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雪の森(2)2215404_m.jpg

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 別居中の侯爵夫人にも、侯爵家の変化が伝わっているようだ。


 レオニードがユリウスを連れて劇場へ出かけたときに、いつもの美男を連れたアデールとすれ違いそうになったことがある。社交界の面々が、ことの成り行きを興味深そうに、あるいはひやひやと見守るなか、妻も夫もそれぞれの同伴者と談笑しながら距離をとってやり過ごした。水と油のようにはじきあう侯爵夫妻の様子に、物見高い連中はさまざまな反応を示したものだ。

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 珍しくアデールが侯爵邸に立ち寄ったときに、ヴェーラが小さな女の子と遊んでいるのを見られたこともある。アデールは、ときには気まぐれで、ときには両親や皇帝の手前、あるいは侯爵家の体裁を保つために、義理で姿を見せることはあったが、そんなことが続いて居心地が悪くなったのか、ますます侯爵家から足が遠のいた。


 そんなアデールといつ遭遇するかわからないこともあって、レオニードはユリウスに侯爵邸に出かけるのを控えさせていた。そのうえ、偵察能力のずば抜けた彼女の侍女は、ユリウスの何を探り出すかわからない。


 もっとも、レオニードは、数年前にユリウスの身元が明らかになったときに、使用人たちに対しては、ユリア・スミルノワの筋書きを紹介したうえで厳しく口止めをしている。念のために、耳ざとい侍女に聞かれたばあいには、もれなく執事に報告するようにも言い渡してある。


 とはいえ、レオニードはキーラを日陰におくつもりはなかった。したがって、キーラのことはアデールの耳に入っているはずだ。



 幼かったリュドミールにも配慮が必要だったが、ヴェーラは弟にキーラを代子として紹介した。


 「キーラは、わたしの子よ」


 「まさか!」


 「嘘じゃないわ。正確には、代子だけれどもね。わたしはキーラの代母なのよ」


 リュドミールにも代父がいるのでヴェーラの立場はわかったが、それが知りたいのではない。


 「じゃあ、キーラは誰の子なの?」


 ヴェーラは機嫌がいいのか、冗談まじりに言った。


 「お兄さまとアデールの子ではないのは確かね」


 リュドミールは、なおもキーラの両親について尋ねたが、もう少し大人になってから、とヴェーラに話を打ち切られてしまった。


 もっとも、兄や使用人たちの態度から、キーラの父親が誰であるか、いつまでも気付かないほどリュドミールも鈍感ではなかった。そのリュドミールも士官学校の制服を着るようになり、兄の婚外の関係も受け入れられる年頃になると、ユリウスも、ときどきキーラといっしょに侯爵邸に姿を見せるようになった。




 レオニードの腕のなかのキーラが嬉しそうに声をはりあげた。


 「リュドミール!」


 隣には、キーラと同じ生地の服に身をつつんだユリウスがいた。髪の色は違うが、ユリウスとキーラの二人が並ぶと同じ瞳をしているのがよくわかる。美しい母娘の姿を前にリュドミールの胸はどきりとした。


 レオニードがキーラをおろすと、元気いっぱいの女の子は今度はリュドミールに飛びついた。キーラはリュドミールにも抱き上げられてご満悦だ。


 「リュドミール、何年も会わないうちに、ずいぶんと背が伸びたね。士官学校の制服がよく似合うよ」


 ユリウスが、まぶしそうにリュドミールを見あげて言った。もうユリウスの背を追い越している。リュドミールはひととおりのあいさつをしてから、母娘を交互に見ながら言った。


 「キーラはお母さまに似て美人になるよ」


 「キーラは、髪や眉毛、まつ毛の色が濃くて、顔立ちがはっきりしているぶん、ずっと美人になるわ」


 「じゃあ、おてんばなところはどうかな?もっともお母さまはおてんばどころか、まるで男だったけれども」


 片目を瞑って言ったリュドミールに、ユリウスが大げさに眉をあげてみせた。キーラも眉をあげた。


 「おかあさま、キーラがおとこのこのようだって、おこるのに」 


 キーラの父親が笑っている。姉もキーラを連れて来るようになって、笑顔が増えた。ユスーポフ家に新しい息吹が吹き込まれるのを感じる。


 リュドミールは、兄が離婚できればいいのにと思った。そのとき、ふと、子どものころユリウスからよく聞かされた、あの不思議な窓の話が頭に浮かんだ。


 ――彼のことは、もういいのだろうか

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 キーラとミハイルが、庭師が作ったそりに乗って、雪のつもったゆるやかな斜面をすべりながら歓声をあげている。そんな二人を、ユリウスは庭師とともに見守っていた。


 レオニードは、執務の手を休めて、書斎の窓から子どもたちがいる庭の遠くのほうを眺めた。


 ユリウスは、娘といるときは母親の顔になるが、つい先ほどこの執務室にいたときはかたい表情だった。

 「レオニード、あなたにかくしごとをしたくないし、正直でいたいの。でも、彼女がどうなるかを考えると」

 「彼女とは、ストラーホフ夫人のことか?」


 鋭いレオニードの指摘に、ユリウスは、はっと顔色を変えて首を縦にふった。


 「お見とおしだったのね。劇場で何か感付いたのでしょう?」


 「話の内容はよく聞き取れなかったが。詳しく話してくれないか?」


 ユリウスは今度は首を横にふった。


 「わたしが、あなたに話すことで、彼女や彼女の関係者が、不幸な目にあうのはいやなんです。わたしのせいで誰かが苦しむのは、もういや。だから、これ以上は話したくないわ」


 関係者とは反逆者のことだろう。だが、レオニードはそのことには触れなかった。


 「ストラーホフ夫人が苦しむというのか?つまり、彼女は良からぬことを画策しているということか?」


 再度のレオニードの指摘に、ユリウスは、しまった、というように頬を赤くした。


 「お願い、誓って言うわ。わたしは絶対に彼女に協力はしないと。だから、彼女をひどい目に合わせないで」


 「黙っているのは、彼らに協力することと同じだ。よく話してくれた。ストラーホフ夫人を警戒するよう当局には伝えておこう。なに、彼女は公爵家の生まれで反逆者を告発した男の妻だ。保証はできないが、当局も十分な証拠もなく彼女に手を出すことはしないだろう」


 レオニードはつとめてユリウスを安心させるように言ったが、ユリウスは顔をこわばらせたままだった。


 実際に、レオニードは、数年前からストラーホフ夫人に関しては当局に進言してはいる。だが、彼女の調査は後回しにされているようだ。身元が確かなうえに、おとなしそうな女性だ。加えて、ここ数年間、何の動きも見られなかったのだから、しかたあるまい。当局もひまではないのだ。


 「ユリウス、おまえには危険なことには関与してほしくない。キーラのためにも無謀なことはしないと約束してくれ」 


 つまり、アナスタシアとこれ以上関わるな、ということだ。ユリウスは、レオニードの目を見て断言した。


 「あなたを裏切ることは決してしない。お願い、信じて」


 そして、ストラーホフ夫人に決して協力はしないと繰り返し誓った。レオニードはユリウスの額にキスをして、母親を待っている娘のところに行くように促した。


 ユリウスは元来正直で嘘のつけない性質だ。だが、劇場に出かける程度とはいえ、このところ世間への露出が増えた。彼女を利用しようとする者も出てくるだろう。さっそくストラーホフ夫人が声をかけてきた。ユスーポフ侯爵を陥れようと機会をうかがっている輩もいる。


 ユリウスたちを屋敷に引き取るべきだ。ヴェーラはもちろん、リュドミールも受け入れてくれるだろう。しかし、別居中とはいえ妻以外の女性を同じ屋根の下に住まわせることは、妻子を大切にする皇帝陛下の不興を買うことになるだろう。


 レオニードは、ユリウスたちが元気そうにしているのを確認すると、窓辺から執務机に戻った。

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