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 「ユスーポフ侯が連れていらっしゃる美しい女性はどなたかしら?」

 

 ユスーポフ侯爵の腕を飾っている金髪の女性は、劇場で社交を楽しんでいる上流階級の目を引いた。

 

 翡翠色のリボンを編み込んだ髪には、おそろしく高価であろうと思われる、緑がかった黒真珠が飾られている。まとっているドレスは、ハイウエストでゆったりとしたポール・ポワレ風だ。ベージュのワンピースに重ねられた翡翠色のチュールのオーバードレスには、ビーズと金糸で花の刺繍が施され、帯風のサッシュベルトは、ぱっくりと開いた背中で結ばれている。装いも魅力的だが、なによりも人を惹きつける宝石のような瞳と笑顔がすばらしい。

 

 「ユスーポフ侯は奥方様とうまくいっていらっしゃらないから、もしかしたら」

 

 女性たちが噂した。

 

 「ご存知ありませんでした?ユスーポフ侯には、すでにお子様がいらっしゃるっていう噂ですわよ」

 

 「では、あの女性が?」

 

 ユリウスにとっては久々のオペラ鑑賞だ。以前にもレオニードが劇場に連れ出してくれたことはあったが、そのときは彼の都合で開演ぎりぎりに到着し、幕が下りるとまっ先に劇場をあとにした。キーラがお留守番をしていたからだ。今夜は、キーラは侯爵邸にお泊まりだ。

 

 今回、余裕をもって劇場に着いたら、ユリウスは値ぶみするような視線とささやき声に囲まれた。しだいに視線と話し声が近くなり、みるみるうちにレオニードの前に年上の奥様方が集まった。

 

 「隣の美しいかたを紹介してくださらないの、レオニード?」

 

 「そんな顔をなさってもだめよ」

 

 ユリウスはユリア・スミルノワとして、本心からの笑顔で言葉を交わした。レオニードが年上の奥様方に親しまれている様子が、ユリウスには、おかしくもあり嬉しくもあったからだ。女性たちのあたりさわりのない言葉には、探るような意図が感じられた。だが、まるでミニバラのように可愛らしく優雅なユリウスの立ち居振る舞いは、悪くない印象を彼女たちに与えたようだ。

aportrait37: 概要
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aportrait37: プロフィール

 そろそろ開演だというときに、ユリウスは同年代の上品な女性に呼び止められた。どこかで会った記憶がある。

 

 「わたくしのこと、覚えていらっしゃる?」

 

 ユリウスがとまどっていると、彼女はまわりを気にしながら声をひそめて話し始めた。

 

 「わたくしたちがアレクセイのために動くべき時が来たわ。彼はいまシベリアの監獄にいるの」

 

 思い出した。アナスタシア。アレクセイ・ミハイロフの幼なじみにして、十年以上も彼を恋い慕ってきた女性。ヴェーラの友人でもある。彼女は続けた。

 

 「手を貸してほしいの」

 

 ユリウスがユスーポフ家に閉じ込められて間もないころ、どういうわけか彼女が現れ、お互いのアレクセイの思い出と想いを語り合ったことがある。だが、それはユリウスにとっては、屋敷から逃亡するチャンスでもあったので、名門公爵家の令嬢の彼女を人質にして逃亡を図った。そのときに、彼女は、アレクセイが逮捕されたときに助けられるのは、わたしたちしかいない、だからユリウスに侯爵家に戻るようにと訴えた。その助けるときが到来したようだ。

 

 ユリウスは動揺した。監獄にいるアレクセイのために動くということは、脱獄を手伝うということに違いない。

 

 ほんの数秒のことだったが、ユリウスが答えにつまっていると、アナスタシアの体がびくりと動いた。レオニードが、いつの間にか割り込んできたのだ。

 

 「失礼、ストラーホフ伯爵夫人。ユリウス、来なさい。開演だ」

 

 

 

 オペラの幕が上がってからも、ユリウスは落ち着かなかった。思い出の海のなかのクラウスが頭のなかで去来し離れないのだ。初めての出会い、けんか、ボート、カーニバル。からかいの言葉と寂しそうな姿。胸のときめき。甘ずっぱい思い。ミュンヘンで置き去りにされたこと。そして、ここペテルスブルクでの非情な再会。

