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 空に見えるのは雲ばかりだ。

 

 ユリウスとキーラを乗せた侯爵邸に向かう馬車が、がたんと大きく揺れて急に止まった。

 

 数年前に暴動に巻き込まれたことを思い出して、ユリウスは顔をひきつらせた。あのときと状況が違うし、今回はキーラがいっしょだ。ブランシュも驚いて上半身を起こしている。

 

 「申し訳ありません。車輪に異変が生じました。目下、原因の調査中です」

 

 馬車の隣を馬で伴走していた護衛のイリューシンから説明があった。襲撃にあったわけではなさそうだ。整備点検は念入りにしているはずなのに、と御者が首をひねっている。

 

 「おあかさま、あれはなに?」

 

 幼いキーラはしばらく窓外を眺めていたが、外の様子に興味をもったらしく、そう言うと馬車から飛び出してしまった。すばしっこく動くキーラのあとをブランシュが追っていく。

 

 「キーラ、どこに行くの!?」

 

 ユリウスは甲高い声をあげ、ブランシュのあとに続いた。車輪に気を取られていたイリューシンは声をかけるのが遅れた。

 

 「奥さま、お戻りください」

 

 「こんな道端で、あの子を一人にさせられないわ」

 

 キーラは、路上のピロシキ売りやブリヌイ売りに目をつけたようだが、何を思ったのか小さな路地に入り込んだ。ユリウスがキーラに追いつくと、いやな予感がした。ただでさえ薄暗いのに、そこは廃れた建物がならぶ物騒な区域だった。

 

 「ここは危ないわ。早く戻りましょう」

 

 そう言ったとたん、案の定、ユリウスたちの前にがらの悪い二人組が立ちふさがった。ブランシュが珍しく吠えかかったが、男たちは少し驚いただけで意に介さない。

 

 「うるせえ、この犬ころ」

 

 一人の男がわめくと、続けてもう一人の男が何か言った。ブランシュが負けずに力いっぱい吠え続けるので、よく聞き取れなかったが、カネと外套をよこせ、と言っているようだった。外套には上質の毛皮があしらわれている。さらに、カシミア生地のきれいな色あいは、白に近い希少な原毛でしか出せないものだ。

 

 男たちがじりじりとユリウスたちのほうに近寄ってきた。ユリウスはキーラを守るようにして自分の背後におしやった。

 

 「待ってちょうだい。手持ちのおカネは全部出すから」

 

 ユリウスは、相手をにらみつけながら言うと、ポケットに手を突っ込んだ。すると、男の一人が、おかしなまねはするなと声を荒げて、ユリウスの腕をつかもうとした。しかし、ユリウスはとっさによけ、外見からは想像もできないような悪態をついた。吠え続けるブランシュにも負けない大声でだ。

 

 「さわるな!ほら、カネだ」

 

 ユリウスは、ポケットから取り出した硬貨を男の顔に力いっぱい投げつけて、相手がひるんだすきに、キーラの腕をつかんで走り出した。

 

 「いてえ!この女」

 

 ユリウスが硬貨を投げつけた男に追いつかれそうになったときに、別の男の大声が聞こえた。

 

 「この女に手を出すな」

 

 どこかで聞き覚えのある声だ。そこに護衛のイリューシンの声が加わった。

 

 「手をあげろ!撃つぞ」

 

 二人組にイリューシンの銃口が向けられている。ユリウスはキーラをかばうようにして、イリューシンの背後にまわり込んだ。聞き覚えのある声の主も銃をかまえているのが、ちらりと見えた。男二人に銃を向けられて、悪党たちは観念したのか、さっと姿をくらました。逃げ足は速いようだ。

aportrait39: 概要
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aportrait39: ようこそ!

