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 オレグと再会したときは、ユリウスはブランシュのように飛びついてしまった。

 

 「旦那さまに知られたら、困りますんで」

 

 オレグは照れくさそうに笑った。

 

 以前のようにブランシュを犬の牧場に連れて行くようになり、そのときには、できるだけオレグのいる厩舎や、使用人の控室にも顔を出すようにしている。ペトロワから聞いたところによると、ユスーポフ邸の家政婦も料理人たちも、ユリウスのことを案じていたそうだ。オレグにいたっては、ユリウスが見つかったかどうかを毎日のように尋ねていたという。

 

 ユリウスは、皆に心配をかけたことを思うと、どんな顔をして彼らに会えばいいのか迷ったが、思いもかけずあたたかく迎え入れられた。

 

 アンナとは出産や子育ての話に花が咲いた。

 

 「ものすごく痛くて、ずっと叫び続けて、なのに、十時間たってもなかなか生まれてこないし、もうこんな苦しみはいや、とにかく早く生まれてって思ったわ。でも無事に生まれた赤ちゃんを見たら、産んで本当によかったと思うの」

 

 アンナは、ハイハイを始めた息子のミハイルを優しいまなざしで見守りながら、生まれてからもたいへんです、と付け加えて笑った。もうすでに、けっこうなやんちゃ坊主らしい。

 

 

 

 レオニードのほうは、顔を出す程度とはいえ、以前よりも訪れることが増えた。来られない日は体調を気遣う短いメッセージが必ず届く。ユリウスのほうも、おなかの子が動いたことなどを手紙でこまめに知らせている。

 

 届いたばかりの花を生けているときに、レオニードが訪れた。いつものように、レオニードはユリウスを抱きしめキスをした。ユリウスも少し背伸びをしてお返しをする。

 

 「ダリアをありがとう。ちょうど届いたところだったの」

 

 ユリウスがやわらかく微笑んだ。いっそう透明感が増し、レオニードの帯びている威圧感さえも、ふんわりと相手を包み込むようだ。レオニードは、キスだけでは満足できないが、ユリウスの体調を考えると欲望をおさえるほかなかった。

 

 ふだんは寡黙なレオニードもユリウスと胎児を気遣って、無理はするな、しっかり食べろ、階段はゆっくり降りろ、ブランシュといっしょになって走るな、などなどと言う。ユリウスにしてみれば、しっかり食べているし、少しくらい小走りしてもいいじゃない、と思うのだが。そんな心配過剰気味のレオニードに思わずユリウスの口元が緩む。

 

 

 秋も深まったころに、珍しい来客があった。

 

 「ユリウス、ごきげんよう」

 

 「ヴェーラ!」

 

 ペテルスブルクに戻ってからは、館を訪れるのはレオニードだけだった。ロドニンは仕事で来たので、ヴェーラが初めての客人だ。ブランシュも、しっぽを振って歓迎している。

 

 ユリウスがロシアに来てまもないころは、年齢の近いヴェーラが数少ない話し相手だったが、さすがに広大な侯爵邸で暮らすご令嬢だけあって、ユリウスから彼女に会うには人を介すのが原則だった。そのうえに、あの事件だ。以来、引きこもりがちになったヴェーラは、ユリウスにとって心持ち遠い存在になった。

 

 使用人たちからも、あの事件以後、ヴェーラはめったに外出していないと聞いていた。そんな彼女の来訪は嬉しいが、侯爵の愛人の住まいは侯爵家のご令嬢が来る場所ではない。笑顔の下に不安が隠せないユリウスに、ヴェーラも少しためらいがちに言った。

 

 「おめでただって聞いて、ぜひ祝福をしたいと思ったの。おめでとう」

 

 レオニードは子を認知しただけでなく、妹にも話をしたらしい。ヴェーラはユリウスの体調を気遣い、どんな調子か、問題はないか、など矢継ぎ早に尋ねた。そしてユリウスの出産準備を、忙しい兄だけに任せておけないので、できるだけのことはしたいという。定期的に産婆さんがユリウスの様子を見に来ることになったのだが、その手配をしたのはヴェーラだった。

 