 

 ユリウスのせいで彼の帰国が知られ、そのためにつかまったのだから、なにか償いをしたいとは思う。そうでなくても、知っている人がつらい目にあっているのなら、助けようとするのが人情だ。

 

 ユリウスは波立つ心をしずめようと、レオニードの横顔を見た。彼は、何事もなかったかのように真剣に舞台のほうを向いている。

 

 アレクセイの脱獄に加担することは、レオニードへの背信行為ではないだろうか。レオニードは、ユリウスの全てを知り、受け止めてくれた。いまやレオニードがユリウスにとっての住みかだ。その彼を裏切るなんてできない。ましてやキーラはどうなるのかと思う。

 

 これまでレオニードとともに過ごした時間も、負けずにユリウスの心からあふれだす。

 

 ふと何かが引っかかった。

 

 ――ストラーホフ伯爵夫人?

 

 アナスタシアは結婚したのだ。アレクセイの脱獄を謀るほど、まだ彼に想いを寄せている。なのに、なぜ彼女は結婚したのだろう。ユリウスは記憶のなかの、彼女の言葉をたぐり寄せた。

 

 「疑惑を持たれないように、細心の注意をはらいながら機会が訪れるのを待って、そして、そのときがきたら、手をかしてちょうだい」

 

 アナスタシアは、アレクセイへの想いをかくすために、結婚したのかもしれない。そうであるならば、同様にユリウスも疑惑をそらす目的でユスーポフ侯爵と関係を築いた、と彼女が理解している可能性もある。

 

 舞台の幕が下り、レオニードの知り合いたちと軽く歓談し、なんとかやり過ごして外に出た。

 

 「スミルノフ嬢の馬車はどうぞ」

 

 係に誘導された馬車にレオニードとともに乗り込んだ。馬車のなかで、ユリウスはずっとレオニードの肩にもたれかかっていた。彼を感じながら心をしずめたかったのだ。

 

 

 

 

 館に到着するやいなや、ユリウスはレオニードに襲いかかるように求めた。

 

 ――お願い、すべてを忘れさせて

 

 レオニードもまた、いつにもまして猛然と攻めてきた。

 

 

 

 ぐったりとレオニードに寄りかかってきたユリウスに、レオニードが淡々とした口調で尋ねた。

 

 「ストラーホフ伯爵夫人とは連絡を取り合っているのか」

 

 ユリウスは首を横にふった。

 

 「突然声をかけられて驚いたわ。伯爵夫人となられたことさえ知らなかったもの」

 

 ユリウスは、アナスタシアの伴侶のストラーホフ伯爵について尋ねた。

 

 ストラーホフ伯爵は、アナスタシアにバイオリンを教えたバイオリニストだそうだ。出自は貴族ではなく資産家だが、かつてライバル関係にあったアレクセイの兄、ドミートリィ・ミハイロフの反逆の証拠をつかみ、その功績により爵位を手に入れたという。レオニードの見解では、競争相手を消したかったのだろう、ということだった。

 

 そういえば、音楽家の世界がいかに汚いものか、とクラウスが憤り嘆いたことがあった。

 

 だが、ユリウスは、ますますわからなくなった。アナスタシアは、愛するアレクセイの仇ともいえる男と結婚したのだ。復讐するつもりなのだろうか。数年前のアナスタシアの落ち着きはらった態度も、ユリウスの理解を超えていたが、アレクセイへの愛ゆえに、そんな男と結婚までした彼女の謀略と忍耐力に驚かずにはいられない。

 

 いっぽうで、アナスタシアの行動には、どこか腑に落ちないものを感じる。一つの愛を貫くために、愛をいつわるなんて。ヴェーラを苦しめたエフレムを彷彿とさせる。ただ、その伯爵は、ヴェーラとは違って、腹黒い男のようなので、自業自得なのかもしれないが。それに、復讐はもうたくさんだ。ユリウスはこれ以上考えたくなかった。

 

 「お願い、もう一度」

 

 ユリウスが言うと同時に、再びレオニードがおおいかぶさってきた。ユリウスは必死に彼に背中にしがみつき、彼の息遣い、彼の体温、彼のエネルギー、彼のすべてを全身で感じ、彼のすべてで全身を満たそうと、力尽きるまで求めた。

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