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 主が不在の間も、ペトロワは館の管理に手を抜かなかったようだ。そのうえ、黙って館を出たユリウスの帰還を心から歓迎してくれた。レオニードの話では、ユリウスのことを案じていたそうだ。

 

 「すべてが元のままだわ、ありがとう」

 

 感激したユリウスが涙ぐんでペトロワを抱擁すると、ペトロワもしんみりと答えた。

 

 「奥さまがいらっしゃること自体が、元どおりです。もちろん、ブランシュも」

 

 ブランシュがその存在を訴えるかのように、ペトロワの足元で飛び跳ねている。

 

 変わったことといえば、ユリウスが奥さまと呼ばれるようになったことだ。ほかにも、料理人がこれを機会に独立してレストランを始め、あっというまに評判の店にしたらしい。代わりにユスーポフ邸にいたときから親しくしていた料理人助手が、ユリウスの料理人としてやってきた。警備もシロコフをのぞいたメンバーが交代で侯爵家から派遣される。

 

 「引き続きお優しい奥さまにお仕えできて光栄です。できる限りのことをいたしますので、なんなりとお申し付けください」

 

 ペトロワの言葉に、ユリウスは黙って姿を消したことに胸がちくりとした。

 

 

 

 自室でひと息ついたユリウスは、モスクワでのレオニードの言葉に思いをめぐらせた。彼の言葉がどういうわけか頭にこびりついているのだ。

 

 彼は、ユリウスの望みをかなえたいと言った。ユリウスの幸福を一番に考えたいと言った。ユリウスを手放したくないと言った。こんなことは誰にも言われたことはなかった。だから、聞いたときには思わず涙腺がゆるんだ。

 

 他方、レオニードが彼の子を侮辱するのは許さないと言ったことは、ユリウスの心をざわつかせた。ユリウスにしてみれば、おなかの子を侮辱するつもりは毛頭なく、女手一つで子どもを育てる苦労をおそれただけだった。とくに婚姻によらずに生まれた子は罪深い欲望の果実とみなされ、母子ともども蔑視されるのは目に見えている。だから、おなかの子をそんな目にあわせたくないという一心で行動したつもりだった。

 

 だが、レオニードのゆるぎない自尊心と自信を前にして、ユリウスは自分の自尊心がどんなにみすぼらしいかを思い知った。

 

 私生児として生まれ育ったユリウスは、自分が卑下される存在だと認識していたし、祝福されないどころか母親を苦しめてきた自分の出生を心のどこかで憎んできた。さらに、クラウスに捨てられたことが、自分が誰からも必要とされない存在であることを決定的にした。たとえヤーンのような男であっても人を殺したことも、自己処罰をよりいっそう強めた。

 

 ユリウスは自己の存在意義を見いだせないことで、自分自身に対する自信が持てず、無意識のうちに自己卑下をしてきた。そして、憐れでみじめな私生児として生まれた自分の姿と、自分の分身ともいえるおなかの子どもを重ねていたのだ。

 

 ユリウスはおなかに手をあてた。

 

 ――本当の意味で自分を大切にしよう。この子のためにも

 

 そして、レオニードを信じようと思った。口封じをすべきユリウスを生かすのは、相当な覚悟が必要だっただろう。ユリウスを守りたいと言ったことは嘘ではないと思った。だから、彼にすべてを話したのだ。彼はユリウスの過去を聞いても、不愉快そうでもなかったし、軽蔑もしなかった。

 

 

 

 

 「カティアは、お元気でしょうか?ろくにごあいさつもせずに、申し訳なく思っております」

 

 「ええ、おかげさまで元気でやっております。ですが、その話はあとにして、先に不動産譲渡の手続きを終わらせましょう」

 

 レオニードがこの館をユリウスに譲ることにしたので、カティアの夫で、侯爵家の財産管理を担っている法律家のロドニンが、その書類上の手続きをするために訪れた。

 

 ロドニンはユリウスに書類を示しながら、適正な維持管理が求められること、ユリウスにとって何も損はないことなどを説明した。

 

 「異論がなければ、ここと、ここにサインをお願いします」

 

 ユリウスは、言われるままにユリア・スミルノワの名でサインした。

 

 「これで、この土地家屋等は法律上奥さまの所有物になりました」

 

 ロドニンから書類一式が入った茶封筒を受け取ると、ユリウスはカティアのことに話題を移した。

 

 「家内は今フランスにいます。私どもは、外国にある侯爵家所有の資産の管理を任されまして、主にフランスを拠点にしているのですが、私だけが一時的に帰国したしだいです。フランスに戻ったら、次はスイスでの仕事に取りかかる予定です」

 

 ロドニンは、カティアが仕事で数か国を訪れていることを話して、ユリウスを安心させたあと、少し間をおいて遠慮がちに言った。

 

 「カティアは、奥さまのことが好きでしたし、奥さまのことを嬉しそうに話したものでした。ですが、悩んでいる奥さまのお役に立てなかったことを、残念に思っておりました」

 

 ユリウスは、はっとした。目頭が熱くなって涙がたまった。カティアに申し訳ないと思った。あんなに親身になって、友達として、ときには母親ように接してくれたのに、一言のあいさつもなく別れ、彼女の信頼を裏切ったのだ。

 

 「本当にごめんなさい。カティアには申し訳ないことをしたと悔やんでいます」

 

 ハンカチで目をおさえ、涙声で何度も謝り、謝罪の手紙を書くことを約束した。

 

 「話は変わりますが、私のとぼしい経験について話をさせてください」

 

 ユリウスが落ち着くのを待って、ロドニンは財産がらみのもめ事などに、法律家として関与した経験を述べ始めた。彼によると、争いというものは、ちょっとした行き違いから生じることも少なくなく、それが原因でとんでもないしっぺ返しにあう危険性があるとのことだ。

 

 「これは、家内も心配していることですが」

 

 言いにくそうに続けた。

 

 「奥さまの失踪を機に、警備のシロコフが解雇されています。彼の普段の勤務態度を考えると妥当な処置ですが、彼が恨みを持たないとも限りません。もちろん、警備の者たちや私どもは心得ておりますが、そういうことがあったことを頭の片隅にとどめておいてほしいのです」

 

 自分の行動が与える影響にまで考えが及ばなかったユリウスは、言葉もなかった。シロコフの解雇については賛成だが、ひょっとしたらペトロワや料理人も罰されたかもしれないのだ。心からすまないと思った。同時に、ロドニン夫妻が自分のことを案じていることを痛感した。

 

 ――わたしは、ひとりぼっちじゃなかった。彼らに支えられていた

 

 

 ロドニンが帰ったあと、過去にどれだけ多くの思いやりを受けてきたのかに思い至った。レオニード、カティア、ペトロワ、オレグ、料理人たちほか、さまざまな顔が思い浮かぶ。そしてブランシュも。一方で、自分の行動がさまざまな人生に影響を及ぼしていることを思い、向う見ずに行動したことを悔いた。

 

 ――わたし一人の人生だと思っていたけれども、そうじゃなかった

 

 悔悟の気持ちをどこに向けたらいいのか、わからなかったユリウスは、いつの間にか十字架の前にひざまずいていた。自らの無知や不明さを恥じ、これまで受けた多くの人々の優しさや思いやりを思って涙した。涙が頬をぬらすほどに、まるで心の窓ガラスにこびりついた真っ黒な煤が洗い流され、光が射し込んでくるようだった。

 

 ――ありがとう、すべての存在に感謝します

 

 

 ユリウスは、大人の女性になる決意をした。配慮。それが、カティアがよく口にしていた大人の女性のたしなみだ。

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