 ヴェーラの気遣いは、初めての出産を控えて不安だらけのユリウスにはありがたかった。アンナの話だけでなく産婆さんの助言も得られて助かっている。最後まで独りぼっちで不安だったであろう母親と違って、きわめて恵まれていると思う。

 

 ユリウスが感謝すると、ヴェーラは叔母になるのだから当然のことだと言った。さらに、ヴェーラは女の子が生まれたら後見人になることを兄に申し出たそうだ。レオニードはユリウス次第だと答えたという。ユスーポフ侯爵家の令嬢が後見人になるのなら、こんな心強いことはない。

 

 「それに、名前もあれこれ思いめぐらせているのよ。男の子のばあい、女の子のばあい、それから双子の可能性だってあるでしょう?」

 

 「双子ですって?考えてなかったわ」

 

 ユリウスは目を丸くして、目立ってきたおなかのふくらみを見つめた。

 

 「でも、たぶん一人よ。そんな気がするの」

 

 その日以来、ヴェーラはときどき館に来てブランシュの歓迎を受けることになった。

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aportrait34: 概要

 

 

 マースレニッツァという冬を送るお祭りが間近にせまった日だった。

 

 ユリウスは陣痛を訴えたが、初産なので出産までまだまだ時間がかかるだろうと、産婆さんたちはのんびりかまえていた。ところが、意外にも早く生まれそうなことがわかり、大あわてになった。元気な産声が館中に響きわたったのは、陣痛が始まってから五時間足らずだった。

 

 出産したほうのユリウスにしてみれば、聞きしに勝る痛みだったので、皆が言うほど楽だったとは思えない。とにかく早く生まれてほしいと思ったのはアンナと同じだ。ふき出した汗のせいで、衣服が肌にべっとりとはりついている。

 

 「女の子よ」

 

 しらせを受けてやって来たヴェーラが嬉しそうに告げたが、ユリウスの視界に入ったのは、しわしわの小さな生き物だった。母親のほうは疲労困憊しているのに、小さな命は大音量で泣き声をあげている。あんな大きな声がどこから出るのか不思議なほどだ。それにしても元気に五体満足で生まれたことへの感謝と、愛おしさで胸がいっぱいになる。

 

 ――あなたも、がんばったんだね。ありがとう

 

 力いっぱい泣く子をユリウスが抱くと、ぴたりと泣きやんだ。乳首を吸っている命が、十か月近くもの間おなかのなかにいて、ともに生きてきたのだと思うと感慨もひとしおだ。母と子の絆を思ったときに、母レナーテのことがふとユリウスの脳裏をよぎった。母親がユリウスを産んだ年頃に、子のユリウスもまた出産したのだ。何とも言えない思いがこみ上げてきた。

 

 ――母さま、わたしを産んでくれてありがとう

 

 大事業を終えたばかりのユリウスは、精も根も尽き果てたので、体をふいてさっぱりしたとたんに、赤ちゃんといっしょに眠りに落ちた。

aportrait34: 概要
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aportrait34: 概要

​ 赤ちゃんの泣き声でユリウスの目が覚めたときに、レオニードがちょうど館の敷居をまたいだところだった。レオニードは、母体が無事だったことと、元気な泣き声をあげる赤ちゃんを確認すると安堵したようだ。嬰児に乳首をふくませるユリウスを、目を細めて見ていた。

 

 「娘を与えてくれたことに感謝する」

 

 母子ともに落ち着くと、レオニードはユリウスにキスをしてから、大きなサファイヤの指輪を取り出し、ユリウスの指にはめた。

 

 「抱かせてくれ」

 

 ユリウスが赤ちゃんをレオニードの腕にそっと預けた。レオニードがわが子を抱くのは初めてなのに、手つきは慣れたもので、ユリウスは目をみはってしまった。

 

 「抱っこが、わたしより上手だわ」

 

 「妹と弟がいるからだろう」

 

 赤ちゃんは両親がそろって嬉しいのか、ご機嫌のようだ。小さな手をぱたぱたさせている。ユリウスが指を差し出すと、もみじの手がぎゅっとつかまえた。二人はお互いに顔を見合わせて微笑んだ。

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aportrait34: 概要

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