なんであんなに焦ってたんだろう…宮市亮が気づいた「サッカーができる喜び」【サッカー、ときどきごはん】
高校生がヨーロッパの一流クラブからスカウトされる
今ではときどき耳にする話になった
だが日本代表ですら海外組が少なかった2010年
紅顔の少年の渡欧は驚きとともに伝えられただが将来の日本代表を背負うはずの逸材は
その後ケガに悩まされ続ける
それでも明るさを失わず前を向き続ける
宮市亮に半生とオススメの店を聞いた
■未来のことばかり考え、焦り続けた10代、20代
中学2年生のときにフェイエノールトに練習参加させてもらったんですよね。そのときから「海外サッカーってすごいな。こういうところでやりたい」と思ったんですよ。
それで高校に入ったあと、Jリーグも含めていろんなところで練習させてもらいました。2010年1月、高校3年生のときにケルンの練習に参加しましたし、8月にはアーセナルとアヤックスの練習にも参加しました。
いろいろ行った中で、アーセナルは自分が一番成長できる環境だと思いましたね。そのときアーセナルを率いていたのがアーセン・ベンゲル監督で、初めて会ったときは「うわ、テレビで見ていた人が目の前にいる」って感じです。本当にオーラというか、カリスマ性がすごくありました。そのベンゲル監督から「サインしたいから英語を勉強しておいてくれ」と言われたんですよ。「はい!」っていう感じです。
それで12月に契約したんですが、すぐにイングランドでプレーはできないのでレンタルで他のチームへ行くことは分かってました(註 イングランドでプレーするには母国のFIFAランク、代表選手としての出場歴、EU圏内でのプレー歴などの制限がある)。監督からは「最初は海外でプレーしなければいけないが、戻ってこられるようにアーセナルもがんばるので、リョウもがんばってほしい」と言われました。
大人になって当時を振り返るとよくあんな決断したというか。当時の僕は怖さとか恐れとかもなく、ただサッカーを楽しみたい、うまくなりたい、その思いだけでヨーロッパに飛んだという感じでしたね。
「高校生がアーセナルに行くので、周りはちやほやしてきたんじゃないか」と聞かれることがあります。そう言えばそうでした(笑)。いや、でも僕自身は逆に「向こうで活躍しなければいけない」という気持ちばかりで。
うちの父親はずっと社会人野球の選手だったんですね。プロに行くかどうかというところでプレーしてたんで、小さいころからプロの厳しさを父から聞かされてたんです。だから僕としても「プロになりたい」というよりも「プロになった後、どうするか」ということを考えてました。
アーセナルと契約したと言っても1番下からのスタートですからね。だから全然浮かれてる暇はないというか、ヨーロッパでキャリアを築いていかないといけないという思いでいっぱいでした。
それで2011年1月、全国高校サッカー選手権が終わってすぐアーセナルに行きましたけど、もう3日ぐらいして、すぐオランダに飛んでフェイエノールトに入ったんです。1カ月前まで全国高校サッカー選手権でプレーしてたんで、1カ月後にオランダリーグでプレーしてるって不思議な感じがしてましたけど、でも若い選手も多かったんでチーム自体がやりやすい環境でしたね。
フェイエノールトはオランダのビッグクラブでしたし、当時もすごくいい選手がいました。当時の監督も信頼して使ってくれたんで、2月6日の22節にはデビューして、25節にはゴールを挙げることができました。本当に忘れられない半年間でしたね。それでもやっぱり、「ここで活躍しないとアーセナルに戻れない」という思いしかなかったんですよ。
「早く活躍してアーセナルに戻んなきゃいけない」みたいな焦りがありました。なんであんなに焦ってたんだろうって。日々を生きてなかったというか、未来のことばっかり考えて焦り続けるという時期をずっと……10代も20代も過ごしてました。
それで半年経ってアーセナルに戻った後も焦ったんですよ。出られないのもありましたし、オランダリーグとプレミアリーグのレベルの違いもありましたし。アーセナルでの練習は高校時代の練習参加して以来でしたが、実際にチームの一員になってみると、やっぱり練習からレベルも高かったですね。「もっとうまくなきゃ。もっとみんなについていかなきゃ」って余計に焦りが出ちゃって。
それからやっぱり憧れみたいなものが出ちゃうんですよ。周りがみんなスーパースターで。ロビン・ファン・ペルシー、ティエリ・アンリなんかがいて、同じポジションにはジェルビーニョ、セオ・ウォルコット、それから同じ歳ではアレックス・オックスレイド・チェンバレンなんかもいましたし。