 助けに入った男がユリウスたちのほうを振り返ったときに、ユリウスもイリューシンも驚いて声につまった。が、すぐにそれぞれの口から同じ名前が出た。

 

 「シロコフ!」

 「シロコフ!」

 

 シロコフは、ユリウスが失踪したときに解雇された警備の男だ。ますますやくざ者のような風体になっている。聞けば、最近はどこぞの羽振りのいい男の目に留まって用心棒のような仕事をしているという。こんな男を雇うなんて、雇い主はまともな稼業じゃない、とユリウスは心のなかで思ったが、ユリウスたちを窮地から助けてくれた恩人だ。

 

 「ありがとう、助かったわ」

 

 ユリウスは馬車のなかから手さげを取り出して、紙幣を何枚かシロコフに渡した。

 

 「ありがとうよ」

 

 そう言ってシロコフはもらうものをもらうと、すっとその場を去った。

 

 

 

 その日のキーラは、父親からも叱られてさんざんだった。

 

 「だって、だれかが、おいで、おいでって」

 

 キーラは泣きながら弁解したが、だからといって、おいそれとついて行ってはいけない、と厳しく言い含められた。決して路地裏には入ってはいけないとも。ブランシュが吠えなかったら、護衛が見つけるのがもっと遅れただろう。

 

 

 

 

 数日後には、レオニードの父親がモスクワ知事を解任され、侯爵邸にやってくる予定だ。厳格で古い道徳観をもつレオニードの父親は、キーラを孫となかなか認めなかったが、たまたまキーラと対面してからというもの一変して好々爺となった。だが、ユリウスとは、偶然に会うことはなかったし、会おうともしなかった。

 

 「若さま、たいへんでございます。だんなさまが、ああ、だんなさまが」

 

 めったに取り乱すことのない執事が血相を変えている。

 

 「お父上様が、何者かに」

 

 狙撃されたらしい。

 

 

 

 庭でキーラとミハイル、それにブランシュと遊んでいたユリウスのもとに、ボリスが同じことを告げに来た。ユリウスは、キーラたちをボリスにまかせ、レオニードのいる書斎に向かった。

 

 レオニードは拳で書斎の壁をたたいていた。そんな彼にユリウスが後ろから抱きつくと、レオニードは振り返ってユリウスを痛いほどの力で抱きしめた。いつもなら人の心を見透かすような彼の瞳に涙がたまっている。

 

 ――この人が泣くなんて

 

 いつもあんなに毅然として動じることのなかった彼が、たくましく大きな肩をふるわせている。ユリウスがこれほどまでに感情を乱した彼を見るのは初めてだった。

 

 ユリウスは、レオニードの背中をさすりながら彼の気持ちを受け止めようとした。悲しみ、怒り、無念。しかし、レオニードがいつもの彼に戻るのに、さほど時間がかからなかった。

 

 「もう行ってくれ」

 

 「でも、あなたを一人にしておけないわ」

 

 「心配をかけてすまなかった。だが、一人になりたいのだ」

 

 「わかりました。でも、忘れないで。あなたの力になりたいの」

 

 ユリウスはレオニードにキスをして書斎を出た。ドアの外では、キーラが見慣れない毛皮を持って待っていた。

 

 「これ、おちていたの」

 

 ドアから少し離れたところに落ちていたそうだ。淡い色目のブルーフォックスのショールは、しっとり柔らかで弾力と光沢があり、毛なみのそろった逸品だ。

 

 そこから香るのは、イギリスの王族も愛用する有名な香水のもので、ヴェーラの香りではなかった。ユスーポフ家でこの香りをまとう可能性があるのは一人。

 

 ――アデール夫人が、ここに?

 

 

 

 モスクワ知事の埋葬式が厳かに執り行われた。祈祷書と聖歌が交互に詠まれ歌われ、司祭が香炉を振りながら棺のまわりを歩き、聖書らしきぶ厚い書物を開いて読んで閉じて、と延々と儀式が続く。参祷者はかたい床に起立したままだ。ユリウスも疲れたが、ヴェーラの隣にいる幼いキーラはもうぐずりそうだった。

 

 棺から最も近い位置に侯爵夫妻、リュドミール、ヴェーラとキーラが蝋燭を手に持ってならんでいる。レオニードは直立不動のままだ。ヴェーラは涙で顔がぐしゃぐしゃだ。リュドミールもつらそうな顔をしていた。

 

 正式な家族ではないユリウスは、少し離れた場所で蝋燭を持って立っていた。

 

 家族。ユリウスの胸がちくりとする。レオニードの家族が集まるときはいつもそうだ。ユリウスには一線を越えられない。だが、キーラはそこに入るのが認められたのだ。それでいい、とユリウスは自分に言い聞かせた。

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