が削除されている。
BuzzFeed Newsが元収容者たちに聞き取り調査を行い、施設完成までの流れを建築上の観点から徹底分析した結果、謎に包まれたこの施設の真の姿が見えてきた。
急速に拡大しているイスラム教徒の強制収容所。生還者は「恐怖心」から実態をあまり語らなかった。
窓から外を眺めることさえ許されない収容者たちの生活。彼らが詰め込まれている狭い監房や、孤独な独房――。その詳細が明らかになりつつある。
この巨大な収容所は、サッカーピッチ13個分の広さがある。それでも、第2次大戦以降では最大規模となる、少数民族と宗教的少数派を対象にした大量拘束活動の一端にすぎない。中国西部の新疆ウイグル自治区ではこれまで、ウイグル人やカザフ人を含むイスラム教徒が100万人以上拘束され、施設に収容されてきた。
中国政府は公式発表で、収容されていたイスラム教徒を釈放したと主張した。しかしBuzzFeed Newsが調査を継続し、多数の元収容者への聞き取り調査と、多くの衛星画像の分析を行った結果、中国政府が新疆ウイグル自治区で、拘束者を大量に収容できる広大かつ恒久的なインフラを建設している様子が明らかになった。
大量拘束が始まった当初は、既存の公共施設を収容所代わりに使用していた。こうしたインフラ建設は、中国が大きく方針転換した証拠になる。
BuzzFeed Newsは、拡大を続ける中国の収容所ネットワークの全容を明らかにしたが、それと同じ手法を用いることで、この記事ではひとつの収容所の内部構造を解明している。この収容所はモンゴルキュレ県にあり、長期拘束が可能な収容所の特徴を備えている。合わせて数十万人もの人々を収容して国に服従させ、働かせることができる、260カ所以上で新たに建設された施設のひとつだ。
立ち入りが禁止されている収容所内の実態はこれまで、ほとんど知られていなかった。ひとつの収容所の中がどうなっているかについては、さらに謎に包まれている。
その理由のひとつは、恐怖心だ。
収容所から生還した元収容者たちの圧倒的多数は、いまも新疆ウイグル自治区で常に監視下に置かれ、再度の拘束におびえながら暮らしている。
その家族や、同じ地域に住む多くのイスラム教徒も状況は同じだ。口を開いた元収容者もいるが、自分がどの収容所にいたのかを覚えている人は少ない。在宅時に頭に布をかぶせられて連行され、収容所を転々としたためだ。
BuzzFeed Newsがモンゴルキュレ県にあるこの施設について初めて情報を得たのは、他国に逃れた元収容者3人が、収容所内の様子を語ってくれたときだった。彼らは自身や家族に危険がおよびかねない状況でありながら、口を開いてくれた。
BuzzFeed Newsはその証言内容と、2006年に撮影された衛星画像をもとに行った構造分析を総合し、収容所をデジタルで再現。施設の目的と規模の解明に成功した。
この記事では、中国の新疆ウイグル自治区モンゴルキュレ県にあるひとつの収容所を取り上げ、人々を拘束して人間性を奪うことを目的に建設された専用施設を、収容者の視点から詳しく紹介する。それぞれの描写からは、この施設が収容者を完全に支配・管理するべく入念に計画されたことが見えてくる。
監房と教室、廊下には監視カメラとマイクが仕掛けられており、母語での会話など、ほんの些細なことでも規則に違反すれば、暴力を伴う懲罰を受けかねない。
政府側の管理者らは、収容者の一挙一動に対し、徹底して権力を行使する。収容者は背筋をぴんと伸ばして座らなくてはならない。頭は垂れていなくてはならない。廊下を歩く時は、床に引かれた線から外れることさえ許されない。新鮮な空気は吸えず、刺激もほとんどなく、ひたすら監禁状態に置かれる。
「中国政府が何よりも優先するのは、政治的な忠誠、つまり服従」
元収容者の3人が全員、カザフ語で会話をするといった些細な規則違反で殴られたことがあると語った。週に1度は尋問を受け、同じ質問を繰り返し聞かれた。
「どうしてカザフスタンに行ったのか」「そこにはどんな知り合いがいるのか」「信仰は何か」。中国共産党への忠誠を強要され、「反省文」を書かされ、最後に署名させられたこともあった。
しかし、彼らが何よりも強烈に記憶していたのは、犯罪者扱いされたことに対する屈辱だった。何週間も監禁されたが、彼らはいかなる罪にも問われていなかった。