でも、本当はチームに入るとポジションを争うライバルになるわけじゃないですか。ただ僕は憧れの気持ちが捨てきれませんでした。「こういうスーパースターには勝てないだろう」って。だから今、三笘薫君とか、冨安健洋君とかすごいですよね。
ベンゲル監督は、本当に自分のスピードを評価してくれてましたし、それを存分に出してほしいと言ってくれました。でも出場機会があまりなくて、ボルドンに期限付き移籍することになったんです。ただ、ボルドンもプレミアリーグのチームで、他にも国外のレンタル先候補があったんですけど監督が選んでくれました。
監督から直接、「21歳までに3年間プレミアリーグでプレーしたらイギリスの選手として扱えるホームグロウン制度があるから国外に出したくない」と説明されたんです。それにアーセナルのチームメイトだったジャック・ウィルシャーが2010年にボルトンでプレーしてたので、ベンゲル監督はボルトンの監督とも密に連絡を取っていて、監督が代理人みたいな感じで契約して期限付き移籍することになったんです。
その移籍の日程もビックリという感じでしたね。僕は2012年2月1日に移籍したんですけど、その日がちょうどボルトンvsアーセナルだったんです。1月31日にバスでボルトンまで行くんですが、メンバー入りしているみんなは移動するときの服装なのに、僕だけ私服でチームバスに乗り込んだんです。
みんなから「なんでお前は私服なんだ」って驚かれたんで「これからボルトンに期限付き移籍する」と説明して、「おお、がんばれよ」と励ましてもらいました。チームが滞在先のホテルに着いたとき、ベンゲル監督にも「がんばってきます。明日の試合がんばってください」と挨拶して、みんなと別れてボルトンの関係者と会って。それで翌日はボルトンの席でアーセナルの試合を見てました。
ボルトンもいいところでしたけど、やっぱりアーセナルに比べるとレベルはちょっと落ちると初めての練習のときに思いました。もちろんプレミアリーグのチームなのですごい選手はいるんですけど、アーセナルでやってきた半年間はすごくいい経験だったんだと改めて実感しましたね。
ボルトンでは試合に使ってもらえたんですけど、やっぱり焦りはあって。アーセナルの同世代にはチェンバレン、ウィルシャー、アーロン・ラムジーとかいろいろいて、どうしても彼らと自分を比べてしまうんですよ。比べてもどうしようもないのに。当時の自分はそういう同世代の選手の活躍に焦ってましたね。
それでも19歳でプレミアリーグにデビューさせてもらって、試合ではレギュラーとして使ってもらいましたし、本当にチームメイトがすごくいい人たちばっかりで。今でも連絡取ったりしてるんで、ボルトン時代も本当に素晴らしい半年間だったと思います。
若い僕が出場しても、同じポジションの選手はやっかむんじゃなくてみんなちゃんと応援してくれました。やっぱりプレミアリーグにいる選手は人間ができてるんです。それは後々オランダにもう1回戻ったりドイツ2部に行ったときに感じましたね。
オランダやドイツ2部は、そこを踏み台にしてもっといいところに行きたいと思ってる選手が多いんですよ。プレミアリーグはそうやって上り詰めていく最後のリーグですから、やっぱりすごい環境にいたんだと思いました。
(C)日本蹴球合同会社
■ケガをしてサッカーができる喜びに気づいた
ボルトンから半年でアーセナルに戻ったんですけど、2012-13シーズンは同じプレミアリーグのウィガンに貸し出されることになりました。そして11月17日のリヴァプール戦で右足首の靱帯を負傷して長期離脱したんです。それまで大きなケガをしたことがなかったんですけど、そこでケガをしてから歯車が狂っていった感じですね。
約4カ月後の2013年3月9日、FAカップのエバートン戦で復帰したとき、そこでまた同じ箇所をバシンとやられて、「これはもうメスを入れたほうがいい」ということになって葛藤はあったんですけど手術したんです。正直あんまりメスは入れたくなかったんですよ。僕は人工靱帯を入れたんですけど、もし当時保存療法を選べたんだったらそっちのほうにしたんじゃないかなって。
人工靱帯は強度的には大丈夫なんですけど、関節の可動域が狭くなっちゃうというか、どうしても元の自分の足じゃない感じになるんで、結局、体重とかパワーの負荷がかかったときに足首だけでは耐えきれなくてヒザで受け止めてしまったんです。この足首のケガが後々のヒザのケガに繋がった、あの足首のケガから始まったと、いろんな経験をして分かりました。やっぱりあのときの影響が残ってると感じます。