この記事の執筆にあたって、BuzzFeed Newsが在ニューヨーク中国領事館に質問状を送ったところ、次のような回答があった。
「新疆ウイグル自治区における課題は、暴力的なテロリズムと分離主義者を阻止することだ。われわれは、新疆ウイグル自治区に関して噂を撒き散らす人々が、ダブルスタンダードを使って中国の内政に干渉するのをやめるよう願っている」
習近平・国家主席が率いる中国政府はこれまで、収容所は教育や職業訓練を目的としたものだと説明してきた。また、新疆ウイグル自治区当局は2019年12月、収容者らは「卒業した」と発表した。しかし衛星画像からは、その発表の後も新たな施設の建設が進んでいることが分かっている。
国際的な人権NGO、ヒューマン・ライツ・ウォッチ中国部長のソフィー・リチャードソン氏は、次のように語る。
「中国政府が何よりも優先するのは、政治的な忠誠、つまり服従です。そして当局の目には、チュルク系イスラム教徒が持つ別種のアイデンティティが、深刻な脅威として映っているのです」
「中国政府のやり方には、どんな人でも震え上がるでしょう。膨大な数の人々を、法的手続きを一切無視して拘束しています。そして徹底的に脅迫した上で、母語や宗教・文化を捨て、拷問者である国に忠誠を誓った場合にのみ釈放するのです」
元収容者の男性3人が、収容所での体験を吐露。
調査に協力してくれた若いカザフ人男性3人は、中国政府がイスラム系の大量拘束を開始した直後、モンゴルキュレ県で数週間にわたって拘束されていた。
当時の収容所はひとつの古い建物のみで、収容できたのは300人ほど。分厚い壁で囲まれ、監視塔が複数あった。外部には、付属の小さな建物がいくつかあり、そのさらに外側には、草原や馬の牧場、雪を頂いた山脈があった。
そこに入れられていたのは主に、罪に問われて裁判を待つ地元住民だったが、カザフ人の3人は誰も、裁判所の内部を目にすることがなかった。3人とも釈放されたからだ。とはいえ、自由だったのはほんの束の間だった。
3人は2017年後半に同じ施設に戻されたが、様子が以前とあまりにも違っていたため、そこを「新しい場所」と呼ぶようになった。
釈放中にまったく新しい建物が建設されており、灰色の壁が高くそびえていた。通路はフェンスで囲まれており、そのてっぺんには有刺鉄線が渦を巻くように張りめぐらされていた。
彼らは「新しい場所」に何カ月間も拘束された。高解像度の衛星画像を見ると、その収容所は、3人が最初に釈放された後に拡張され、もとの10倍以上の規模になっていたことがわかる。
2018年秋になると、「新しい場所」は3700人が収容できる広大な複合施設の一角になっていた。中国の国勢調査「全国人口普査」によれば、モンゴルキュレ県の人口は18万3900人にすぎない。
つまり、モンゴルキュレ住民の50人に1人をその複合施設に収容できるということだ。青い屋根の工場が6つあり、収容者を働かせることもできる。

カザフ人男性3人は、モンゴルキュレ県の収容所がある地域で育ったため、近辺の地理に詳しい。そのため、グーグルの使用が検閲されている中国を出国したあとでも、グーグル・アースでキャンプの位置を特定することができた。
3人とも、自分が収容所に連行されたのはカザフスタンに住んでいたからに違いないと考えている。中国政府はカザフスタンでの居住経験を、忠誠心が分裂している兆候とみなすのだ。
3人は出身地が同じで、収容所にいた時期も一部重複しているが、釈放されるまで面識がなかった。しかし、それぞれの証言の重要なポイントは互いに一致している。いまも自治区に住む家族に危険が及ぶことを不安視し、3人とも匿名を希望した。
独房や教室内部の様子…。BuzzFeed Newsが過去に行った衛星画像の分析結果を、3人の目撃証言が裏づけ。
この記事では、1人はニックネームの「ウーラン」、ほかの2人はイニシャルで「O」「M」と呼ぶ。彼らはみな、生き延びて収容所での体験を証言できる日がいつか来るのだろうかと考えていたという。そこでの恐ろしい体験で、心に深い傷を負ったと明かした。
衛星画像は、3人が目撃した衝撃的な証拠を裏づけている。また、彼らが釈放されたあとにモンゴルキュレ県の収容所が急速に拡張された様子を、細かくとらえた記録でもある。
高解像度の画像では、収容者たちがごくたまの運動のために連れ出された中庭や、有刺鉄線が張りめぐらされた中庭の囲い、衛兵詰め所から本宿舎の建物へとつながる通路、外壁の色などが見て取れる。
BuzzFeed Newsは、建物正面の壁に並ぶ窓の数をカウントし、教室ひとつと階段のスペースを差し引いた。そうすれば、各階にある監房の数がかなり正確に推測できる。
ほかの強制収容所内部を撮影し秘密裏に持ち出された動画では、通路や、監房のドアとそこに取り付けられた鍵など、どこも様子がかなり似ていた。この記事の3Dモデルは、これらの情報や手法を駆使し、BuzzFeed Newsが生成したものだ。
こうしたデータやインタビューの内容を総合すると、新疆ウイグル自治区にある主要な強制収容所の内部がどのように機能しているのかが、完全に近いかたちで浮かび上がってくる。
中国政府による大量拘束活動が、いかにしてカザフスタンとの国境沿いに位置する人里離れたこの地域を威圧したのか。草の生茂る山々や花が咲き誇る草原の景色を、収容所の高い壁がどう破壊したのかが明らかになった。
中国の国営メディアによれば、モンゴルキュレは神話を思わせるような美しい場所で、夏期には虹を見るのに「最適な環境」だという。
ペガサス(天を駆ける馬)の故郷として毎年お祭りが開かれ、黄色い菜の花が一面に咲き誇る。ところによっては道路が整備されていないほど辺ぴなため、警官が馬に乗って草原をパトロールすることもある。
モンゴルキュレ県を抱く広大な山並みは、一帯を吹き荒れるタクラマカン砂漠の風を防いでいる。夏には、地元住民や観光客が緑あふれる山々に出かけ、常緑樹が並ぶ道をハイキングする。
インスタグラムには、「昭苏县(モンゴルキュレの中国表記)」とタグがついた旅行写真が投稿されている。
春の雪解けは遅いが、4月はじめにはすっかり消えて、一帯は鮮やかな緑の草原へと一変する。9月になると農夫たちが収穫を始め、その数カ月後には再び雪が降り始める。

カザフスタンに留学していたウーラン。中国に戻ると、空港で即座に拘束されてしまった。
ウーランは、モンゴルキュレで育った。実家は小さな穀物農家で、両親はウーランと違ってあまり教育を受けていなかった。ウーランは中国語(普通語)が話せるが、若干のなまりがある。農業を営む周辺住民と同じように、母語はカザフ語だ。
幼いころは、夏になると背の高い草の生えた原っぱで乗馬を楽しんだ。少年のころ、家ではいつも、90年代アメリカのラップを聴いていた。
ヒップホップ歌手2パック(トゥーパック)の曲でアメリカの人種に関する英単語を知ったが、まさか自分が大人になってから少数民族の一員として扱われるようになるなど想像すらしていなかったという。
「差別されたことなんて一度もありませんでした。通っていた学校も、地元の警察も有力者も、モンゴルキュレ当局の中国共産党幹部も、みんなカザフ人でしたから」とウーランは振り返る。「教師も90%がカザフ人でした」
しかし2008年頃から、中国の漢民族がモンゴルキュレに移り住むようになったと元住民たちは記憶している。そうして、地域文化が変わり始めた。
モンゴルキュレ県の大半は農地だ。畑は細い帯状に分かれており、交互に色の違う作物が植えられている。主要都市モンゴルキュレの町には、複数の銀行とレストラン、郵便局と仏教寺院がひとつずつある。農場では、芋と小麦が栽培されている。元住民によれば、リンゴを育てるには寒すぎる気候だ。
中心部には、かつて第一中学校と呼ばれ、その後は「曙光第一中学校」(曙光は「夜明けの光」という意味)と改名された古い学校があり、その裏手は、町の繁華街の一部で歩行者専用の道となっている。
道沿いにはレストランが並び、多くが鍋料理や牛肉麺といった中国料理を出している。30代の元住民男性は「子どものころは、中国料理なんて一度も食べたことがなかった」と語った。
中国が新疆ウイグル自治区で大規模な拘束と監視に着手したのは、2016年後半。政府に言わせれば、その目的は同地域における「過激思想」の根絶とテロの阻止だ。
中国共産党は、独立派組織が同自治区に住む何百万人ものウイグル人をけしかけて、国家建設をもくろんでいると非難している。とはいえ、中国政府の真の目的は、ごく普通の民族風習やイスラム教の習慣の多くを事実上、犯罪化して、女性がスカーフをかぶることから、宗教系の学校に通うことまで禁止することだった。