2013-14シーズンはアーセナルに戻って、チャンピオンズリーグに出たりリーグ戦に出ることができたんですけど、その他はなかなかチャンスがつかめず、2014-15シーズンはオランダのトゥエンテに期限付き移籍になりました。
それで結局、2014-15シーズンでトゥエンテもアーセナルも契約が切れて、ドイツ2部のザンクトパウリに行くことになったんです。
当時は23歳でした。アーセナルからドイツ2部に行って、ステップダウンした感じは自分の中にもあったし、でも、やっぱりヨーロッパには残りたいみたいな気持ちはあったんで、まずはケガを治して復帰しないといけないって。トゥエンテのときはちょうどケガ明けで入団して、最初はあまりパフォーマンスが上がんなかったんですけど、次第にケガも癒えてコンディションが上がったときに契約が終わっちゃったんです。
元々僕はレンタル続きだったんで、環境を変えることに対しての不安は全然なかったんですけど、ただ、その都度難しいことはあるんですよね。名前も最初から覚えないといけないし、プレーもわかってもらわないといけない。そこの難しさはあったんですけど、ザンクトパウリに入ったときはちょうどコンディションが整った状態になって、「ここからだ」と心機一転3年契約して「がんばろう」と思ってました。
トゥエンテのときはいいところが出せなかったんですけど、ザンクトパウリでは少しずつよくなってたんです。ザンクトパウリに移籍するとき高校時代から付き合ってた妻と結婚して「これから新しい環境でがんばるぞ」って。
でも恐ろしいことに、そのちょっと良くなってきたときに、ケガしたんです。2015年7月にシーズン前の初めての練習試合で左膝前十字靱帯を断裂して手術しました。そこからが苦労の連続でしたね。
足首の靱帯を負傷したときは「まだいける」と思ったんですけど、心のどこかで「ヒザの靱帯を傷めたら終わりなんだろう」と思っていました。高校生のときによく聞いてましたからね。「ヒザをやったら元に戻れない」って。だから2015年は「これで現役生活が終わるかもしれない」と思ってました。
ケガしたとき、妻は常にポジティブな声がけをしてくれましたね。そしてリハビリのときにはもう子供がお腹にいて。そして2016年4月に復帰して、そこから2016-17シーズンも調子が良くて、どんどんいけるみたいな感じだったんです。2017-18シーズン前には子供ができて「がんばらなきゃ」とコンディションを上げていた矢先、2017年6月に今度は反対の右膝前十字を断裂するんですよ。
人を恨むのはなかったんですけど、自分を恨むじゃないですけど、自暴自棄になったときもありましたね。「なんでこうなってしまうんだろう」みたいな。「もう辞めよう」と思うときもありました。両膝やったらサッカー選手としてはどうなるんだろうというのがあって、本当に辞めることを考えましたね。
でも幸いにもケガしたときが結婚だったり、子供が生まれるタイミングだったり、自分以外の人も背負っていかないといけないという責任が生まれたし、自分だけのプロ生活じゃないんだというのは感じてました。
妻に相談すると、別に悲観することもなく、「絶対第二の人生はやってくるから」みたいなことを言われて、落ち着くことができました。妻も本当は不安になっててもおかしくないかもしれないですけど、彼女は高校時代に陸上をやっていて、ケガで競技を辞めたんでそこの理解はあったんです。
そのあと妻だけじゃなくて家族やいろんな人の力を借りながら前を向いていった感じです。家族と周りに支えられて、そういうとこからいろんなことに気づき始めるというか。
2015年にケガをしてからは、サッカーがケガなくできる喜びに気づき出したんです。今まで普通にサッカー選手としてサッカーしてきて、ゴールを決めたり試合に出たり、勝利を分かち合ったりしてきましたが、でも、それって全然当たり前のことじゃないんだな、みたいな。歩けなくなったりして、よけいにそう思うようになって。
それにね、ケガしても……なんだろうな……時間は過ぎてくというか、絶対明日は来るんですよ。時は流れるし、受け入れて前に進んでいくしかないんです。抜け出す道はないんで、ひたすらやり続けてた感じですね。もちろん、そう簡単に前向くことなんてできなくて、時間もかかりましたけど。