ウーランは海外留学を希望していて、ヒップホップの歌詞ですっかり魅せられたアメリカに行くのが夢だった。とはいえ、カザフ人である彼にとっては、カザフスタンに留学するほうが簡単に思えた。冒険はそのあとにしようと考えたウーランは、2014年にカザフスタンに移って大学に入った。
中国に戻ろうとしたのは、中国政府が大量拘束を開始してから何カ月も過ぎた2017年後半のことだ。新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州に位置するコルガスの国境から帰国することにした。
ウーランは薄茶色の建物の中で、中国の入国管理官にパスポートを渡した。すると、ブラックリストに載っていると言われ、すぐに拘束されてしまった。
衛星画像とインタビューの内容からすると、ウーランが連行されたのは、モンゴルキュレにある、公判前の人が拘留される収容所だったようだ。
この収容所は、2006年から2010年のあいだに建設された、2階建ての小さなT字型の建物だ。町の中心部から1キロほど離れた郊外にある。葉が生い茂った低木があるせいで、道路からは建物の一部が見えなかった。
各階の中央を廊下が1本走り、その両側に監房が並ぶ。すぐ外側を高い壁が囲んでおり、壁の角2カ所には監視塔があった。この記事の調査に応じてくれたカザフ人3人はみな、2017年にそこに収容されていた。
3人の記憶では、収容人数は300人ほどで、敷地の入り口にある門の外には、管理棟が2棟ほどあった。南側にある別の専用敷地には、衛兵詰め所があった。
バスケットボールとテニスのコートがあり、庭には植木が整然と植えられていることが、衛星画像で確認できる。この収容所はなだらかな斜面にあり、東には小さな川が流れている。
施設はまたたく間に人でいっぱいになったと3人は言う。当時の収容所では頻繁に似たようなことが起きたようで、インタビューした元収容者の多くもそう証言している。
モンゴルキュレに、4つの収容キャンプを確認。中国政府が急速に拡大か。
衛星画像からは、中国政府がモンゴルキュレ県の複数の場所で収容人数を増やすべく、ただちに段取りをしたことが見て取れる。
2017年前半から半ばにかけて、収容所が2つ設置された。古い建物を転用したもので、収容できるのは400人ほど。モンゴルキュレの中心部を走るメインストリートに位置し、ひとつの収容所の向かいには小学校が、もうひとつの収容所の向かいには公立のスポーツセンターがあった。
その後の2017年9月には、町の中心部に、規模のより大きい収容所が設置された。百度地図には「昭苏县労働者教育センター」と表示され、1300人ほどが収容可能だった。
町の中心部にある最初の2カ所の収容所は、セキュリティ体制が比較的目立たなかったが、大きめの収容所は人目を引くほど厳重で、分厚い壁がそびえたっていた。
入り口の横には小さな警官詰め所が建てられ、その外を走る道路のうち2つの車線は駐車場に変えられた。敷地内に目を向けると、建物のあいだには有刺鉄線で囲まれた通路が通っており、建物と入り口近くの中庭にある大きな囲いを行き来できるようになっていた。
モンゴルキュレで確認できる4つの収容キャンプ

町中心部の収容キャンプの衛星画像。上が2018年、下が2019年。

政府は、収容所の整備を進めるとともに、文化的な建造物を抹消し始めた。モンゴルキュレにあったモスクのひとつは2018年、ドームと尖塔が取り除かれ、勾配のある屋根が代わりに設置されたことが、衛星画像から分かる。
「ある夜、収容者たちが警備の厳重なトラックで移送されていくところを目にした」
カザフ人女性ジャディラ(家族の安全を懸念し、名字の公開は避けている)は、「多くの町でそうしたことが起きた」と話す。彼女はモンゴルキュレ県の牛牧場で生まれ、2019年にカザフスタンに移住した。
「あのころは、家という家が捜索されました。聖典のコーランに限らず、アラビア文字が書かれているものなど、イスラム教に関するものが探されていました」
当時は、誰もが気を張り詰めて暮らしていたとジャディラは振り返る。
「強制収容所は2つあって、そのうちの1つは重罪人向けだと聞きました。私は以前、その建物の横を毎日通っていて、有刺鉄線をいつも目にしていました」
ジャディラはある夜、収容者たちが警備の厳重なトラックで移送されていくところを目にした。彼らの頭には布がかぶせられていたという。ほかの収容所に連れて行かれるのだろうと思ったそうだ。
以来、その道を歩いていると、みぞおちのあたりが恐怖でざわざわするような感覚に襲われるようになった。
しかし当局は、町の北東部でさらに大掛かりな建設作業を進めていた。

Oが「新しい場所」と呼ぶ場所に戻ったのは2017年冬だった。「3メートルほどの高さの大きな灰色の壁があって、中は見えませんでした」と彼は語る。
大きな黒い門があり、その横にある警官詰め所では4人の警官が働いていたのを覚えているという。収容者たちは、衛兵に伴われて内部へと連行された。警備犬がいる時もあった。
Oが最初に収容されていた古いT字型の建物は、まだ近くにあった。しかし、彼が立つその場所は、もはやかつての農地ではなく、まったく新しい複合施設へと様変わりしていた。
衛星画像を見ると、秋に完成していたようだ。壁に囲まれた内部には、3階建てのメインのビルのほかに、診療所や管理棟、めったに使われることのなかった「家族と面会するためのビジターセンター」など、いろいろな施設があったと3人は記憶している。
収容者を縛る様々な行動規則。赤い服を着た収容者は「危険人物」とみなされていた。
新疆ウイグル自治区にある強制収容所はたいてい、ピンクや鮮やかな青などのパステルカラーに塗られているが、この複合施設内の建物はみな真っ白だった。有刺鉄線で囲まれた通路は、入り口の門から中庭を突っ切って、監房や教室のある大きな建物へと通じていた。
建物内の壁も真っ白に塗られていたが、ウーランが9人の男性と寝泊まりしていた監房の壁は、中国の国旗と、中国共産党の徽章、国家の歌詞で覆われていた。そのせいで、通常なら3、4人しか寝泊りできないであろう部屋がますます窮屈に感じられた。
壁には、行動規則が書かれた紙も貼られていた。1つめは、起床時間を知らせる放送が鳴ったら直ちに起きなくてはならないという規則だった。それに続いて、監房での日常生活を細かくコントロールするための規則が並んでいた。
3人の記憶によると、収容者たちは2~3週間に1度、運動のために、敷地内の狭い屋外スペースに連れて行かれた。屋内であまりにも長いあいだ過ごしたあとは、空を見上げられることが奇妙に思えたという。
Oは、収容者が異なる色の制服を着ていることに気がついた。
彼とほかの何人かは黒い制服で、危険度が低いことを示していた。ほかに黄色と赤の制服があり、赤は最も危険度が高いと考えらえていた。赤い制服を着た人たちがいったい何をして危険人物とみなされるようになったのか、Oは知らない。
Oが寝泊まりしていた建物内部の廊下には赤と黄色のラインが引かれ、収容者たちは一列になって歩かなければならなかった。たいていは頭を垂れ、うつむいた状態で歩いた。
ひとつの監房には十数人が入れられており、奥行きが4.3メートル、幅が6.1メートルだったと、BuzzFeed Newsが実施した構造分析でわかっている。車2台が並んで入るガレージの半分より少し大きいくらいだ。収容者たちはほとんどの時間をその監房で過ごし、1日23時間そこにいることも少なくなかった。
各監房には、警備のためにドアが二重に設置されており、外側のドアは鉄製だった。内側のドアは木製で、細長い穴が開いており、食事はそこを通して受け取っていたとOは言う。
1階には食堂があったが、収容者はその存在を人づたいに聞いたことがあるだけだ。食堂は、収容所で働く教師や事務員、衛兵のために違いないと考えていたという。ウーランは、自分たちに与えられた食事は、収容所職員の昼ご飯の残りを温め直したものではないかと考えることがあった。
食事の前には、収容者は立ち上がって、愛国の歌「社会主義は好い」や「共産党がなければ新しい中国はない」などを歌わされた。いずれも毛沢東の時代に流行した歌だ。
収容者たちは日中、たいていは1時間ほど教室で、普通語と、愛国や党への忠誠を謳った共産党のスローガンなど政治的教義を勉強しなければならなかった。収容所が過密状態だったので、教室での勉強時間は限られていた。監房と同じ建物には、2階と3階に教室があった。教師と収容者は、透明な分厚い仕切りで隔てられていた。
授業も、まずは愛国の歌から始まった。取材に応じた3人のカザフ人男性はみな普通語が流暢だったが、それでも授業を受けねばならなかった。彼らは、そもそもなぜ収容所に拘束されているのかがわからず、疑問に思っていた。
とはいえ、ウーランにとって教室での授業は、贅沢だと思えるようなひとときだった。監房の窓は小さく有刺鉄線で覆われており、外を眺めようとのぞき込もうものなら、スピーカーを通じて大声で叱責された。
けれども、教室の窓は教師の背後にあったので、ウーランによれば、面倒なことにならずに窓の外を眺めることができたという。たいして見るものはなく、せいぜいが北方に広がる荒涼とした灰色の山並みだったが、故郷が近くにあることを確認できた。

同室の男性が病気に。「しばらくすると、彼は血ばかり吐くようになりました」
ウーランは、3階にある自分の監房のリーダーに指名されていた。2018年のある日、同室の若いウイグル人男性が病気になった。
ウーランが受けた印象では、その男性は収容所に来たばかりのころは健康そうだったが、どんどん痩せていったという。その彼が、吐き気がして胸が苦しいとウーランに訴えたのだ。
ウーランは、見たことはなかったものの、収容所に診療所があるのは知っていた。そこで、収容所の役人に対し、そのウイグル人男性をしばらくのあいだ3階にある監房のベッドで休ませて、診療所で診察を受けさせたいと頼み込んだ。
しかし、男性の容体はひどくなる一方で、2人の同室者の助けを借りてトイレに行こうとしたが、途中で倒れて嘔吐し始めた。
「部屋に匂いが充満しました。普通の人間ならとても耐えられなかったでしょう」とウーランは振り返る。
「しばらくすると、彼は血ばかり吐くようになりました」
ウーランたちが赤い非常ボタンを押すと、衛兵が来てウイグル人男性を運んでいった。ウーランは、その男性に二度と会えない気がしていたが、彼は1カ月後に戻ってきたという。
ウーランは、戻ってきたその男性が気の毒でならなかった。深刻な病気になることが、収容所を出る手段のひとつだと考えられていたのだ。それほどの重病人が収容所から出られずにいるのを目にして、とても気が滅入った。
「誰もが必死でした。二度と出られないのではないかと思うと、恐ろしくてなりませんでした」
「いったい何人があそこで死んだのか、わかりません」
各監房にはスピーカーとインターホンが設置されていて、衛兵や収容所の幹部がそれを使って大声で命令を出した。収容者は、食事をしたり本を読んだりするときは背中をまっすぐに伸ばし、プラスチックのスツールかベッドの端に座らなくてはならなかった。
Mはあるとき、規則に違反して銃床で殴られ、全身があざだらけになったという。
収容者たちから「マー所長」と呼ばれていた男性が、収容所の責任者だった。ウーランは、「彼はとても残忍な人間だった」と語る。
各監房には、最低でも2台の監視カメラが設置されていた。衛兵がこれらのカメラで収容者を見張っており、普通語ではなく母語(ウイグル語やカザフ語)で話をしている者はいないかと目を光らせていた。
2018年のある日、ウーランの同室者が、この規則に違反したところを見つかってしまった。
「マー所長が私たちの監房にやってきて、そこにいる全員に、窓の方を向いて立つように命じました。それから、ひとりずつ名前を呼んでいきました」とウーランは振り返る。
マー所長は電流が流れた棒を持ち、収容者の背中めがけて思いっきり振り下ろした。ウーランの耳には、殴られた収容者の叫び声がまだ残っている。
「その叫び声を聞いて、建物にいた人間はみな震え上がりました」
ウーランは列の最後に立っていて、自分の順番を待つあいだ、恐怖で体をこわばらせていた。ところが、マー所長はウーランの番が来ると手を止めた。
それから収容者たちに向かって、誰かがまた北京語以外の言葉を話そうものなら、全員を独房に1週間放り込むと告げた。
マー所長はその直後、腕を振り上げてウーランを殴った。
2018年に釈放された3人。「犯罪者になったような気持ちでした」
ウーラン、O、Mは、2018年春に釈放された。巨大な新複合施設の一部をなす工場が完成したのは、2018年11月だった。新施設はあまりにも大きく、そのなかで「新しい場所」はとても小さく見えた。
かつてはたったひとつの建物しかなかった場所に、これで合計11個の建物が並んだ。
もともとの収容所は敷地面積が2ヘクタールで、サッカー場2つ分の広さだった。しかし2018年末には、施設全体の面積は13ヘクタールまで拡大した。人を詰め込まなくとも3750人が収容できる規模だ。
2019年にモンゴルキュレをあとにしたカザフ人女性ジャディラは、その巨大な施設を一度も目にしたことがない。町の郊外にあり、彼女がそこに行く理由はなかった。
しかし、モンゴルキュレに巨大な強制収容所があったことを知っているかとたずねると、友だちの兄から「新しくて現代的な収容所」の話を聞いたことがあると、即座に答えた。
彼女の説明は、その巨大施設の位置と一致する。北東の方角にあるチャプチャル・シベ自治県へと通じる道の横、工場が立ち並ぶエリアの近くだ。
「25歳から40歳までの無職の男性は、その強制収容所に入れられて、工場で働かされると聞きました」とジャディラは述べた。
新しい巨大施設が完成した後、4キロほど離れた町の中心部にある収容所は不要となった。
衛星画像を見ると、2018年には活発な動きが見られ、同年8月15日に撮影された画像では駐車場に87台の車が停まっていた。しかし2019年5月になると、外に張り巡らされていた有刺鉄線はなくなっており、収容所は閉鎖されたようだ。
ウーランは、2018年春に釈放されて実家に戻った。両親に再会した彼は、罪悪感と屈辱感でいっぱいになったという。
「犯罪者になったような気持ちでした」
ウーランは、収容所での体験を忘れられなかった。そこで目にした残虐な行為と、血を吐くほど深刻な病気になった男性のことを考えずにはいられなかったのだ。
「あそこにいたのは、私たちのような健康な人間だけではありません。高齢者や精神病患人、てんかんを持つ人もいました」とウーランは振り返り、彼らは生き残れたのだろうか、と考えこんだ。
ウーランは再びヒップホップを聴き始め、チャットのアバターを2パックに変えた。好きな曲は、1995年にヒットした「Me Against The World」。ロサンゼルスで殺人と暴力事件を目にした2パックが、心に負ったトラウマを歌った挑戦的な曲だ。
「2パックは、暴力や人種差別、社会的平等について歌っています」とウーランは語る。
「彼の曲は、革命を目指すレジスタンス精神であふれています。これほど深く心を動かすラッパーはほかにいないと思います」
数カ月後、3人の若いカザフ人男性は別々にカザフスタンに向かい、そこで初めて対面した。新疆ウイグル自治区の同じ地域出身だと知ってさらに話をするうちに、同じ時期に「新しい場所」に収容されていたことが分かった。
ウーランは、中国で収容所に入っていたことのある別のカザフ人にも会った。カザフスタンには元収容者がたくさん住んでいるが、ほとんどの人は身を潜めて静かに暮らしている。中国に家族がまだ残っていて、不用意に関心を集めたくないのだ。あるいは、収容所であまりにも悲惨な体験をしてすっかり打ちのめされ、もう忘れたいと思っているのかもしれない。
その一方で、声をあげる人もいる。彼らは、自分の体験について語った動画をYouTubeに投稿したり、ジャーナリストの取材に応じたりしている。
ウーランの両親は、いまも新疆ウイグル自治区で暮らしている。
「私の家族はいまでも苦しめられています」。ウーランは先ごろそう述べた。両親は中国当局から、ウーランの居場所と最近の様子を尋ねられたのだという。
2020年10月にも、実家にやってきた警察に、ウーランが自治区に帰ってくる予定はないのかと質問されている。
ウーランによると、彼の両親はブラックリストに載っているという。つまり、検問所を通過するときや、警官に職務質問されたときには危険人物とみなされるのだ。モンゴルキュレ県外に移動したい場合は、当局から許可を得なくてはならない。
「今でも、両親の動きは逐一監視されています。どんな時も常に」
この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:遠藤康子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan
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