結局寝て起きたらまた明日が来るんで、そこはちゃんと受け入れて、前向いていかなければいけないところはありました。その都度いろんな人の力を借りることだったり、自分で前向きになれるようなものを探しに行ったり。ケガをしたら毎回落ち込むんですけど、でもまだ元気にやれてますからね。
そしてケガをしているときにザンクトパウリが2年間の契約延長をしてくれたんです。それはすごい意気に感じましたし、その感謝はやっぱりピッチ上で表現しなければいけないと思ったのが前向きなるきっかけの一つでした。それで2018年9月に復帰して、その試合でゴールを決めたんです。
そのままザンクトパウリでは2020-21シーズンまでプレーして、結局7年いました。そこから2021年7月に横浜F・マリノスに加入したんです。
ヨーロッパで続けたい意思はあったんですけど、やっぱり医療面は日本が進んでると思って。それはアーセナルに行ったときからずっと感じてたところなんですよ。日本のほうが繊細な治療みたいなところは進んでましたし、もう1回体を見つめ直して再スタート切るには日本のほうがいいんじゃないかと思ってました。
そんな時に日本一のクラブから話が来たんです。「まさか」ですね。僕もJリーグはハイライト程度ですけど見ていて、F・マリノスがすごいいいサッカーしてるのを知ってたんで、自分としても日本に帰ってサッカーするならF・マリノスがいいと思ってたんです。ウイングのがどんどん仕掛けるスタイルが自分に合ってると思いましたし。
そうしたらオファーをいただいたときに「スピードも評価してるし、うちのサッカーに合うんじゃないか」と、自分の考えと同じお話をもらったんで、すぐ「はい、ありがとうございます」って決めました。
入った当初はやっぱりちょっと苦労しましたけど、でも次第に馴染んでいくことができて、おかげさまで2022年には2012年以来の日本代表にも復帰できました。日本代表の森保一監督は「ずっと見てたから。スピードはずっと評価してました」って。本当にあのいい人という感じですね。
それで2022年7月のE-1選手権で約10年ぶりに日本代表としてプレーしたんですけど、そこでまた右膝の前十字靭帯断裂してしまいました。あの瞬間、本当に「まさか」という感じでしたね。
あのあと、F・マリノスには助けられましたし、日本に帰ってきて初めてのJリーグのクラブだったんで、日本人の温かさというか、日本のファンの温かさ、F・マリノスファンの温かいメッセージにすごく励まされました。
ヨーロッパではどこか孤独で、サポーターももちろんいるんですけど、スタジアムは自分個人で戦いに行く場所だったんですよ。それがF・マリノスというすごく素晴らしいチームに来て、本当にみんなで戦いに行くという感じがあって。
日本代表に行った時もF・マリノスを代表して行ってるんだという感覚がすごくあって、ケガをしてしまったあとも、クラブも含めて本当にすごく励ますメッセージをくれましたし、それをすごく意気に感じて、またピッチの上に立ってプレーしたいというのが僕の原動力になりました。
今年もう31歳なんですけど、自分のピークなんてどこに来るかもわかんないんで、常にここから自分のピークが来ると信じて毎日取り組んでます。それからアスリートだけじゃなくて学生含め、ケガで苦しんでる人って本当に多いと思うんですよ。その人たちに「どれだけ靱帯を切っても、人工靱帯を入れても、これだけピッチで活躍できるんだ」という姿を見せることを自分のやりがいにしています。
僕もケガをしたとき、世界の靱帯を切った選手のドキュメンタリーを見て、「ああ、こうやって戻ってくるんだ」って、すごく勇気づけられたんです。「僕もそんな人を励ませる選手になれたら」というのは、自分がそんなところまで行ってないんでおこがましいですけど、誰か1人でも2人でも「こういう選手がいて、これだけケガしてもまだプロのピッチで戦えてるんだ」みたいなのを思ってくれたら、なんかすごくうれしいと思います。
練習で体をぶつけても、もう怖さはないです。あとは、ここからピッチ上でどれだけチームに貢献できるかというところですね。ただ帰ってくるだけじゃダメだと思うんで。パフォーマンスでどれだけできるかだと思っています。数字的にもスピードは落ちてないです。GPS上で37km/hというのが出ているので。あとは、本当にケガせずにやるだけですね。
ただあまり未来を見すぎずに、一日一日やれることを積み重ねたいと思います。一日ケガなく過ごしてピッチに立てることですら、すごいことだと感じてるんで。パンパンに足が腫れて、歩くのも精一杯というのが10カ月前でしたから、今みたいに試合に出られるかどうかで悩んでるなんて、すごくありがたいことだと思いますね。
そういう気づきは、ケガを通してできたというか、ケガをしてなければ、サッカー選手であることのありがたみとか、サッカーをできる喜びは感じられなかったと思うんで、本当にプロサッカー選手っていい職業だというのを感じます。誇りを持ってやっていきたいと思います。
今、アーセナルで冨安健洋選手がずっとケガで苦しんでいると思うんですが、ビッグクラブにいるというのは、国内だけじゃなくて全世界から注目されてますし、もちろんポジション争いだって、毎年移籍金が何十億円、何百億円の選手が入ってきて、自分のポジションはどうなるんだって焦りは絶対あると思うんです。けれど、自分と人を比べるんじゃなくて自分にフォーカスできれば何事もうまくいくと思います。
当時の僕はあまり自分にフォーカスできなかったというか、周りと比べたり、自分がコントロールできないところに目を向けてたんで、自分がコントロールできることを精一杯やっていけば、彼ならまだまだ全然いけると思うんで、がんばってほしいですね。
■思い出のお店は地元の有名焼肉店
えー、最後レストランの紹介なんですね。どこでもいいですか。
じゃあまず、学生時代めちゃめちゃお世話になったラーメン屋さんを紹介します。もう移転しちゃって、多分今は岐阜でやってると思うんですけど。「一兆家」さんというところで、ここは僕の学生時代の思い出です。週1回ぐらいは行ってましたね。
豚骨醤油で、替え玉とかサービスしてくれたり「ちょっと野菜多く入れとくね」みたいな、当時の学生はサッカー部だけじゃなくて野球部も含めてみんなお世話になってたと思います。
次は横浜市都筑区仲町台にある「龍巳飯店」さんですね。これは横浜F・マリノスの広報の方から教えてもらったんですけど……名前出してもいいかな?
それから、僕は高校時代から鳥取によく行ってるんですよ。ワールドウイングという「初動負荷理論」のトレーニング施設があって。プロになってからも最初のころは行ってました。そのとき先輩に連れて行ってもらったのが「かに吉」さんという店です。ここのカニは本当に美味しいですよ。この前「情熱大陸」にも出てました。今でも交流があって、ことあるごとに食パンを贈ってくれたりするんです。
それから生まれ故郷の名古屋から「和牛焼肉 新羅館 名東本店」さんを紹介しておきます。チームメイトの西村拓真も同じ中学なんですが、彼もよく行くお店で、地元では「新羅館」と言えば「ああ、あそこね」で通じます。ここのオススメはハラミです。
高級店なので、僕が小学校の大会で優勝したとか、そんなちょっとした記念日に両親が連れて行ってくれた思い出があります。みなさんもちょっといい記念にしたい日があったら行ってみてくださいね。
・一兆家
・龍巳飯店
・かに吉
・和牛焼肉 新羅館 名東本店
○J論プレミアム記事ピックアップ:
・シーズン移行問題、村井前チェアマンの見解。「凍結した議論を再開するには2つの条件があった」
「サッカー、ときどきごはん」個人スポンサー
・mochi+
・かねみき
・スギモトハルキ
・しゅういち
・佐藤R
・sadakiti
・shiumaik
・大久保 亮太
・ukm10
・chottu_LB
・MN10
・yuri.k
・dummy_rock
・Gorikong
・cbd92730
・TAKE
・yohei koga
・zingtang_la_17
・まぅてぃん
・海老 純
・場生 九編
・小言幸兵衛
・きりや
・かみさん
※「サッカー、ときどきごはん」個人スポンサーとは、連載の取材費を直接スポンサードしてくださっている個人の方々です。「森マガ」と「サッカーパック」の入会者で、個人スポンサーとして名前(ペンネーム可)を登録していたいた方をご紹介させていただいています
→詳しくはコチラ
○「サッカー、ときどきごはん」過去ログ:
・長い下積みと歴史的瞬間…似東純也はなぜ伊東純也のモノマネをすると決めたのか?【サッカー、ときどきごはん】
○森マガ記事ピックアップ:
・実は毎回こういう映画がとても楽しみだったりする感じの #YFFF23
森マガとは
→J論で全文無料公開されるインタビュー記事を中心に、こぼれ話や、一本の記事にはならなかったけれど印象深いシーンや、みなさまからの質問にお答えするコーナーなどのサイトです。
森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート